2012年6月25日月曜日

【図書館だより】夏休みの読書のために〜読書案内


図書委員会

<震災関連>
大震災をどのように捉え何をなすべきか
  • 内橋克人編『大震災のなかで:私たちは何をすべきか』岩波新書 2011年6月
  • 内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』朝日新聞 2011年4月

放射線の理解と具体的な対処法
  • 中川恵一『放射線のひみつ―正しく理解し、この時代を生き延びるための30の解説』朝日出版社 2011年6月
  • 高田純『放射線から子どもの命を守る』(幻冬舎ルネッサンス新書)2011年7月

反原発の闘士である人のエネルギー論と予言的な書。
  • 広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)2010年7月
  • 広瀬隆『原子炉時限爆弾―大地震におびえる日本列島』ダイヤモンド社 2010年8月

<アジア・太平洋戦争を理解する>(挙げればきりがないが)
  • 大岡昇平『俘虜記』、『野火』
  • 遠藤周作『海と毒薬』
  • 大江健三郎『ヒロシマノート』
  • 井伏鱒二『黒い雨』
  • 児島譲『東京裁判』上、下、中公文庫
  • 吉田裕『アジア太平洋戦争』(シリーズ日本近現代史6)岩波新書

<スポーツ・ドキュメンタリー>
ボクシングに賭けた青春群像
  • 後藤正治『遠いリング』岩波現代文庫
スポーツの世界で有名ではないが、魅力ある男たち
  • 後藤正治『咬ませ犬』岩波書店(同時代ライブラリー)
松井秀喜、伊達公子、岡野功、古賀稔彦など孤高のスポーツ・パーソンを描く
  • 後藤正治『孤高の戦い人』岩波現代文庫
最強のクライマー山野井泰史の挑戦と壮絶な戦い 
  • 沢木耕太郎『凍』新潮文庫

<自然科学関係>
スリリングな最新の宇宙論(インフレーション理論、マルチバースなど)
  • 佐藤勝彦『宇宙論入門』岩波新書
地球と生命の進化の関係にかんする大胆な仮説
  • 丸山茂徳、磯崎行雄『地球と生命の歴史』岩波新書
生命の複雑さ・精妙さ、細胞で何が行われているか
  • 永田和宏『タンパク質の一生――生命活動の舞台裏』岩波新書

<文明論・人生論>
哲学者はオオカミから何を学ぶか
  • マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ――愛・死・幸福についてのレッスン』白水社
若者層の増大という視点から世界史を解釈する論争の書
  • グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち――人口学が警告する驚愕の未来』新潮選書

【寄稿】雑誌レビュー&ブリーフィング<6月>

阿部篤志(仙台大学講師・スポーツ情報戦略)


<Pick Up>「多様性」の概念を含めた統合的な遺伝学教育の必要性〜スポーツの真のグローバル化を見据えて


平成242012)年度から中学、高校の学習指導要領が改訂され、高校生物ではDNA・遺伝子が中心となり、メンデルの遺伝の法則「遺伝の規則性と遺伝子」は中学校(義務教育)に移行したことが歓迎されている。課題もある。遺伝学は元来、「遺伝の仕組み」と「多様性」を統一的に理解するための学問とされているが、日本では「genetics」が「遺伝学」と邦訳されたため、前者に重きが置かれ、「多様性」の概念が軽視されがちとなった(池内)。

スポーツと遺伝は、素質を有する人材の識別(Identification)し、育成、強化することで国際競技力向上を図る「タレント発掘・育成(TID)」の領域における一つの課題として取り上げられてきた。2001年〜2004年のJISSタレント発掘研究プロジェクトでも取り上げた。近い将来、個人の全ゲノム情報が比較的安価に得られるようになる(鎌谷)ことが見込まれることから、今後、遺伝的な観点からのTIDの議論は活発化することが予想される。

