2013年12月5日木曜日

【TORCH Vol.040】人生あれこれ考えているうちに心が楽になる本

准教授 高崎義輝

 皆さんは、「ブッタとシッタカブッタ」(メディアファクトリー)という本をご存じですか。仏教の教えを説く本ではありません。「人の悩みをどう解決したらいいか」をテーマにした漫画シリーズで、200万部突破のロングセラーです。お釈迦様に似た豚のブッタというキャラクターと人生あれこれ考えるシッタカブッタというキャラクターが登場し、「あれこれ考えているうちに心が楽になっていく」というような本です。

 4コマ漫画ですので、楽に、時間がないときでも楽しめます。現在のところ、8巻発行されているのですが、私はそのすべてを購入しました。一言で言うと、私が“はまった”漫画本です。漫画本と馬鹿にしてはいけません。ここでは、その“はまった”理由を紹介したいと思います。

 私がこの本と出会ったのは、1995年精神科の病院に勤務していた時です。ある精神科医がうつ病の患者さんに、「ブッタとシッタカブッタ」を読むことをすすめていたところに、同席していたことがきっかけでした。驚くべきことに、数日後「ブッタとシッタカブッタ」を読んだ患者さんが、他者との人間関係が以前と比べ、穏やかに、前向きな行動ができるようになったのです。

 今思えば、漫画本による認知行動療法であったのだ(キャラクターの行動とその結果を自分の行動に重ね合わせ、自分に足りないことを自覚し、行動の変容をはかること)と理解しています。

 こうした経験から、心が疲れている学生が相談に来ると、研究室にあるこの「ブッタとシッタカブッタ」の本を貸し出しするというのが、定番の対応になりました。この本は、「そのまんまでいいよ」と心が疲れている学生にやさしく語りかけてくれます。学生の評判も良好です。心が楽になることを私自身も体験したおすすめの一冊です。

 また最近では、この「ブッタとシッタカブッタ」をコミュニケーションの学習教材としても活用しています。「ブッタとシッタカブッタ」には、多くの恋愛シーンがあり、恋愛を成功させるためには、コミュニケーション能力が必要であることが理解できます。コミュニケーションを学問として理解しても、できる技術・使える技術になるとは限りません。 

 恋愛(それも漫画)という学生が最も興味を持ちやすいテーマを題材に、コミュニケーションをできる技術とするための一つの教材として「ブッタとシッタカブッタ」は活用できると感じています。

 最後に、この本を執筆された小泉 吉宏(こいずみ よしひろ)を調べていましたら、「一秒の言葉」に辿り着きました。SEIKOのCMで有名になった詩で、小泉さんはその作者でした。

 今頃気づいたのですが、大学2年生(1985年)頃よく見たCMで、今でも記憶している詩でした。子供の道徳の教材として使われていたことを思い出しました。感動的で、力が湧いてくる詩です。

 そうして考えると、随分昔から小泉さんにはお世話になっていました。
 心が疲れてきましたら、是非、皆さんも「ブッタとシッタカブッタ」のお世話になってみてはいかがでしょうか?

<一秒の言葉>
「はじめまして」 この一秒ほどの短い言葉に 一生のときめきを感じることがある
「ありがとう」 この一秒ほどの言葉に 人のやさしさを知ることがある
「がんばって」 この一秒ほどの言葉で 勇気がよみがえってくることがある
「おめでとう」 この一秒ほどの言葉で 幸せにあふれることがある
「ごめんなさい」 この一秒ほどの短い言葉に 人の弱さをみることがある
「さようなら」 この一秒ほどの短い言葉が 一生の別れになるときがある
 一秒に喜び、一秒に泣く。一生懸命、一秒。

【TORCH Vol.039】「ベトナムの ダーちゃん」早乙女勝元 文 ・ 遠藤てるよ 画

准教授 関矢貴秋

 私とベトナムとの出会いは、小学校4年生の時でした。題目に記した「ベトナムのダーちゃん」を通してです。小学校の課題図書として購入した記憶があります。この本には13歳の少女による、当時ベトナムで起こっていた戦争につての実体験を基にした告白が綴られてあります。当時の私にとっては少し、いやかなり難しい内容と文章であり、その行間からは想像もつかないこと、言葉に出来ないくらい大変なことが起こっていることが感じとれました。今でも涙が出たことを覚えています。ですから私には数十年後の昨年まで、その表紙を開いた記録はありませんでした。

 しかし、そんな私が再びこの本を実家の書庫から引っ張り出し、じっくりともう一度読んでみようと思ったのです。それは昨年ベトナムにてJICA(国際協力機構)との共同事業を担うこととなったからです。過去にあった戦争の影響によって身体に障害があり、不自由な生活を余儀なくされている大人や子どもたちに、もう一度社会復帰を目指してリハビリに取り組んでもらう試みです。BOPを対象とした事業の一つで、身体障害者の社会復帰を医学・福祉・教育などの側面から支援するプロジェクトであります。私はベトナムを訪れる前に、再びこの本を読み返すことで、自分が活動を共にする人たちの歴史を少しでも知ることが出来るのではないかと思い静かに表紙を開きました。

 ベトナムとの繋がりはその後、新たな展開を迎えました。去る11月18日、仙台大学にベトナム社会主義共和国・ホーチミン体育大学の2名の先生が来校されました。我が大学と国際交流を進めるための協定締結・調印にこられたのであります。ホーチミン体育大学は体育科学を専門とすることから、本学との間で共通の学問を通して交流の伸展が期待されます。

 また、仙台大学はもう一つ、ベトナムの大学と協定を交わしています。首都ハノイにあるハノイ大学です。ハノイ大学は外国語大学として発展してきた歴史がありますが、今後は健康科学関連の学部開設の検討もされているとのことです。健康を科学的に研究し健康増進の方法を普及させることは、これからのベトナムにおいては必須の要件であると思います。その点においても、我が大学との連携は未知なる可能性を秘めていると思います。

 少し余談ですが、そんな未知なる可能性を秘めたベトナムについて記します。ベトナムは東南アジアのインドシナ半島東部に位置します。中国・ラオス・カンボジアと隣接し、東は南シナ海に面しています。首都はハノイです。ベトナムは南北に1650㎞と長い国土であり、南にあるホーチミン市は北にある首都ハノイから約1100㎞離れています。では日本からはどのくらいでしょうか。直線距離で約3600㎞、成田国際空港からホーチミン市まで約6時間、ハノイまでは成田から約5時間半です。国土全体としては高温多雨で、熱帯モンスーン気候に属しています。しかし南北に細長い国土のため北の首都ハノイの季節には四季があります。まるでベトナムの観光案内でも始めるかのような件になりましたので本題に戻ります。

 このように仙台大学と東南アジアの南国ベトナムの二つの大学が協定書を結び、これからの21世紀を見据え、体育・健康科学を基本として交流を進めようとしています。もちろん学生の皆さんもその一員として活躍が期待されているのです。ですから少しでもベトナムに興味関心を持った方はその南の国に目を向けてほしいと思います。
 安全で平和といわれている日本から、世界各国に連携の環を広げている仙台大学です。ただ協定を結ぶだけではなく、是非皆さんも世界に向けて自らの知識・技術を発信すると同時に、その国の歴史・風土・社会情勢、etcを多くの関連図書から学び実りのある国際交流にして頂きたいと思います。

追伸 「ベトナムのダーちゃん」には続編として「ダーちゃんは、いま」があります。いずれも仙台市立図書館にて閲覧できます。

【TORCH Vol.038】闘魂と読書

講師 武石健哉

 小・中学生時代、プロレスラーに憧れた。特にアントニオ猪木である。私は猪木が書いた本から、人生熱く生きなきゃだめだとメッセージを勝手に受け取った。さらにはプロレスラーのごとく体は鍛えるべきとウエイトトレーニングに励んだ。ウエイトトレーニングが功を奏したのか、ラグビー高校日本代表に選ばれた。ラグビーとの本格的な付き合いの始まりだった。猪木の本を読んでいなければ、違った人生を歩んでいたかも(笑)しれない。

 小学3年生から30歳までラグビープレーヤーとして過ごした時間は、楽しいこと、思い悩んだこと様々あった。選手時代の本に関することで思い出深いのは、Kラグビー部のO選手から7連覇の栄光が書かれた本を、O選手の自宅で直接もらったことである。この本は、雲の上の存在であったKラグビー部のO選手と共に私に大きなインパクトを与え、私が大学卒業後もラグビーを続ける決意のきっかけとなった。

 その後Tラグビー部に所属し、7年間プレーしたときにも本の思い出はある。私の試合への出場機会は、同ポジションの日本代表選手が不在の時やけがの際突然訪れた。プレッシャーから逃げ出したくなる(笑)ことも多々あったが、様々なスポーツ選手の手記や体験談が書かれている本を読み、自分を奮い立たせた。本の中の選手の人生に自分を重ね、勇気をもらい弱気の虫に打ち勝っていった。本は私の選手生活においてグランドでのトレーニングでは味わえない、静かな落ち着いた時間を与えてくれた。この動と静のバランスは、必要不可欠であったように感じている。

 現在は選手時代より本を読む時間が増えた、というより、勉強不足の私は強制的に増やしている。その中でも「心を鍛える言葉」という本は手元に置き、読み返すことが多い。選手時代のことを再確認したいとき、指導者として考えを整理したいとき手に取っている。心の力は継続的にトレーニングすることで伸びていくことが書かれている。選手時代、がむしゃらに強くなりたいとグランドでのトレーニング、ウエイトトレーニングしていたが、それだけでは足りなかったことが良くわかる。「心は苦しいことに耐えて頑張っていれば強くなるわけではなく、トレーニングをすることで鍛えられる。言葉は心に多大な影響を及ぼし、言葉によって不安や緊張を感じることもあれば、自信や意欲に満ち溢れることもある」とある。私自身、猪木の言葉、数々のスポーツ選手の言葉に力をもらい、グランドでの激しいパフォーマンスに耐えることが出来たと思われる。

 指導者として必要なことも多く書かれている。四摂法「布施」相手にものをあげること、「愛語」やさしい言葉を使う、「利行」その人の仕事を助けてあげて、その人に利益を与える、「同事」その人と同じような身分や境遇になること、という4つの心構えのこと。「自未得度先度他」という「自分が先に渡るのではなく、まず他人を渡そう」という意味の言葉。指導現場で興奮のあまり忘れてしまわないようにしたい。また、座禅から監督哲学の多くを学んだフィル・ジャクソンのことも書かれており、彼は何年も瞑想の訓練をしてきたお蔭で、静かな瞬間を見つけることを会得したとある。心の中の調和をとることが指導者にとっても大事であることが読み取れる。これらのことは、私自身まだまだ出来ていないが、心に置いておきたい。

 こう考えると本は私に、今も昔も充実した時間を与えてくれているようである。選手時代から続けてきた闘魂を燃やすことと、読書をするという、動と静はこれからも継続していきたい。

 皆さんにも、本から言葉の力をもらい、充実した大学生活を送ってもらいたい。壁に行く手を阻まれたときは、闘魂をめらめらとさせながらも、力を抜いて本でも読んでみてはいかがでしょうか。その後のパフォーマンスにつながるかもしれません。

【TORCH Vol.037】「ウチダ先生、“邪悪なもの”に出会ってしまったら、どうしたらいいんですか!?」-内田樹から宇宙人まで-

教授 小松正子

1:内田樹
 ウチダ先生というのは、『日本辺境論』(新書大賞)でも著名な思想家・武道家、内田樹(たつる)のことだ。先日、NHKEテレ(達人達(たち))で武田鉄矢が内田樹について、次のように端的に表現していた。「もう、『この人は、ただ者じゃないぞ』って思いました。近頃、私がテレビやラジオでしゃべっていることのほとんどは内田師範のモノマネですね。」
 さて、表題の質問は、内田樹著「邪悪なものの鎮(しず)め方」(バジリコ)の本の帯に書いてあったものだ。本の紹介には、「“邪悪なもの”と遭遇したとき、人間はどうふるまうべきか?『どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになる』極限的な状況で、適切に対処できる知見とはどのようなものか?この喫緊の課題に、ウチダ先生がきっぱりお答えします」とある。きっと、表題に釣られて(?)このコラムを読んでいるあなたは、邪悪なものに出会って途方にくれた経験のある(あるいは現在困っている)人だ。
 内田は、「“邪悪なもの”を構成する条件の一つは、私たちの常識的な理非の判断や、生活者としての倫理が無効になるということ。『どうしていいかわからない』ということです。渡り合うか、折り合うか、戦うか、スルーするか・・・・」として、「私自身のみつけた答えは、“礼儀正しさ”(ディセンシ―)と、“身体感度の高さ”と、“オープンマインド”ということでした。」と述べている。私は、“身体感度の高さ”は、“五感を研(と)ぎ澄まして”と言い換えて、以来、何か困ったことがあると、この3つを思い出している。
 ちなみに内田は、ついこのあいだまで大学教授(フランス文学)だったが、今は、自宅兼道場で、執筆活動と師範業に専念しているようだ。蛇足になるが、内田は、何か世の中で問題が起きて解釈に困ったときに、私が(教員ではなく)個人として、意見を聞きたい人の一人だ(例えば、今、話題の特定秘密保護法案についてなど)。

ところで、邪悪とは限らないのだが、宇宙人に関して次に触れておく。

2:UFOによる領空侵犯・挑発に対し迎撃すべきか、米大統領は自ら電話でアインシュタインに助言を求めた。

 これは、UFO史上“ワシントン事件”と呼ばれるもので、1952年7月に起こった(以下、「未確認飛行物体UFO大全.並木伸一郎著 Gakken」よりかいつまんで紹介する)。ワシントン上空に突如怪光体群が現れて、ホワイトハウス上空領域まで平気で侵入を繰り返した。それらは空軍の計算によると、時速200キロ前後のヘリコプターなみで動いているかと思えば、突如スピードを増し、時速1万1700キロという途方もないスピードで飛び去ったり、急に方向転換したりした。そこで、時のトルーマン大統領が、アインシュタインに電話をかけ助言を求めた。アインシュタインの答えは穏健なものだった。「未知の知性体の科学技術力が不明である以上、むやみに発砲したり戦闘することは、絶対に避けるべきだ」
 上記の真偽は、私は保証はできない。しかし、宇宙の歴史が約138億年で、地球の歴史は約46億年。とすると、ちょっと先輩の星があり、人間よりはるかに進化した知的生命体がいても不思議ではない。中田力(つとむ)氏(新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長)は「脳のなかの水分子―意識が創られるとき(紀伊国屋書店)」のなかで、「生体を作り上げている物質は有機化合物・・・その基本構造を作り上げるのが炭素(原子番号6)である。・・・炭素は、きれいな、バランスのとれた立方体を作り出すことができるのである。・・・ところで自然界の元素のなかで、完全な正四面体の軌道をつくれる元素は炭素だけではない。原子番号14のシリコン(珪素)である。地球での生命を作り上げる主役は炭素に譲ったシリコンだが、・・・宇宙のどこかにシリコンを基本とする生命体が、本当に、いるかもしれない」と述べている。
 「チーズはどこへ消えた?(スペンサー・ジョンソン著.扶桑社)」という、ネズミが大切にしていたチーズの話の小本は知っている人もいると思うが、私も、チーズが消えてから(何か事が起こってから)あわてたくないので、いろいろな可能性を考えておきたい。フランスなどには、UFO情報を検証する国家機関もある。ちなみに内田樹も“邪悪なものの鎮め方”のなかで、「実験と仮説に対する開放的な構えのことを“科学的”というのだと私は信じている」と書いている。

特に学生は、将来宇宙人と遭遇する可能性が、若い分だけ高い(!?)。万が一のそんなとき、“邪悪なものの鎮め方”も思い出して、うまく立ち振る舞ってもらえたら幸甚だ。 

(平成25年11月26日)

【TORCH Vol.036】20代を後悔しないために

助教 髙橋陽介

 今回のブログを担当する、体育学科スポーツトレーナーコース助教の髙橋陽介です。仙台大学の教員としては、今年度で2年目となりますが、その前までは大学GTセンターの新助手として5年間勤めていました。その当時は、現在も教員と兼任しておりますが、明成高校男子バスケットボール部のアスレティックトレーナーとして、主に仙台市青葉区川平にある「明仙バスケラボ」に勤務していました。教員となった現在も、大学業務と高校バスケットボール部アスレティックトレーナーとして日々ばたばたと職務をこなしています。

 今回このブログの執筆依頼を受け、大学生の皆に何を伝えることができるのか色々と考えました。なぜなら、私は自分が大学生の時に人にアドバイスできるほど多くの本を読んではいなかったからです。高校生まではプロサッカー選手を目指し、部活動に明け暮れる毎日。そして、大学はアメリカへ留学をしたので、ゆっくりと文庫本や雑誌、漫画本などを読む時間がありませんでした。特にアメリカの大学に入学してからは、授業で使用する教科書と英英辞典を常に持ち歩きながら、図書館が閉まる午前0時まで勉強していたことを今でも鮮明に覚えています。これは、自慢と言うよりは、自分の要領の悪さや能力の無さを告白しています。私がアメリカで知り合った日本人留学生の中には、毎日そんなに遅くまで勉強することなく、しっかり自分の時間を確保して趣味を楽しむ人は何人もいました。私もそうすることができていれば、もっとアメリカでの留学生活を楽しむことができたかもしれません。

 私が教科書以外の本を好きで読むようになったのは、留学を終え日本へ帰国して仕事に就いてからです。すでに20代半ばを迎えていました。最初に興味を持ち読み始めた本は、「自己啓発」の種類の本でした。そして今回私が紹介したい本は、いくつか読んだ自己啓発本の1つで、大塚寿氏著書の「30代を後悔しない50のリスト」という本です。アメリカ留学中にアスレティックトレーナーの資格を取得するという夢を実現し、日本でその資格を活かせる職に就けた後、私はしばらく大きな夢や目標もないまま日々生活をしていた時期がありました。1つの大きな夢を叶え、次のステップが見つけ出せていない時でした。

 ある時、目的も無くふと書店に立ち寄ると、この本に目が止まりました。これまで教科書や参考書しか読む習慣のなかった私ですが、その時はなぜかこの本を自然と手に取っていました。今考えると、きっと30代になる前に自分を変えたいという気持ちがあったのだと思います。この本はとても読みやすい構成になっています。著者が、30代の10年間を失敗したと考えている人たちにリサーチをおこない、その失敗談をもとに、30代ですべきことを50のリストとしてまとめています。

 この本の中から、印象に残っているいくつかのリストを紹介したいと思います。1つ目は、「あらゆることにチャレンジする。新しい価値は真面目からは生まれない。」という文言です。これは、真面目である必要は無いと言っているのではありません。ここで言っていることは、言われたことをただコツコツとやっているだけでは、“新たな価値”をもたらすことができないと言っているのです。こういった「コツコツ型」は、自分の仕事に線引きをし、自分の仕事の効率だけを求めること多いのだそうです。しかし、30代では、無駄なことかもしれないと思っても、多くのことにチャレンジをし、自分の可能性や人脈を広げていくことが大切だといっています。

 2つ目は、「利己心は長期的にうまくいかない。利他の心が上昇気流をつくる」という文言を紹介します。利己的な人はうまくいっている時は表に出ないが、引き潮を迎えた時に利害で集まっていた人間関係がさーっと引き、誰もいなくなってしまうという教訓をここで説明しています。利他的にものを考える人は、長期的に巡り巡って自分に利が返ってくるということです。

 以上に2つの例をあげましたが、この本は50のリストですから、他に48個の文言があります。すべてが自分にとってためになる話ではないかもしれません。しかし、それで良いと思います。自分が賛同することや納得いくことを探し、自分なりに噛み砕いて吸収していくことが重要だと思います。私は、20代半ばの時にこの本と出会いました。この本が出版された後に、大塚寿氏は「20代を後悔しない50のリスト」という本も出版していると思います。私はその本を読んだことはありません。しかし、大学生の皆はまだ10代後半から20代前半。在学中に機会があれば読んでみてはどうでしょうか?何か新しい発見があるかもしれませんね。

