2013年7月8日月曜日

【TORCH Vol.021】『物語』を読む ~千と千尋の神隠しより~


  准教授 菊地直子

 みなさんは宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を読んだこと、または映画を観たことはありますか?この作品は、日常生活とは異なる不可思議な場面が設定されていたり、不可解な生き物が登場したりと、ある意味非常に難解であったにもかかわらず、発表当時から大変多くの人に支持され続けている作品です。それではなぜ、それほど多くの人々に感銘を与えたのでしょうか。少し、心理学的にこの作品を見てみましょう。今回は物語を一つの視点を持って見つめることで新たな読みの方向性を探ってみたいと思います。

 この物語は、10歳前後の平凡な女の子(千尋)が、親の都合による不本意な転校を余儀なくされ、まさに「ぶーたれている」場面から始まります。転校先の土地(不案内の土地)に行こうとして道に迷い、不気味なトンネルをくぐって現実とは異なる世界に踏み込みます。これまで経験したことのない世界に足を踏み入れる時、【トンネル】や【下っていく階段】、【水底】などは心理学的には象徴的なモチーフで、心理的な危機に立っている人が自身の深いところに接近する時には「夢」として現れることがあります。心理学的に見てみると、この作品は思春期に差しかかった少女の心理的な発達と現代社会の病理を描いた物語と捉えることができそうです。では、もう少し詳しくこの物語を見ていきましょう。

 千尋の両親はトンネルをくぐってすぐに、この不可思議な世界を自分の了解する世界と見做して「後でお金を払えばいい」と屋台のものを勝手に食べ、豚に変わってしまいます。千尋は、今いる世界の不気味さにおののき、両親が豚になったため(守ってくれなくなり)途方にくれます。そこに、ハクという謎の男の子が登場して千尋を湯婆婆が経営する「油屋」に連れていきます。そこで千尋は、「働かないものは生きていけない」ことを知ります。これまでの「親」という絶対的な価値観や守りがなくなり、千尋は自分で何でもしなくてはならなくなります。「油屋」でのエピソードは、自立への課題の一つとして「働くこと」が内在化されていく過程のようです。ハクは物語の最後まで重要な役割を果たしますが、人間が成長する(新しい世界を知る)時に、異性がその橋渡しをすることが多いことは、私たちは経験的に知っているのではないでしょうか。

 千尋は、生きるために、そして両親を救うために湯婆婆と契約して働くことになりますが、その際に名前を奪われ、「千」と呼ばれることになります。「油屋」は、その名前に似ず神々の疲れをいやす湯殿であり、お休み処です。強欲な湯婆婆は、経営者としては非常に有能な手腕を発揮していますが、湯婆婆の息子(坊)は、からだばかりが大きくなった手に負えない子供として登場し、(後にハクが指摘するのですが)本当に大切なものが見えなくなっている、過保護な(スポイルする)母親像でもあることが明らかになります。

 この物語には様々な人々(?)が登場します。後半、湯婆婆の双子の姉である銭婆が登場しますが、彼女は「沼の底」駅近くに住み、湯婆婆とは正反対の価値観を持つ者、「育む者」として重要な役割を担います。「あたしらはふたりで一人前なのにね」という銭婆の言葉通り、彼女たちは「母性」の持つ二つの側面を暗示しています。一方、油屋を根底から支えているのが釜爺です。(家庭のために)毎日釜の火を焚き黙々と働いていますが、子供にとっての社会との窓口となって道を示すなどします。必要な時に重みのある言葉を言ってくれる存在であり、父性を象徴していると言えます。釜爺とのかかわりの中で、「世話になったらお礼を言うんだ」と、当たり前のことを当たり前にやることを教えられ、千尋が社会に開かれる場面も垣間見えます。

 ある日、’カオナシ’があらわれ、千尋は客と間違えて油屋にいれてしまいます。この’カオナシ’は何を象徴しているのでしょうか。顔を持たない(何者でもない)者であり、他人を飲みこんで(同一化)他人の声で語ったり、他人の価値基準(たとえばお金)をそのまま鵜呑みにしてふるまったり、思い通りにならないと暴発してしまったり。油屋の中で虚飾の中を生きてみてもその虚しさ・寂しさから、本当に必要なものを求める姿(千尋)にあこがれます。しかし、拒絶されると、なんとか千尋を自分と同じ水準にまで落としたいと籠絡することを試みたりもします。この’カオナシ’の存在は、大人の世界との折り合いや思春期課題の難しさを投影しているのかもしれません。このほか「ハク」や「腐れ神」、「油屋」、そして奪われた「名前」を取り戻すことなど、意味のある人物やエピソードは枚挙にいとまがありません。いずれにしてもこの物語は、ある少女が非常に危険な体験を伴いながらも様々な人々との出会い、自立していく過程を描いた「成長の物語」であり、子供が大人社会に適応していく難しさをも感じさせてくれる物語となっています。

 「鶴の恩返し」などの日本古来から伝わっている昔話や、ヨーロッパのイソップ物語など、長い間語り継がれてきた類の物語や人の心に残る『名作』といわれる作品には、われわれ人間が共通に経験するような普遍的テーマが織り込まれています。もしかするとそのような物語を読むことを通して、私たち読者は自分自身の物語を読んでいるのかもしれません。『千と千尋の神隠し』には、数々の神話のモチーフが盛り込まれており、ここで紹介した見方のほかにも様々な解釈や、例えば精神分析的視点から読み解く試みなどもあります。

 「読む」とは決して受け身的なものではなく、むしろ積極的で主体的な言語活動です。みなさんもいろいろな視点を持って「物語」を読んでみてはいかがですか?