別の視点からも、「多様性」の観点からの遺伝学教育がスポーツ領域でも重要になると考えられる。その契機はユースオリンピック(YOG)の創設(2010)、スポーツ基本法の制定(2011)及びスポーツ基本計画の策定(2012)である。

前者の文脈では、スポーツの文化・教育との融合の潮流が促進されれば、トップアスリートのみならず、各世代のアスリートやスポーツ関係者がグローバル(マクロには国際的に、ミクロには同一集団を超えて)に交流するようになる。その時に重要なことは多様性への寛容である。また後者では、これから日本ではオリンピックスポーツとパラリンピックスポーツはさらに距離を縮め、地域においてもいわゆる健常者と障がい者が交流することが多くなる。その際に、表面的に取り繕いではなく、ゲノム多様性への理解を通じた本質的な交流が図れるようになることは、スポーツを通じた社会の発展において重要な課題である。


文責:阿部篤志


<雑誌特集リスト> 
タイトル
ID
特集/主要トピックス
情報の科学と技術
Vol.62
No.6, 2012
電子ブックと出版
初等教育資料
No.887
JUN, 2012
自ら学ぶ子どもを育てる授業づくり
生物の科学 遺伝
Vol.66
No.3, 2012
新学習指導要領とこれからの生物教育〜何が変わり、どう変わるべきか[遺伝と進化の分野を中心として]/「遺伝的多様性」と「ヒトの遺伝」に理解を
月刊体育施設[スポーツファシリティーズ]
5月号(第417号)
toto助成によるスポーツ施設整備〜2008年度から2010年度までに328件・約56億円の事業実施
公衆衛生
Vol.76
No.6, 2012
運動とは何か〜人々にとっての「スポーツ」と「運動」の意味を考える
体育の科学
2012 Vol.62
5
月号
スポーツにみるグローバルとローカル〜文化としてのスポーツのグローバル化の複雑な様相/スポーツを支える地域戦略
臨床スポーツ医学
Vol.29
No.6 2012
アスリートの手指の外傷と障害〜診断から競技復帰までのアプローチ
バイオメカニクス研究
No.16
No.1 2012
野球の投・打動作の分析〜2010世界大学野球選手権大会における試み


***

「雑誌レビュー&ブリーフィング」は、阿部ゼミの勉強の一環でやっている「情報ブリーフィング」の一つです。仙台大学付属図書館に所蔵されている、主に体育・スポーツ系の雑誌の特集や主要トピックスのタイトルを、毎月1回、さらっとレビューします。またその中でちょっと気になる話題について概略をブリーフィングします。雑誌情報を俯瞰する情報としてご活用いただき、気になる特集などがあれば、図書館の雑誌コーナーに行きましょう!

【寄稿】雑誌レビュー&ブリーフィング<5月>


阿部篤志(仙台大学講師・スポーツ情報戦略)

「雑誌レビュー&ブリーフィング」は、阿部ゼミの勉強の一環でやっている「情報ブリーフィング」の一つです。仙台大学付属図書館に所蔵されている、主に体育・スポーツ系の雑誌の特集や主要トピックスのタイトルを、毎月1回、さらっとレビューします。またその中でちょっと気になる話題について概略をブリーフィングします。雑誌情報を俯瞰する情報としてご活用いただき、気になる特集などがあれば、図書館の雑誌コーナーに行きましょう!

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<Pick Up>
子どもの運動・スポーツ適正実施のための基本指針(日本学術会議)

Strength & Conditioning Journal・5月号の特集「日本学術会議(健康・スポーツ科学分 科会)の提言『子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針』」では、福 永哲夫氏(鹿屋体育大学学長、NSCA ジャパン編集委員長)が本提言(2011年8月)における指針について概説している。福永氏は提言作成の背景について、「我が国における子どもの健康・体力はピーク時に比べて依然として低いものの、関係者の努力によって(中略)様々な取り組みが行なわれるようになり、その基盤となるエビデンスも増加しつつある」としながらも、その先例やエビデンスの入手の難易度にばらつきがあり、「信頼できる学術的根拠に基づく、全国民が誰でも、いつでも、どこででも自由に使える共通の指針を策定することは、きわめて重要な意味をもっている」と指摘した上で、その指針について概説。日本学術会議のウェブサイトに詳細あり。
文責:阿部篤志