 私は、教員という立場で教壇に立ち、このブログも執筆していますが、他の先生方と比べるとまだまだ未熟な人間です。時に、大学生の皆に授業をすることは自分にとってまだ早いのではないかと思うこともあります。ですから、私も現状に満足せず、これから自分を高めていくために日々考え、努力を続けていこうと思います。

【TORCH Vol.035】「センター試験」に保健科目があるフィンランド

教授 小浜 明

はじめに
 フィンランドでは、大学入学資格試験(Matriculation Examination:日本のセンター試験のようなもの)があり、その試験科目の一つに保健科の試験がある。しかも、保健科は、一般科目12科目中、受験生が最も多い(受験生に人気の)科目なのである。ヨーロッパの国々では、イギリスのGCSE(General Certificate of Secondary Education)、ドイツのアビトゥーア、フランスのバカロレアのような、大学入学資格試験が実施されている。しかし、保健科を全受験生が受験可能な入試科目として設定している国は、フィンランド以外にはない。また、2013年4月に実施された「フィンランド基礎学校学習状況調査」では、9年生(日本の中学3年生)を対象に、外国語科と数学科の試験とともに、保健科の試験が実施されている。ところが、このような実態については、日本の保健科教育研究者の間でも、ほとんど知られていない。

大学入学資格試験の概要
 フィンランドの大学入学資格試験は、1852年に開始されたヘルシンキ大学の入学試験が変化してきたものである。現在では、National Core Curriculumに示された高等学校で履修すべき科目の到達度を測定する卒業試験も兼ねている。試験は春と秋の2回。各高等学校の体育館(写真)や教室などを会場に実施され、連続する3回の実施期間内に必要な科目に合格すればよい。合格に必要な科目は4科目で、母国語1科目が必修。他に第二公用語、外国語、数学、一般科目の4科目の中から3科目を選択する。一般科目には、保健、心理、社会、物理、歴史、化学、生物、地理、宗教、哲学、倫理などの12科目がある。一般科目を選択した場合、さらに科目を選択して、その中の設問の6問か8問に解答する。試験は1日1科目。試験時間は朝9時の開始から15時の終了までの6時間である。いつ休息を取るか、いつ昼食を取るかは、各個人の判断に委ねられている。

写真 大学入学資格試験の様子(ヘルシンキ新聞より)

保健科目は受験生に大人気
 保健科の一般科目への導入が決定されたのは2006年。保健科の試験は2007年から実施されており、開始時から保健科の受験生は他教科に比べて極めて多く、しかもその数は年々増加している(2013年秋の一般科目の受験者率上位5教科は、保健29.3%、生物14.7%、歴史12.0%、心理10.3%、社会10.2%)。なお、フィンランドでは、大学入学資格試験に合格して直ぐに大学に入学する人は多くない。一度社会に出て働いてから、機会を見て大学に入学するのが一般的である。フィンランドでは、大学への入学は、大学入学資格試験に合格していればいつでも可能だからである。ただし、学部や学科、専攻によっては独自の試験を課している。特に志願者の多い医学部や教員養成課程などでは、独自に試験を課している場合がほとんどである。

保健科の試験問題
 保健科の試験は全部で10問が出題され、全てが論述式であり、受験生はその中から6問に解答する。10問の中には他の問題よりも挑戦的な+の印がついた「ジョーカー・クエスチョン」が2題出題される。一般問題の得点は0~6までのグレード、挑戦的な問題の得点は0~9のグレードに分けられ、全体の得点に加算される。各設問下にa)、b)、c)等のいくつかの下部設問がある場合は、それぞれの設問に正解して最大の得点が与えられる。以下は、2013年春に実施された保健科の試験問題の一部である。
1)どのようなトレーニングによって筋力を増加させることができるか?また、そのトレーニングが効果的である根拠についても述べなさい。
2)次の状況下の人は、どのような症状があらわれるか?また、それぞれの状況において、どのような応急処置がなされるべきかについても示しなさい。
 a)高校の授業中に生徒に起こったてんかんの発作
 b)手首から大量の出血がある14歳の少年の場合:アイスホッケーのジュニア戦においてスケートの刃により怪我が生じたもの
3)+安楽死について倫理的観点から考察しなさい。

おわりに
 フィンランドの保健科の試験問題では、単に知識を問うものはほとんどない。それよりも、子どもたちが現代社会の中で直面する健康課題に対して、保健の科学的認識(根拠)を基にして論理的な結論が構成できるのか、を問うものがほとんどである。フィンランドの保健科では、知識の獲得は、学習者が知識体系を自ら構成していく過程であると捉えられているからである。ところで、日本でも、2013年度より、小学校・体育及び中学校・保健体育で、「学習指導要領実施状況調査」が始まっている。今回紹介したフィンランドの保健科の試験問題は、この調査項目を作成する際にも大いに参考になるものと考えられる。また、今後、日本の保健科で育てる学力(リテラシー)や能力(コンピテンシー)を考える上でも、大いに役立つ知見と考えられる。

参考文献
 小浜明:フィンランドが育てようとしている保健科の学力-「保健科目」が大学入学資格試験にある国,日本体育学会第64回大会発表資料,2013.8

謝辞
 本研究はJSPS科研費24500829の助成を受けたものです。

【TORCH Vol.034】見えない壁を壊す!

助教 鈴木良太

「肯定力」とあまり耳にしない言葉だが、この言葉は自分自身を肯定する力のことを指しています。肯定力が高ければそれだけ自分を信じる気持が強くなり、目標に向かって積極的に進めるようになるといわれています。とりわけ厳しい勝負の場では、肯定力の高低が勝負を分けるともいわれ、そのためにトップアスリートたちは、肯定力を高めるメンタルトレーニング等を行っています。今回、私がおすすめする書籍は、アテネオリンピック金メダリストで現徳洲会体操クラブ監督でもある米田功氏が執筆した「見えない壁を壊す!」光文社発行の書籍です。

この書籍の魅力は何と言っても現役時代に本人が行っていたメンタルメソッドが書かれていて、よくあるようなメンタルトレーナーが書いているような一般的なものとは一味違った切り口で書かれているところです。また、本人の実体験で書かれているため信憑性があり読んでいて納得してしまいます。これは、体操競技だけではなく他の競技を経験した方でも共感できる内容だと思います。

それではこの本の中身について面白いメソッドを2つほど簡単にご紹介します。

メソッド①
自分の「いい部分」と「ダメな部分」は分けて考える
ほとんどの人が自分を点数化すると80点だったり50点と答えるとありますが、本来は「いい部分100点」「ダメな部分100点」と分けて考え、いい部分とダメな部分を自分が知っておくことによって肯定力に繋がるとあります。

メソッド②
失敗にこそ共通のパターンがある
米田氏は他者からアドバイスをもあう時に必ず成功のためのアドバイスと失敗のパターンを聞くと書いてありました。その中でも、「どんな時に失敗したか」「どうすれば危険か」「どうなっていくときに失敗が出てくるのか」等の失敗のパターンを知っておくことが致命的な失敗を回避することができると書かれています。

実際に競技を続けていて伸び悩んでいる方や指導現場でのコーチングの参考にして欲しい一冊だと思います。

2013年10月8日火曜日

【TORCH Vol.033】一見は百聞にしかず!?


講師 笹生心太

 初めまして。今回ブログを執筆します、笹生(ささお)です。

 本文に入る前に簡単に自己紹介をしますと、普段は社会学や社会調査法の授業、そしてスポーツマネジメント関係の授業で皆さんの前に現れることが多い教員です。あるいは、フットサル部の選手兼監督をしているので、そちらで知っているという学生の方もいるかもしれませんね。

 さて、今回はどんなことを書こうかなと夏休みの2か月間悩んでいたのですが(嘘です)、好きな本の紹介よりも、私と本の関わりについて書こうかなと思います。「日本人の階層意識」とか「ボウリング場産業のブルーオーシャン戦略」のようなマニアックな本の紹介をしてもいいのですが、それでは皆さんつまらないですからね。

 私は大学生のころ、本をたくさん読んでいました。…と言うと、「大学の先生になるくらいなんだから、俺らとは違う大学時代を送っていたんだろう」と思われる方もいるかもしれません。が、私は多くの仙台大学生同様、スポーツに命を懸けた大学生時代を過ごしていました。

 私はまだ「フットサル」という言葉が「え、猿がどうしたって?」と言われている頃、大学にフットサルチームを立ち上げて活動していました。当時はフットサル関する専門書などもなかったので、唯一のフットサル雑誌をむさぼるように読み、フットサルに関する記事をインターネットで夜な夜な探していました(YouTubeはまだありませんでした)。

 そんなわけでなかなか忙しい毎日を送っていたのですが、当然大学生ですから授業に出ねばなりません。ところが私のいた大学は、仙台大学とは大きく異なり、やる気のない先生が多くいる大学だったのです。もちろん授業熱心な先生もたくさんおられましたが、「概論」なのにマニアックすぎて何も分からない授業や、教科書をもにょもにょ読むだけの授業、あげくには学生にお昼ご飯を買ってこさせて、食べながら授業をする先生などもいました。

 そんな授業が多かったので、大学生のころの私は、授業中は体力の回復に努めたり、フットサルの戦術について色々考えていました。が、もちろんそれでは単位が取れないので、ちゃんと勉強もしました。そんなとき、確かに授業のノートを見るのもいいのですが、だいたい断片的で何を書いているのか分からないんですよね。なので、その先生の本を買って読んでいました。90分我慢して座っているよりも、コーヒーでも飲みながら本を読むほうが効率がいいと思いませんか?そのときに「本を読むのって大事なんだな~」としみじみ思ったものです(ちなみに大学時代に「不可」を1つももらったことがないのが、私の数少ない自慢の1つです)。

 また、卒論の時期にも、「本を読むのって大事なんだな~」としみじみ感じたことがありました。ゼミの時間に、ゼミ生たちが自分の卒論の構想を話すと、指導教員の先生がこう言うのです。「君たちが考えるようなアイデアは、ほとんどすべて、過去の偉い学者が考えていることだ。そんなつまらないアイデアはゴミ箱にでも捨ててしまいなさい」と。学生時代の私には、相当ショックな言葉でした。しかし、今にしてみればその言葉の意味がよく分かります。

 例えば君が、「どうやったらもっと速く走ることができるだろう?」とか「どうやったらもっと強いシュートが打てるようになるだろう?」と考え、周りに意見を求めたとしましょう。しかし、そんなものたかだか数十人に聞くのがせいぜいでしょう。世の中に何億人も人間がいるのに、身の周りの数十人の中に、たまたま速く走ったり、強いシュートを打つ方法を知っている人がいるものでしょうか?当然のことながら、できるかぎりたくさんの人にアドバイスをもらうほうがいいですよね。

 そんなときに頼りになるのが、本です。本は、我々よりもはるかに頭のいい過去の偉い人たちが、うんうん頭を捻って考え、親切にもまとめてくれたものです。周りにいる人何十人に話を聞くのはナンセンス、本を読めば一発で目当ての答えが見つかるのです。こんなラッキーな話があるでしょうか。

 ということで話を学生時代のゼミの話に戻すと、私の指導教員は、「君のアイデアは、自分では斬新だと思っているかもしれないけど、そんなことないんだよ。過去の偉い人たちがきっともう見つけているアイデアなんだよ」ということが言いたかったんですね。

 足を速くしたいとか、強いシュートを打ちたいといったときには、過去の偉い人たちのアイデアをパクっちゃいましょう。そのために本を読みましょう。しかし卒論というのは、過去の偉人に負けないくらいの斬新なアイデアを、世の中に提出する作業です。そのとき、そもそも世の中にどんなアイデアがあふれているのか、知らなければ話になりませんよね。卒論ではこういう作業を「先行研究のレビュー」と言いますが、独りよがりの卒論にしないためには、本を読んで、過去の偉い人たちのアイデアを知るという作業はとても大事なことです。

 こんなことを書くと、「本ばかり読んでて理屈っぽい」とか「机上の空論」とか「百聞は一見にしかずだろ」とか言う人もいるでしょう。そんなに本ばかり読んでないで、まずは自分で体験したほうがいいじゃん、と思う人もいるでしょう。もちろん、私もそう思います。机の上の勉強ばかりではなく、自分で体験したほうがはるかに役に立つこともたくさんあります。フットサルしているときだって、マニュアル本を読むばかりでなく、大会に出たほうがずっとうまくなりました。

 しかし、自分の経験だけがすべてだと思うのも、私は違うと思います。それは上に書いたように、本というのは自分よりもすごい人たちの経験が1冊に凝縮された、超お得な宝の山だからです。何も知らずにぼけっとフットサルを体験するよりも、正しい方法を頭の上で学んでから体験したほうが、上達も早いでしょう。理屈を知る→体験する→もっと高度な理屈を知る→もっと高度な体験をする→…と、理屈と経験を行ったり来たりすることが、スポーツでも勉強でも、上達の一番の近道ではないかと思います。

 ということで皆さん、自分の知りたいこと、やりたいことに関する本を1冊でいいから読んでみませんか。がむしゃらに経験を重ねるよりも、はるかに得るものが大きいはずです。「百聞は一見にしかず」ならぬ、「一見は百聞にしかず」を、ぜひ実践してみてください。大きなチャンスが、仙台大学図書館には転がっています。

2013年10月1日火曜日

【TORCH Vol.032】難しいことを簡単に伝えることは難しい


助教 柴山一仁

 昨年から教壇に立つようになり,毎回のように考えさせられることがある.それは,学生たちに対して,物事をわかりやすく伝えることがどれだけ難しいかということだ.いわゆる「できる」人は,難しいことを簡単そうに話す.もちろん教員から学生に対してもそうだし,友達同士の会話もそうだろう.難しい言葉をそのまま使って話すことによって会話の齟齬が生まれ,相手は会話の内容ではなく言葉の意味を考えることに懸命になる.それは有益なコミュニケーションとは言えないだろう.

 さて,今さっそく私は「齟齬」という言葉を使った.齟齬とは食い違うこと,行き違いといった意味であるが,こんな言葉を使わなくとも初めから「行き違い」といえば済む話だ.初めて書く書橙でいい恰好したかっただけなのである.このように,円滑なコミュニケーションを目的とするならば,対象とする人物を考えて(このブログの対象は主に学生の皆さんだろう),その場にふさわしい言葉を使う必要がある.要は「空気を読む」ことが重要なのである.

 前置きが長くなったが,今回紹介させてもらう本は「フェルマーの最終定理」という本だ.タイトルからして既にごめんなさいという方もいるだろう.正直,私もこの本のタイトルを初めて見たときにはごめんなさいだった.簡潔に説明すると,この本はフェルマーという数学者が17世紀に残したある数式に対して,アンドリュー・ワイルズという数学者が様々な苦労をしながらそれを証明していく過程について書いたノンフィクションである.

 この本のすごいところは,著者であるサイモン・シンは数学者ではなく,元々テレビ局のプロデューサーであったことだろう.最も,素粒子物理学の博士号を持っているということなので,全くの数学初心者ではないだろうが.もちろん文章中にある程度の数式が出てくるのは事実である.しかし,ピタゴラスの定理などそのほとんどが我々の知識でも理解できるものだ(詳細についての理解はもちろん難しいだろうが).一流の数学者が証明までに360年を費やした数式を,数学の知識がない我々にある程度分かるように説明することがどれだけ難しいか,想像できるだろうか.その点,サイモン・シンは非常に良くこの証明について理解しており,それを伝える能力に長けていたのだと思う.

 実は,この本を読もうと思ったきっかけは,大手通販サイトAmazonでおすすめの欄に出てきたから,という何とも情けない理由である.そこのレビュー欄に「難しい内容なのに,そう感じない」というコメントが多く寄せられていたので,気になって購入してしまったのである.まさにAmazonの思うつぼである.しかし実際に読んでみると,確かに内容自体は私でも理解できるものであったし,何よりも難攻不落の目標に対する数学者たちの挑戦と挫折が丁寧に書き込まれており,非常に楽しく読むことができた.興味のある方は,こういった本を通して,誰かとコミュニケーションを取る際の「空気を読む」ことについて考える一助にしていただきたい.

【TORCH Vol.031】「本から学ぶこと」


講師 後藤満枝

 この夏、ある介護実習施設を数名の学生たちと一緒に訪問した際、最後に実習指導者の方が学生たちに対してこんなことを話してくださった。「介護実習とは関係ない話になるけれども、やはり今自分が介護のこと以外に伝えられることとしたら、若いうちに本をたくさん読んだほうがよいということかな」と。

 その指導者の方は中年の男性で、若い頃はあまり本を読むことが好きではなかったそうだが、あるときから本を読むようになったとのことだった。仕事をするようになるとなかなか本を読む時間がとれなくなったりするが、休みの日など一気に読むこともあるという。「本から学ぶことはそんなに多くはないかもしれないが、ただ、こういう考え方もあるんだなという一つの参考になることはあるよ」と、控えめにおっしゃった。

 「こういう考え方もある」と知ることは読書の魅力の一つでもあり、本から学ぶことでもあると考える。もっともそれ以外にも本から学ぶことはたくさんあるとも思うが。

 恥ずかしながら、私もこの指導者の方のようにこれまでそれほど多くの本を読んでこなかったし、むしろ普段本を読むことは少ないほうだが、「こういう考え方もあるんだなあ」と学ぶことのできた1冊の本がある。

 それは、河合隼雄氏のエッセイ『こころの処方箋』である。河合氏は臨床心理学者で、生前、文化庁長官も務めていた人物だ。

 私がこの本に出会ったのは高校生の頃である。高校時代の国語の先生が、最近買った図書としてなかなかよかったからと貸してくれたのだった。この本は当時は単行本として販売されていたが、現在は文庫本として店頭に置かれているようだ。読むと心が軽くなるような生き方のヒントとも言えるようなことが書かれてあり、55の章(篇)から構成されている。55章(篇)というと長そうに感じられるかもしれないが、1つひとつの章(篇)は単行本の場合4ページずつにまとめられているので非常に読みやすく、当時、私はわりと一気に読むことができたことを覚えている。その日のペースに合わせてきりの良いところまでちょっとずつ読んでいくのも良いだろう。この借りた本は読み終わってから先生に返却はしたものの、自分でもひそかに1冊購入し、現在も手元に置いている。ふとまた読んでみようかと思わせてくれる1冊だ。

 河合氏自身があとがきで述べているように、この本に書かれていることは、時に「もともと自分の知っていたこと=腹の底では知っていること」でもあったりする。だが、改めて指摘されると「フムフム」「なるほど」「たしかに」と、妙に説得力があるのだ。例えば、自分が何かに行き詰まったり抱えたりしている事柄があった場合などに、そっと肩の荷をおろしてくれる「目からうろこ」のような考え方、心を軽くしてくれるような言葉が55章(篇)の中からきっと見つかるだろう。

 おそらく河合氏の考え方には賛否両論あるのではないかと思われるのだが、人の考え方はそれぞれなので、こういう考え方もあるのだなあと、一つの参考に、何か課題を乗り越えるための手がかりになればそれでよいと思う。

 55章(篇)のうち河合氏も特に好んで使用されていたとされていたのが、『ふたつよいことさてないものよ』という言葉であり、私もこの言葉がとても印象に残っている。

 この「『ふたつよいことさてないものよ』というのは、ひとつよいことがあると、ひとつ悪いことがあるとも考えられる、ということだ」そうだ。世の中うまくできていて、「よいことづくめにならないように仕組まれている」という。

 また、この言葉は、「ふたつわるいこともさてないものよと言っているとも考えられる」と河合氏は述べている。「何か悪いこと嫌なことがあるとき、よく目をこらしてみると、それに見合うよいことが存在していることが多い」という。

 そして、この言葉はもう一つの見方ができるという。「さてないものよ」と言って、ふたつよいことが「絶対にない」などとは言っていないところが素晴らしいというのだ。ふたつよいことも、よほどの努力やよほどの幸運、またはその両者が重なったときなど、条件によってはあることもあるが、幸運によることのほうが多いようだ。「幸運によって、ふたつよいことがあったときも、うぬぼれで自分の努力によって生じたと思う人は、次に同じくらいの努力で、ふたつよいことをせしめようとするが、そうはゆかず、今度はふたつわるいことを背負い込んで、こんなはずではなかったのに、と嘆いたりすることにもなる」という。

