2014年7月24日木曜日

【TORCH Vol.059】 「読み比べて分かる我が恩師の偉大さ」 -皆さんもぜひ読み比べを-

仲野 隆士

 「君ら院生は、本当に本を読んでないねぇ・・・」、これが大学院で私を指導してくださった先生の当時の口癖でした。その先生は本を読むということが三度の飯よりも好きというくらい様々なジャンルの本を読んでおられ、しかも必要に応じて繰り返し読み直すということをされていましたので、我々院生が実に物足りなく写っていたのでしょう。当時の私は、ご指摘の通り確かに本を読むという確固たる習慣が欠如していました。それゆえに、修士論文を完成するまでの過程において多くの文献や研究論文を読んだりすることが不可欠でしたので、本当に苦労しました。その先生が、院に進学した1984年の年末に、『スポーツとルールの社会学』《面白さ》をささえる倫理と論理と題する本を出版されました。体育原理とスポーツ社会学が専門の先生でしたので、タイトルも内容も専門領域に合致したものでした。
 この先生に論文指導を受ける身として、この本を読まなければ何も始まらないと考えた私は、とにかく1冊購入し読破を試みました。思えば、それまでの人生において初めて真剣に本と向き合ったように思います。しかしながら、この本は私の手に終えるような代物ではありませんでした。部分的には理解できるのですが、いわゆる法律や法社会学を勉強しないと完全には理解できないものでした。もちろん、自分なりに勉強し必死に理解しようと努力はしました。しかし、それでもなお解釈し切れなかった部分が多々あり、消化不良のままで終わってしまったというのが正直なところでした。著者であるご本人は、法律や法社会学などについて我々の想像を超える勉強を重ね専門知識を蓄積され、専門家に教えを請うといったこともされていたのを院生である我々は知っていました。そういった努力を何年も何年も続け完成された本ですので、凡人である我々には簡単に読破できなかったのかもしれません。当時の我々院生は、先生に対し「先生の書かれた本は難し過ぎて我々には理解できない部分があります」といったことを正直に伝えた記憶があります。先生にとってみれば、実に嘆かわしい院生であったに違いありません。
 いつしか月日は流れ、先生があの本の続編を退職される前に出版されることを知り、出版と同時に購入し読破しました。いや、「私にも読破できた」というのが正解でしょう。2007年に出版された『スポーツルールの論理』というタイトルの本がそれです。まさか「じゃんけん」からルールを考えるという発想から組み立て直すとは奇想天外で、さすがは非凡にして個性の強い先生らしさが溢れていました。しかも全体の構成が面白くて分かりやすいので、正に目からうろこの思いがしました。「バレーボールというスポーツは、プレイする誰かがルール違反をしない限りどちらにも得点は入らず、ネットを挟んだ緩やかなボールのラリーが延々と続く」という説明も、「なるほど確かに良く考えてみればそうだな」と頷ける説得力があります。その他にも、前作では理解に苦しんだ部分も、続編では容易に理解することができました。「何だ、こういうことを先生は言わんとしていたのか!」とか、「確かにこの図や表なら全体の構造や説明が分かりやすい」といったことを自問自答しました。いうなれば、先生が世に問いたかったことを、凡人である我々にも理解できるレベルに落とす涙ぐましい努力と労力を注いでくれたわけです。このように書くのは簡単ですが、普通はこんな手間のかかる面倒な作業はしないでしょう。そこに、恩師である先生の偉大さを感じています。
 学生の皆さん、自分が楽しんできた・継続してきたスポーツのルールについて深く考えたことがありますか。スポーツのルールそのものについてもですが、いかがですか。もしも深く考えたことが無いのであれば、ぜひ『スポーツルールの論理』を読んでみてください。きっと個々のルールの存在理由やスポーツのルールというものが担う機能や構造が分かります。また、スポーツというものをより深く理解することができると思います。その上で、さらに余力のある人は、先生の前作である『スポーツとルールの社会学』に挑戦してみてください。こちらは極めて手ごわいですが、夏休みや年末年始といった長期の休みの折にでも読んでみてはいかがでしょうか。スポーツのルールを取り上げた本は何冊か読みましたが、この本を超える本に出くわしたことがありません。読む価値は十分あります。この夏、私も再度2冊を読み比べてみることにします。教員の皆様も、時間が許せば読み比べてみてはいかがでしょうか。
 余談ですが、その先生の教えで「同じコトを続けていけば、いつかは専門家と言われるようになるものだ」というものがありました。スポーツのルールのことを何年も何年も考え続けた結果、先生はスポーツのルールの専門書を2冊も出版した専門家になられました。私も、本学に赴任してからこれまで続けてきたレクリエーション支援の活動や、スペシャルオリンピックス(SO)の活動があります。これからも継続してきますが、いつの日か私自身の集大成として、本にまとめて出版できたらと考えています。