<雑誌特集リスト>
月刊トレーニング・ジャーナル「主観と客観〜動きのズレを認識する」May 2012 No.391
コーチング・クリニック「“筋トレ”と向き合う/“筋トレ”最新情報〜競技特異的トレーニング〜JISSにおけるサポート事例」2012年6月号
指導者のためのスポーツ ジャーナル「動きはじめたスポーツ」2012春号 Vol.291
みんなのスポーツ「社会資本としての学校施設を活かす」2012.5 No.383
体育の科学「運動と心臓・血管」2012 Vol.62
体育科教育「ICT 活用とこれからの体育授業 」2012.05
Strength & Conditioning Journal「日本学術会議(健康・スポーツ科学分科会)の提言「子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針」について」2012.5 Vol.19 No.4
月刊スポーツメディスン「腹筋と背筋〜体幹筋解明へのアプローチ」May 2012 140
子どもと発育発達「子どもの成育環境と健康」Vol.9 No.4
月刊社会教育「つながりの創造へ〜サークル・団体活動から考える」2012.5 No.679
教育学研究「現職教師教育カリキュラムの教育学的検討;働き学び生きる23歳の若者たち〜「若者の教育とキャリア形成に関する調査」結果から〜」2012.3 Vol.79 No.1
季刊環境研究「環境庁設立40周年〜環境行政の40年を振り返る」2012 No.165
中央公論「会議の政治学〜会議は劇場、言葉が勝負する」2012.6

【図書館だより】2011年度「新書」貸出ベスト10


1位 若者のための仕事論(朝日新書)
2位 スポーツを仕事にする!(ちくまプリマー新書)
3位 ファッション・ライフのはじめ方(岩波ジュニア新書)
4位 社会を生きるための教科書(岩波ジュニア新書)
5位 野球へのラブレター(文春新書)
6位 世界130カ国自転車旅行(文春新書)
7位 話しベタはスポーツ新聞を読みなさい!(双葉新書)
8位 20歳からの「現代文」入門(生活人新書)
9位 就活のまえに(ちくまプリマー新書)
10位 謎解き!宮崎・ジブリアニメ(ベスト新書)

気になるタイトルがあれば、図書館へ行こう!
仙台大学附属図書館

【図書館だより】2011年度「図書」貸出ベスト10


1位 戦う身体をつくるアスリートの食事と栄養
2位 スポーツ選手の栄養学と食事プログラム
3位 トップアスリートになる勝つためのスポーツ食book
4位 体育哲学原論
5位 アスリートのための食トレ
6位 スポーツと健康の栄養学
7位 子どものためのスポーツめし
8位 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
9位 スポーツ生理学
10位 らくらく図解統計分析教室

気になるタイトルがあれば、図書館へ行こう!
仙台大学附属図書館

【連載】「身体」という「自然」について


小松恵一(仙台大学教授・哲学)

教師(以下T、理屈が多くて、学生からはあまり人気はありそうもない。):
仙台大学生(以下S、部活も熱心に取り組んでいるし、勉強にも力を入れようとしている、文武両道を目指している。):

S: 前回は、「身体」と「身体の可能性」こそ、体育学部の中心テーマとなるというお話でした。今回はそれに続いて話したい、いや、お話をうかがいたいのですが、ぼくなりに前回の要約を言います。すべての人間は、「身体」をもっているわけです。「身体」をもたなければ、この世に生存できません。身体がなければ、それは幽霊になってしまう。その「身体」とその可能性をさまざまな角度から勉強するのが体育学部で、だから、文科系や理科系の科目があるということでしたね。