 「ふたつよいことがさてないもの、とわかってくると、何かよいことがあると、それとバランスする『わるい』ことの存在が前もって見えてくることが多い」ともいう。こうした「法則」のようものを知っておくことによって、私たちはそれなりの覚悟や難を軽くする工夫をしてあらかじめ備えておくことができるということが述べられている。

 今回紹介したこの言葉以外にも「なるほど」とうなずける言葉はたくさんあったが、その中でも私が特に印象に残っている章(篇)の言葉を最後に5つ紹介させていただく。

「イライラは見とおしのなさを示す」
「100点以外はダメなときがある」
「やりたいことは、まずやってみる」
「二つの目で見ると奥行きがわかる」
「『知る』ことによって、二次災害を避ける」

 もし今回紹介したこの本に興味を持たれた方がいれば、「こういう考え方もあるのだな」ぐらいの感覚でご一読いただき、参考にできそうなことがあれば、今後生きる上でのヒントにしていただければ幸いである。

【単行本】河合隼雄著『こころの処方箋』 新潮社 1992
【文庫本】河合隼雄著『こころの処方箋』 新潮文庫 1998

【TORCH Vol.030】「生きること・死ぬこと」


准教授 庄子幸恵 

 「死生観」という言葉がありますが、20歳前後の大学生の皆さんには「死」を意識する機会はまだそんなにないと思います。ただ身近なところでは、2年半前の「東日本大震災」で多くの人々が震災による死に直面したことや、家族や友人など大切な人々を失ってしまったことで、多くの人々が「死」ということを考えざるを得なかったことと思います。

 今回皆さんに紹介するのは「僕の死に方-エンディングダイアリー500日」という本です。これは流通ジャーナリストの金子哲雄さんが「肺カルチノイド」という、癌の中でも数千万人に一人という悪性の癌の中で最も治療が難しいとされるタイプの癌の告知を医師に受け、そして亡くなるまでの500日間の闘病中に自分が感じたこと、また死への準備や現代の癌治療の実際と限界を生々しくつづった本です。

 私は仙台大学に来る前に8年間病院の看護師としてがん看護に携わってきました。その中で肺がんの手術を受けた人、抗がん剤の治療で吐き気がひどくみるみるうちにやせ細ってしまった人、乳がんの術後に片腕が腫れ上がり、パンパンになって苦しむ人、白血病でまだ小さい子どもなのに一生懸命無菌室で治療をがんばっている子どもたち・・・、たくさんの人が癌で苦しむ姿を見てきました。当時はまだ、告知が一般的ではなく、家族と本人が希望するときのみ告知がされている時代でしたので、最後まで自分が何の病気にかかっているかを知らずに亡くなる人も多くいました。毎日のように人が亡くなっていく病棟の中で私は「死」に対して向き合わざるを得ないということを日々感じていました。

 金子さんは癌が見つかったとき、すでに肺や肝臓、骨にまで癌が転移していたため、大病院の医師たちは「残念ながら、私たちには何もすることがありません。あとはできるだけ苦しまないよう、痛み止めやせきどめのお薬で様子を見ていきましょう。」という言葉で金子さんに終末医療、つまりホスピスへの入院を勧めます。金子さんは言います。「大病院は、自分の病院の治癒率を下げたくない。したがって日常的に、治癒する可能性がある患者が優先されるということなのだろう。治癒する可能性が低い患者は、極端な話、邪魔者でしかない。医者から匙を投げられ、死を待つのみの人生。それを私はどう過ごしていったらいいのだろうか。」この時の金子さんの絶望感、未来からの断絶、自分の目の前が真っ暗な闇となってしまったような現実はどんなに苦しかったことでしょうか。

 しかし、この後金子さんはゲートタワーIGTクリニックの堀医師と出会うことで「血管内治療」という希望を見出します。「咳、おつらかったでしょう。」とはじめて堀医師にかけられた言葉に号泣し、「はじめて人として患者を診てくれる先生と出会えた」と語っています。

 そして、この本の中では献身的に金子さんを支える奥様の稚子さんの姿が取り上げられています。がんは患者本人だけでなく家族にも痛みと苦しみを与えるものなのです。
 残念ながら、この後治療及ばず金子さんは41歳の若さで急逝します。それまでに自分の葬儀とお墓の準備をすべて行い、この本の出版を奥さんに託し亡くなっていくのです。

 正直、このことを知るまで私は金子哲雄さんが嫌いでした。テレビで金子さんが出て、甲高い声で「お買い得情報」を流していると、「ああ、またあの軽薄な経済なんたらが出ているんだー。」となかば軽蔑のまなざしで彼を見ていたのです。

 この本は「死」という重いテーマを取り上げていますが、装丁は明るいオレンジ色(金子さんのシンボルカラー)の表紙を使い、そこかしこに金子さんの想いや気配りが感じられます。内容も「癌と死」ということを取り上げながらもとても読みやすく、ぐいぐいとひきつけられ最後まで一気に読める内容です。今は特に夏休み、若い学生の皆さんにもぜひ読んでいただきたい本です。「死」を考えることで「生きるとは何か」についても逆に考えることができると思います。この機会にぜひどうぞお読みください。

<参考・引用文献>

  • 金子哲雄 「 僕の死に方 エンディングダイアリー500日 」 小学館 2012年

【TORCH Vol.029】粋なプレゼント~『人生の地図(The Life Map)』~


助教 柴田恵里香

 これまでに、何度か本をプレゼントされたことがある。
 誕生日に2回、そして退職時に1回。

 勝手な思い込みかもしれないが、本は他のプレゼントと一味違う。
 贈り主が主張したいこと、贈られる側に向けられたメッセージ、その本から読み取れるものなど、はっきりと用途が分かる「モノ」とは違って、本にはあれこれ推察や想像をさせてくれる楽しみがある。しかも、これは長年に渡って楽しめる場合が多い。

 今回は、そのような楽しみをいまだ提供してくれている1冊にまつわる話をしたい。

 本というよりは写真集と言った方がいいかもしれない。『人生の地図(The Life Map)』という1冊だ。表紙には、ゴーグル付ヘルメットをかぶって顔をピエロのようにペイントした男の子の白黒写真がデカデカと登場している。この本を贈ってくれたのは、私が大学卒業後から5年間勤務していた会社の先輩で、仕事のみならず人生相談などよく面倒をみてくださった方だ。その先輩は、仕事を120%こなしつつも組織に染まりきらず自分の信念をしっかりと持ち続け、一方ではおやつを目にすると目を輝かせるお茶目な部分も持ち合わせ、さらにはプライベートで奥さま・息子さんと仲の良い素敵な家庭を築かいており、結婚するならこのような人!と周囲の女性社員から人気が高かった。私が会社を離れ、大学院という全く別な道を歩もうとしていたときに贈られたのがこの1冊だった。

 「もう僕は身動きが取れないけど、君はここに留まっているような人間じゃない。色々もがいて、また話聞かせてもらえるのを楽しみにしているよ。」

 当時、新たな世界に踏み出すことで希望に満ちあふれていたので、通常は人生に悩み、立ち止まったようなときに読むことが想定されるこの本を上記のような言葉と共にプレゼントされたことに少し違和感を覚えた。この本は、「欲求」「職」「パートナー」「選択」「行動」「ルール」「物語」というパートに分かれており、それぞれ短いフレーズや著名人の言葉がインパクトある写真と共に記されている。正直、その頃は飛び込もうとしている世界に浮かれ気味だったので、本の言葉はそこまで響くことがなかった。そのため、当時の私にとっては、この本が私への応援メッセージというよりは、今後も同じ会社で働き続ける先輩の心境を表しているように感じた。

 しかし、大学院に通い始め進路に迷ったり、現在教員という職に就き戸惑ったりするときに、改めてこの本に目を通すと、その時々で何か引っかかる、心に響く言葉が違うことに気づかされる。昨今デジタル化が進み、情報や資料を流し読みしてしまうことが多い。しかし、本は手元に置いておけば何年経っても簡単に読み返すことができる。ましてや他人からの贈り物だと、思い出と共に何度も楽しむことができる。先輩から本をもらってもう5年以上になるが、改めて粋なプレゼントだったなぁと感じる。

 最近読み返していて、納得させられるフレーズを2つだけ紹介して終わりにしたい。これは、今後社会に出る大学生にとってもシンプルで、トンと背中を押してくれる言葉ではないかと思われる。

 「自分の仕事を嫌ってるようなクソッタレだけにはなりたくない。」
 「必要なのは勇気ではなく、覚悟。決めてしまえば、すべて動き始める。」

 仕事の愚痴をこぼすくらいなら、覚悟して行動し、愚痴を言わなくて済むように自ら環境を変えていけばいい。先輩から本をプレゼントされ、数年後にこの本を読み返したときにふと思ったことだ。デジタル化だ、グローバル化だと世界は複雑になりつつあるが、たまにはこのような写真や短いフレーズが中心のシンプルな本に触れてみるのも悪くない。もちろん、誰かにプレゼントすることも含め。

2013年8月5日月曜日

【TORCH Vol.028】本を読むこと



准教授 内丸 仁


 私自身、習慣的に読書をすることはなく、衝動的に何か本を読もうという思いに駆られて読むのがいつものパターンです。

 その際に私がどのような基準で本を選ぶのか考えてみると、書店で並んでいる書籍をだらだらと眺めて、タイトルが印象に残ったものを選んでいて、著者、書店、マスコミでのランキングや評価などを見て選ぶのではなく、何か明確な決まりやルーチンがあるわけでもなく、只漠然と選んでいます。また、最近は電子書籍が普及しているようですが、私自身はなぜか紙媒体の本を選んでしまいます。ページをめくり読みすすめることは私自身の中で何となく気持ちの良いものに感じられるからです。

 タイトルの印象というのは私にとって、創造の世界を広めるものであり、これから読むこの本に対する期待感があり、そうすることで、本を読むことのモチベーションにもなっているように思います。

 実際に読むと、100%私の印象通りの内容ではなく、タイトルの印象そのままの内容もあれば、全く違う内容のものもあります。ただ、全く違う内容であった場合に、これ以上読み進める必要はないとか期待を裏切られたと感じるかというとそんなことはなく、そこで読み進めていくとまた新しい期待感が生まれてきます。

 私が本を読み進める中での脳感は、すっかりその本の世界に入り込んでおり、同時に私自身の創造の中で推理したり、喜怒哀楽を共有したりと、一時現実の生活とは全く違う次元にいます。また、本を読んだ後の何かしら爽快感や活力が生まれる感覚は往々にしてあり、この感覚は私自身だけではなく皆さんも体験されることはあるのではないかと思います。

 私にとって本を読むことは、気分転換にもなり、同時に私自身の専門とする分野以外での視野を広めるだけでなく、創造性や事にあたるときの可能性を広げるための手段になっているかもしれないと思っています。

【TORCH Vol.027】2冊の「生物と無生物の間(あいだ)」



教授 小澤 輝高


 学生時代に読んだ「生物と無生物の間」(岩波新書)(川喜田愛郎著)についての書評を書くつもりでいたら、たまたま、書店で同じタイトルの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)(福岡伸一著)を見つけた。両書とも、ウイルスは生物か否かという命題が取り上げられているので、両著者の考えを比較した書評を書いてみようと思う。

 タイトルにあるような、生物と無生物の間(境界)はどこにあるのか、違いはどこにあるのか、あらためて尋ねられても、明快に答えられる人は少ないだろう。両書とも、無生物に近いウイルスの活動を取り上げながら、生物とは何かについて考えさせる内容である。

 「生物と無生物の間」(1956年刊行)では、ウイルス病のことが詳しく述べられた後、タバコモザイクウイルスは、ある条件下では、核蛋白質の結晶として単離することができるというスタンレーの実験結果(1935年)が紹介されていた。それを読んだ当時の私には、病原性を持つ微生物(ウイルス)が結晶化できるなどとは、夢にも思っていなかったので、大変感動した記憶が残っていた。ウイルスが鉱物や化学物質などと同じように、結晶化できるなら、ウイルスは無生物なのだろうか。ウイルスを結晶化したスタンレーの実験は、多くの人に衝撃を与えると同時に、ウイルスは生物なのか、それとも無生物なのかという命題を提起し、現在も決着がついていないようだ。ウイルスは、核酸(遺伝子)とそれを取り囲む蛋白質からなり、他者の細胞内に侵入し、その細胞内の遺伝子複製機構を利用して増殖する。ウイルスは細胞外では休眠状態にあるが、細胞内で自己増殖という生命活動を営んでいるのだから、細胞外で起こった現象だけを捉えて、ウイルスは無生物ではないかと議論しても意味がないと、著者(川喜田氏)は主張している。

 もう一方の「生物と無生物のあいだ」(2007年刊行)では、生命とは自己複製をおこなうシステムであり、ウイルスはこの概念に当てはまる。この点においては、ウイルスは生物である。しかし、生物とみなすには、もう一つの動的平衡という概念が必要であると主張している。動的平衡とは何か。例えば、生体を構成している蛋白質は、それを構成しているアミノ酸が、更に、それを構成している分子、原子が絶えず、置き換わっている現象を指している。ウイルスには、この動的平衡が見られないので無生物であると、著者(福岡氏)は断定している。確かに、動的平衡は、生命現象の重要な要素には違いないが、これがない、あるいは、ないように見えるからといって、無生物と断定してよいのだろうか疑問が残る。ウイルスを無生物とみなしたいがために、動的平衡という概念を持ち込んだようにも思える。私は、ウイルスに、動的平衡という概念を当てはめようとするよりも、むしろ、川喜田氏の「細胞の中に侵入して、生命体として振る舞う」という表現の方がウイルスの特徴を正しく捉えているような気がする。

 どちらの解釈が正しいにせよ、両書とも、生物とは何か、生命の神秘を考える上で、有用な書物と言ってよい。特に、福岡氏の「生物と無生物のあいだ」は、文章が上手で、ワトソン、クリックの二重らせんモデルから、最近の分子生物学的手法(PCR法、ノックアウトマウス、ES細胞)まで、分かりやすく書かれており、生物学を学んでいない人にも薦められる。更に、研究にまつわるエピソードなども興味深く面白かった。この本は、新書大賞、サントリー学芸賞のダブル受賞した書物でもある。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 川喜田愛郎 『生物と無生物の間』 岩波新書 460 Ka 図書館2階
  • 福岡伸一 『生物と無生物のあいだ』 講談社現代新書 460.4 Fs 図書館2階



【TORCH Vol.026】本を読むということ

教授 大和田 寛


 森鷗外の『不思議な鏡』のなかに、家計の遣り繰りをめぐって、夫婦のこんなやり取りがある。

 「あなた、年末もとうとう足りなかったのね。」
 「そうかなあ。もっと旨く遣り繰って行かれないかい。」 
 「そんな事を仰ったって、私のせいばかりじゃないわ。本の代も随分大変あってよ。続蔵経なんぞ、あれはいつまで出るのでしょう。もう置き場所にも困るのですが、際限がないのね。大日本史料に古文書に古事類苑、まああんなのは知れたものですの。やっぱり一番多いのは西洋の本よ。」 
 「そうだろう。しかしそれは仕方がない。あれは己の智慧が足りないから、西洋から借りて来るのだ。どうせ借物をしていては、自分で考え出す人には敵わないが、どうもあれがなくては,己の頭の中の遣り繰りが旨くつかないからなあ。」 
 「そんなに西洋から借りていて、いつか返せて。」
 「それは己の代には難しい。子や孫の代にもどうだか。何代も何代も立つうちには、返す時もあるだろう。」
 「まあ、のん気な話ね。」

(『鷗外全集』第10巻所収、岩波書店、1972年。なお、一部の表記を、新漢字・新仮名づかいに改めた。また、現在、ちくま文庫版『森鷗外全集』3、で読める。)

 冒頭から長い引用になってしまったが、30代でこの作品を初めて読んだ時もこの会話が気になった。それは「自分で考え出す人には敵わない」という謙遜な言い方に、ちょっと嫌味なものを感じたのである。それから幾星霜を経て鷗外より長生きしてしまった現在は、まったく違った感想を持つ。(ちなみに、鷗外は1862年1月に生まれ、1922年7月、満60歳6カ月で亡くなった。この作品は1912年の鷗外50歳の時のものである)。「自分の頭」で考えてきた文豪・思想家鷗外にして、50代に入ったからこそ言える言葉ではなかったかと。

 ところ鷗外と自分を比べようなんて大それた気持ちはさらさらないが、我が家でもきわめて低次元な、しかし外面的には似たような妻との会話が、日々繰り返されている。例えば、定期購読している数十巻の大冊の資料集に対して「あなた、この資料集あと何巻来るの」、又「今日また古本屋から大きな段ボールが届いたわ、もう置く場所ないわよ」、又「あなた、これから何年本読めると思っているの」等々。ただし我が家のはとても「のん気な」会話などではなく、最近、特に震災以降は、妻の声に怒気が含まれてきているのである。それは妻の問いに対して私が、「処置なしの書痴だからね、仕方ないね」とか「大学をやめたら1日12時間として、100年は読むつもり」とか、真面目に答えていないからと、わかっているが、妻を納得させる名回答などあり得ないのである。



 私は父の仕事の関係で、北海道の日本海に面した辺鄙な漁業の町で小4から中2までの4年を過ごした。そこは私にとって素晴らしいところだった。多少「もの」が見えてくる多感な時期だったこともあろう。内向的な性格ではあったが、友達もできたし、彼らと海や山を楽しむことを知った。そして本を読むことも覚えた。本を読んで色々なことがわかった。

 北海道の田舎にいても、『グリム童話』を読むとヨーロッパを想像することが出来た。

 しかしひとつがわかるとその何倍もの疑問が生まれた。例えばそこには、王子様お姫様がたくさん出てくる。旅人が森を抜けるとお城がありそこには必ず王様がいる。幼い頭はそこで悩み始める。日本には首都の東京と言うところに王様(天皇)がいるとのことだが、勿論見かけることもない(当時皇太子の結婚問題で、田舎の小学生にも多少ロイヤルファミリーのことが解りかけていたのだろう)。なぜヨーロッパにはたくさんの王様がいるのだろうか。いろいろ西洋の物語を読んで、それは貴族のことなのかとも思ってみたが、十分納得は出来なかった(その疑問は、大学で経済史を学び、ドイツの領邦国家を知ることによって、ようやく氷解した)。こうして次から次へと本を読んで、さらに疑問が増えていった。

 中2の終わり札幌に戻った。さすが札幌、北海道の大都市、本屋がたくさんあり文庫本を買うことを覚えた。最初に買ったのは、岩波文庫の『ソクラテスの弁明』と新潮文庫の『あすなろ物語』である。後者は、井上靖の小説で、転校したクラスの隣の座席の女子が薦めてくれた。転校前に、家にある『日本文学全集』で漱石や龍之介などは多少読んでいたが、現代文学は初めてだった。それは、主人公が祖母と暮らし、鉄棒に夢中になり同居する年上の美少女に淡い恋心を抱く、自伝的な作品である。下手ながら鉄棒少年だった私はその小説にすっかり魅せられた。『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスやプラトンの名前くらいは知っており、西洋の思想・哲学も少しは知りたかった、と言うとカッコいいようだが、それが星★ひとつ50円であることに驚いたというのが正直なところである(当時岩波文庫は,星★ひとつが50円であり、厚いのになると星が★★★、★★★★となり、150円・200円となった)。

 その後高校時代を含めて、岩波文庫の外国文学(赤帯)と哲学思想(青帯)と新潮文庫(これは外国文学と日本文学)を、併せて300冊位、岩波新書等を60~70冊位は読んだろうか。大概は★・★★のもので、おかげで岩波文庫に入っている外国の青春小説の定番、例えばゲーテ『若きウェルテルの悩み』・ヘッセ『車輪の下』・マン『トニオ・クレエゲル』などは、ほぼ読み尽した。

