2014年6月11日水曜日

【TORCH Vol.053】「読書の思い出」

早川公康

私の母校である愛知県立半田高校は、児童文学作家・新美南吉の母校でもある。新美南吉は代表作『ごんぎつね』などで知られる。2013年には「新美南吉生誕100年記念事業」が半田市を中心に盛大に開催された。私自身は、故郷愛知を離れて久しかったが、文学を尊ぶその趣に、あらためて文学作品というものへの敬愛の念を深めたものである。
 私自身の思い出として、東京大学大学院(駒場キャンパス)在籍時代に、時間があればひたすら読書に熱中した日々を送ったことが懐かしい。東大図書館にはとにかくありとあらゆる本があった。なかなか本を買える経済的余裕がなかった私にとって、その最高の環境に感謝したものだ。一方で仙台大学も体育系の単科大学であるにも関わらず、その蔵書数は決して少なくないという印象を持っている。
 私はもともと二十歳くらいまでは、それなりにしか読書をしてこなかったように思うが、恩師と出会い、読書についての度重なる指導を受けられたことがきっかけとなり、“本の虫”となっていったことも今もって鮮明に思い起こされる。平成21年に仙台大学に赴任する前は、東大柏キャンパス(千葉県)に勤務していたが、当時住んでいた柏市の認可を得て「読書会かしわ」サークルを発足した。私が代表者(主宰)を務めたわけだが、地域の方々からは「(活字離れが進むこのご時世にあって)若いのに感心ねぇ~」と何やら褒めていただきながら、私自身は老若男女を問わず地域の「読書復興」に情熱を燃やして活動したものである。地域の方々からは、「読書サークルにありがちな陰気な雰囲気が全く無くて、とにかくおもしろい!」と評判になり、会場であった地域のコミュニティセンターが活気にあふれた。地域の人たちと有意義に読書について語りあってきたことは本当に懐かしい思い出であり、今でもお手紙を交し合うなど絆が続いている。
 ところで、今の私があるのは恩師のおかげであり、今も恩師のご指導を日々自分に言い聞かせながら生きている。その恩師の箴言ともいえるお言葉を紹介させて頂きたい。

以下、我が恩師の言葉より
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 確実に言えることは、「読書の喜び」を知っている人と知らない人とでは、人生の深さ、大きさが、まるっきり違ってしまうということです。

 一冊の良書は、偉大な教師に巡り会ったのと同じです。読書は「人間だけができる特権」であり、いかなる動物も読書はできない。読書は、旅のようなものです。東へ西へ、南へ北へ、見知らぬ人たち、見知らぬ風景に出あえる。しかも、時間の制約もない。

 「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」。「心に」です。“暇(ひま)がない”という人は、たいてい“心に暇(いとま)がない”のです。読む気があれば、十分、二十分の時間がつくれないわけがない。

 机に向かって読むだけが読書ではない。昔から、文章を練るのにいいのは「三上」と言って、「馬の上」「枕の上」「厠(かわや)の上」という。今で言えば「電車で」「寝床で」「トイレで」本を読めるではないかということになるでしょう。

 朝、昼、夜と、それぞれ十分の時間を作れば、一日三十分の読書ができる。むしろ忙しければ忙しいほど、苦労してつくった読書の時間は、集中して読むものです。そのほうが、漫然と読んでいるよりも、ずっと深く頭脳に刻まれることが多い。

 人間にも善人・悪人があるのと同じように、本にも良書・悪書がある。良書を読むことは、自分自身の中の命を啓発することになるのです。古典の良書は、古くならない。いつまでも新しい。二十一世紀にも色あせないでしょう。一生の財産です。

 イギリスの小説家、バーナード・ショーにこんなエピソードがある。ある婦人が、一冊の著名を挙げたところ、ショーは、読んでいなかった。婦人は得意気に言った。「ショーさん、この本は、もう五年もベストセラーですよ。それなのに、ご存じないとは!」。ショーは穏やかに答えた。「奥さま、ダンテの『神曲』は、五百年以上もの間、世界のベストセラーですよ。お読みになりましたか?」

 エマソンも「出版されて一年もしていない本など読むな」と言っている。要するに、出版されて何年、何百年たっても読み継がれている本は名作、良書と思っていいでしょう。人生の時間には限りがある。ゆえに良書から読むことです。良書を読む時間をつくるには、悪書を読まないようにする以外にない。

 古典というのは、つり鐘みたいなもので、小さく打てば小さな音しか出ない。大きく打てば大きく応えてくれる。こちらの力次第なのです。どうしてもむずかしいと思うところは二、三十ページくらい飛ばして読んでもいいと思う。

 読書が人間を「人間」にするのです。単なる技術屋であってはならない。どんな立場の指導者であれ、世界的な長編小説も読んでいないのでは、立派な指導者になれるわけがない。人間主義、人間原点の社会をつくるには、指導者が本格的な大文学を読んでいなければならない。これは非常に重要なことなのです。海外の人は、よく読んでいます。日本人は「読んだふり」をしているだけの人が多い。

 本の読み方にも、いろいろな読み方がある。第一に、筋書きだけを追って、ただ面白く読もうというのは、もっとも浅い読み方だ。第二に、その本の成立や歴史的背景、当時の社会の姿、本の中の人物、またその本が表そうとしている意味を思索しながら読む読み方がある。第三に、作者の人物や、その境涯、その人の人生観、世界観、宇宙観、思想を読む読み方がある。そこまで読まなければ、本当の読み方ではない。

 諸君はだれでも、自分の中に無限の「可能性の大地」をもっている。その大地を耕す「鍬(くわ)」が読書なのです。自分は精いっぱい読書に挑戦しきった、「もう、これ以上は読めない」「もう、これ以上は勉強できない」。そう言いきれる青春であってほしいのです。
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以上が我が恩師の言葉です。

最後に、私早川公康の青春時代の思い出の書を以下に記します。
『戦争と平和』トルストイ
『アンナ・カレーニア』トルストイ
『レミゼラブル』ヴィクトルユゴー
『九十三年』ヴィクトルユゴー
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
『罪と罰』ドストエフスキー
『神曲』ダンテ
『ファウスト』ゲーテ
『若きウェルテルの悩み』ゲーテ
『阿Q正伝』魯迅
『水滸伝』
『三国志』
『赤と黒』スタンダール
『永遠の都』ホールケイン
『隊長ブーリバ』ニコライゴーゴリ