<取り上げた本の紹介>

・守能信次『スポーツとルールの社会学』《面白さ》をささえる倫理と論理 名古屋大学出版会
 1984年 
・守能信次『スポーツルールの論理』 大修館書店 2007年

【TORCH Vol.058】 池井戸潤 『ルーズヴェルト・ゲーム』 ~企業スポーツのエンタメ参考書~

高成田 亨

日本のスポーツを大学とともに支えてきた企業スポーツの歴史や現状、今後のあり方を学ぶ「企業スポーツ論」という講義を続けている。ある日の授業のあとで、「先生が話しをしていたのと同じような話がこの本に書かれています」と言って、紹介されたのが池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』(講談社文庫)だった。

早速、本屋で買い求めてわかったのは、この作家が「倍返し」で話題になったテレビドラマ「半沢直樹」の原作者(原作は『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』=いずれも文春文庫)であり、2011年には『下町ロケット』(小学館文庫)で直木賞を受賞した人物で、受賞後の第1作として2012年に刊行されたのがこの作品ということだ。

直木賞といえば、芥川賞と並び、文学界ではもっとも権威のある賞だけに、直木賞作家となった池井戸氏が相当に力を入れたものだと想像できる。実際、読んでみると、その筋書きの面白さにつられて一気に読んでしまった。

中堅の電子部品メーカーである青島製作所は、創業者が熱心な野球ファンで、自らも企業内に野球チームを設けて、支援してきた。しかし、ライバル会社のミツワ電器に監督と主力投手や打者を引き抜かれ、成績不振に陥ったところに、2008年のリーマンショックで会社本体の経営も苦しくなり、野球部の存続も危うくなる。

そこで、風前の灯火(ともしび)となった野球部を再興するために立ち上がった男たちがこの物語のヒーローたちで、次々に襲いかかる危機と、その後の逆襲というか「倍返し」は、はじめからテレビの連続ドラマを意識したようなで展開になっている。作者の思惑通り、2014年4月から6月までテレビドラマとして放送されたというから、ご覧になった人も多いのではないか。

★企業スポーツの歴史
日本の企業は、西欧の文化であるスポーツが我が国に紹介された明治以降、企業内にスポーツチームをつくり、その競い合いのなかで、日本のスポーツ全体の水準を国際レベルにまで高めてきた。その成功例のひとつが1964年の東京オリンピックで、紡績会社ニチボー(現ユニチカ)の企業チーム「ニチボー貝塚」の選手を主力とした女子バレーボールが金メダルを獲得した物語だ。

日本で企業スポーツが発達したのは、社員の福利厚生の一環として、従業員によるスポーツチームを積極的に支援したためだが、戦前は労働運動のエネルギーを企業スポーツに向けさせたり、戦後は企業の名前をPRする広告塔としての役割を課せられたりした。さらに企業は経営者が父、従業員が子どもの家族という家族主義の経営が社会に受け入れられ、その家族統合のシンボルとして企業スポーツが使われてきた。

しかし、1990年代にバブル経済が崩壊すると、企業チームを養うだけの財力がなくなったうえに、従業員を大事にする家族主義ではリストラができないとして、企業スポーツは次々に廃部の憂き目にあってきた。2000年代に入ると、廃部の動きは目立たなくなったが、リーマンショックとともに、再び企業スポーツを廃部にする動きが目立ってきた。

この小説の時代設定も、企業スポーツにとっては最後の逆風ともいえるリーマンショックのころで、企業が懸命に生き残り策をさぐるなかで、企業スポーツに何が求められたのかがよく描かれている。この題名は、世界大恐慌から第2次大戦にかけて米国の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(1882~1945)が野球でいちばん面白いのは8対7のゲームだと語ったというエピソードが小説のなかに出てくるので、そこからとったものだろう。

★日産自動車硬式野球部
企業スポーツの現実は、ルーズベルトゲームどころか、経営者の鶴の一声で完封負けというところが多かったが、それでも小説的な展開を見せたという点で思い出されるのは都市対抗野球で活躍した日産自動車の野球チームだ。

