2022年10月17日月曜日

【TORCH Vol.139】ソフトバンクホークス大関選手が教えてくれたこと

准教授 朴澤憲治 

私はするスポーツはからっきし苦手なのですが、見るスポーツではプロ野球、特にヤクルトスワローズのファンです。

私が高校生だったころ、野村克也監督率いるヤクルトスワローズがID野球を旗印にセントラルリーグを席巻し、巨額資金で他球団から有力選手をかき集め巨大戦力を誇っていた読売巨人軍を倒すところを見るのが痛快でした。

当時のヤクルトは明るいチームカラーでありながら、データを駆使した戦術、野球の技術や戦術ではなく人生論からはじまるというミーティングが重視されること、他チームで戦力外となった選手がもう一度活躍するというチーム作りが素晴らしかったです。ブランド論には、人は商品やサービスを選ぶときには、その品質や価格だけでなくその背景にあるストーリーに魅力を感じて選ぶという説がありますが、当時の私はヤクルトスワローズ、そして野村監督のストーリーに魅せられ、大学合格後は神宮球場で野球を見ることも夢見て、東京の大学への進学を目指したのでした。

当時のヤクルト野村監督は選手や監督としての実績はもちろん素晴らしいのですが、私が野村監督を尊敬する理由は、球界のバイブルと言われる「野村ノート」をはじめ400冊を超える著作を残したことです。私はそのうち何冊か読みましたが、野球に関することだけでなく、組織論、リーダー論、教育論から古典の紹介や歴史の人物評まであり、その博学ぶりに驚かされました。これだけの著作は体験からだけでなく、多くの書物に目を通したからできたものであり、野村監督の著作では「野球は頭でやるスポーツ」とし、しばしば読書の効用が説かれています。また、厳しく指導したという愛弟子の古田選手は、他のプロ野球選手と違い読書習慣があったから考える野球がはじめからでき、大成したのだろうと指摘しています。

野村監督の教えを実践していたのが、本学OBでソフトバンクホークスの大関選手です。202258日の西日本スポーツの記事「大関の落ち着きぶり、その源は 「考えが濃くなった」」(https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/919412/)によると、大関選手は仙台大時代、野球で汗を流す傍ら、読書にもふけったそうです。以下、記事を引用します。

「仙台大時代、大関は野球で汗を流す傍ら、読書にもふけった。ジャンルは哲学書に自己啓発本、ビジネス書と多岐にわたった。「高校までは目の前のことに必死で生きてきたけど、大学に入って自分で自分が分からなくなった。どういうふうに生きていけばいいのかなって」。野球はもちろん、人間関係にも悩みが生まれた時期だった。 「今になって大切な時間だったな、と思っている。人の考えを学んだり、人の経験を知ったりすることは確実に自分のプラスになっている」。24歳らしからぬマウンド上での落ち着きは、さまざまな先人の思想に触れたからこそ生まれたものだった。そんな左腕が今、人生のテーマに掲げるのは“自分を信じる”だ。「考え方がふらふらした時もあったけど、結局はそこに戻ってくる。シンプルだけどすごく難しい。これまで歩んできた自分を受け入れるからこそ、前に進んでいける。考えが変わってきたというより、濃くなってきた感じ」。自分を信じ抜いての116球が、プロ入り初めてのシャットアウト劇につながった。」

大関選手は2019年のドラフトで育成2位という評価でソフトバンクホークスに入団しました。失礼は承知のうえで書かせていただくと、ドラフト時点でプロ球団からの評価は決して高いものではなかったでしょう。しかし2021年には支配下登録を勝ち取り、2022年には優れた選手の多いソフトバンクの中で先発を担うだけでなく、一流選手の証でもあるオールスターゲームに出場しています。