 高2の頃から、今思えばある意味では受験勉強からの逃避でもあったが、昔の高校生(旧制高校生)ガ読んだとされる教養主義的なもの、例えば阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、三木清『人生論ノート』等、また学徒動員された学生たちの手記『きけ わだつみのこえ』は、小説とは違った真剣さで読んだ。恐らく自信ない自分の人生を思い悩んでいたのだと思う。高校卒業の頃、学徒兵林尹夫(ただお)の『わがいのち 月明に燃ゆ』、(筑摩書房、1967年3月)が出て、すぐに読んだ(現在絶版)。同級生の間では、「勉強もしないで本ばかり読んでいる変な奴」で通っており、授業での発言から、先生からも「大和田君はどんな本を読んでいるのですか」と聞かれたりしていたために、多少は持っていたであろう「読書家」の自惚れを、この本は木っ端みじんに打ち砕いてくれたのである。

 この林さんはとてつもない読書家で、旧制高校から大学にかけての数年間に大量の本を読んでいるが、それがいずれも大作なのです。『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『魔の山』等である(ちなみに私が高校時代に読んだ長編は、辛うじてドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフ』くらいでする)。しかもデュ・ガールの『チボー家の人々』(当時の訳本で5分冊2000ページを超える)を、彼は旧制高校時代に、フランス語の原書で読んでいる。この事実に私は、完全に打ちのめされたのでした。

 大学に入ってからのことであるが、大学紛争世代の者として大学の授業もほとんどなかったので、この時とばかり読書三昧にひたった。上記の外国文学の長編を中心に、1日12時間位読書する生活が卒論開始まで続いた。同世代の文科系の学生なら誰でも読んでいた、大江健三郎や柴田翔、サルトルやマルクスも読んでいたことは言うまでもない。


 学生に何を読むべきかと言われたら、人それぞれでこれを推薦したいというような本はあり得ない。ただ、今の学生は、パソコン・携帯があって、本を読む環境がないことは、ある意味とても不幸だとは思う。人が本を読む理由は、詰まる所次の三つだと思う。一つは暇つぶしのため、二つは情報を得る(答えを得る)ため、三つ目は無目的な読書である。暇つぶしの読書は若い人には無縁であって欲しい。二つ目の理由が、本を読む動機で一番多いと思う。受験勉強も仕事のための読書も、旅行に行く前の準備として当該地のガイドブックを見ることも、辞書を引くことも、ここに含まれよう。しかし昨今、インターネット等で情報が取れるので、敢えて本に向かわなくなったのが実情であり、浅薄な知識が横行することにもなっていると考えられる。しかしこの3つ目の理由こそが、特に若い諸君に薦めたい読書である。無目的と言ったが、これは禅問答ではない。暇つぶしでもない。これを読んだらこういう答えが出てくるという事ではないので、無目的と表現したが、問題探しとでもいうべき読書であり、そこにこそ読書の本質があろう。だからこそ、人生を深く考えるきっかけとなるのではないだろうか。

 最初に引用した鷗外の文も、情報ではない何か(あるいは正解のないこと)を考えようとする時、本に教えてもらうのではなく、思考の羅針盤になってもらわなければ「己の頭の中の遣り繰りが旨くつかない」と解すれば、納得がいかないだろうか。本も読まずに「自分で考え出す人は、ただの思いつきか、唯我独尊に陥るということであろう。

 最近、山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)で知ったのですが、『チボー家の人々』を読む女子高生を主人公とするマンガがあるらしい。マンガには疎いのでその本(高野文子の『黄色い本』というらしい)を知らなかったのですが、今度読んでみようと思う。それを読んで一念発起して『チボー家の人々』のような長編小説を読む学生が一人でも出てきたら,嬉しいし、その人は無形の大きな財産を(つまり人生に対する大きな問題提起を)手にすることになろう。若い時の読書はそうありたいと思う。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
  • 森鴎外 「不思議な鏡」 『鴎外全集』第10巻 岩波書店 918 Mo 図書館2階
  • 井上靖 「あすなろ物語」 新潮社 913 Iy
  • ゲーテ 「若きウェルテルの悩み」 『世界文学全集』第1巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ヘッセ 「車輪の下」 『世界文学全集』第27巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「トニオ・クレエゲル」 『世界文学全集』第48巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • 阿部次郎 「三太郎の日記」 角川書店 914.6 Aj 図書館2階
  • ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」 『世界の文学』第17-18巻 中央公論社 908 S 図書館2階
  • ローラン 「ジャン・クリストフ」 『世界文学全集』第23-25巻  新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「魔の山」 『世界文学全集』第28-29巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ドストエフスキー 「罪と罰」 『世界の文学』第16巻 中央公論社 908 S 図書館2階

2013年7月19日金曜日

【TORCH Vol.025】藤沢周平と3冊の本

教授 児玉善廣

 自分の出身地,あるいはその周辺を舞台や題材にした「本」(小説に限らず)は,皆さんの中にも,数冊は思い当たるものがあるだろう。例えば,私が教員になろうと決めるきっかけとなった一冊,夏目漱石の「坊ちゃん」は愛媛県「松山」が舞台であることはよく知られている。

 私の生まれ育ったところは山形県の庄内であるが,その「庄内」を題材にした小説で,最近話題になっているのは,藤沢周平(昭和2年(1927)~平成9年(1997))の作品群である。藤沢先生(以下先生)は,現在の鶴岡市高坂出身であり,北国の小藩(海坂藩)を舞台にした時代ものはほとんど「庄内」で,特に鶴岡をイメージしていると言われている。先生の作品集が注目されはじめた出来事は数本の映画化であった。その最初の作品が「寅さん」で有名な山田洋次監督が手掛けた「たそがれ清兵衛」(出演:真田広之,宮沢りえ 2002)である。この事は皆さんよく御存じであろう。その後「蝉しぐれ」(監督:黒土三男 出演:市川染五郎,木村佳乃 2005),「武士の一分」(監督:山田洋次 出演:木村拓哉,檀 れい 2006)などが続く。実に田舎の時代劇とはいえ,先生の作品には当時の武士社会をテーマにし,「侍」と言う一つの「職業」に捉えながら人間の生き方を考えさせるべく,人間の本質と社会観を伝えようとしている様に思う。また,これらの作品に表現されている風景は,先生の原風景であると思うが,それは、私にとっても同じように原風景となって映っている。しかし,先生の作品については既に評論や解説本となって数多く出版されており,街角の本屋さんでも簡単に手に入る訳で,いまさら私の出る幕ではないと思う。(藤沢周平記念館が鶴岡公園内にあるので,是非お出かけ下さい)。

 そこで今回は,皆さんにはあまり知られていない,次の3冊の本から「庄内」を紹介したいと思う。

■ 1冊目は(1972)佐藤三郎「酒田の本間家」中央書院.

 庄内地方には2つの中心都市がある。南の鶴岡市と北の酒田市(映画「おくりびと」で話題となったロケ地)である。確かに鶴岡には鶴ヶ岡城があって,藩の中心ではあったが,酒田も江戸時代は庄内藩の一部であった。

 酒田と言えばなんといっても日本を代表する大地主,本間家を忘れるわけにはいかない。言葉に「本間様にはなれないけれど,せめてなりたや殿様に」と言われる程の本間家である(ちなみに本間家であって本間氏とは言わない)。日本一の大地主として天下に知られ,たびたび藩に献金,献上米をして藩の財政危機や飢饉に貢献した記録が残されている。酒田には昭和22年(1947)に開館した本間美術館がある。それは6000坪の広大な庭園を持つ本間家の別荘敷地に建てたものである。所蔵品は庄内藩酒井家,米沢藩上杉家からの拝領品が中心であるが,そのような品物が多いのは,それらの藩に本間家がどれだけ手助けしたかを現している。

 この本は,そのような本間家がいつ頃から酒田に居住し,どの様に財を成し,どのくらい藩や地域に貢献したかを詳しく記したものである。

■ 2冊目は(2010)佐藤賢一「新徴組」新潮社.

 まず初めに,何で新徴組が庄内と関係しているのかと疑問を抱く方が多いだろう。あるいはその前に,「新徴組」って何?ということが先かもしれない。文久3年(1863)尊王攘夷論者清河八郎(彼もたまたま庄内藩士)の発案で,江戸幕府により組織された「浪士組」の一部。将軍家茂警護のため上洛したが,近藤勇らと考えが合わず,江戸に帰ったグループである(ちなみに近藤らは,あの「新撰組」として京都に残った)。元治元年(1964)庄内藩酒井家に預けられ,江戸市中の警備を担当した。こんな言葉が残っている。「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」。「新徴組」を「御回りさん」と表現している訳だが,現在警察官を「御巡りさん」と呼ぶのはここから来ているそうな。

 幕府瓦解後「新徴組」は庄内藩に付随して庄内に入り,新政府軍と戦っている。戊辰戦争終結後,藩の石高が大きく減封されたため,藩をあげて開墾事業に取り組むが,「新徴組」もこれに従事した。現在,鶴岡市羽黒地区松ヶ岡に開墾時の組小屋として「新徴屋敷」の一部が保存されている。

 この本は,江戸,そして庄内での「新徴組」の軌跡を,組に所属していた新撰組沖田総司の義兄である沖田林太郎を主人公にして描いたものである。

■ 3冊目は(2007)佐高 信「西郷隆盛伝説」角川学芸出版.

 またまた何で?庄内藩を攻撃した新政府軍の総大将、西郷隆盛が庄内と関係するの?と思われるかもしれない。この本ではその経緯のきっかけを,鹿児島南洲墓地にある,18歳と20歳の二人の庄内藩士の墓の紹介から始めている。この墓の説明版には「明治8年,他藩士ながら特に私学校入学を許された。西南の役が起こると帰国するよう説得されたが,敢えて従軍した」とあるそうだ。従軍したとは西郷軍にである。山形庄内の地から,何故彼らは鹿児島に渡り,且つ西郷のために戦ったのであろうか?。

 戊辰戦争において庄内藩は会津落城後も,最後まで新政府軍と戦った(このあたりの経緯は前記「新徴組」が詳しい)。されど庄内藩は多勢に無勢,勇戦空しく敗れるのだが,その後の庄内藩への処置が公明寛大であり,その指図は西郷隆盛によるものであったと言う。このことから庄内藩では,西郷を仇敵変じて大恩人と思うようになるのである。

 この歴史的出来事から「西郷南洲遺訓」なるものが今に残る事になる。これは岩波文庫等でも見ることができる。41条と追加の2条を主とする,西郷隆盛の言葉や教えを集めたものである。この編纂は明治22年(1889),鹿児島の人ではなく,旧庄内藩士達の手によって行われ,全国行脚して広まったと言われている。庄内の人間は,西郷隆盛を絶対に忘れる訳にはいかないのである。

 「俺だったら庄内藩とだけは喧嘩しねぇな。”ぼんやり顔”に騙されっちまうが,鶴岡の人間てなぁ,どっか切れてやがるからな。・・・(略)あんたらも勝ったからって,あんまり調子に乗らねぇほうがいいぜ。こちとら腹の奥では,負けたなんて思ってねぇんだからよ」。2冊目の「新徴組」の終りの方で,主人公の沖田林太郎が西郷隆盛と鶴岡の街中で出会って,こんな言葉を彼に言っている(沖田はその時,西郷が薩摩藩の人間とは思っているが,西郷隆盛本人だったとは判っていない。しかし,本当に出会ったかどうかは定かではない。)。ちなみに,沖田は江戸生まれなので「べらんめぇ」口調ではあったが,その言い回しは幸いにして,鶴岡庶(民)の性分を理解する上で非常に解り易い表現になった言葉のように私は思う・・・・・・。

2013年7月12日金曜日

【TORCH Vol.024】クリエイティブ・コーチング

助教 桑原康平

皆さんは「コーチング」ということばを聞くと、何を思い浮かべるでしょうか?

スポーツに関わっている人ならば多くの人が耳にしたことのある言葉だと思いますが、案外その意味は知らない人が多いのではないでしょうか?そもそも「コーチ(Coach)」とは馬車を意味していて、馬車が人を目的地に運ぶところから「コーチングを受ける人を目標達成に導く人」を指すようになったと言われています。また、コーチングではモチベーションを重視し、主体的な学びを促すことを目的としています。近年ではスポーツにとどまらず、ビジネスの世界でも多く用いられるようになっている人材育成方法です。

しかし、我々教員や学生の皆さんが多く関わっている日本における教育、あるいはスポーツ指導の現場ではどうでしょうか?昨今騒がれている体罰問題が象徴するように、相変わらず知識や技術を伝達すること=コーチングという考え方が根強く残っているような気がします。

個人的な見解ですが、スポーツを例に挙げると、日本のスポーツ指導は管理的な側面が強く、一定の技術を身に付けさせるには効果的な指導といえますが、外部環境が変化し続けるスポーツ(オープンスキルが必要とされるスポーツ)においては効果的な指導をしているとはいえません。なぜならば、指導者が全ての外部環境の変化を把握して対策を選手に講じること、すなわち管理することなど不可能だからです。

それではどうすればいいのか?指導者は、選手にあらゆる外部環境の変化を提示できない代わりに、変化に対応できる人間の育成を図ればいいのです。少し具体的にすると、時々刻々と変化する外部環境に対してその都度適切な判断を下し、行動する人間を育てればいいのです。スポーツのことばでいうと、状況判断力の高い選手を育成することがそれに当てはまると思われます。

と、ここまでは多くの本に書かれていることなのですが、今回紹介する図書には、その先の具体的なコーチングの例やそれに関わる提言がなされています。私自身、指導の現場に日々関わっている者の一人であり、この本を読むと、「うんうん」と共感できることだったり、「そんな考え方もできるか」という新しい発見があったりと、本をあまり読まない私でも興味深く読むことができる一冊でした。コーチングの現場を記した良書ですので、スポーツ指導者を目指す学生には特に参考にして欲しいと思います。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
  • ジェリー・リンチ著 「選手の潜在能力を引き出すクリエイティブ・コーチング」 大修館書店 780.7 Ly  図書館1階

2013年7月8日月曜日

【TORCH Vol.023】オリンピア


内野秀哲

 ブログスタイルとの事でしたので、とりあえずブログ向けの表現で、私が大学院生であった頃のお話を書きたいと思います。

 私には不似合いだった(!?) であろうとは思いますが、大学院生の頃から古代ギリシャとソクラテスにあらためて関心を持つようになりました。どうしても手に入れたかった4冊の新書を探して、何度と無く古本屋巡りもしました。この4冊は、「ソクラテス」、「ソフィスト」、「ロゴスとイデア」、「オリンピア」です。このうち1冊は中房敏朗先生から、そしてもう1冊は茅野良男先生から頂きました。またもう1冊は自分で見つけましたが、有難いことにこの3冊は新品で、再版を待たずにとても良い状態で手に入れることができました。

 ソクラテスの世界は私のような不勉強な素人には語れることなどもありませんし、また安易に美徳化できる話題でもありません。しかし、これらの本を読むたびに、私が思い悩みながら過ごしている現代と古代ギリシャとにある共通性が浮かび、ソクラテスに纏わる話には、なにか自分自身への問いがあるようにも思えます。

 東大の卒業式に「肥った~より痩せたソクラテスであれ」という式辞告辞があったと聞きました。この言葉の原文は"It better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied."であり、当時の東大総長がこの部分の和訳を引用した、というのが正確なところであるようです。このことを知り、私も痩せても枯れてもソクラテスでありたいと思いはしましたが、それでもドラマチックな人生を好んで歩くことは、決して賢い選択ではありません。

 古代ギリシャとソクラテスに関心が向いたのは、大学院の講義で学んだ人間学・人間科学と、本学元学長の粂野豊先生が記された数多くの書類によって(業務上ではありましたが)、体育・スポーツの分野から学んだ人間(科)学と、それらが結びつきあって大きな関心になったのだろうと思います。

 さらに、体育系である学生の皆さんにとっては、この時代に古代オリンピックの背景があるということだけでも、古代ギリシャと哲学(美学)に関心を持つ意味があると思います。粂野先生は我々に「正直者が馬鹿を見るような世の中であってはいけない」とおっしゃいました。すべての競技のルールに、この哲学(美学)があると思いますが、一度そんな風に考えてみてはいかがでしょうか。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>


  • 田中美知太郎 「ソクラテス」 岩波新書 131 Tm  図書館2階
  • 村川堅太郎 「オリンピア」 中公新書 780.69 Mk  図書館1階

【TORCH Vol.022】『Le Petit Prince』


教授 大山さく子

「星の王子さま」というタイトルやメルヘンチックな挿絵に騙されてはいけませぬ。

『いちばん大切なことは、目に見えない。』

いつの頃からか大切なものを何気に忘れてしまっているのだろう。小さかった子供の時って何が大切だったんだろう。この物語は、それが思い出せなくなっても、また大切なものが見つかった時に読み返すと再認識させてくれる。子供だった自分、あの頃に戻れる一冊なのです。

「一期一会」日々いろんな人達と出会い、私たちは生かされている。」
「心で見るんだよ、目には見えないからね。」

私は、少女期にこの物語と出会い、人によって物の見方が違い、自分の物差しで見てはいけない、そして想像力の大切さを知りましたが、正直、登場人物の支離滅裂かつ単純な言葉のやりとりに意味が判らずにいた記憶があります。

次に青年期にこの物語を読み返して、その発言や行動から見えてくるもの、言葉の重さと痛さを知り、じんわりと私の心に染みわたりました。

そして、壮年期に私が出会った人の言葉に、再びこの本を真面目に読むきっかけを得て、言葉の意味、物語の裏に隠されたものを想像し、心にある温かさと冷たさを知りました。今の自分が失くしてしまったものに気づきました。

私にとっては、躓いた時、自分を見詰め直す時に、繰り返し読む大切な一冊です。新たに言葉の意の発見、歳を重ねる毎、定期的に繰り返すほどに、未だ全く違う世界を教えてくれる不思議な一冊となっています。

個人的には、これは大人の本であると思っており、どこの本屋さんに行っても何故児童文学書棚にあることに未だ理解が出来ておりません。何時になっても人としての「基本の基」を考えさせられる一冊なのです。タイトルや挿絵に油断をしてはなりません。目に見えない大切なものを時を超え、歳相応に教え続けてくれます。

文章に書くと実は深過ぎて哲学的になってしまうのですが、とっても単純な文章を並べており数時間で読める本です。

この一冊の魅力に全世界で8000万部、日本で600万部の不巧な名作と云われる理由、いろんな人が翻訳を発表されていること。アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリが描いた文章を翻訳する人によって伝え方の違い、思い入れの違い、単純な文章の中に大切さを感じる事に出逢えます。

もう一つの楽しみ方、今なおこうして愛されているサン・テグジュペリは、各地にミュージアムが建設されており、それを巡り覗き観るのも素敵なことです。私も伊豆にあるミュージアムに出掛けた事がありますが、拝観している人達を観ているだけで同じ感動を受けた同士と勝手に想い、何故か温かい幸せな時間を過ごした記憶を覚えております。また、作者のサン・テグジュペリの生き様を探り、彼の願いを知るのも面白い一考であります。

もう一つの魅力、絵本でもないのに挿絵も素敵で色んな人が描いています。本屋さんの洋書フェアで海外の作家の挿絵の本を発見すると心躍ります。定期的に読み込んでくると、先のミュージアムで購入した挿絵の葉書を見るだけで、一日一日がとても大きな存在で些細な事で悩んでいる自分に気づかされます。

そして最後に、私達は世界で唯一の被爆国であること、2年前の3.11あの悲惨な震災を体験した被災者「語り部」なのです。

今、貴方にとって一番大切なことはなんですか

出会いと別れ、生と死、私は人との巡り合わせとは偶然ではなく、必然性があるものと想っています。

3.11あの時、私たちは「幸せ」についてどれほど考えたでしょう。

「夜になったら星を見上げる。そのどれか一つに、貴方がいるから。それだけで幸せになれる。」

純粋な素直さ、個性や想像力の大切さ、大切な人、ふるさとの良さ、絆を結ぶことの意味、これまで気に止めていなかった事が煌きに変わり、心を満たす。目には見えないけれど、かけがえのない絆の大切さ、希望を持つか持たないかで世界観は変わる。これは、きっと作者の願いでもあり、私たちは貴重な経験となったのです。