1959年に神奈川のチームとして産声をあげた日産自動車硬式野球部は、社会人野球の甲子園ともいえる都市対抗野球に29回の出場を誇る強豪で、1984年と1998年の2度にわたって優勝し、その栄冠である黒獅子旗を獲得している。1999年、悪化する会社の経営を立て直すために、提携先のルノーから「コストカッター」の異名で送り込まれてきたのがカルロス・ゴーン社長だ。

大胆なリストラを進めるゴーン氏のもとで、野球チームも存続が危ぶまれたが、この年の夏の都市対抗野球大会で奮戦する自社のチームを観戦したゴーン氏は、スタンドを埋める応援団の盛り上がりに感銘を受け、直後の記者会見で「都市対抗野球こそは日本の企業文化の象徴」と語り、野球部の存続を明言した。

残念ながらリーマンショック後の2009年、野球部の廃止が決まり、企業スポーツとしては、最後に逆転負け気を喫したが、強引なコスト削減を進めたゴーン氏ですら、野球チームを切ることが難しかったわけで、日本の企業文化における企業スポーツの重要性を物語るエピソードだろう。

★企業スポーツの参考書
この小説の結末がどんな展開になったかは、小説を読んでいただくしかないが、日本の企業スポーツが置かれた最近の状況をわかりやすく、そして面白く解説する参考書として、みなさんには本書を薦めたい。企業スポーツ論を講義するのなら、このぐらいのエンタメ精神がなければ、学生はついてきませんよ。本書を私に紹介した学生の真の意図は、そんなところにあったのかもしれない。スタンドを沸かせるどころか眠らせるのを得意とする私自身の授業ゲームにも、大いに参考になったと、告白しておこう。

