2015年3月14日土曜日

【TORCH Vol.066】 「自閉症の僕が跳びはねる理由」 東田 直樹 著 (株)エスコアール出版部

 「自閉症」 どなたも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
自閉症とは,生後36ケ月までに現れ,①他人との社会的関係の形成の困難さ ②言葉の発達の遅れ ③興味や関心が狭く特定のものにこだわる。これらを特徴とする行動の障害と言われています。私が特別支援学校の教員だった平成3年ころのDataでは,東北6県の知的障害養護学校(現特別支援学校)には,各学校におよそ25%の自閉児が在籍していました。奇声を上げたり,跳びはねたり,自傷行為を繰り返したりとコミュニケーションを取って,指導の手だてを考えるのに苦労した覚えがあります。
 今回紹介する「自閉症の僕が跳びはねる理由」の著者,東田直樹氏は,平成4年生まれ比較的重い自閉症で小・中学校は特別支援学校に学んだ経歴の青年です。同氏著「跳びはねる思考」イースト・プレス社の巻末の紹介によると『会話のできない重度の自閉症者でありながら,文字盤を指差しながら言葉を発していく「文字盤ポインティング」やパソコンを利用して,援助なしでのコミュニケーションが可能』となっています。
 私がこの本を知ったのは,昨年8月にNHK総合テレビで放映された「君が僕の息子について教えてくれたこと」というドキュメンタリー番組を見たことでした。東田氏が自分自身の内面を語ったエッセイを英訳したデイヴット・ミッチェル氏と面会し,自閉症である自身の思いを伝えたことが中心に描かれている番組でした。デイヴット・ミッチェル氏は自閉症の息子の親であり,東田氏のエッセイを読んで,我が子の気持ちが分かったと言います。
 特別支援教育を専門としている私がこんな事を言っては叱られますが,自閉症の子どもが何をどのように感じ,どのように考えているかを知ることは,すこぶる難しいことだと感じていました。しかし,この本を読んでみると,それぞれの短いエッセイは,今まで私の中で,もやもやしていた疑問に端的に答えてくれるものが並んでいたのです。5章に分けられた内容は,次のとおりです。(目次から引用・改変)
第1章 言葉について    口から出てくる不思議な音
第2章 対人関係について  コミュニケーションとりたいけど…
第3章 感覚の違いについて ちょっと不思議な感じ方。なにが違うの?
第4章 興味・関心について 好き嫌いってあるのかな?
第5章 活動について    どうしてそんなことするの?
まるでQ&Aのように簡潔明瞭に記述されています。ちょっと長くなりますが,「どうしてパニックになるのですか?」の一部を引用してみます。
『どうしてパニックになるのか,みんなには分からないと思います。~中略~ 僕たちだって,みんなと同じ思いを持っています。上手く話せない分,みんなよりもっと繊細かもしれません。思い通りにならない体,伝えられない気持ちを抱え,いつも僕らはぎりぎりのところで生きているのです。気が狂いそうになって,苦しくて苦しくてパニックになることもあります。そんな時には泣かせてください。側で優しく見守ってください。苦しさのあまり自分が分からなくなり,自傷,他傷行為をするのを止めてください。』

 本人が語っているから,なおのこと,苦しさを感じます。
昨今は自閉症というと発達障害の範疇であったり,自閉症スペクトラム障害といった新しい障害の概念で語られることが多くなっています。障害の有無にかかわらず「生きにくさ」というくくりで,考えると健常だと思っている自分自身にも当てはまる事象があるように思われてなりません。
このエッセイは,様々な国で翻訳されて,20か国以上でベストセラーになったと言われいます。興味のある方は,是非,ご一読をお勧めします。      渡邊 康男