考え方、想い方は読み手により十人十色ですが、きっとこの物語は、「いちばん大切なこと」を、そっと教えてくれる大切な言葉が詰まっている「深いぃ物語」です。

「幸福な味を知りたくありませんか」人と接する為の素敵なキーワードに出逢えます。

きっと自分の何かが変わります。私がそうであったように・・・
私も本棚から取り出して、もう一度読み返すことにしました。
読むのは「今でしょ!」一読あれ・・・。
星の王子さまの信派

「人生を最高に旅せよ」/ニーチェの言葉より

【TORCH Vol.021】『物語』を読む ~千と千尋の神隠しより~


  准教授 菊地直子

 みなさんは宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を読んだこと、または映画を観たことはありますか?この作品は、日常生活とは異なる不可思議な場面が設定されていたり、不可解な生き物が登場したりと、ある意味非常に難解であったにもかかわらず、発表当時から大変多くの人に支持され続けている作品です。それではなぜ、それほど多くの人々に感銘を与えたのでしょうか。少し、心理学的にこの作品を見てみましょう。今回は物語を一つの視点を持って見つめることで新たな読みの方向性を探ってみたいと思います。

 この物語は、10歳前後の平凡な女の子(千尋)が、親の都合による不本意な転校を余儀なくされ、まさに「ぶーたれている」場面から始まります。転校先の土地(不案内の土地)に行こうとして道に迷い、不気味なトンネルをくぐって現実とは異なる世界に踏み込みます。これまで経験したことのない世界に足を踏み入れる時、【トンネル】や【下っていく階段】、【水底】などは心理学的には象徴的なモチーフで、心理的な危機に立っている人が自身の深いところに接近する時には「夢」として現れることがあります。心理学的に見てみると、この作品は思春期に差しかかった少女の心理的な発達と現代社会の病理を描いた物語と捉えることができそうです。では、もう少し詳しくこの物語を見ていきましょう。

 千尋の両親はトンネルをくぐってすぐに、この不可思議な世界を自分の了解する世界と見做して「後でお金を払えばいい」と屋台のものを勝手に食べ、豚に変わってしまいます。千尋は、今いる世界の不気味さにおののき、両親が豚になったため(守ってくれなくなり)途方にくれます。そこに、ハクという謎の男の子が登場して千尋を湯婆婆が経営する「油屋」に連れていきます。そこで千尋は、「働かないものは生きていけない」ことを知ります。これまでの「親」という絶対的な価値観や守りがなくなり、千尋は自分で何でもしなくてはならなくなります。「油屋」でのエピソードは、自立への課題の一つとして「働くこと」が内在化されていく過程のようです。ハクは物語の最後まで重要な役割を果たしますが、人間が成長する(新しい世界を知る)時に、異性がその橋渡しをすることが多いことは、私たちは経験的に知っているのではないでしょうか。

 千尋は、生きるために、そして両親を救うために湯婆婆と契約して働くことになりますが、その際に名前を奪われ、「千」と呼ばれることになります。「油屋」は、その名前に似ず神々の疲れをいやす湯殿であり、お休み処です。強欲な湯婆婆は、経営者としては非常に有能な手腕を発揮していますが、湯婆婆の息子(坊)は、からだばかりが大きくなった手に負えない子供として登場し、(後にハクが指摘するのですが)本当に大切なものが見えなくなっている、過保護な(スポイルする)母親像でもあることが明らかになります。

 この物語には様々な人々(?)が登場します。後半、湯婆婆の双子の姉である銭婆が登場しますが、彼女は「沼の底」駅近くに住み、湯婆婆とは正反対の価値観を持つ者、「育む者」として重要な役割を担います。「あたしらはふたりで一人前なのにね」という銭婆の言葉通り、彼女たちは「母性」の持つ二つの側面を暗示しています。一方、油屋を根底から支えているのが釜爺です。(家庭のために)毎日釜の火を焚き黙々と働いていますが、子供にとっての社会との窓口となって道を示すなどします。必要な時に重みのある言葉を言ってくれる存在であり、父性を象徴していると言えます。釜爺とのかかわりの中で、「世話になったらお礼を言うんだ」と、当たり前のことを当たり前にやることを教えられ、千尋が社会に開かれる場面も垣間見えます。

 ある日、’カオナシ’があらわれ、千尋は客と間違えて油屋にいれてしまいます。この’カオナシ’は何を象徴しているのでしょうか。顔を持たない(何者でもない)者であり、他人を飲みこんで(同一化)他人の声で語ったり、他人の価値基準(たとえばお金)をそのまま鵜呑みにしてふるまったり、思い通りにならないと暴発してしまったり。油屋の中で虚飾の中を生きてみてもその虚しさ・寂しさから、本当に必要なものを求める姿(千尋)にあこがれます。しかし、拒絶されると、なんとか千尋を自分と同じ水準にまで落としたいと籠絡することを試みたりもします。この’カオナシ’の存在は、大人の世界との折り合いや思春期課題の難しさを投影しているのかもしれません。このほか「ハク」や「腐れ神」、「油屋」、そして奪われた「名前」を取り戻すことなど、意味のある人物やエピソードは枚挙にいとまがありません。いずれにしてもこの物語は、ある少女が非常に危険な体験を伴いながらも様々な人々との出会い、自立していく過程を描いた「成長の物語」であり、子供が大人社会に適応していく難しさをも感じさせてくれる物語となっています。

 「鶴の恩返し」などの日本古来から伝わっている昔話や、ヨーロッパのイソップ物語など、長い間語り継がれてきた類の物語や人の心に残る『名作』といわれる作品には、われわれ人間が共通に経験するような普遍的テーマが織り込まれています。もしかするとそのような物語を読むことを通して、私たち読者は自分自身の物語を読んでいるのかもしれません。『千と千尋の神隠し』には、数々の神話のモチーフが盛り込まれており、ここで紹介した見方のほかにも様々な解釈や、例えば精神分析的視点から読み解く試みなどもあります。

 「読む」とは決して受け身的なものではなく、むしろ積極的で主体的な言語活動です。みなさんもいろいろな視点を持って「物語」を読んでみてはいかがですか?

2013年6月8日土曜日

【TORCH Vol.020】一期一会・よい本との出会いを求めて

教授 太田四郎
はじめに
 日本が子どもの読書活動の推進に一段と力を入れ始めたのは、学生諸君が小学校低学年の頃でした。平成12年の「子ども読書年」を契機に読書の重要性がより強く叫ばれるようになり、読書することがそれまで以上に奨励され、読書活動への取り組みが強化されました。以下は読書活動にまつわる話です。将来、教員やスポーツ指導者、介護福祉士、栄養士、情報関連の仕事、人々の安心・安全を守る仕事などに就き、リーダーとなる学生諸君に向けて書かせていただきます。

1 読書奨励の意味
 読書の重要性については古今東西変わっていませんし、読書は常に奨励されていました。しかし、平成13年以降、読書活動がより積極的により具体的に推進されるようになりました。その理由の一つは、時代の趨勢により活字文化離れが急速に進んだこと、二つ目は、昭和62年8月までに中曽根内閣時の臨教審答申が、今後予想される日本の大きな変化として示した、国際化、情報化、少子・高齢化、価値観の多様化、核家族化などのうち、とりわけ国際化、情報化に著しい進展が見られたことです。読書活動推進はこのような日本の現状に対応したものと考えられます。
 読書活動は、知識の獲得のほかに、日本文化や国際文化の理解、様々な価値観への判断力の涵養、心の時代といわれる21世紀を生き抜くための豊かな感性の陶冶などに役立ちます。これは、小・中は平成20年3月、高校は平成21年3月に告示された学習指導要領の総則に初めてもりこまれた「言語活動」の根幹をなすものともいえます。

2 子ども読書の日と読書週間
 平成13年12月12日、議員立法として「子どもの読書活動の推進に関する法律」が制定、施行され、「子ども読書の日」が4月23日と定められました。これと併せて、昭和34年以来5月1日から5月14日までの2週間だった読書週間も、4月23日から5月12日までの3週間に延長されました。

3 朝の読書
 学生諸君は、この「朝の読書」ということばにどんな思い出がありますか。昨年12月、3年のA君が、エントリーシートを見てほしいということで来室しました。そのときのエントリーシートで印象に残ったことが二つありました。一つは、それぞれの自己PRの欄に項を立てて見やすくしていること、もう一つは、趣味・特技の欄の項の中に「朝の読書」があったことです。A君はほどなくその会社に内定しました。
 千葉県の船橋学園女子高校(現・東葉高校)の先生が提唱・実践した「朝の読書」が全国的なひろがりを見せたのは平成9年です。授業前の10分程度、子どもと先生が一緒に本を読むという読書活動は、先の議員立法が制定される以前から実践されていました。この頃、学生諸君は小学生だったのではないでしょうか。おそらく最も早い時期にこの「朝の読書」を体験した学生諸君がいることでしょう。そして、A君のように現在も続けている人がいると思います。
 ちなみに、「朝の読書」は、平成25年2月22日の調査によると、全国の小・中・高の76%に当たる2万7656校で実施されているということです。文科省が「朝の読書」を推奨したのは申すまでもありません。

4 図書館
 言うまでもなく読書活動を支えるのが図書館の大きな役割の一つです。文科省は、図書館を充実させるため、平成13年に、「あいさつのできる子」、「正しい姿勢」という従来の教育運動方針に「朝の読書運動」を加えて三本柱とし、5年計画で地方交付税ではあるものの1,000億円を図書購入の費用として支援することにしたのです。文科省のこのような支援にもかかわらず、全国的には図書館はそれほど充実していないと言われています。それは、地方自治体の図書購入費への予算配分が不十分だったからです。
 本学の図書館についてはどうでしょう。蔵書については、体育・スポーツ関連図書を中心に学生諸君の期待に十分応えられる書籍を有していますし、内部の構造については、開架式で書架の配置も使いやすくなっていること、中央の螺旋状の階段から2階に移動する独特のつくりになっていること、閲覧のための座席の配列に多くの工夫が施されていることなどの素晴らしい特色があります。法人を始めとして本学の図書館にかかわって来られた方々の努力の結果だと思います。利用している学生諸君のマナーもよく、週2、3回は図書館に足を運びますが、いつ行っても静かな雰囲気の中で読書や学習にいそしむ姿が見られます。

5 推薦図書
 様々な種類の本の中で小説は最も親しまれているジャンルの一つです。私が、高校の教員だった頃、この一冊として薦めていたのは、テーマの広大さから、トルストイの『戦争と平和』です。小説には、それぞれにテーマがあります。例えば、『源氏物語』には「もののあはれ」、『罪と罰』には題名のとおりのもの、『大地』には激動する時代に翻弄される王家の人々の生きる姿、などなどです。
 それでは『戦争と平和』にはどんなテーマがあるのでしょうか。私は、学生時代にこの作品を読みました。そのときの感想は、<宇宙の一つの星である地球に生きる人間の姿のすべてが愛をもって書かれた作品>だったと記憶しています。私は、これをテーマと考えています。先日、久し振りに、図書館から『戦争と平和』中村白葉訳・河出書房新社〔世界文学全集NO21、22、23〕を借りました。特に、ナターシャが初めて登場する場面とアンドレイがナポレオン戦争で負傷し地面に仰臥して広大な青空を眺めたときの様子が印象に残っていたのでそこを中心に読み返しました。改めてこの作品の素晴らしさを認識しました。どんな登場人物でも生き生きと描写し、人々の生活を優しく、緻密に描きながら、その背後に跋扈する戦争のむなしさ、おろかさを訴えていました。迫力ある訳文で、相当体力がないと読了できません。

おわりに
 一期一会・よい本との出会いを求めて読書に邁進できるのは学生時代です。安岡正篤先生の「大学」「小学」の講義をまとめた『人物を創る』の中に「顔之推の家訓に言う、<一体書を読み学問する所以は何かと言えば、もともと本当の心を開き、見る目を明らかにして、実践することに活発ならんことを欲するだけのことである。>」という文があります。本学の建学の精神である「実学と創意工夫」を想起させる文言です。読書のあり方の一つとして大切にしたいものです。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 『戦争と平和』トルストイ 世界文学全集 第21巻~第23巻 河出書房新 908 Ka 2階
  • 『罪と罰』ドストエフスキー 世界文学全集 第17巻 新潮社 908 Si 2階 
  • 『源氏物語』新日本古典文学大系 第19巻~23巻 岩波書店 918 Iw 2階

【TORCH Vol.019】中長距離走と主体性

助教 門野洋介

2011年9月のベルリンマラソン。当時の世界記録保持者ハイレ・ゲブレセラシエ(2時間3分59秒,エチオピア)とパトリック・マカウ(ケニア)が,スタート直後から世界新記録ペースで激しいデッドヒートを繰り広げていた。
「勝負が大きく動いたのは27km地点。マカウが仕掛けた。ゲブレセラシエが背後にピッタリとついていたのを嫌い,コース上を左に右にジグザグに走ったかと思うと,次の瞬間,猛烈なスパートをかけて一気に引き離しにかかった。それに対して必死にペースを上げるゲブレセラシエ。しかし,その直後,彼はコースアウトし,苦しそうな表情を浮かべながら,手で胸を押さえつけた。・・・
42.195kmを走っている時は,周りがどんな様子かを見ながら,多くの戦術を駆使しなければなりません。例えば,僕が速いペースで走れないフリをしたら,相手はどう思うでしょう? 相手は『僕には余りエネルギーがない』と思って,追い抜こうとします。当然,追い抜くためには,体に大きな負担がかかります。つまり,相手は多くのエネルギーを使って抜き去ろうとしますが,それはある意味で,相手の体力を浪費させる戦術になります。・・・
(NHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」角川書店より抜粋)」
27km地点でゲブレセラシエを振り切ったマカウは,30km以降もスピードが衰えることがない。
「30kmを過ぎ,一人で走っている時は,自分のペース配分により集中しなければなりませんでした。エネルギーはありましたが,ペースを維持するのはとても大変でした。なぜなら,遅すぎれば世界記録を達成できなかったでしょうし,速すぎても途中で疲れて達成できなかったでしょう。だから,ある一定のペースを維持することに集中しなければならず,それを頭で計算して足で実践するのは本当に大変でした。特に,最後の2kmは多くの観衆がいます。そこで,観衆に乗せられて必要以上にスピードを上げてしまうとペースが乱れるため,スピードをおさえるために苦労しました。・・・
(NHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」
角川書店より抜粋)」
マカウは30km以降もペースを落とすことなく走り抜き,2時間3分38秒の世界新記録で優勝した。一見単なる持久力勝負にみえるマラソンであるが,実はそう単純な競技ではない。選手やコーチは,目標とする成績を収めるために,レース中に起こりうるあらゆる事態を想定して様々な準備を行なう。それは,トレーニングやコンディショニングに関することはもちろん,レースの作戦や戦術の考案まで多岐に渡る。そしてレースでは,選手自身が感じる主観的なキツさや余力度,周りの選手の状況,ペース配分,ゴールまでの距離,気温や風,給水など,時々刻々と変化する自分や周りの状況を正確に把握し,その状況に応じて適切な判断を下すことにより,自らのパフォーマンスを最適化することが要求される。しかも,個人競技である陸上競技では(リレーや駅伝を除く),最終的に競技するのは選手一人なので,基本的にはこれらの思考・判断を選手自身が「主体的に」行わなくてはならない。

さて,私は現在陸上競技部で監督・中長距離コーチをしており,主に中長距離種目が専門の学生を指導しているが,上述の種目特性はもちろん,相手が学生であるという点も考慮し,なるべく学生自身が主体的に考えて取り組めるよう,試行錯誤しながら指導をしている。ところで,この「主体性」はどのようにして教えられるのだろうか。例えば,学生に対して「主体的にやりなさい」と言ったところで,彼らは「主体的に」できるようになるものではない。かといって,こちらが教えれば教えるほど,彼らはますます受動的になり,「主体性」を失っていく。では一体,「主体性」はいかにして教えられるのか。そもそも「主体性」とは何なのだろうか。その「主体性」について,医学教育を例に考察している興味深い本があったので,以下にその一部を抜粋して紹介する。
「過去にあった事例Aを目の前の事例Bに適用する。この帰納的な方法は,我々医者がしばしば用いる常套手段である。が,しかし,ある帰納法が有効であるという根拠はどこにもない。帰納法は有効な時も無効な時もある(ちなみに,演繹法にしてもこれは同じで,有効な場合とそうでないときがある)。そして,どういうときに帰納法が有効で,どういうときに無効かを言い当てる根源的な方法は,ない。・・・
AとBの違い。両者を区別することは,過去の事例にすがるのではなく,目の前の患者を診,そして判断を下すよりほかにない。AのときにはなかったBの特徴を見出すよりほかない。患者の問題がどこにあるのか,自らの力で「主体的に」考えなくてはならないのだ。・・・
事例に応じて立場をコロコロ変えていく節操のなさが,医療においては大切な態度となる。逆に一貫した,「常に」同じという硬直的な態度は,複雑であいまいな医療の世界にはうまくフィットしない。医学の世界ではあり世界観に固定されないほうがよいのだ。世界観の固定は思考停止と同義である。どの世界観が今このときの目の前の患者に一番フィットするのか,常に考え続けなければならない。世界観の固定,思考停止は複雑で曖昧な医療・医学の世界にはそぐわない。・・・
主体的に学ぶとは,自らが自分の意志で学ぶことである。思考停止に陥ることなく,「ほんとうにそうだろうか」と前提を問い続け,考え続ける態度で学ぶことである。したがって,そこには誤謬が伴わなければならない。なぜなら,思考を重ねることは試行錯誤を重ねることであり,思考の果てには必ず「誤謬」があるからである。ああでもなく,こうでもなく,と試行錯誤を繰り返し,誤謬を重ねながら,正解の見えない正解を模索していくのが,主体的に学ぶということだからである。
(岩田健太郎「主体性は教えられるか」筑摩選書より抜粋)」
興味を持たれた方は,先に紹介したNHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」角川書店とともに,ぜひ一読されたい。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  •  『42.195Kmの科学 − 「つま先着地」vs「かかと着地」』 NHKスペシャル取材班 角川Oneテーマ21新書 角川書店 782.3 Nh 1階新書コーナー

【TORCH Vol.018】バカの壁

講師 岩田 純

私が仙台大学に来てから、ある先生に薦められて読んだ本です。2003年のベストセラーと言われる本で、「世の中で起こった出来事」や「物事の考え方」などを“なるほど”とか“そんな見方もあるのか”などと思わせるような視点で書いてあります。

読んだ人によってどう感じるかは違うと思いますが、例えば、将来の事など何かに行き詰まったり、今の生活に疑問を感じていたりする人には、何かのきっかけ作りになるかもしれません。著者の話を出版社の人が文章にしたもので、比較的読みやすく書いてあると思います。

仕事が忙しくて、ニュースもろくに見ていなかった頃、世の中のことに目を向けてみるきっかけ作りにもなりました。本の中に出てくる世の中で起こった出来事については少し古い内容もありますが、とにかくおもしろいと思います。

「超バカの壁(2006年)」は「バカの壁」の続編ですが、場合によってはこちらのほうがわかりやすいかもしれません。それら2つの本の間に「死の壁」という本も出ています。こちらはまだ読んでいませんが、近いうちに読んでみるつもりです。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 「バカの壁」 養老孟司 新潮新書 304 Yt  図書館2階
  • 「超バカの壁」養老孟司 新潮新書 (現在は所蔵なし)