プロ野球は野球の天才と言われるような若者たちが、ライバルとの厳しい競争の末に1軍選手の座をつかむという世界と認識しています。ましてや、ソフトバンクホークスは球界でもトップクラスの選手層を誇り、前評判の高い選手たちがドラフト高順位で入団しても、入団後芽が出ず失意のうちに退団していく選手も多いチームです。その中で、ドラフト時に低評価だったのにも関わらず、大関選手がライバルとの競争に勝って主力投手にまでなったのはなぜでしょうか。

その秘密は西日本スポーツの記事にあるように、彼の大学時代の過ごし方、野球の練習だけでなく読書を通してさまざまな考え方に触れた経験にあったのだと私は思います。ライバル選手に差をつけた理由は読書を通じて獲得した引き出しの多さだったと思うのです。

野村監督も選手時代は体格に恵まれたわけでもなく、テスト生での入団でそこから三冠王を獲得するまでの大打者となりましたが、その秘密のひとつは考えて野球をしたことでした。大関選手と共通するところを感じます。

私が大関選手について感心するのは、彼の学生時代の読書ジャンルの広さです。私の学生時代の読書と言えば、教員から指定された教科書をいやいや読む(そしてたいていは途中で読むのをやめる)か、たまたま経済系の本は読むのが好きになったのでそればかり読んでいました。哲学書は読もうとも思いませんでしたし、(いまだに食指が動きません。)自己啓発書やビジネス書もほとんど読むことはありませんでした。

しかし、社会に出てみると、考え方がそれぞれ異なる人たちと仕事をしていかなければならず、自分が学んできたことに固執したため多様な考え方があることがわからずしばしば苦労しました。多様なジャンルの読書をしておけば、様々な考え方があることを理解し、社会を複眼的に見るということが早くからできたはずですが、私にはそれができませんでした。

大関選手は卒業時にはすでにそのような経験をし、厳しいプロ野球の世界で一定の地位をつかみ取りました。やがて引退するときが来るでしょうが、彼ならば大学時代の学びとプロでの経験を活かして選手生活が終わった後も社会で活躍していくと確信しています。

さて、このような素晴らしい先輩を持つ仙台大学で学生に教えるという重大な責任を持ってから1年が経過しました。残念ながら、学生たちはスマホばかり見ていてあまり読書をしているようには見えませんが、私は大関選手の経験を学生たちに機会があるたびに語るようにしています。

私は学生時代の反省と大関選手エピソードから、所有している本のリストを作り、それぞれのジャンルがわかるようにしています。そして、本を読み終わった後はその感想を記録しています。こうすることで、自分がどのジャンルに関心があるのか、または関心がないジャンルはどれかが一目瞭然です。私が大学に入職してから購入した本は527冊でそのうち読み終わった本はこの記事を書いている時点で281冊なのですが、仕事に関係のあるジャンルに偏っているとリストから自分の読書傾向を分析することができ、読んでいないジャンルこそが自分の弱点だと認識できます。

 学生には大関選手のように多様なジャンルの本に触れることで複眼的な思考を身に着けてもらうように指導しつつ、まだまだ自分がそうなっていないことに反省しきりの日々です。

2022年9月26日月曜日

【TORCH Vol.138】「(新)学習指導要領」をよむ~遊べない子供達~

                                教授 山内明樹


 かつて、野原や路地、空き地からは子供達の歓声がうるさいと思うほど聞こえていた。汚れも気にせず遊びまわるその姿は元気そのもの、「生きる力」に満ち溢れていた。本来「哺乳動物の子供は好奇心が強く、一日遊んで成長するのが特徴であり、遊びの時間を取り上げられると情緒不安定になり、その後の成長に支障がでる(こともある)」という。これはそのままヒトの子供にもあてはまる(ハズ)。こう考えると、幼児期から(せめて)小学生くらいまでは、遊びながら(学び)成長していくのが自然ということ。かつて、子供達にとって(たぶん大人も)勉強は好奇心と遊びの延長であり、(もっと)おもしろいものであったに違いない。