T: そのとおり。いいね。もう少し続けてくれますか。

S: それで・・・、しかも、その勉強というのは、自分のためというよりも他人のためということでしたね。もちろん、ぼくらは自分のために大学に来たわけで、体育学科だったらそこで競技成績を上げたいとか、体育教師になりたいという目的があるわけです。しかし、同時に忘れてならないのは、他のひとに伝えてあげるということが重要だということでしたか。

T: そう。自分ではない別のあるひとの身体とその可能性を育むことに主眼があるのではないかな。体育教員の養成は、自分がそれになりたいのだから、自分のためであると同時に、むろん生徒のための教員養成です。体育学科以外の学科にも、同じことは、つまり、他者のためであるということはみな当てはまるね。

S: まずは、自分のためであるけれども、それが同時にひとのためにもなる、ということですか。

T: そのとおりだね。学問というものは、究極的には人間のためという性格をもつわけですが、その程度は学問の種類によって多少違う。たとえば、数学や物理学などは、直接にひとのためというよりも、真理の探究という意味合いが強いでしょう。しかし、体育学部で学ぶことは、そうした学問の成果を踏まえて、むしろそれを他人のために生かしてゆくというところが重要なのだよ。それは同時に自分のためでもある。一般化して言えば、人間の存在している意味は、他者を介して自分に戻ってきて、はじめて確立できるものだよ。

<身体は自然である> 

S: それから「身体」は「自然」の産物だということもありましたね。生まれて、成長して、老化して死んでしまうという過程は、自然が仕組んでいることだと。

T: そう、体育学部は「身体」を扱うわけですが、「身体」は、「自然」に属するものです。さらに、その「身体」は、人間の場合は自然のまま、何もしないで「人間の身体」になるのではなくて、広い意味で「学習」によってはじめて人間というものになるとも言ったね。

S: 言葉を学ぶということも「身体活動」として学習されるとか。

T: そう、人間の顔や口から喉にかけての筋肉構造は非常に複雑で、それは自然のたまものとしか言いようがない。そうした身体的条件がなければ「話す」ことはできない。ネアンデルタール人は、おそらく人間のせいで滅んでしまったけれども、もっとも人間に近いし、脳は、人間よりも大きな容積があったと言われている。しかし、彼らはたぶん人間ほどの複雑な言語は持っていなかった。それは喉の構造が話すのに適していなかったからだという説があります。人間は、そうした身体的条件の上で、言葉を学習できるのだね。自然の身体のあり方がまず人間固有の活動の前提条件としてある。

S: それもわかりますが、「自然」と言われても、何だかすべてが自然のような気もして、かなりおおざっぱなような。

T: たしかにそうだね。「自然」という言葉は、さまざまな意味で使われるからね。生物の長い進化の過程を経て、今から10数万年前に現生人類が誕生した。それ以来、人間はひとつの種として生存している。個体としてみれば、一個の身体は受精することから始まり、細胞分裂を経て誕生し、成長し、老化し、そして死を迎えます。その過程は、(医学などの科学技術によって最近はかなり手を加えられているとはいえ)基本的に自然の過程です。

<自然における多様性>

S: それはわかります。しかし、いろいろな身体がありますよね。なかには異常というか、奇形というか、そういうひともいます。さまざまな違いをもって生まれてくる。それも自然ですか。

T: もちろんそれも自然です。自然には正常も異常もありません。その二つの区別は人間がある基準を立てて、あとから言うにすぎないのだよ。いわゆる異常、奇形を見て、異常だと思うのは、差別です。ひとは、そもそもさまざまな素質で生まれてくるのですから、それを異常、正常と区切るのは、それは人工的に設けた区別でしかない。