2013年5月22日水曜日

【TORCH Vol.017】「博士の愛した数式」


教授 大内悦夫

 私は、高等学校の教員として25年間にわたり数学を教えてきた。諸君に、苦手な教科は何かという質問をすると、多くの人が「数学」を第1番目にあげると思う。数学に携わってきた者としては寂しい限りであるが、「数学嫌い」という人たちをつくり上げたのは、私のような指導者の責任でもあると思っている。「数学嫌い」の原因を追求するのはこのぐらいにして、本来の本の紹介に入ることにする。

 ここで紹介する本は「博士の愛した数式」である。作家小川洋子(芥川賞をとった作家で、毎週日曜日の10時からdate FM仙台で名作を紹介する番組を担当している。こういう番組も聞いてみてはいかがかな。)が10年前に発表した小説で、第1回の本屋大賞を受賞している。また、映画化もされているので内容を知っている人もいると思う。数学を教える人たち(数学者や教師)が書いた本は、数学の専門的な知識が必要な場合が多く、一般にはなかなか読者とはなり得ないが、この本はそうした態度をとらない。従って本屋大賞を受賞することになったのであろう。

 この作品は新潮文庫の解説にもあるが、小川が数学者の藤原正彦に取材して書いたものであり、そのときの取材ぶりを藤原は、「携えたノートに質問事項がびっしり書いてあり、次々と質問を投げかけてきた。新聞記者や雑誌記者などと違い、録音はしていなかった。・・大学院生のような熱心さの合間に、時折、数学界の巨星ガウスに似た鋭い視線を私に送ったり、かと思うと夢見る乙女のような眼差しで微笑んだりした。」と書いている。質問の内容については覚えていないが、数学者としてごく当たり前のことばかり答えたようであると語っている。(数学者藤原正彦についても触れておきたい。お茶の水女子大学名誉教授であり、父は著名な作家の新田次郎である。父の才能をも受け継いだのであろうが、数学を研究する以外にも、多くのエッセイを著している。興味のある人は図書館等で探してみてはどうか。)

 小川はこの取材をしてから1年半後にこの作品を発表している。私がこの本に出会ったとき、数学を教えている自分が、それまで知らなかった数学の知識を吸収することになって、多少自己嫌悪に陥ったことを思い出す。藤原は、自分の専門である「数論」に関連することを小川に伝え、小川は、藤原から聞いた数学の内容を整理し、独特の感性で「数学の美学」を表した作品であると思っている。機会があったら読んでみてほしい。

  以上で「博士の愛した数式」についての話は終わるが、私自身は歴史小説も好きで、山岡荘八の「徳川家康」(とっても長い)や藤沢周平、司馬遼太郎の作品を読んでいる。
諸君も活字に触れ、様々な教養を身につけてほしいと思っている。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 山岡荘八「織田信長」『現代長編文学全集』23-24巻 918 書庫
  • 司馬遼太郎「妖怪 / 酔って候」『現代長編文学全集』45巻 918 書庫
  • 司馬遼太郎「梟の城 / 新撰組血風録(抄)」『現代長編文学全集』46巻 918 書庫
  • 司馬遼太郎「坂の上の雲」1巻のみ所蔵 913.6 Sr 図書館2階

2013年5月13日月曜日

【TORCH Vol.016】「言葉の力」を通して「生きる力」を高めよう!


准教授 笠原 岳人

「読書離れ」が進むと、社会の活力や創造性も低下していくのではないか… こういった危機感から、より読書をすすめるために国会で決議され、2010年に「国民読書年」が制定された。読書に対する国民意識が高まりを見せている昨今であるが、その具体的な取り組みとして…

東京都では、「活字離れ」を回避するため、局部署による横断的な「『活字離れ』対策検討チーム」を立ち上げ、活字の大切さを改めて見直すとともに、世界基準とされる「言語力」の向上を通じて、世界で活躍できる若者を育成すべく「言葉の力」再生プロジェクトが実施されている。

文部科学省では、次代を担う子どもたちに向けて、これからの社会において必要となる「生きる力」を育むための新学習指導要領をスタートさせた。以下に記した内容は、小学校版の言語活動の充実に関する指導事例集に記されている主要項目からの抜粋である。

  • 事実等を正確に理解すること
  • 他者に的確に分かりやすく伝えること
  • 事実等を解釈し、説明することにより自分の考えを深めること
  • 考えを伝え合うことで、自分の考えや集団の考えを発展させること
  • 互いの存在についての理解を深め、尊重していくこと
  • 感じたことを言葉にしたり、それらの言葉を交流したりすること

(第2章 言語の役割を踏まえた言語活動の充実より)

このように、公の機関が、そろって「言葉の力」を通して「生きる力」を高めようとする試みの背景には一体何があるのか?

この世に生を受けたヒトは、始めに覚える言葉として「ま」「ぱ」などの破裂音を使いながら、「まんま」「ママ」などの発語からスタートする。そして、幼児期、少年期、青年期…を通して、多くの言葉を読み書きしながら社会の中で「生きる力」を確立していく。しかし、最近の学校現場では、子どもたちの「読む・聞く・書く・話す」といった国語力の低下が、より深刻化しているようである。公の機関が行う取り組みの背景には、子供たちのコミュニケーション力の低下、論理的思考能力の低下、創造力の低下…といった「言葉の力」全体が低下し、それによって子供たちの「生きる力」そのもの崩壊を招いてしまうのでは…と、危惧している証かもしれない。

では、これから社会の一躍を担う大学生の「国語力」はどうだろうか?街中では、大学生はもちろんのこと20代の若者たちの多くが、紙媒体にふれることはなく携帯メールや、DSおよびiPodなどの電子媒体のみに没頭している姿を目にする。このままでは、出版社も新聞社もあっという間に絶滅してしまい、紙媒体の本も新聞も地球上からきれいさっぱりと消滅してしまうかもしれない。そうなれば未来の人々は、いずれ電子画面の上だけで文字を読むようになるにちがいないであろう。そう思うと少々暗澹たる気分になってしまうが… せめて、教員や指導者を目指す学生だけでも本を読む楽しさや意義を理解し、彼らの教え子となる子供たちへ本の持つ素晴らしさを継承してもらえさえすれば、人類の未来はいずれ明るく輝くようになるかもしれないではないか…

社会人目前の学生諸君には、宮台真司の「14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に」という本を一読していただきたい。タイトルの「14歳から…」とはいえ、大学生でも十分ためになる書籍である。内容の一部を紹介すると、第4章の「君が将来就く仕事と生活について」が印象的である。筆者は、これから社会に出て仕事に就く若者に「自己実現できる仕事があるという考えを捨てろ、そうじゃなく、どんな仕事でも“自分流”にこだわることだけを考えろ」と警告している… では、色々な受け取り方のできる“自分流”とはいったいどのようなことなのか?

パソコンや携帯電話が大衆化していない一昔前の話しであるが、社会人となった若者たちに対し、「真っ先に感じる学生時代との違いは」と問いたところ、その多くが「周りは全て自分よりも年上である」との回答であった。当たり前のことであるが、百戦錬磨の大人たちと肩を並べ、仕事を通して自分の存在を認めてもらうには、一日も早く多くの知識を吸収することであり、そのためには、色々な事柄を“自分流”に調べ上げ、そして必死で覚えたものである。つまり、そこで得ることのできた知識や技術などの集積が、自分自身の「生きる力」の糧になっていたのである。

これに対して、情報化社会で生活する現代の若者たちの多くは、自分の興味のあることについては「オタク」と呼ばれるほどに情報を収集するが、それ以外のことへの関心はきわめて希薄な人たちが目立つことである。つまり、自分の幅を広げて成長することより、安全圏を確保してその内側に収まっていることのほうを優先する人たちが多いというのが気がかりなことである。だから彼らは、ストーリーを追っただけのダイジェストと、平均的な解釈を述べた解説を読んで満足し、その向こう側(大人たちの世界)へ踏み込もうとはしないのではないだろうか…

このような若者たちの態度が、大人たちとのつき合い方に大きく反映しているのであれば、社会生活を営むうえで、大きな歪みが生じてくるのではないだろうか? 今の若者たちをみる大人たちの偏見だろうか…

流行語ともいうべき「空気を読む」とは、自分を多数派に同調させてワクをはみ出さないこと、つまり、その場をお互いの安全圏として維持し、「つき合い」を続けるための知恵である。強い自己主張や他人への過度の干渉は、「KY」として排斥される傾向にある。こうしてみると、「活字離れ」と見られる現象の根底にあるのは、他人との濃密な関係を嫌う「他者離れ」があるのでは…と考えてしまう。何とも、もったいない話しである。若者たちよ… せっかく、ヒトとしてこの世に生を受けて育ってきたのだから、もっと「言葉の力」を信じようではないか!

本稿の最後になるが、私自身、大学生活の4年間というのは、厳しい世の中で生きていくために必要な“知識や技術”を修得するための時期であると同時に、自分自身の秘めたる“ブランド力”をより高めることができる最高の時期であると思っている。そこで、是非とも学生時代に以下に記した書籍に目を通していただき、「言葉の力」を通して「生きる力」を養い、そして、ヒトとして大きく羽ばたいてくれることを願っている。

  • 「人を動かす」デール カーネギー 創元社
  • 「人間学」伊藤 肇 PHP文庫
  • 「人間力を高める読書案内」三輪裕範 ディスカヴァー携書 
  • 「進化する人、しない人」竹野 輝之 角川学芸出版

2013年4月5日金曜日

【TORCH Vol.015】人それぞれにあった読書から得る“灯”


教授 遠藤保雄

 率直にいって、私は読書が苦手だ。いやむしろ嫌いだと言ってよい。小さい時に我が家に本らしい本が一冊もなく本を読みふけったなどという記憶はない。それ以上に自らの性格がそもそもブキッチョなことも影響している。本を読み始めると自分の感性にあった表現に出会うやそこで立ち止まりあれやこれや考え込んでしまう。そして、遂には自らの考え方を整理しはじめる。もちろん、先には進まなくなり、一冊読み終えるのに相当の時間を要してしまう。その結果、読書とは難行苦行を意味し、否が上にも好きといえない作業となる。

 読書に目覚めた、否、関心を持たざるを得なかったのは、確か中学の高学年の時である。淡き恋心を抱いた同級生が文学少女風に色々小説を語っていたこと…こりゃーいかんと、文学少年振る必要に駆られた。付け焼刃である。もちろん身に付くはずはない。

 高校時代に新聞部に属した。何か社会問題に関心を有し、いっぱしの分析屋になりたかったからかもしれない。ここで、先輩、同級生、下級生の多くの読書家に出会う。彼らの口からはドフトエフスキーがどうの、トルストイがああだ、スタンダールはこうだ、ビィクトル・ユーゴーの世界とは、そしてジイドとは…と聞いたことのない世界が次々と飛び出した。この野郎と思いつつ、陰で『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『アンナ・カレーニナ』『赤と黒』『レ・ミゼラブル』『狭き門』などを乱読した記憶がある。その動機は、話を合わせなければというものではあった。しかし、そこには、今までにない大きな感動があり、登場人物に自らを重ねてそこに自分の化身が投影されているなどと大人ぶった反応が自らの体の中から湧き出てきた。そして、いつしか本に対峙し、本に没頭していくというものに変化していった。

 大学生時代は、柴田翔『されど われらが日々―』が我々の世代を席巻した。今、スポーツや運動を専門とする大学に席を置く身だが、我々の学生時代、「運動」とは「学生運動」を指した。そして、全共闘のゲバルト(暴力)を描いたこの小説は、“我が国の体制変革・良くしよう日本”を夢見た若者の心をとらえた。

 大学を卒業すると、その多くは企業戦士に変身していった。高度成長期からニクソン・ショックと2度のオイル・ショックという世界経済の変化を経て我が国経済は安定成長期に移行した。そんな中、米欧を凌駕する形で追いつけ追い越せの勢いを胸に、夜を徹して働く企業戦士の一群が形成されていった。勤務初日から、午前様。土曜日も夜の10前に帰ったことがない日々が続くことはざらである。仕事が早く終わる日でも、上司から麻雀につきあうことが求められ、断らないのがルールであった。従って、唯一の休日、日曜日は、いかに睡眠をとるかが重要な課題となった。東京に出て地下鉄というトンネルを通って通勤するものだから、何年たっても東京都はいかなるところなのか、さっぱり分からない。加えて、読書の時間はめっきり減った。寝ること、喰うことが先であった。

 そんな中、自然の摂理に従い、人の命に直結する食料・農業関係の仕事をしている自分にとり、極めてショックな本に接した。レイチェル・カーソン『沈黙の春』である。農薬の自然生態系破壊を鋭く描いていた。生産性の低い農業をどう効率化するか…それのみ心を砕いていた自分の頭を鉄棒で叩かれる思いであった。有吉佐和子『複合汚染』はそれに輪をかけた。すごい論理力と分析力、そして、説得力に圧倒された記憶がある。以来、有吉佐和子の論理的な小説に嵌った。『紀ノ川』『出雲の阿国』『華岡青洲の妻』などなどである。

 企業戦士にとり、純文学はまどろっこしいし、頭に入らない。人の生きざまを鋭く描く小説に引きつけられた。疲れた時に、時を忘れ、自らを鼓舞する力が欲しかったのかもしれない。言わずもがな、その人は司馬遼太郎である。山内一豊とその妻を描いた『功名が辻』、日露戦争に身をささげ明治天皇と共にこの世を去った乃木希典を描いた『殉死』、そして、『坂の上の雲』『竜馬が行く』『菜の花の沖』などを通勤の途中、仕事から解放される電車の中でむさぼり読んだ。

 山崎豊子の小説もその一つだ。閨閥を軸として動く銀行を舞台にした『華麗なる一族』、商社の海外ビジネスの展開の苦闘を描いた『不毛地帯』、大学の権威の象徴医学部での狭く息苦しい権力闘争『白い巨塔』などを、他のビジネス戦士と同様、のめり込んで読んだ。

 企業小説の雄、城山三郎の作品も疲れをいやすものとなった。『鼠 鈴木商店焼打ち事件』、ミスター通産省といわれた“ドン”佐橋滋や“国際は官僚”山下英明など実在した通産官僚の姿が手に取るように分かる『官僚たちの夏』、民間人として太平洋戦争の戦犯として唯一絞首刑に処された職業外交官、広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』、経済成長の中、日本人の食生活に大きなインパクトを与えた外食チェーン店『ロイヤルホスト』の創始者江頭匡一を描いた『外食王の飢え』など、その生きざまは、打つものがあった。そのような小説に深い思想性があるのかという問いかけは当然にあるであろう。しかし、置かれた環境の中で、ある意味で、それなりに必死に生きてきた局面で、その生きざまが心を打ったのは否定しえない。いわば、それが人それぞれにあった読書から得る“灯”なのではないだろうか。

 国連農業食料機関(FAO)に身を置いているときの2008年、世界的な食料危機に直面した。そのあとを受け、FAOはそのレポート『2050年に地球は人を養えるのか』という極めて野心的な問題を提起した。人口が現在の70億人から90億人に増え、その大半が途上国での人口増であり、かつ、これらの人々は高い経済成長の下、その食料の消費を増加させるのみならず、現在の先進国同様、高級多様化した食事を追求していくことが見込まれている。現に、中国、インド、ブラジルなどのBRICSと言われる諸国はその先行指標になっている。このレポートが出されて以来、ずっと考えていることがある。それは、第2次大戦後のいわゆる「戦後世界」が北の先進国主導のものから途上国による牽引の形に大きく変わりつつある。問題は、その転換点は、いつからであったのか、そして、世界はここからどこに誰が主導して進んでいくのか、しかも、Sustainable development 即ち、エネルギー開発や食料・鉱工業生産、IT・金融・投資をはじめとするサービィス産業の経済社会の席巻が進む中で、自然環境の保全を図りつつ持続可能な形で発展は可能かである。

 そんな疑問を抱く中、英国の歴史学者O.A.ウエスタッドの『グローバル冷戦史:第3世界への介入と現代世界の形成』を手にしえた。著者は、戦後の冷戦構造とは超大国米ソ間のグローバルな対立が国際情勢を支配したものであり、それは東西対立と米ソ間のアジア、アフリカ、ラテンアメリカといったグローバルな多数派である第三国の支配を巡る覇権争いという形をとったと定義する。但し、著者は、それは所詮二つの対立する“ヨーロッパの近代思想”に基礎をおいた対立であり帝国主義との違いは「搾取や制圧」ではなく「統制と改善」であった、その枠組みの中で第三世界の支配者は資本主義と共産主義に代わる「第3の道」を追求したものの実態は米ソのいずれかの開発モデルと手を組み時として途上国の人民の生活の破滅的結果をも生んだ、と分析する。そして、今日、この第三の世界が世界の成長の牽引車として台頭し始めている。これは冷戦構造が崩壊した1990年前後には考えもしなかった事態だが、この21世紀に支配的となろうとしている。

 その世界に仙台大学の学生諸君は、生き残りをかけた戦士として道を歩まざるを得ない。その際、いかなる道を開拓していくべきなのか…。学生諸君の感性にあった書籍を手に取り、一人一人の生きるべき道の“灯”とはなにかをじっくり議論し共に学んでいけたらと念じている。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 『罪と罰』(世界文学全集16巻〜17巻) ドストエフスキー 新潮社
    908 Si 図書館2階
  • 『カラマーゾフの兄弟』(世界の文学17巻〜18巻) ドストエフスキー 中央公論
    908 S 図書館2階
  • 『アンナ・カレーニナ』(世界文学全集18巻〜19巻) トルストイ 新潮社
    908 Si 図書館2階
  • 『赤と黒』(世界文学全集2巻) スタンダール 新潮社
    908 Si 図書館2階
  • 『レ・ミゼラブル』(世界文学全集6巻〜8巻) ヴィクトル・ユーゴー 新潮社
    908 Si 図書館2階
  • 『狭き門』(世界文学全集26巻) アンドレ・ジッド 新潮社
    908 Si 図書館2階
  • 『沈黙の春』 レイチェル・カーソン 新潮社
    519 Ca 図書館2階
  • 『複合汚染』 有吉佐和子 新潮社
    498.4 As 図書館2階
  • 『坂の上の雲』 司馬遼太郎 文芸春秋
    913.6 Sr 図書館2階
  • 『華麗なる一族』 山崎豊子 新潮社
    913 Yt 図書館2階
    『官僚たちの夏』 山崎豊子 新潮社
    913.6 Ss 図書館2階
  • 『グローバル冷戦史:第3世界への介入と現代世界の形成』 O・A・ウェスタッド 名古屋大学出版会
    319.02 We 図書館2階

2013年3月22日金曜日

【TORCH Vol.014】私がはまった本とそのきっかけ


助教 岡田成弘

「本を読みなさい」

 私が学生時代に両親に言われ続けた言葉です。私は10代から20代のほとんどを、ろくに本を読まずに過ごしました。本を読んだ方がいいということは、何となく分かっていたのですが、それよりも面白いものが周りにたくさんあったため、わざわざ時間をとって本を読むことはしませんでした。

 そんな私を見て親は冒頭の言葉を何度も投げかけてくれました。それでも、私は本を読みませんでした。大学院に進学して、自分の専門分野(野外教育)や論文に必要な本は読みましたが、それ以外の本はほとんど読みませんでした。

 30歳になった今、私は本を読んでいます。忙しくて時間が取れないときもありますが、月に1〜2冊くらいのペースで読んでいます。

 私には、本を読むきっかけがありました。2010年12月(27歳)、左膝膝蓋骨を骨折し、手術・入院する羽目になりました。かなり落ち込んで、ちょっと自暴自棄になりかけましたが、今思うとこの入院こそが、私が本を読むきっかけになりました。入院中、やることがなく暇を持て余していたので、彼女(今の嫁)が持って来てくれた本を読むことにしました。彼女は、長編は疲れるだろうと気を遣い、彼女が好きな作家の短編小説集を何冊か買って来てくれました。私は、入院中にそれらの本を読み、「ゆっくり本を読むのも悪くないな」と思いました。その時読んだ本が、奥田英朗の「イン・ザ・プール」、「空中ブランコ」、「町長選挙」、それから東野圭吾の「怪笑小説」でした。