多くの子供は「勉強は嫌いだ」という。それは「わからないから。難しいから。」という。科学は英語ではサイエンス、ラテン語ではスキエソチア(知識)であり、同じくラテン語のスキオ(知る)からきている。科学とは「色々なことを知る」ということ。これは他の動物にはない人間だけがもつ特性。サルも人間と同じような行動をしたり、ネコも大変な好奇心をもっているが、それは習性であったり生存のための本能からくる行動。本来、人間だけが必ずしも生存のためだけでなく知識を広めたいという心をもっている。今、勉強に背を向けている子供をどのようにして振り向かせればよいかが課題となる。

「人間は生得的に未知のものを知りたい欲求、いわゆる好奇心をもっている(ブルーナー)」。以前、沿岸部の高校に勤務していたころ、小学生対象の科学教室に企画委員としてかかわる機会があった。物おじせず、好奇心むき出しに質問をしかけてくる子供達に汗だくになって(ほとんどは冷や汗)応戦したのを思い出す。その発想や興味、関心などは、頭でっかちの理論からはとても推察できないような素晴らしいもので、時には短絡的とも思われる直感や夢想に近い願望なども、私達大人が忘れかけていたものを思い出させてくれるものであった。子供は決して「無感動」でも「勉強嫌い」でもない。「なぜ、どうして(好奇心)」に始まる彼らの「科学する心」を大切に育て、「勉強好き」を増やしていかなければと思う。

「知識の獲得には、思考操作だけでなく具体的操作を通すことが有効である(ピアジェ)」。教師が一方的に話したことを聞かせて指導するいわゆる講義調の授業では、結果として生徒は学習内容を暗記するしかない。学力(知識、思考力、態度等の資質能力)は具体的活動(言語活動、体験活動、協働)を通した学びの中で往還しながら育成されるものであり、授業過程や、学習・指導方法の質的改善を目指す工夫が求められる(アクティブラーニング)。

新学習指導要領では、改訂の趣旨(「主体的・対話的で深い学び」の実現)を具体的に実践する機会として、「総合的な探究の時間」の設置、「理数探究」「古典探究」「地理探究」等の新設をはじめ、各教科学習の中でも、「探究活動」が幅広く取入れられている。これは、「生徒自身が問題を発見し、考察を加え、試行錯誤を繰り返しながら、課題解決を図る」というもの。生徒は、授業(教師や仲間との協働)を通じ解決策を探りながら、生涯を通じて社会人(学習者)に求められる姿勢・態度、実践力を備えていく。

埼玉県で教育長を勤められた先生が、「授業は、川の流れに似ている」と話されていた。川は、上流から中流、下流へと流れ、やがて海に注ぐ。海にたどりつくことを授業のゴールとするのなら、そこに至るまでの流れが学習の過程にあたるのだという。先生曰く、「現在の川は護岸がよく整備されている。それは、結構なことなのだが、川は自らの意思で進路を選ぶこともゆるされない。決まったコースをゴールをめざしただひたすらに流れていく。私たちの授業もそうなってはいないだろうか」。

スマホやパソコンに「問い」を入れ、「なぜ」と入力すると答えが返ってくるような時代、知識を教え込む授業や、ゴールにいかにはやくたどりつくかという授業から脱却しなければならない。先生は、「川に学べ、川の流れに学べ」とおっしゃっている。ここでいう川は、自分の意思で流れる川、進路を決められる川。自分の意思で流れる川は、蛇行する。氾濫することもある。でも、やがてその場所は土地が肥え、豊かな恵みをもたらしながら海へと注いでいく。


2022年4月15日金曜日

【TORCH Vol.137】 「ちっぽけな完成より、大きな未完成」

副学長 松本文弘

これは、石坂洋次郎の「若い人」という小説の一節である。

「若い人」は、高校の新任青年教師を中心に、生徒、教師との間で起こる様々な日常を描いた娯楽小説であり洋次郎がこの小説を書くにあたっては、自身が実際に勤務していた秋田県の横手高等女学校での経験を参考としている。