【TORCH Vol.065】 科学とは何であろうか

宮西智久

 発光ダイオード(LED)の基礎と応用研究によって、昨年3人の日本人科学者がノーベル物理学賞を受賞した。受賞が決まったとき、日本中が歓喜するとともに、同じ日本人として多くの人たちが大変誇らしい思いをしたことだろう。
 さて、そのLEDにかぎらず、わたしたちの身のまわりを見渡してみると、携帯電話やスマホをはじめ、家電製品や乗り物などいろいろな物(文明の利器)があふれている。また、部屋の壁のスイッチを押せば電気がつき、水道の蛇口をひねれば水が出、コンロのスイッチを押せば火がつく。はたまた人類はもうすぐ73億人に到達する。これらはほんの一例に過ぎないが、いずれも科学(と技術の発展)のおかげであるのは疑う余地がない。このように、科学は、われわれの身近にあり、われわれに数多くの恩恵をもたらしてくれているが、はて、その科学とはそもそも「いったい何か?」と質問されたとき、きちんと答えられる人はいるだろうか。実は、科学哲学者といわれる専門家のあいだにおいても、科学とは何かについて規定することは案外やっかいのようだ。
 ここでは、わたしが院生の頃貪り読んだ科学哲学の名著を3つ簡単に紹介したい。

● K.ポパー(大内義一・森博訳):『科学的発見の論理』.恒星社厚生閣,1971.
 科学と科学でないもの(非科学または似非科学)を区別するために「反証可能性」という判定基準を設けることによって科学を規定した科学哲学の古典的名著。
 ポパーは、科学的理論(仮説)は帰納法によって正当化されないと主張した。帰納法とは、たとえば、「あるカラスは黒い」→「これまで観察されたすべてのカラスは黒い」→(ゆえに)「すべてのカラスは黒い」とする推論、すなわち単称命題(観察、事実、データ)から普遍命題(理論、仮説)を推論する方法である。しかし、どんなに多くの「黒いカラス」の事例を観察したとしても、このことは、「すべてのカラスは黒い」を正当化するものではない。このような考えにたどり着いたポパーは、科学的理論の正当化は、帰納的推論ではなく、演繹法から導出されなければならないと主張した。演繹法とは、帰納法の逆の推論の仕方である。つまり、最初に「すべてのカラスは黒い」という仮説を立てる。そうすると、「次に観察されるカラスも黒いはず」という推論が成り立つ。この推論を繰り返して「黒いカラス」が観察され続けると、その仮説はより確からしさ(確度)を増す。ただ、ここで重要なポイントは、仮にたった一度だけ「白いカラス」が観察されたとすると、はじめに立てた「すべてのカラスは黒い」という仮説は反証されてしまうため、いさぎよくその仮説を棄却しなければならないことである(ちなみに白変種の「白いカラス」は実在する)。このように、科学的理論は常に反証にさらされ、生き残ったものがよりよい科学的理論となる。その意味ですべての科学的理論は暫定的な仮説に過ぎない。ポパーは、「反証可能性」を持つ仮説こそが真の科学的理論であり、それを持たない仮説は非科学的理論であると断じて、科学と非科学のあいだに線を引いた(「境界設定問題」または「線引き問題」と呼ぶ)。
 ポパーの論理を身近な例であげると、たとえば、気象予報士が、「明日の天気は晴れか、くもりか、雨か、雪になるだろう」などと言ったとしたら、どうなるだろう。われわれは明日何を持って家を出て行けばよいのか迷ってしまう。つまり、明日の天気について起こり得るあらゆるケースをあげた、こうした言い方は反証不可能であるため何も言っていない(情報がない)ことに等しい。逆説的であるが、「明日は晴れになる」と言い切れるところに、反証可能な、つまり科学的に意味のある情報(命題、言明)が含まれているのである。
(感想)「反証可能性」は科学哲学上の概念であるが、身近な言説をチェックするときにも“ものさし”として使えると思う。