S: しかし、そうしたひとも医学の力で何とかしようとすることもありますね。それは異常を何とか直そうということではないですか。

T: それは、異常・正常という枠組で考えるのではなく、むしろ、社会生活、つまり人間が作った枠組に合わせて、なるべく円滑に暮らせるようにするということだと思うよ。

S: でも、性同一性障害のひとはどうですか。自分の性に違和感を強烈にもっているひとは、手術してかえって自然な状態に帰るとはいえませんか。

T: 君も難しい例を出してくるね。その場合、自然とか不自然という枠組みで考える必要はないのではないかな。性同一性障害のひとは、生まれたまま、つまり手術前が自然なのだ、と言ってもいいけれども、そういう自然の状態で生きるべきだ、というようなことはないからね。人間は、自然を人工的に変え、手を加える存在です。それが人間の人間たるゆえんでもある。いま科学技術が発展して、自然を大幅に変えることがますますできるようになってきた。いまは、人間の身体という自然にも技術の力で手が加えられるようになってきた。しかし、もちろんそこには、いろいろな制限がありうる。人類の生存に関わるような改変はだめだろうし、あるいは道徳的にだめということもあるだろう。その基準は、おおざっぱに言えば、社会的合意ということだろうね。
ちなみに、人間はもう進化しないと考えられる。つまり、生物学的な意味では、人間はもはや進化することはないだろう。いま触れたように、人間自身が人間のあり方に介入しているからね。進化の原理は、自然選択natural selectionであるわけだが、環境の変化に対応できない種あるいは個体が自然によって選択され、滅亡したり生き残ったりするという自然の過程を人間は根本的に変えてしまった。さまざまな人間をそのまま認めてともに生きていこうとするところに、人間である証があるよね。現実はそうなっていないところも多々あるけれども。
しかも、進化による変化よりも、人工的に、人間の身体に介入しているそのスピードのほうが、圧倒的に早い。進化の時間的長さを追い越して、人間は自分の身体を変えてゆくだろうね。

<ドーピングと自然な身体>

しかし、体育学部では、人間の身体に直接侵襲するのではなく、なるべく自然のかたちで、身体の可能性を発展させようと考えるのだね。

S:そうですか。そうすると、ドーピングが禁止されているのは、身体の自然との関係があるのですね。

T:そう、人工的に身体に介入する技術が発達してゆく世の中で、スポーツは身体の自然性を保持する最後の砦なのです。しかし、そこにはいろいろな問題が含まれていることは確かなので、また次の機会にドーピングの話をすることにしよう。

【書評】ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳)『ホモ・ルーデンス』中公文庫,1973(初版)


藪 耕太郎(仙台大学講師)

皆さんが高校生のとき、社会科関連の科目で「ニンゲンって何?」というテーマで授業を受けたことがあるかもしれません。それも生物学的な見地からではなく、人文・社会科学的な見方から、人間と他の生物との相違を定義しようとする試みは、昔から行われてきました。

たとえば、ホモ・サピエンス(知恵ある人)、ホモ・ファーベル(工作する人)、ホモ・エコノミクス(経済活動する人)といったことばを、どこかで聞いた覚えのある人も多いでしょう。これは知恵や工作、あるいは経済活動こそが、人間を人間たらしめる本源的な要素なのだ、という考え方を示すわけです。

それではホモ・ルーデンスとは何でしょうか?ズバリそれは「遊戯する/遊ぶ人」です。知恵やら工作やら経済やらに比べて、ずいぶん身近、ときに低俗な感じがしませんか。なかには「人間の本性が遊びにあるなんてとんでもない。人間はもっと気高くて上品であるべきだ!」なんて怒り出す人もいるかもしれません。でも、そうしたまっとうにみえる意見こそが、実はホイジンガのいう「真面目の支配」に私たちが毒されている証なのかもしれません。このはなしは後でします。