戦前の19331937年に公開されたこの小説は、その後4回に渡って映画化された。特に、1962年版では主人公の青年教師役に石原裕次郎を迎え、問題のある女子高生を吉永小百合、理論派の若手女教師を浅丘ルリ子が演じるという豪華キャストである。想像するに、当時は、国民の多くがこの作品について知っていたのだろう。

私が、このフレーズと出会ったのは1989年、高校教師となってから7年目の初夏であった。東北大会の引率で秋田県横手市を訪れた際、試合後にたまた石坂洋次郎記念館に立ち寄ったところ、「若い人」の直筆原稿が展示されており、そこに「ちっぽけな完成より、大きな未完成」という若き青年教師の大望が記されていた。

主人公である青年教師の公開研究授業の日、指導主事は授業について核心を突く講評をし、ベテラン教師からの老獪な質問にも正々堂々と応じる。これらのやりとりについて主人公と女教師が回顧しながら帰る際、女教師は指導主事のような立派な先生になりたいと述べる。それに対し主人公は、あの指導主事の姿は「ちっぽけな完成」に過ぎない、今の自分は未熟で完成にはほど遠いが、彼とはレベルの違う高みを目指しているのだ、と強がる場面での言葉である。

あるいは、この言葉は、戦後、「青い山脈」等が大ヒットし、国民的作家と言われる洋次郎の若き日の大望をそのまま記したものかもしれない。

この言葉に出会った頃は、自分自身も、若手教師として勢いだけで仕事をしている時期であり、粗削りでも大きく育っていきたいという思いに大いに同調したものだ。

また、作品全体を通して、若い教師にありがちな理想と現実のギャップによる葛藤、ベテラン教師とのいさかい、女子生徒との微妙な関係、同僚教師との苦しみの共有など、現代にも通ずる「教師あるある」の連続で、非常に刺激的な小説であった。

50年前の創作の結末が50年後の自分のそれと同様となったことは何たる奇遇か、はたまた必然か。作品の主人公は、その後、どんな教師人生を送ったのだろうか。

読者であった私にも30年の歳月が流れたが、現在も未完成な姿のままである。


2022年4月1日金曜日

【TORCH Vol.136】 「本を読めることへの感謝」

 教授 重巣吉美


読書との本格的な出会いは、中学生の時でした。昼休みになると、学校の図書館に通いました。本がたくさんあって、一人で没頭できる時間が楽しかったことを思い出しました。様々なジャンルの本を手にとって読みましたが、中学生の私は、海外の古典的な推理小説にはまり読み続けました。その後は、読まなければならない本や読みたいなと思う本を購入して読んできました。なぜこんなジャンルに惹かれるのかなと思うような本もたくさんあります。でも、活字を読むこと、本を手にして読むことが楽しいのです。

老眼になって、初めて眼鏡をかけなければならなくなった私は、矯正をしなければならない人の気持ちを実感しました。想像はできていたのですが、いざ、自分が体験したからこそわかることはやはり大きいのだと思います。矯正をしなければ文字が読めないことだけでも不自由であることがよくわかりました。大きな分厚い本は持ち運ぶのも大変だから、今や電子書籍が老眼になった私にも便利なのかもしれません。しかし、どうしても、紙媒体で物としての実態のある本で読みたくなります。