2014年7月4日金曜日

【TORCH Vol.057】 1914年

乗松央

 ちょうど100年前のこの年、第一次世界大戦は始まった。第二次大戦における原爆やホロコーストの禍々しい衝撃に目を奪われ、ともすると第一次大戦の歴史的な意義を忘れそうだが、第二次大戦を超える強烈なインパクトを、それは人類史にあたえていた。「現代」と現代史はまさにここから始まる。ルネッサンスに始まりフランス革命を経て完成された西欧近代は、第一次大戦を契機に急激な転換を見せる。時間の経過とともに未来のユートピアへ向けて人類が歩んでいるという進歩思想が、音を立てて崩れ去り、予定調和や自由放任といった近代に特有の価値は第一次大戦を契機に疑念の目で見られるようになる。この衝撃を如実に物語った文献として著名なのが、S.ツヴァィクの『昨日の世界』《注1》である。清水幾太郎編集の『思想の歴史(8)近代合理主義の流れ』《注2》は、この諸相を分かりやすく説明している。
 後の第二次大戦において大英帝国の戦争指導を担うW.チャーチルは自伝的回想「世界の危機*」の中で、第一次大戦について次のように述べている。「--人類は初めて自分たちを絶滅できる道具を手に入れた。これこそが、人類の栄光と苦悩の全てが最後に到達した運命である。」
 にもかかわらず日本の場合、第一次大戦の衝撃が見過ごされがちだ。極東にあってほとんど戦闘行為を経験することなく多大の利益を得ることのできた日本人にとって、この大戦に関する情報は稀薄であったばかりか逆に空前の戦争景気という甘美な事件として記憶された。この辺りの事情は猪瀬直樹の『黒船の世紀』《注3》が次のように生々しく伝えている。「日本人は、悲惨なヨーロッパ戦線を知らず、戦勝景気で湧いていた。--天長節を祝うために、在ベルリンの日本人は高級ホテルのカイザーケラーに集まり、祝賀行事を催した。外交官、軍人、実業家、新聞記者らである。といってもわずか二十数名しかいない。日本国内が戦争景気に湧いているとき、敗戦直後のドイツの実情をつぶさにみる立場にあった人々の数が、たったこれだけだったことは記憶にとどめておきたい。」また加藤陽子の『戦争の日本近現代史』《注4》は外交・軍事面での日本の反応を描いているが、そこには新しい国際情勢に対し目先の利益に右顧左眄する日本の姿と総力戦における戦略と軍事技術への当惑や怯懦があるばかりで、第一次大戦の世界史的な意義を捉える視点を、日本の指導者は欠いていたようである。
  第一次大戦に関する文献の中で特に有名なものにバーバラ・タックマンの『八月の砲声』《注5》がある。ピユリッツァー賞を受けたこの作品は、大戦の背景と開戦劈頭の数週間を描いたに留まるが、しかし甚だ肝要な史実をわれわれに告げている。それは、世界史の大転換をもたらす第一次世界大戦が実は偶然の所産であり、そればかりか各国の指導者たちが本格的な戦闘を回避しようとしたにも拘わらず全面戦争へ突入せざるを得なかったという意外な史実をである。まさに、「ヨーロッパはよろめき入るように戦争に入った」のである。この後につづく戦争の多くが、明確な意思と緻密な計画の下に開始されたのに対し、第一次大戦は偶然の所産という側面が大きい。
(むろんドイツのシュリーフェン計画のように戦争勃発後における戦略や作戦計画は各国に存在したが、開戦前の時点で全面戦争を企て遂行するという明確な国家意志をもつ国は無く、指導者たちはサラエボの暗殺事件から「八月の砲声」に至る数週間を戦争回避のために費やしたのであった)
 そしてこの偶然性こそが、第一次大戦にいっそう暗く冷酷な相貌をあたえている。第一次大戦という偶然がなければ、その後のロシア革命も第二次大戦もなく、その結果、広島・長崎への原爆投下もアウシュビッツも、数える上げることが困難な夥しい命が失われることもなく、そして多大の犠牲を強いながら不毛の結果に終わったソ連東欧圏における社会主義の実験も無かったのである。もし神が存在するなら彼は気まぐれなサディストだろうし、神が存在しないのなら人類は時間の奔流に流され水底に沈む塵芥に過ぎなくなるのではないか。
 何れにせよ、われわれは第一次大戦に始まる現代に存在し、その現代を生きねばならない。この意味において第一次大戦は不可避の史実であり逃れられない現実と言える。
  そこで、この大戦を世界史的展望の中に位置づけて考えようとするなら、ウィリアム・マクニールの『戦争の世界史-技術と軍隊と社会-』《注6》が文庫本になり入門書として便利である。同じマクニールの『世界史』《注7》は、大学生協で現在最も売れている歴史書だそうだが併読すると第一次大戦の立体的な把握が容易になる。また、戦争それ自体を把握するにはリデルハートの『第一次世界大戦』《注8》が最適といえるが、これは浩瀚な大著であるため時間の制約がある場合には同著者の『第一次世界大戦/その戦略』《注9》がコンパクトで読み易い。さらにビジュアル資料によって立体的な理解を進めるには学研の歴史群像シリーズ『[図説]第1次世界大戦』《注10》がある。またNHKと米国のABCによる共同取材、共同制作『映像の20世紀:大量殺戮の完成』《注11》は優れたドキュメンタリー作品である。
 フィクションの分野では、レマルクの『西部戦線異状なし』《注12》があまりに有名だが、これを映画化したR.マイルストン監督作品《注13》も第3回アカデミー賞の作品賞、監督賞を受賞した佳品と言える。最近の映像作品ではW.ボイド監督の『トレンチ<塹壕>』《注14》がある。わずか2時間で6万人が犠牲となったソンムの戦いと塹壕戦の諸相をリアルに再現した映像である。
  第一次世界大戦の衝撃を確認するとき真っ先に掲げねばならなかったのがO.シュペングラー『西欧の没落』《注15》である。これを最後に上げるのは、あまりの大著であるため読み切れていないゆえである。
【読書案内】
《注1》S.ツヴァィク『昨日の世界Ⅰ、Ⅱ』原田義人/訳、みすず書房
《注2》清水幾太郎/編『思想の歴史(8)近代合理主義の流れ』平凡社
《注3》猪瀬直樹『黒船の世紀 -ガイアツと日米未来戦記-』(文春文庫)
《注4》加藤陽子『戦争の日本近現代史 東大式レッスン 征韓論から太平洋戦争まで』(講談社現代新書)
《注5》B.タックマン『八月の砲声(上)(下)』山室まりや/訳(ちくま学芸文庫)
《注6》W.マクニール『戦争の世界史(上)(下)』高橋 均/訳(中公文庫)
《注7》W.マクニール『世界史(上)・(下)』増田義郎・佐々木昭夫/訳(中公文庫)
《注8》リデルハート『第一次世界大戦(上)・(下)』上村達雄/訳、中央公論新社
《注9》リデルハート『第一次世界大戦 その戦略』後藤冨男/訳、原書房
《注10》星川 武/編『歴史群像シリーズ 戦略・戦術・兵器詳解 [図説]第一次世界大戦(上)(下)』学習研究社
《注11》企画・制作:NHK、ABC(米)『映像の20世紀:第2集/大量殺戮の完成;塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た』(NHKエンタープ ライズ)
《注12》レマルク『西部戦線異状なし』秦豊吉/訳(新潮文庫)
《注13》L.マイルストン監督作品『西部戦線異状なし』(発売元:ファーストミュージック株式会社)
《注14》W.ボイド監督作品、S.クラーク製作『ザ・トレンチ <塹 壕>』(英国)販売元:株式会社 ポニーキャニオン
《注15》O.シュペングラー『西欧の没落世界史の形態学の素描<第1巻>形態と現実と』五月書房
*なお、W.チャーチルの「世界の危機World  Crisis」は 1930年に『大戦後日譚:外交秘録』のタイトルで邦訳されたものがあるが、国立国会図書館で閲覧する以外、一般の書籍流通ルートを通じた入手が困難と言われている。本文の引用は、《注11》の映像ソフトにおけるナレーションに拠る。
(完)