まず、ホイジンガの略歴をごく簡単に述べておきましょう。1872年にオランダに生まれたヨハン・ホイジンガ(ヘイツィンハとも言います)は、1945年に没するまで、生涯を通じてオランダ最古の大学ライデン大学を中心に、思索と研究、執筆を重ねた碩学(せきがく)(学問を深く探究した大家)です。『中世の秋』(1919)、『明日の影の中に』(1935)などの著作でも知られています。『ホモ・ルーデンス』は1938年に執筆されました。

同書が日本の体育・スポーツ界で脚光を浴びたのは1960年代のことです。1964年の東京オリンピックを軸に大衆のスポーツ欲求が増大したこととも関連しながら、スポーツの文化的な特性を知る重要な手がかりとして、ホイジンガ流の「遊び」の概念が導入されたわけです。ここでは、全12章からなる『ホモ・ルーデンス』を章立てごとに紹介するのではなく、遊びとスポーツの関係性から、この大著を読み解いてみましょう。

スポーツも文化のひとつですが、ホイジンガは「文化は、…(中略)…、遊びの中(なか)で始まったのだ」と述べます。つまり、文化やそれを成り立たせる社会や生活は、そもそもにおいて遊戯の対象だったのだ、とみなすわけです。その意味で遊びは低俗ではないどころか、遊びなくして人間は存在できない、だから私たちはホモ・ルーデンスなのだ、と彼は考えました。ホイジンガは時空を自在に操りながら、今日の私たちからみればとうてい遊びの領域にあるとは思えない分野、たとえば科学、宗教、政治などが、いかに遊ばれてきたのか、ということを、鮮やかに描き出します。

ところで皆さんの中には、「遊びは遊びであって、政治なんかとは根本的に違うでしょう。スポーツだって遊びでやったら怪我をするし面白くない」と思う人もいるでしょう。その意見はもっともですが、ここはもう少しホイジンガの思想に耳を傾けてみましょう。

『ホモ・ルーデンス』の最終章のタイトルは「現代文化における遊戯要素」で、皆さんになじみ深いスポーツに関する記述は、この箇所にしかありません。読解の易しい書物では無いので、興味があればまずはこの章から読み進めるのもアリでしょう。ともあれこの章における作者の態度は、前章までとは打って変わって悲観的です。「スポーツは遊戯領域から去ってゆく」とまで述べています。どういう意味でしょうか。

先ほど「真面目の支配」というフレーズを出しましたが、ホイジンガにとってまじめと遊びは必ずしも対立するものではありませんでした。一般的にイメージされる、遊び=不まじめ、とは異なる理解をしていたのです。やや強引にまとめると、遊びはなによりまず自発的な行為であり、この遊びにおける自由を確保するために、お互いの利害を排したり、あるいは実時間から分離したり、ルールを作ったりするわけです。つまり、遊ぶために「ある種の」まじめさが自然に要求されることになります。ホイジンガは「遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる」と記しています。

さて、先の一文に「ある種の」と括弧書きを付けた箇所をみてください。ホイジンガにとって、まじめさは複数あるものでした。私たちが現在当たり前と思っているまじめさは、そのうちのひとつに過ぎません。功利主義や合理性が強調された、これら近代において当然とされるまじめさを、仮に「真面目」と記して区別しましょう。そして、現在、スポーツの世界はどの程度真面目化しているか、少し考えてみてください。

…、どうでしょう?たとえば勝利至上主義や過度の商業主義、ドーピングや環境破壊などは、スポーツが真面目に支配されたことをひとつの要因とする問題ではないでしょうか。つまり、規則や規律の厳密化、訓練の強化、競争原理の高揚といった真面目さが、意図せざる問題をスポーツにもたらしている、と考えることもできるわけです。そこまで深刻に考えなくとも、スポーツが持つ気楽さや気軽さが、真面目の名の下に抑圧されているとしたら、やっぱりそこに問題が無いとは言い切れません。

「最近スポーツ頑張ってる?」と聞かれたら、「真面目に、一生懸命にやっています」と私たちは答えがちです。その回答に嘘が無いとしても、それがゴールではありません。「私たちが一生懸命に取り組んでいる、このスポーツなる文化は何だろう?」と自己の内外に問い続ける重要さを、ホイジンガの著作は訴えています。