本を読んで、自分で考えたり想像したりできることが楽しみの一つです。今回は、最近読んだものから思うことを2つ書かせていただきます。

一つ目は、小川 糸著「とわの庭」「ライオンのおやつ」という二冊の小説です。「とわの庭」は、生まれて戸籍もなく、家の外に一歩も出たことのない盲目の少女「とわ」の話です。ある日母親から捨てられ、ゴミ屋敷となった家で命をつなぎ、火事が起こったことで、社会と接点ができて助けられ、支援を受けながら盲導犬と暮らす話です。現代社会の縮図のような課題がたくさん詰まったものでした。虐待を受けるだけでも大変なのに、視覚障害があり、飢えてゴミ屋敷にいなければならなかった・・・これまで関わってきた学校にも同じような境遇の子どもたちがおり、子どもがなぜこんなことにならなければならないのかという現実の問題と重なりました。同じ著者の「ライオンのおやつ」は、末期癌の主人公を描くターミナルケアの話です。もう半世紀近く前に、看護の勉強をしている中で、ターミナルケアについて、ホスピスにおける看護について、死にゆく人の看護についてゼミで議論をしたことを思い出したり、自分や家族の最後を考えたりと、これも重い現実の問題を思い巡らせてくれました。

二つ目は、ブレイディみかこ著「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」です。どちらも、イギリスで暮らす著者の家族や環境を含めた生活について書かれたものです。その中で、彼女の息子さんが学校でどのような学びをしているのかを書いている部分があります。日本の小・中学校、特に中学校でも、こんな学び方をしてきたら、子どもたちは違うだろうと思うことがあります。日本の教育のすべてがダメなわけでも、間違っているわけでも、成果がないわけでもないのです。しかし、イギリスという伝統と文化の中で育まれてきた教育によって育つ力を知り、実際に最近の子どもたちに伝わる様子を本を通して知ることで、きっと、日本でも今子どもたちに必要としているのは、このような力ではないだろうかという気持ちにさせられました。正解がない中、自分も周りの人も、よりbetterな生活が送れるよう、社会と関わり合い自分に合う納得解を導いていける力を身に付けていくことが求められています。せめて大学でそんな授業ができるようにしたいと自分を鼓舞することにもつながったように感じています。

 

楽しみとして読める本があること、そして、本を読むこと、活字を読めることを楽しめることは、私の人生を豊かに幸せにしてくれています。(2022/3

2021年12月2日木曜日

【TORCH Vol.135】 「ブックサーフィン」

准教授  金田 詳徳


「ネットサーフィン」

若い学生は、もうこんな言葉は使っていないでしょうか。

「ググる」(Googleで検索すること)も死語のようですね。

 

昔は新聞がその役割を果たしていたようです。

毎日、隅々まで自分の興味・関心に関係なく情報が飛び込んでくる。

 

私は大学を卒業後、『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)などの著者である、スポーツドクターの辻秀一先生のオフィスで働いていた時期がありました。

スポーツドクターと言っても手術などをする整形外科医ではなく、メンタルトレーニングなどで選手をサポートする内科医のドクターです。

 

先生には良く「本を読む」ように言われ、先生の推薦する書籍を紹介してもらったり、プレゼントしていただいたりと学生時代、読書感想文を書く時などの課題に取り組む時くらいしか、あまり本を読んでこなかった私には習慣にするまでは大変でした。

 

読書しようと興味のあるタイトルの本や著者の本を手に取り、買って満足。

後から読もうと家の中で山積みになっていく。

そして引越しをするたびに、荷物が増えていく、、、

 

そんな悪循環の状況だった私に知り合いが「本は図書館で借りれば、邪魔にならない」とアドバイスをくれ、それまで学校以外の図書館をほとんど利用したことがなかったのですが、はじめて市町村の図書館を利用してみました。

利用登録をして借りたい本が決まっていればインターネットで最寄りの図書館に取り寄せることができたり、貸し出されていれば予約をして自分の順番が来ればメールで案内してくれたりと結構便利です!(最近では市町村によっては電子書籍の貸し出しも増えているようです。)

 

さらに、荷物にならないだけではない図書館の利点を発見しました!