 そして、退院し、横浜の実家で少し時間を過ごした後、電車で筑波に戻る時、北千住駅で乗り換えの時間があったので、エキナカのランキンランキン(ranking ranQueen)に何気なく入りました。そこで、今売れているランキング1位の東野圭吾の最新作「白銀ジャック」が目に入りました。

「東野圭吾は入院中に読んで面白かったし、ランキング1位だし、買ってみるか」

 そんな軽い気持ちで購入した本ですが、今思うとそれが大きな転機となりました。電車の中で、久々の長編小説を読みながら、小説の世界にどんどんはまっていく自分に気がつきました。電車を降りても続きが気になり、筑波の家に着いてからも食事も食べずに、そのまま最後まで読み切りました。

「東野圭吾はこんなに面白いのか」

 数日後、本屋に出向き、東野圭吾作品で、売れているという「秘密」、「容疑者xの献身」を購入しました。この2冊もまたはまりました。その後、古本屋で「白夜行」と「幻夜」を購入し、数日で読破。それから、東野圭吾好きの友人から、10冊をまとめ借りし、足を怪我して思うように動けないという状況も後押しして、それら全てを1ヶ月で読み切ってしまいました。それ以来、今でも東野圭吾にはまっています。

 東野圭吾をよく読むようになると、身の回りで少し変化が生じました。友人と、本の話をするようになったのです。実は多くの人間が、東野圭吾にはまっているのだと気がつきました。ある時は、どの作品がベスト3だという論争を繰り広げ、ある時は話が盛り上がったテンションで「容疑者xの献身」をツタヤで借りてプロジェクターで上映したり・・・。その後は、嫁や母親に紹介されたダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」にもはまりました。これまたファンが多く、ダン・ブラウントークで盛り上がりました。本を読むということが、人間関係にも影響するとは、昔は考えたこともありませんでした。今でも、東野圭吾を紹介してくれた嫁と一緒に、月に1回くらいは大河原図書館に行き、東野圭吾を数冊借りてきます(その全てを読めているわけではありませんが。)

 そうやって本にはまってから、時々、冒頭の「本を読みなさい」という言葉を思い出します。あれだけ言われても本を読まなかった私が、今これほど本を読む(読みたいと思う)ようになるとは自分でも想像していませんでした。その後、両親に私の考えを伝えたことがあります。

「本を読め、本を読め、というのではなく、とにかく面白い本を1冊紹介するだけでよかったのに・・・」

 今では、母親は私に面白い本を薦めてくれます。

 学生の皆さんの中には、きっと学生時代の私と同じように、色んな面白いものやことに囲まれていて、わざわざ本を読む時間をとろうと思わない人も多いでしょう。私は「本を読みなさい」とは言いません。その代わり私は、私の好きな本を紹介するに留めます。怪我でも、長時間の移動でも、実家に帰って暇な時でも、何かきっかけがある時に読んでみて下さい。

 私の経験則から、5人以上が「面白い」と言っている本は、大体外れがありません。ただし、テレビやネットの情報ではなく、自分の周りの身近な5人です。自分の身近な人は、少なからず自分と価値観が類似していると思われますし、そういう人のうち5人以上が面白いというのだから、自分も面白いと思うはずです。まずは、自分の身近な人に、どんな本(作家)が面白いのかをリサーチしてみて下さい。その中で、きっと複数名があげる作品や作家がいるはずです。そして、5人以上があげた作品や作家を覚えておいて下さい。いつか、本を読むきっかけが来る日まで。

 以下は、私がお薦めする本です。今私は、難しい論説や自己啓発本は読んでいません。長編小説が面白いと思っています。でもこうやってみると、ドラマや映画化されているものが多いので、やっぱり面白いんでしょうね。

東野圭吾作品 私のベスト3
1. 秘密 
2. 時生 
3. 悪意 or 容疑者xの献身

 ストーリーや魅力は敢えて書きません。東野圭吾の作品は、緻密に計算された布石が最後でつながり、ラストに「えーーーーっ!!」というサプライズが用意されていることが多いです。その他にも、斬新な手法を用いたり(悪意は作品の書き方自体が面白かったです)、下らない馬鹿話をまとめたりと(歪笑小説などの笑小説シリーズ、超・殺人事件等)、何十冊読んでいても飽きません。

私のお薦めの作品
★ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」、「天使と悪魔」
 母親や嫁に薦めてもらいました。展開がスピーディーで、次はどうなるのかワクワクハラハラしながら読み進めました。レオナルド・ダ・ヴィンチやキリスト教、バチカン市国のことについて「へー」や「なるほど」がたくさんあり、知的教養も深まりました。2013年序盤に話題になったコンクラーベについても、「天使と悪魔」で知りました。

★重松清「流星ワゴン」
 崩壊寸前の家庭を持つ主人公が、交通事故死した親子のオデッセイに乗り込むことから物語が始まります。重苦しいシーンもありますが、主人公が過去や今を行ったり来たりする中で、家族や親子について色々考えさせられる一冊です。途中で思わず涙しました。東野圭吾の「時生」もそうですが、30代目前になって親父と息子を描く物語に少々惹かれてしまうようです(笑)

★東野圭吾「天空の蜂」
 奪取された超大型ヘリコプターに爆薬を積載させ、稼働中の原子力発電所に落とすと脅迫して来たテロリスト。福島原発問題の10年以上も前にこのテーマで問題提起をしていた東野圭吾の視点に脱帽しました。原発やヘリコプターについての専門用語が多くてしんどい箇所もありましたが、スリリングな展開に一気に読破できました。

2013年3月18日月曜日

【TORCH Vol.013】本格的読書の前に、きっかけとしての「漫画」~日本文化の「漫画」から読書を考える~


講師 石丸出穂

 ここで執筆された先生方もそうであったが、私も学生時代に活字本をたくさん読んでいたかというと、実はそうではなかったと思う。必要に迫られてか、興味が自然と湧いてきたのか、大学院生時代頃からさまざまな本を読む機会が多くなった。私は大学の業務上、出張が多い。電車やバスでの長時間での移動中は、なぜか読書が進む。出かけるときには必ず数冊の本と、家電教員(?)必須アイテムのiPad(ダウンロードした本や、自ら自炊した本を入れている。雑誌も含めると100冊程度、常時入っている)を持って行く。最近iPad miniを購入し、さらに持ち出しやすくなった。読書は本当にさまざまな知識と経験を与えてくれる。一言でいうと、世界観が広がる。この知恵の宝庫の魅力を知ると、本屋さんに足を運ぶことが本当に楽しくなる(ちなみに私は、電気屋と本屋がなぜか一番落ち着く)。しかし、大学生時代やそれ以前に本を読んでいなかったわけではなく、その頃たくさん読んでいたのは、「漫画」だ。おそらく今の学生たちも多くは、「漫画」は読んでいるのではないだろうか。

 私の小学生時代は、週刊少年ジャンプの全盛期だった。今でも「ONE PIECE(1997年~現在)」は大人気の作品であるが、当時は「キン肉マン(1979~1987年)」「キャプテン翼(1981~1988年)」「北斗の拳(1983~1988年)」「ドラゴンボール(1984~1995年)」などを毎週欠かさず読んでいた。他の雑誌で読んでいた作品では、「YAWARA!(1986~1993年)」「オフサイド(1987~1992年)」「修羅の門(1987~1996年)」「シュート!(1990~2003年)」「20(21)世紀少年(1999~2007年)」など、映画化されたりドラマ化された作品も多く、「はじめの一歩(1989年~現在)」「リアル(1999年~現在)」「キングダム(2006年~現在)」「鉄拳チンミ(1983年~現在)」「龍狼伝(1993年~現在)」と、今でも楽しみに購読している作品も多い。空想の世界であるが、ワクワクしながら読んでいたものだ。

 私が高校生時代に、受験勉強の助けにもなった歴史ものの作品に、「三国志(1971~1986年)」がある。横山光輝氏による史実に基づいた物語で、主人公の劉備玄徳と曹操との対決を中心に描かれている作品ではあるが、“桃園の誓い”で知性と武力を兼ね備えた関羽と、豪傑張飛との義兄弟の契りを結ぶ場面や、諸葛亮孔明を“三顧の礼”をもって軍師に招き入れる場面など、歴史ももちろんであるが、人間としての義理人情の部分も描かれている。“赤壁の戦い”では、軍師を中心にした戦術・戦略のやり取りなど、今振り返ってみると、私が専門としているスポーツ情報戦略につながる、戦うためには緻密な戦略と情報が必要であることを、考えるきっかけとなったと思う。なにより物語の人間模様を読みながら、“徳”について学んだところは大きかったと思う。全60巻と大長編であるが、興味のある方はぜひ手にとって読んでもらいたい。

 スポーツを題材にした作品で特に印象に残っているのは、「スラムダンク(1990~1996年)」だ。恥ずかしながら高校生時代、スラムダンクに登場する、三っちゃんこと三井寿の「安西先生、バスケがしたいです」のシーンで、コンビニで立ち読みしながら涙したくらいだ(他にも安西先生の言葉には名言が多くある。「あきらめたらそこで試合終了だよ」は、最後まであきらめない、メンタルの重要性を教えてくれている)。そこには間違いなく感動と、言い過ぎかも知れないが教育の側面があったのではないかと、今思うと考えられる。

 関連して、「スラムダンク」を題材にした、いわゆる活字本が出版されているのはご存じだろうか。「スラムダンク勝利学」「スラムダンク論語」「スラムダンク武士道」「スラムダンク孫子」などだ。あの頃を思い出し、思わず手に取ってしまった。そこにはスラムダンクの登場人物の特徴を捉え、それを学術的(?)に説明し、試合に勝つための考え方とは、論語とはどういう学問なのか、日本古来の武士道とは一体何なのか、孫子の戦術とは、など、わかりやすく解説している。「論語」「武士道」「孫子」だけでは、堅苦しそうでなかなか本として手に取れないが、自分が好きだった漫画の世界からひも解いて解説してあるこれらの本は、本格的な学問の世界に飛び込む、よいきっかけとなる。漫画好きの学生たちにも読んでもらいたい、お薦めの本たちだ。

 スポーツの世界からは少し離れるが、日本アニメ界の巨匠、宮崎駿氏の作品の一つである「風の谷のナウシカ」は、みなさんアニメ映画としても一度はご覧になった作品であろう。実は、この「風の谷のナウシカ」は、「漫画」としての作品(1982~1994年)でもあり、映画化された場面は、全7巻中、ほんの2巻程度しか描かれていないことはあまり知られていない。私は大学時代に機会あってこの全巻を手に入れ、何度も読み返したが、実に奥が深く、一度読んだだけではなかなか理解が出来ない、難しい内容である。火の7日間戦争で近代文明が滅んだあとの世界という設定が舞台で、腐海と呼ばれる死の森の瘴気におびえながらも、この世界とともに生きていこうとする人々を描いている。ナウシカを中心に、腐海はなぜこの世に生まれたのか、読みながら現実世界にも通じる世の中の謎を解く旅に出ることが出来る。人間の傲慢さと愚かさを見ると同時に、やさしさと力強さ、を知ることも出来る。「人間は世界の残酷さと美しさを知ることが出来る」という最後のナウシカの言葉は胸に刺さる。腐海や巨大な虫たち、オームや巨神兵に至るまで、現実世界に生きる人間そのものを表しているのだ。お固く言えば、現実社会でも問題提起されている、環境汚染、地球温暖化問題などを独自の目線で切り込んでいる。とにかく機会があれば一度読んでほしい作品である。

 私の専門であるバレーボールについて描かれている作品は、「アタックNo.1(1968~1970年)」「涙のバレーボール(1986~1987年)」「健太やります(1989~1994年)」「リベロ革命(2000~2002年)」など、野球やバスケット、サッカーを題材とした作品に比べると格段に少ない。「キャプテン翼」や「スラムダンク」の影響で、サッカーやバスケットを始めた人たちも多いと聞く。小・中学校世代の男子バレーボール人口が激減している昨今、新しく連載され始めたバレーボール漫画に、期待しているバレーボール関係者は私だけではないはず・・・。

自ら所有する雑誌や書籍を、スキャナーを使用して電子媒体に変換する行為


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
図書館には残念ながら漫画は収録されていないのですが、設置してあるフリーペーパー『スポーツゴジラ』(キーナート先生ご提供)の第18号の特集「スポーツマンガは凄い!」では、様々なスポーツマンガが紹介されています。

2013年3月8日金曜日

【TORCH Vol.012】最近の読書から


現代武道学科 教授 伊藤重孝

縁があって職員の立場にあり、その任に相応しい学生との対話、知識、手法を研鑽すべく、図書館のお力添えを頂き、文献をあさり乱読の状況にあります。未熟ながら、仰せにより紙面を汚させていただきます。

さて、甚だしい勘違いであるが、生活の知恵と知識の区別を安易にし、「知識はないが知恵はある」と自負し、疑うこともなく思い込んでいた。しかし、「物事の理を悟り適切に処理する能力」には知識と知恵を切り離せない一体の関係にあるという、現実を悟らず愕然とする始末。今日、この程度の自分が、寄稿の指名に戸惑いつつ・・・・・失笑を覚悟です。

昭和57年、論文作成のため各種文献を乱読したが、その中に「縮」志向の日本人(李御寧)がありました。日本の短歌、俳句等や扇子、ラジオ等のように、縮めて日本オリジナルの文学、科学技術とする等々の論調であった。

当時はなるほどという内容であったが、30年を経過した昨今、いかなる次第は不明ですが
再度、話題になっているようです。しかし、現在はフロッピーからUSBまで情報の「縮小」コンパクト化傾向は、止まるところを知らない状況にあります。

自分は、警察大学において組織の執行力向上を目的とし、経験実学という限定的な内容で、職務を通じて同一線上にある関係者教育であり、経験から安易に引き受け今日をむかえている。

これまでの指導に関する手法は、学問、知識ではなく、失敗の反省経験から学んでいた。
しかし、対象となる学生の多彩、教育の内容の多岐に困惑し、「教育・伝達」とその「手法と真髄」等の関連文献を探し求め、図書館スタッフには大変お世話になっています。

この度、研究課題「動物(馬)を介した心理・教育的アプローチ」を共同研究するにあたり、何気なく実施した乗馬の経験から、馬に対し、何をどのように伝えるか、その結果の検証等・・・・に関連し、試行錯誤のさなかに巡り合った一冊

  • 平田オリザ著「わかりあえないことから」コミュニケーション能力とは何か

を読み「目からウロコ」までは行きませんが、得るものがあった。

<伝えたいという気持>
子供の中に(自分達の中に)ないのなら、「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちがどこから来るのだろう。その技術は定着していかない。では、その伝えたいという気持ちそれは「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。今の子供たちには、この「伝わらない」という経験、コミュニケーション教育の問題も、おそらくここに集約される。・・・・・・一番いいのは、体験教育だ。障害者施設や高齢者施設を訪問し、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。外国人とコミュニケーションをとる・・・・・・

<慣れのレベル>
今、中堅大学では、就職に強い学生は二つのタイプしかないと言われている。一つは、体育系の学生(きびきびした言動)、もう一つは、アルバイトをたくさん経験してきた学生・・・・・・・能力云々・・要するに大人(年長者)とのつきあいに慣れている学生ということだ。・・・20歳を過ぎたなら「慣れも実力のうちだよ」・・・能力云々、これに対する批判は、正しいと思うが、・・・負け犬の遠吠えだけでは生きられないと思う。

以上は「わかりあえないことから」の抜粋であります。

筆者は、人が人に意思を伝える能力の向上手段を「演劇の教育学」から知的価値としての「コンテクスト活動での成長」すなわち、コミュニケーションデザインへと論じている。研究のテーマは動物と人とのコミュニケーション行動から、人と人とのコミュニケーション能力向上に発展させるものであります。電車の中で友人と一緒に座り、会話もせず夢中になってスマホを操作する姿をみると・・・しかし、会話が下手になったのではなく、昔は、以心伝心のように黙っていても理解し合えることが、美徳とされ、今は、むしろ表現力の面では確実に豊かになっている。

それは、服装、ダンス、唄、演劇等々多岐にわたり、一方ではペットの動物と関わり、交わりも癒しとして存在し、それぞれに表現の方法が必要とされ多くなったとも言えよう。
人間が母音、子音を駆使し会話へ進化した過程と、動物が声を発する行為は、言葉の意味につながるものなのか、自然界における自由な動物の姿と、調教された動物の従順な姿との差違、これがコミュニケーションに値するものと言えるだろうか。

動物を介した場合これがどのように進展するか等々、先が見えない高い山は多々あるが、本学における足跡として後世の人々に評価されるものとしたい。馬の背は高いが、怖いものではありません。体験乗馬によるデーター収集へのご協力、幅広い参考意見は大歓迎です。皆様のご協力をお待ちしております。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 平田オリザ著 「わかりあえないことから」 講談社現代新書
    361.45 Ho  図書館1階

2013年3月1日金曜日

【TORCH Vol.011】「警察の進路~二十一世紀の警察を考える~」を読む


現代武道学科 准教授 飯塚公良夫

 この書籍は、私が前職の東北管区警察学校で教務部長をしていたときに紹介されたものである。

 東北管区警察学校というところは、主として、東北6県の各警察に勤務し巡査部長に昇任予定の警察官、警部補に昇任予定の警察官等初級幹部と呼ばれる警察官を対象に、幹部としての役割や責任、警察業務に関する専門的な知識、技能等を教養訓練するところで、幹部警察官に対し、若い警察官たちを指揮、指導しながら警察業務を効果的に推進して社会の安全と安心のために寄与させる力を付けさせるための教養施設である。

 したがって、当然、社会構造の変化に伴って発生する新たな阻害要因に対応する安全・安心対策を教養していかなければならないという課題があるが、社会の安全・安心を阻害する要因の最たるものは、国民の被害意識が極めて強い犯罪であることは言うまでもなく、警察がなすべき犯罪対策等の警察行政を考えるに当たり、まずは第二次世界大戦終結後の20世紀後半から21世紀にかけて激動の一途をたどってきた社会、経済や国民意識など警察行政を取り巻く環境の変遷を理解する必要があり、それらを踏まえた上で、社会の安全・安心のためにより効果的な警察活動を実践できる幹部を育成することが重要視されていた。

 そのため、いかにして初級幹部を育成すべきかと、幹部教養の方向性に悩んでいた平成21年6月、私は、初めてこの書籍のことを知った。当時、東北管区警察学校に出入りしていた東京法令出版という法律関係図書の出版会社の東北営業所長から、新刊の警察業務に関する参考書として紹介されたからである。

 しかし、このときは、歴代の警察庁長官や警視総監、それに警察庁各局の警察庁幹部が協力して執筆し編集された書籍であり、二十一世紀における警察の課題と将来の展望、課題への対処方策の検討等についてまとめられた書籍であるとしか聞かされておらず、それであれば、警察庁の出先機関である各管区警察局や都道府県警察に示される警察庁通達や連絡文書等とそう変わりはないだろうという気持ちで、その書籍を取り寄せて実際に手に取ってみるというところまではいかなかった。

 ところが、警察を退職後、私はこの大学に籍を置くことになったわけであるが、その際、大学での所属学科が新設されたばかりの現代武道学科であり、担当すべき科目が武道の社会的応用を重視した内容のものであって、その中で社会の安全・安心に関する武道の応用という分野の教養を担当して欲しいと言われ、これまで比較的自由な環境の中で育ち社会の安全・安心に関してはいわば素人同然の学生に対し、社会の安全・安心を保つことの大切さ、安全・安心に対する国民としての考え方や取り組み姿勢等を講義するに当たって如何にすべきかと考えたとき、ふと、この書籍のことが脳裏に浮かんだのである。

 人間なら誰しも、人の役に立ちたい、社会のためになる仕事をしたい、国を動かす仕事をしたい、そして安全で安心して生活できる世の中にしたいという気持ちを持っているものである。そのことを考えたとき、真っ先に頭に浮かぶ仕事は、国や県、市区町村等地方自治体で仕事をする公務員であり、特に人々の先頭に立って安全と安心を守るという意味では、警察という仕事にほかならない。