● N.R.ハンソン(村上陽一郎訳):『科学的発見のパターン』.講談社学術文庫,1986.
 仮説の検証でなく仮説の発見を論じた科学哲学の古典的名著。
 科学的理論の発見について、従来、「観察が理論に先行する」という見方が支配的であった。しかし、ハンソンはその見方を逆転して「理論が観察に先行する」(「観察の理論負荷性」と呼ぶ)と主張した。「観察の理論負荷性」について、わかりやすい例をあげれば、患者の胸部のX線写真を見るとき、普通の人はただの濃淡のある白黒像しか《見ること》ができないのに対して、医師は何らかの病状を《見ること》ができる。当たり前のことであるが、これは、医師がX線写真を診断するために「専門的な教育と訓練」を受け続けたことによってさまざまな病状にかんする専門的理論や知識・技術を学んでいたからこそ《見ること》ができたのである。普通の人と医師は同じ物を見ているはずなのに異なることを知覚しているというのは認識論の根本問題にもつながる。観察が理論負荷的であるとすれば、われわれの見る行為はその対象を何々《として見ること》にほかならず、「純粋無垢の観察」ないしは「生の事実」などはありえないことになる。ある理論が覆されるとすれば、それはデータ(観察、事実)からではなく、他の理論によってである。言い方を変えると、「事実が理論を造る」のではなく、「理論が事実を造る」ということである。
(感想)最後の著者の主張は、曲がりなりにも科学的な研究に従事している者として日々実感することである。

● T.クーン(中山茂訳):『科学革命の構造』.みすず書房,1971.
 「通常科学」「パラダイム」などの概念を使って科学の進歩を論じた科学哲学の古典的名著。
 クーンは、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を「通常科学」と呼んだ。「通常科学」の下では、科学者集団は「パラダイム」を支える法則、理論、装置を使ってあらゆる種類の問題を解決すること(パズル解き)が求められる。このようにして科学が「累積的に発展していく」という科学観が従来の見方であった。しかし、クーンはそのような科学観は虚構に過ぎないと説き、彼独自の科学の進歩論を唱えた。つまり、「通常科学」が進行していくと、その「パラダイム」の下で説明できない現象(反証事例)が観測され始める。こうした危機的状況が続いたあと、従来の「パラダイム」から別の新しい「パラダイム」へ変換(シフト)していくこと(革命)によって突然科学が非連続的に進歩するとクーンは主張する。たとえば、科学史上、大規模な革命をあげれば、古代ギリシャ時代のアリストテレス的世界観から中世に生起した機械論的自然観(「17世紀科学革命」)へ、あるいはニュートン力学からアインシュタインの相対理論へ「パラダイム」シフトした例がある。なお、異なる「パラダイム」間では、同じことば(専門語)を使用していても、もはやその概念がまったく異なるため、互いの理解が困難になるという状況が生じる(「通訳不可能性」と呼ぶ)。質量を例にあげると、ニュートン力学の質量は運動中保存されるが、アインシュタインの相対理論の質量はエネルギーに変換される。
(感想)この本に出会うまでのわたしは科学(科学者)とは、何か“神聖なもの”、“特別なもの”と思っていたが、「市民革命」ならぬ「科学革命」というわけであるから、科学の進歩が人間味溢れる出来事であったという著者の主張は目から鱗が落ちた。

 簡単な図書紹介であったが、将来研究者(科学者)を目指す学生にとって、これらの古典的名著は必読書であると思うので、じっくり手にとって読んでみてほしい。最後に、科学とは何かについて教養的に知りたい学生には、以下の書物がわかりやすいので一読をおすすめする。

【推薦図書】—科学哲学・科学史関係書籍
伊勢田哲治:『疑似科学と科学の哲学』.名古屋大学出版会,2003.
伊藤公一:『科学哲学』.放送大学教育振興会,1992.
伊藤俊太郎:『近代科学の源流』.中央公論社,2007.
伊藤俊太郎・広重徹・村上陽一郎:『思想史のなかの科学』.平凡社,2002
小林道夫:『科学哲学』.産業図書,1996.
村上陽一郎:『新しい科学論』.講談社,1992.
野家啓一:『科学の解釈学』.新曜社,1993.
戸田山和久:『科学哲学の冒険』.日本放送出版協会,2005.
内井惣七:『科学哲学入門』.世界思想社,1995.