そう、図書館の本は、期日までに読んで返さなければならない!(読まなくても返さなければならないですが・・・)

興味のある本を買って満足してしまっていた私には、とても効果的な方法でした。

私のような方は少ないかもしれませんが、ぜひ、読書習慣を身につけるためにも図書館を利用してみてください。

 

私は今年(2021年)の7月から仙台大学に勤務しているのですが、その報告を兼ねて6月に先生に会ってきました。

その時にも、たくさんの先生の著書をプレゼントしていただきました。

その中でも『リーダー1年目からの教科書』(ぱる出版)の書籍の中で紹介されているリーダーの著書を読みたくなる。

(以下、紹介)

 

元ラグビー日本代表HC:エディ・ジョーンズ

『コーチングとは「信じること」』(生島淳著/文芸春秋)

 

NBAコーチ:フィル・ジャクソン

『イレブンリングス 勝利の真髄』(スタジオタッククリエイティブ)

 

ヨーロッパサッカーコーチ:ジョゼ・モウリーニョ

『モウリーニョのリーダー論』(タカ大丸訳/実業之日本社)

 

青山学院大学陸上部監督:原晋

『逆転のメソッド』(祥伝社)

 

元サッカー日本代表監督:岡田武史

『岡田武史というリーダー』(ベストセラーズ)

 

帝京大学ラグビー部監督:岩出雅之

『負けない作法』(集英社)

 

また、たくさんの人の考えを一冊で楽しめる、下記のような書籍は何度読んでも私は面白いと感じます。

 

『プロフェッショナル100人の流儀』(致知出版社)

 

『プロ論。『プロ論2『プロ論3』(徳間書店)

 

同じようなことを別の表現で語っている方もいれば、次のページでは、まったく反対のことを言っている方もいる。

 

しかも、何となく手に取って読み返してみると、そのときのタイミングで自分の感じ方もまったく異なってくる。

そう、まさに本は自分を映す鏡なのです。

 

何となく毎日を過ごしているときは、本の言葉から刺激を受けたり、壁にぶつかっているときは、解決策を見つけたり、自分以外にも同じ悩みを持っていた方がいることを知るだけでも安心したり、その時、自分が欲している言葉を自分なりに解釈して目の前の課題に対処していく。

成功や解決策なんて、どれも同じじゃないんだなと。他人の真似事ではなく自分なりの方法を見つけ出すしかないと本を通じて学んだ気がします。

 

人は様々な人と出会い、様々な経験を重ねることで刺激を受け、成長するもの。それは直接会う人だけではなく、本を通して考え方を知るだけでも体験できると私は考えています。

そして、前途したように経験が変われば、感じることも変わる。

 

話があちこちにいってしまいましたが、ふらりと図書館に寄って興味・関心のある本を手に取ってみてはいかがでしょうか。

 

その本が面白ければ、他の著書も読んでみる。

また読んだ本の中に、別の誰かの本のタイトルや一部抜粋した内容が出てくることも多いでしょう。

そんな本を探して読んでみる。

そう、まさに「ブックサーフィン」とでも言いましょうか?

 

様々な考え方に触れあえる読書。

皆さんも、ぜひ図書館に寄って新しい出会いをしてみてはいかがでしょうか。


2021年11月2日火曜日

【TORCH Vol.134】 「不確実性の時代に ーフランクル「夜と霧」(みすず書房)よりー」

 教授 中里 寛


 震災から10年が経ち,沿岸被災地にも復興住宅が建ち並ぶ。海が見えぬほど高く築かれた堤防は,忌まわしい記憶を呼び起こさせないための造作なのかも知れない。あのとき全てを失ってしまった方の中には,今を生きることに,未だ現実感が感じられない方もいるだろう。ある日突然,「起きるはずのない」ことが起きる…身近にも感じていなかった「死」が生々しい現実となって眼前に現れる。これが人生というものなのか。「死」も「生」も,あのときは各々の偶然でしかなかった。

 しかし,あのような悲劇はあれで「終わった」のではない。毎年のように発生する大規模水害,昨年からのコロナによる医療危機と景気低迷と,人生の苦難に終わりはない。今,日本の自殺者は,14年連続で3万人を超えているという。このような不確実性の高い時代であればあるほど,「人はなぜ,何のために生きるのか」という問いに直面する機会も多い。そして,時にはささやかな日々の暮らしを見つめ直してはその意味を考え,時には書物を紐解いて救いを求めることもあるだろう。