【TORCH Vol.056】 私が唯一読む東野作品

山口貴久

このブログを書くことが決まった時、私が最近読んだ本を思い返してみました。すると、驚くことに、ここ数年は東野圭吾の小説以外に読んだ本といえば、アスレティックトレーニングやスポーツ医学に関する専門書しかないことに気が付きました。我ながら情けないことですが、そんな私でも専門書以外に唯一読んでいた東野圭吾作品について今回は触れたいと思います。

私が初めて東野圭吾という作家を知ったのは、当時所属していた社会人体操クラブの選手が東野作品を読んでいた時のことでした。

私「何、読んでるの?」
彼「東野圭吾です!」
私「誰それ?」
彼「え゛~知らないんですか~!?」

当時、数々の作品で既に有名になっていた東野圭吾を私が知らなかったのは、彼からするとかなりショッキングな出来事だったようです。とにかく、この時、初めて東野圭吾という名前を聞きました。

しかし、もともとミステリーや謎解き作品が好きではなかったからか、それからすぐに東野作品を読んだ、というわけではありません。実際に東野作品を読んだのは。数か月後の遠征の移動時でした。出発前の駅の書店で「十字屋敷のピエロ」という作品を購入しました。なぜこの作品を選んだのかは覚えていません。恐らく深い意味はなく、ただ、そこで売られていただけ……だからだと思います。

この「十字屋敷のピエロ」という作品は、とある一家に起こる事件の様子をピエロ人形の視点で語るといった、一風変わったものでした。物語がわき道に逸れることなく、非常にシンプルで読みやすかった印象があります。とはいえ、ものすごく面白かったかというと、それ程でもありませんでした。

しかし、その後も時間があるときは東野作品を読んでいました。それは“はまった”というよりも、他に読む本がなかったから、というのが正しい表現だと思います。

そんな中、東野作品に“はまる”きっかけとなったのは「手紙」という作品でした。この作品は犯罪加害者の家族をテーマに書かれたものです。兄は弟のために殺人を犯したが、弟は殺人犯の兄がいるという理由で様々な苦労を強いられる。とても悲しいですが、いろいろと考えさせられる作品でした。

そして私が「東野圭吾ってすごい!」と心から感じた作品は「天空の蜂」です。私がこの作品を手にしたのは2010年6月のことでした。大学の出張でベラルーシへ行く際に、せっかく移動時間がたっぷりあるので、長編大作をと思い購入しました。作品の内容は、盗まれた超大型ヘリコプターに爆薬を載せ、稼働中の原子力発電所に落とすと脅迫するテロリストを探し出す、というものです。内容に関しては意見が分かれるところですので、あえて触れませんが、何より私は、震災・福島原発問題より16年も前に、東野圭吾が原子力発電所をテーマに作品を書いていたことに驚き、感服しました。震災後に再読したことは言うまでもありません。ちなみにこの作品は来年映画化されるそうです。

東野圭吾といえば、ガリレオシリーズか加賀恭一郎シリーズを挙げる人が多いと思います。私は加賀恭一郎派で、実はガリレオシリーズはあまり好きではありません。理由は自分でも分かりませんが、加賀恭一郎というキャラクターが好きで、湯川学がそれほどでもないからだと思います。ただ両方ともドラマや映画などの実写版を見るのは好きです。それぞれの俳優さんが好きなので(このブログで書くことではないですかね・笑)

東野作品は、ひょっとしたら本格的なミステリー作品をお好みの方は、少し肩すかしを食らうかもしれませんが、非常に分かりやすく、入り込みやすいストーリの作品が多いのでミステリー導入編としては良いものだと思います。是非一度手に取ってみてください。