ホイジンガが描くスポーツの未来像は決して明るいものではありません。それは彼の限界ではなく、生きた時代の反映です(彼はナチズムによる全体主義の嵐に全身で抗した人物でもありました)。他方で私たちはいま、ホイジンガが知らない時代を生きています。先ほどの問題に正面から向き合い是正しようとする活動があり、新しいスポーツ運動も次々に誕生するいまだからこそ、「遊び」について再考することは重要なのではないでしょうか。

「学ぶ力」を育てる学習環境について


図書館長 鈴木省三

人類は過去50万年にわたって、絶えず変化する環境に適応するために、身体能力を磨き、思考する脳を進化させてきた。ともすれば、わたしたちは狩猟採集生活をしていた祖先を、もっぱら体力に頼って生きてきた野蛮な人間と見なしがちだが、彼らにしても長く生き延びるには、厳しい環境の中、知恵をはたらかせて獲物を追い、巧みに捕らえ、蓄えなければならなかった。人類の脳の回路には、食や体の活動と学習とのつながりがもともと組み込まれている(John J.Ratey)。

スポーツの意義とは、人間の体を動かすという本源的な欲求にこたえるとともに、爽快感、達成感、他者との連帯感等の精神的充足や楽しさ、喜びを与え、また、健康の保持増進、体力の向上のみならず、とりわけ青少年にとっては、スポーツが人間形成に多大な影響を与えるなど、心身の両面にわたる健全な発達に資するものである(文部科学省)。

しかし、現在、子どもの体力低下、中高年のメタボリックシンドローム、高齢者の介護問題等を考えると、心身の活動と学習とのつながりが崩れているとともに、人間が体を動かしたいという本源的な欲求に応える保健体育の授業実践がなされてきたのかが疑問である。

近年、人間の遺伝子解析が進み、日本人は一般に不安を感じやすく、弱気で神経質だと言われている。これには「性格」遺伝子(セロトニン・トランスポータSS型)が関与しており、その型の存在する割合はアメリカ人では20%弱だが、日本人は70%近くになる。また、この遺伝子の割合が多い民族は、好き嫌いの感情を表す扁桃核が敏感に反応する。このことは、課題解決型の学習を学生に実施させると、欧米の学生は、積極的、論理的に答えを導き出そうとするものの、温和で消極的な日本人は、生徒の学習意欲を高める動機づけや学習方略が先生には必要となる。

日本の歴史を振り返ってみると、寺子屋によって高水準の教育が庶民の間で広範に定着しており、明治初期における日本の識字率は世界最高クラスにあった。明治期の日本が急速に近代化を達成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を社会に与えていたことを評価する見解もあり、そのKey wordsは次の6項目になるであろう。①少人数 ②驚きを与える(感動)  ③丁重と厳格 ④チームワーク ⑤仲間 ⑥コミュニケーション。

このような社会的背景の中、スポーツ界においてもスポーツ振興基本計画における「国際競技力向上のための総合的方策」のひとつとして日本オリンピック委員会(JOC)がナショナルコーチアカデミーを創設した。 この制度は、Top of the Topのコーチの資質向上のための「学ぶ力」を熟成する教育の場として期待される。「アカデミーでは、役立つことを教えるが、答えは教えない。答えの出し方を学ぶ場である。」と位置づけている。

このように、「学ぶ力」を日本人に合った環境での学習方略を模索する試みが多方面でなされている。

これらのことから、仙台大学図書館は、学生の学習や大学が行う高等教育及ぶ学術研究活動全般を支える学術情報基盤の役割とともに、仙台大学生に合った「学ぶ力」を熟成する学習環境をさらに構築したいと考えている。

この件に関して、図書館を利用する皆さんのアイディアや要望をお待ちしています。