2016年6月28日火曜日

【TORCH Vol.086】西嶋大美・太田茂著『ゼロ戦特攻隊から刑事へ』 (芙蓉書房出版,2016年6月)≪書 評≫

                                          中井 憲治
 平成28年6月新刊の本書は,無名の剣士・大館(おおだち)和夫(かずお)の語りを収録。8日の読売夕刊が「死と隣り合わせの人生,本に」,14日の朝日夕刊が「特攻隊員から刑事,剣道指導者へ。前へ前へ,戦友の分まで」と報道,22日の毎日朝刊コラムも「私は仕事をし,結婚し,家族もできた。でも,国のためという命令に従い,潔く死んだ戦友たちにその人生はなかった。戦後はどんな苦しい目に遭っても,生きた者の務めだ,と思えた」と語る大館を紹介するなど,多くの関心をあつめています。私も剣道を愛する者のひとりとして本書を読みました。

 この本には貴重な写真が掲載され,主人公・大館の思いをより深く伝えます。目をこらして,冒頭の大館日誌の写真をご覧ください。「文は人なり」といいますが,日誌の内容はもとより筆跡も,お人柄をよく表しています。同じ頁に昭和20年5月「戦闘詳報」の写真があります。「爆装 二飛曹長・大館和夫」「全航路敵ヲ見ズ石垣基地」とのメモ行間の意味を,そのとき大館少年が,どのような思いで空を飛んでいたか,皆様それぞれの見方で推しはかりながら,素直に心で感じていただければ・・と思います。


 
           無名剣士の見事な生涯剣道

 本書は,90歳の現役剣士・大館和夫が語る生涯剣道の実践録である。大館は16歳で予科練に入隊,少年航空兵となった。昭和19年8月,全財産を落下傘バッグに入れてゼロ戦の操縦席後ろにくくりつけ,戦地台湾に飛ぶ。フィリッピン転戦後,17歳で特攻隊員となった。大館は訥々(とつとつ)と,少年の視座から見たゼロ戦特攻の記憶から語りはじめ,敗戦で復員し警視庁刑事となり,亡き戦友への鎮魂の思いを秘めつつ,強く真っすぐ生きた軌跡,刑事退職後の企業勤務と御令室介護の間も精勤した少年剣道指導等の日々を,目の当たりに再現して語る
 満天の星明かりの下のクラーク基地,ゼロ戦搭乗員・総員集合の異様な雰囲気の下,名乗ることなかった海軍高級将校が「特攻の趣旨をよく理解して賛同してもらいたい。命令ではない。諸君の意志で決めてもらいたい」と志願を求める。当初,手を上げる者は皆無だったが,屹立(きつりつ)する体が硬直し揺れはじめたとき,別の匿名高官が「趣旨に賛成する者は,挙手の表示をしてもらいたい」と,強い声を発した。その後の状況につき,大館は

≪前の数人かが,ゆっくりとおずおずしているような動作で,手を途中まで上げかけた。つられるようにして後ろの幾人が上げ始めた。それに合わせて,残った者がパラパラと手を上げ,結局全員が挙手した。私も上げた。そのとき,私はなぜか空を見上げた。手の先に,南十字星が強い光を放っていた。「あと幾晩この星を見て寝られるのかな。あと何日かすれば,おれはもうこの世にいないんだな」との思いが突,頭をよぎった。あの星の輝きは目に焼きつき,七十年以上たっても忘れることができない≫
 
と回顧する。大館が昭和20年8月,第八回目特攻の離陸寸前,玉音放送で生還し得たときは弱冠18歳。多くの戦友を次々に失う第一線の戦場,生死の境に少年の身を置きつづけ,そして,生き永らえた。奇跡というほかない。
 大館は11歳で剣道をはじめた。19歳で奇跡の復員をし得た後,好きな剣道ができる警視庁に奉職。刑事の激務のさなかも朝稽古は継続し,数々の事件で手腕を発揮した。「捜査は窃盗にはじまり窃盗におわる」というが,大館は,首都盗犯捜査の中核たる警視庁刑事部捜査第三課管理官をもって退職。基本に忠実な剣道を実践する大館に,含蓄(がんちく)の人事であったやに感じる。退職当日の夕刻,ふらりと訪ねた地元小学校。その日から少年剣道の指導をはじめ,爾後,御令室介護の間も含めて31年余,剣道一筋の生き様だ。「仕事がどんなに忙しくても稽古はできる。出席簿はいらない,欠席簿でいい」と語る警視庁朝稽古,これと共に地元少年剣道でも抜群の出席率だ,と聞く。大館は90歳の今も週数回の稽古をつづけるが,段位取得には拘泥(こうでい)しない。「少年の稽古を指導するなら段位も意味あるか」と七段までは取得したが,それで十分と考え,一度も八段を受審しない。市井で一灯照隅する剣士で了されるつもりだ,とかねて拝察した。
 
 本書は,朝稽古で大館に打込み稽古を願うジャーナリスト西嶋大美(元・読売新聞記者)と早稲田大学法科大学院教授太田茂(元・京都地検検事正)が協働して執筆した。2年間22回合計70時間を超えて協働し,聞取り取材を行った成果を,更に吟味し協議して取りまとめた労作である。数十年前の記憶を昨日のそれの如く再現し得る類いまれな記憶力,長年克明に記す日誌等に基づく大館の語りは,それ自体で第一級資料と評し得る。練達の著者らは,これを録音して書き起こし,各知見を活かし多くの参考文献と照合するなど,記憶の正確性吟味と再現検証に一層努めた。さらに,執筆に際し参考文献の掲記はもとより,語りの意図をよく理解させるべく,背景事実や史実を適宜注記するなど,学術論文作成の手法を用いた。出自と個性を大きく異にする両著者は,分担執筆した初稿につき,多数回ねばり強く協議し推敲(すいこう)を重ね,高校生にも理解できるよう平易に,全体の文体を統一。その上で大館の数次のチェックを経,本書は完成を見た。共著に係る出版物は多いが,本書のように学識経験豊かな執筆者が,徹底して自己主張を抑え,大館の語りの正確な再現に専ら配意した協働作業それ自体すばらしく,多くの類例見いだしがたいやに思う。主人公・大館と両著者の剣ヲ(まじ)エテ()シムヲ知ル(こう)(けん)()(あい),剣縁の功徳であろう。
 
 本書は,少年特攻隊員の貴重な歴史資料であるとともに,刑事そして民間人として生涯剣道を見事に実践した記録として第一級のものだ,と思う。剣道の目的は,優勝試合の勝ち負けでも,高い称号段位の取得でもない。剣の理法の修錬による人間形成の道だ。大館は無名だが,その道を歩みつづける剣道人。「剣道専門家として身を立てたいとまでは思わなかった。ただ,剣道が好きで仕方なかった」と語る大館剣士の生き様とその生涯剣道の具体的実践の様を一読するや,類書の中で最高の評価に値する,と直感した。武道を愛好する大学生や高校生を含め,広く多くの諸賢に読んでいただきたい良書である。
 なお,本書は,敗色濃い昭和20年2月「昭和天皇の実弟・三笠宮親王(陸軍籍)と思われる人物」が密かに鹿児島から海軍機で上海に飛ばれた際の護衛飛行についても記述。この護衛飛行に関する事実は,本書が初公開したものだ。執筆者は,日中和平交渉にからんで三笠宮親王が上海に赴かれたか,と推論する。当該事実は現代史の研究対象に値するやに思われ,本書の学問的価値という視点から最後に記しておきたい。
 
   ≪仙台大学理事・客員教授(現代武道学科),元・法務総合研究所長≫