 平成23年3月11日、あの東日本大震災が発生した直後、住民の避難や被災者の救出・救護活動の現場で先陣を切って活動したのは、現地警察署の警察官や地元の消防団員等地域に密着して活動している人たちであった。しかし、後から駆け付けた消防レスキュー隊や自衛隊、そして他国の救助隊等の活動がマスコミで大きく取り上げられているにもかかわらず、大災害の発生に真っ先に対処して大津波の犠牲となった警察官や地元消防団員のこと、警察による行方不明者の捜索活動や犠牲者の身元確認作業のことなどは、当時それほど大きくは捉えられていなかった。

 あの大震災以降公務員を目指す若者たちが増えていると言われているが、そのことは、純粋に社会の役に立つ仕事をしたいという意欲の表れであろうと信じている。だからこそ、幾多の公務員が存在する中で、ほかのどんな公務員よりも毎日毎日人々の目の前で直接活動し、人々が抱えるあらゆる問題に対して最前線の現場で対処している警察官という崇高な仕事を目指す若者が一人でも多く育って欲しいというのが、今は勿論のこと、大震災直後の、私の偽りのない気持ちであった。

 そんなとき、以前紹介された書籍の執筆者が、いずれも激動する二十世紀後半から二十一世紀にかけ警察組織の中枢において全国の警察を指導監督し、警察活動の実際においても現場の指揮指導に当たった経験のある人たちや、現在も実際に現場で指揮指導に当たっている人たちであり、社会の安全・安心のために中枢となって寄与すべき警察組織が抱える課題を的確に把握し、将来の警察組織に期待する施策や行動等についてだけではなく、社会や国民自身が取り組むべき安全・安心のための行動等について深く考察を加えているのではないかと思い当ったのである。

 したがって、私が初めてこの書籍を手に取ったのは、私が所属する現代武道学科が発足した平成23年の9月に入ってからであり、仙台大学図書館に依頼し、発行元の東京法令出版から他の書籍とともに個人研究用の大学蔵書として取り寄せてもらってからである。
実際にこの書籍を手に取ってもらえばわかると思うが、編者は、元警察庁長官で、あの狂信的宗教集団オウム真理教による地下鉄サリン事件や弁護士一家殺害事件等一連の事件で全国警察の捜査指揮に当たり、その捜査の最中何者かによる銃撃を受けて生死の境をさまよった経験があり、退官後もドクターヘリの導入促進に尽力されている国松孝次氏や、同じく元警察庁長官であって、警察組織の国際犯罪組織や暴力団等による組織的な犯罪に対応する組織犯罪対策部門を改編充実させた佐藤英彦氏などであり、執筆者も、東京都の副知事を務めた経験のある竹花豊氏、内閣法制局参事官に出向している露木康浩氏、そして海外警察の政策支援に当たっている前宮城県警本部長の竹内直人氏など、警察組織のシンクタンクともいわれている人たちが名を連ねている。

 本書籍の内容は、これら警察組織の中枢に位置し、激動の時代といわれている現代、全国の警察官を指揮指導してきた、そして現在も実際の現場で指揮指導に当たっている人たちが協力し、現代の警察が抱える諸問題の中から最も重要と思われる論点について、「社会・経済構造の変化への対応」、「行政・司法システム改変への対応」、「グローバル化への対応」、「技術革新への対応」と題して考察し、また、警察制度・組織をめぐる歴史的考察を踏まえ、諸外国の警察制度と比較しながら、我が国の警察制度に内在する論点を浮き彫りにして将来の我が国における警察組織の在り方についての課題を呈示するなど、警察という仕事が持つ意義と今後真剣に取り組んでいくべき社会の安全と安心に関する方向性についての意見を示したものである。

 将来警察官を目指す学生諸君にとって、また本大学における「社会の安全・安心概論」「応用武道概論」等を学習するに当たって、大いに参考となるのではなかろうか。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 『警察の進路〜21世紀の警察を考える』
    【著者】安藤忠夫, 国松孝次, 佐藤英彦
    【出版社】東京法令
    【請求記号】317.7 Ke
    【配架場所】図書館2階

2013年2月25日月曜日

【TORCH Vol.010】最近読んだ本


仙台大学教授 粟木一博


①「スタンフォードの自分を変える教室」 ケリー・マグゴニガル著 神崎朗子訳 大和書房
②「パーソナリティー障害とは何か」 牛島定信著 講談社現代新書
③「これが物理学だ!」ウォルター・ルーウィン著 東江一紀訳 文藝春秋社
④「ふふふふ」 井上ひさし著 講談社文庫
⑤「にんげん蚤の市」 高峰秀子著 新潮文庫
⑥「贈与の歴史学」 桜井英治著 中公新書
⑦「統計学が最強の学問である」 西口啓著 ダイヤモンド社
⑧「わかりあえないことから」 平田オリザ著 講談社現代新書
***


 これらは私が平成25年の年明けから今(2月18日現在)までに読んだ本のタイトル、著者、出版社の一覧である。大体一か月に4から5冊程度本を読む。もちろん、必要に迫られて手に取ったり、目を通したりする本があるのでもう少し増えるが、これが多いのか少ないのかはわからない。一年が過ぎると本棚にその年に買った本が増えていることになる。

 当たりもあればハズレもある。もったいない?しかし、くじは引いてみなければわからないところにその醍醐味がある。ただ、読書がくじと少し違うところがあるとすれば、経験の積み重ねによって当たりくじを引く確率を高くすることができるということだろうか。

 人間は合理的に行動しているのかというと決してそうではないということをわかりやすく解説してくれるのが①である。5分後に増加することがわかっていながら目先の報酬に目がくらんでしまう行動に関する実験など刺激的な内容が満載だ。しかし、「5年後の報酬などいらない」となると地道にトレーニングを積んでいるアスリートはどうなってしまうのだろうか。太古の昔、生存のために必要とされた欲求をすぐに満たそうとするメカニズムが現存しいることがこの根拠となっているのだが、計画的で、長期的な目標の達成には何が必要か、スポーツでハイパフォーマンスを目指す人にも参考になる一冊である。

 みなさんの身の回りにいる「性格の悪い人」「ちょっとおかしな人」のとらえ方が少し変わる本、それが②である。風邪などの病気にかかった場合、日常生活をいつも通り送ることは難しいし、周りの人にもいくらかの負担を強いることになる(例えば仕事を代ってもらったり、看病してもらったり)。しかし、熱やのどの痛みに最も苦しむのは自分である。著者は性格もこれと同じで、周囲に迷惑をかけるのと同じくらい、本人も悩んだり苦しんだりしているというのである。本書はその捉え方について書かれた一冊である。

 最近、NHK教育の夕方の番組でも公開講義を行い、人気を博しているのが③の著者である。③はこの講義録と著者の背景をまとめたものであるが、「空はなぜ青いのか」「雲はなぜ白いのか」などの素朴な疑問に実験で明快な解答を与えてくれる。著者は物理学が嫌いな人間がいるのは、物理を教える人が努力をしていないからだと手厳しい。物理学が不得手な人でも十分楽しめる内容だが、授業というものに対して真摯に向き合おうとする気持ちにさせられる。

 井上ひさしの比較的近年のエッセイを集めたものが④である。この中に「失言集」という一文がある。短い文章の中で「失言」の類型化(いや、構造化)を行い、最後には「完全無欠の失言」の実例を挙げて文章を結んでいる。おもしろい。

 長い電車の中で読むために駅の売店で手に取ったのが⑤である。「二十四の瞳」(壺井栄の原作は有名。この大石先生役が著者)や「喜びも悲しみも幾年月」(古いから学生の皆さんは見たことがないだろう。灯台守の夫婦の物語だが夫役は佐田啓二。ちなみにこれは中井貴一のお父さん。妻役が著者。再び、ちなみにこの映画の主題歌が聞きたい場合は●●先生とカラオケに行き、リクエストをすると必ず歌ってもらえる。ただし、お酒が入っている場合がほとんどなので音程や音質はオリジナルと少し異なる。)スクリーンのイメージとは少し異なり、少し酸っぱい思いをする部分もあるけれど、文章は明快で勉強になる。

 物事は何でも構造化してとらえることがとても大切だと日頃から考えている。「この問題の最も大切な部分はどこだろう」「この問題を構成している骨組みを考えるとどうなるだろう」と問題をとらえることはどんな分野においてもとても大切だと考えている。⑥は「贈与」という日常的な行為を歴史を軸にして構造化しようとしている書である。私は歴史に関しては「下手の横好き」以外の何者でもないので、正直、よく理解できない部分もあるのだが、何となく(これはとても大切なこころの働き)その面白さを予感しつつ読み通してみた。(面白かったのかどうかは結論が出ていない。でも、読み返してみようという気にはなる。)

 データに依って立つことはあらゆる分野において最強の武器となる。⑦が統計学を最強の学問とする根拠である。「ビッグデータ」に対してサンプリングによってデータ収集のコストを下げることができるという主張から、サンプリングの手法、データの関連性に関する分析、データマイニングなど取り上げられている内容は極めて基礎的なものである。データ分析の入門者向きの一冊である。

 「表現ができない」ということ「表現したくない」ということ「表現する何かを持たない」ということはそれぞれ同じように見えて実は大きく異なる。「表現しようとする何か」を持たずに表現はできないのだ。⑧は著者が演出家としてのこれまでの経験や知識から、昨今、巷間において重要視されているコミュニケーション能力の本当の姿を紐解こうとする試みがつづられている。さらに、コミュニケーションは正しいことばや文字を教える国語の中で取り扱われる材料なのかという疑問を提示し、現代の教育の枠組みへの提案を行っている。「体育」という教科の中で取り扱われるべき教材は跳び箱やサッカーだけでいいのだろうか。あるいは、数学の中に体を使う「体育的要素」はないのだろうか。様々な発想をさせてくれる非常に興味深い一冊だ。

 人に本を薦めるのは得意ではないし、少し怖い。でも、同じ本について感想を語り合うことはとても好きだ。「最近なんか面白い本読んだ?」会話のはじめ方としてはいい文句だと思うのだが。どうだろう。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 平田オリザ著 「わかりあえないことから」 講談社現代新書
    361.45 Ho  図書館1階

2013年2月15日金曜日

【TORCH Vol.009】読書を語る。

助教 入澤裕樹

電子書籍元年といわれた2012年。(そうでもないのでしょうか?)

私も、「時代の波に乗り遅れてなるものか!」(いや、単に流行物が好きなだけかもしれない)と某社が安価で販売していた、良くも悪くも多くの話題を呼んだ電子書籍リーダーを発売前から予約し購入。期待に胸を膨らませつつ、送られてきた簡易包装の小箱に「これだけ?」と少々驚くも、意気揚々とセッティング開始。がしかし、自分のPCでの初期設定ができず、「はぁ?」と某社のコールセンターへ問い合わせる。

私「あのー、初期設定ができないのですがー・・・」
対応社員「少々お待ちください!」

♪~(保留)
(いらいら)

10分経過。
♪~

(・・・おいおい。)

プツッ。
ツーツーツー。

・・・。

数日後には無事にPCでも設定ができるようアップデートはされましたが、いろいろあって手に持つ機会がなく(いや、本来読書をしようと思えばそのような機会は簡単に増えるでしょうが)購入した電子書籍もごくごくわずか。気づけば引き出しの中もいることが多く・・・。

それでも外出時には多くの本や資料を1台にまとめられ、PDF資料も保存閲覧可能。「これは良い!」と思い、先の出張でも論文資料をPDFにしてさっと取り出し移動中にスマートに読むことを思いつく。がしかし、資料の文字が小さいこと小さいこと。

「えー!全然スマートじゃない。」

結局は途中で紙の資料を取り出すはめに。うーん、何かと不便。

それでもせっかく手にしたものなので何とか活用してやりたい!・・・とは思ってみるもの結局他の新製品の誘惑に負けそうな2013年。

まあ、そんな新しい電子端末を買う買わないは別として・・・、やはり読書は昔から馴染みがあるので紙の方が結局は読みやすいのかな。

小学生の頃には読書感想文が苦手ではあったが、図書委員会に所属していた頃は推理、伝記などなど良く読んでいたことを思い出す。読書の時間は自らの成長の糧となることは間違いなく、本と向き合う時間は大切だ。その時間が一番確保できるのはやはり学生の頃だと思う。何でもいいと思う。まずは手に取り読むことから始めることが大事。それから本を通じて自らがどのように知見を広げていけばよいかを考えれば良いかだと思う。

先日所用で仙台に行くことがあったのだが、時間前に入ったコンビニに適当に置かれていた「子供の『なんで?』がわかる本」というタイトルに惹かれ思わず購入した。

「宇宙ってどれくらい広いの?」「どうして顔には鳥肌が立たないの?」

みなさんは答えられるだろうか?

こんな雑学教育をテーマにした本から深く掘り下げる。その次には専門書を見つけて読んで自身の教科教育の教材研究に活用する。(一応専門分野の話題を繋げてみて・・・。)授業を練り上げていくにはやはり本は欠かせない。

充実した人生を送る為のいろんなヒントを本は与えてくれるだろう。

さて、話変わり小説等では、個人的には東野圭吾の作品を推薦。(『ガリレオ』で有名になった作者)「赤い指」という題の本は単純なミステリーのような結末で終わることなく、現代社会の問題(介護、家庭関係、教育、性問題などなど)を取り上げたもので、家族や教育とは何が正しいのかということを考えさせてくれる作品。時間があればご一読を。

と拙い文章を投稿した後で「俺が勧める本も読んでないのにお前が読書を語るな。」と某先生からのご指摘がありそうですが。(終)

***

photo by Yuki Irisawa (2013)

参考までにヘルシンキの図書館を。5階まで続く中央の吹き抜け部分のデザインが近代的で美しい。学習スペースも十分確保。すばらしい。(おしゃれなカフェもあるし)

2013年2月8日金曜日

【TORCH Vol.008】好きな本を読むのなら今のうちですぜ。


荒井龍弥 仙台大学教授・宮城県名取市立みどり台中学校校長(出向中)

 最初にグチ。自慢じゃないが、本を読む時間がまとめて取れない。困ったものだ。それでもこのリレーコラムを書いてね、と図書委員会のご要望でした。鬼のようなご依頼だ。そりゃ書類はたくさん来ますよ。学校に来る文書のほとんどは校長を経由するのです。読んだよと認印をぺったんぺったん押していくのも校長の仕事だ。ある日数えたら50枚超えていた。だからと言って、公民館協力委員会(まあ会議だ)の出席依頼の書評なんて、書くほうも読むほうも面白くもなんともない。

 中学や高校の教員なら、生徒もくる。部活がある。飲んだ翌日だって、疲れたといって寝坊するわけにもいかない。教員に限らず、仕事をしている人はみんなそんなもんだろう。そりゃ仕事に関わる本や資料は睡眠時間を削ってでも目を通さなにゃならんが、好きな本を勤務時間内に好きなだけ読めるお方は、投げてるか干されてるかのどっちかだ。何をするにせよ、いいこともあれば悪いこともある。自分にとって都合の悪いことを引き受ける覚悟を決めることも志を立てるうちに入るのかも知れないっす。

 皆さん、好きな本を読むのなら今のうちですぜ。一日二冊(まじめなのと、楽しそうなの)を自分に課した学生時代がうそのようだ。金が続かず挫折したけど。本を読むためにわざわざ電車に乗ったりしたこともあったっけ。交通機関利用中は他にすることもないので絶好だ。でも車の運転中は読まないでね。高速道路で新聞を広げながら運転している猛者を見かけたが、あれはオソロシイ。


 仕事ではなく、楽しみのほうの本の話。通読した後、二度と読み返す気がしない本は「はずれ」、時間を置いて何度でも読みたくなるのが「あたり」と思っている。作者で追うのと、ジャンルで追うのを混在させるタイプだった。誰でもそうだな。そりゃそうだ。確率を上げるためには、前の「あたり」を手がかりにするのは当然だ。

 小中時代はホームズものから始まって、星新一や筒井康隆、「西部戦線異状なし」のレマルク、あるいは落語の筆記本や鉄道ものだったかなあ。近いところでは作者ならクライブ・カッスラーや西原理恵子、川端裕人、ジャンルなら登山ものや棋士の書いたエッセイなんてところだ。無難なところでは食べものがらみはどうだろう。佐川芳枝さんの「すし屋のかみさん」シリーズは好きだなあ。

 「あたり」を引くためには、もう一つ、舞台が自分に関わりのある土地という手もある。仙台で言えば伊集院静や伊坂幸太郎、古くは井上ひさしか。私の場合は家の墓が東京の深川にあるので、山本一力を初めとした江戸物にはつい手が出る。もっとも、国語の教科書を見ていたら、芥川龍之介の「トロッコ」がまだ載っていた。読んでみて、改めて自分の出身地(神奈川の湯河原だ)近くが舞台だったことを思いだした。読み返してなかったわけで、そんなにあてにはならないね。

 ただ、スポーツと同じで、日ごろ本から遠ざかれば遠ざかるほど打率は下がる、ということは言えそうだ。もっとも、ある程度の凡打は覚悟すべきかも知れない。首位打者だって3割そこそこだ。たとえに無理がありますね。


 図書館は好きだった。本とインクのにおい。中学のころは電車で30分かけて出かけ、図書館で「少年倶楽部」の「のらくろ」を読むのが楽しかった。戦前生まれではありません、念のため。高校になると隣町の図書館で友だちと受験勉強をするという名目で集まり、しゃべって怒られたり小説を読んだりする合間に勉強していた。

 でもまあ、周りが調べものや読書をしているところでは自分も多少は影響されるもんだ。そういう場所に自分をおくことだけでも、自らが成長していない焦りのようなものは少し和らぐ。いろんな図書館に行ってみよう。南相馬市の図書館は本屋のようだし、岩沼の図書館は名取のママたちに「岩沼のメディアテーク」と評判が立っているそうだ。


 これで終わるのも何だかしらける。講義ネタを一つ。小学四年の国語教科書に新美南吉の「ごんぎつね」というのがある。いたずらばかりしている独り身キツネの「ごん」が、村の兵十という男が捕った魚を逃がしてしまう。その後、兵十の母親の葬式がある。ごんはひとりぼっちになった兵十を自分と同じ境遇だと思い、あんないたずらをしなければよかった、と思う。せめてものつぐないにと、兵十の家に、そっと栗やマツタケなどを持っていく。兵十は誰が持ってきたかわからず不思議に思っていた。ある日、ごんが家の納屋の中にいるのを発見し、またいたずらしに来たと思い、撃ち殺してしまう、という話だ(ネタバレごめん)。四十年以上前から教科書の定番となっている物語だ。覚えている方もいるだろう。

 私はあまり好きな話ではなかった。せっかく改心した「ごん」が兵十に殺されて終わり、というストーリーが理不尽だと感じていたのだ。しかしここ十年ほど、いろんな先生の考えや実践を読んだり見たりして考えが変わった。ごんはキツネなのだ。キツネは古くから人々の信仰とおそれの対象で、稲荷神社のお使いとされていた。人があまり関わるとだまされたり、化かされる。敬して遠ざける、というスタンスだったのだろう。人にいたずらするのは、りっぱなキツネとして当然のことなのだ。おそれられこそすれ、しょせん人間と仲良くはなれない存在なのだ。兵十に親切にすることで、キツネとしての「道」をごんは踏み外してしまった。だから死ぬより他に結末はないのだ。そういう考えに触れてから、結末がすっきりと腑に落ちると同時に、「ごんぎつね」という物語が好きになった。愛知県の新美南吉記念館に行ったくらいだ。手に入れた研究紀要には、キツネと人間の関係について同じことをいう人がいた。ビンゴ。

 物語だ。いろんな読み方があっていいけれど、様々な知識や経験とすり合わせていくことで別の読み方もできる。もっと好きになることだってある。読書を楽しめないのは、そういうバックグラウンドとなる知識や経験の不足が一因となるのではないか、そう思う。でもそういう知識や経験だって読書によって得られる部分があるのだ。自分の世界を広げるとはそういうことかなと思う。