 ここに『夜と霧』という本がある。著者は,ナチスの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・フランクルだ。精神科医だったフランクルは,冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに,過酷な環境の中,囚人たちが何に絶望したか,何に希望を見い出したかを,隠し持っていた小さなメモにびっしりと記録したのだ。

 彼は,収容所という絶望的な環境の中で希望を失わなかった人たちの姿から,極限に置かれた人間の心理と行為の関係,そして人間の「生きる意味」とは何なのかを考える。そして,この書において人間の本質に関する二つの重要な見解を示している。

 一つ目は,人間の本質は,生理的欲求が満たされない極限状態にあっても,絶えず生きる意味,目的を求め,実現しようとすることにより,困難に耐えうる存在であるということ,そして二つ目は「人間は極限状態にあっても心の支えとなるもの……自分の役割や自分を待っているもの,例えば『愛する人』や『やり残した仕事』……がある人間は自己崩壊せずに生き延びることができる」ということである。

 

【極限状態を耐えうる資質とは】

 収容所では処刑のための様々な「選抜」が行われた。ガス室に送られるか,あるいはどの収容所に移されるかは,ちょっとした偶然で決まったのだ。明日生きながらえるかも分からない中,収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まる。しかしそれが裏切られると,多くの者は失望し,突如力つきて亡くなることが多かった。自暴自棄になり,食料と交換できる貴重な煙草を吸いつくして死んでいく者もいた。

 ところが,逆に,飢えと寒さの極限状態でも希望を失わず,人間らしさを失わなかった者たちがいた。それは,時には演芸会を催して音楽を楽しみ,美しい夕焼けに心を奪われるような価値観を持った者たちだ。フランクルは,彼らの姿を見て,人間には生きるための欲求が満たされない中でも,「創造する喜び」や「美や真理,愛などを体験する喜び」があると考えるようになる。

 過酷な運命にも向き合い,運命に毅然とした態度をとり,どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考えた。幸福を感じ取る力を持てるかどうかは,運命への向き合い方で決まるというのだ。

 このことは,人間の基本的欲求についてのマズローの説と相克するものである。マズロー(A.H.Maslow)は,人間の基本的欲求として五つを挙げ,同時にそれらの欲求の生起には一定の順序・段階があるとする「欲求階層説」を示した。すなわち,もしすべての欲求が満たされないとすれば,人間の行動はまず生理的欲求に支配される。その欲求がほぼ満たされた上で第二段階の安全欲求に行動を支配されるというものである。

 しかしフランクルは,収容所の体験から,人間とは必ずしも第一段階の生理的欲求が充足されない状況においても,崇高な価値観により生きながらえる力を得ることができると考えたのである。

 

【「心の支え」がある人間は自己崩壊しない】

 収容所の極寒と飢えの強制労働の中,いよいよ死を受け入れる覚悟をしたフランクルの心に突然溢れ出てきたのは,故郷で彼の帰還を待っている愛する人,その人の面影だった。

 

  すると,私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから,われわれが何キロメートルも雪の中を渡ったり,凍った場所を滑ったり,何度も互いに支えあったり,転んだり,ひっくり返ったりしながら,よろめき進んでいる間,もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはそのとき各々が,その妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は,それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像のなかでつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き,彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る……そしてたとえそこにいなくても……彼女の眼差しは,今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。

  そのとき私の身をふるわし私を貫いた考えは,多くの思想家が叡智の極みとしてその障害から生み出し,多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を,生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔りうる最後のものであり,最高のものであるいう真理である。(中略)収容所という,考えうる限りの最も悲惨な外的状態,また自らを形成するための何の活動もできず,ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態……このような状態においても人間は愛する眼差しの中に,彼がもっている愛する人間の精神的な像を想像して,自らを充たすことができるのである。

 

 愛する人の面影,その眼差しが,死を受け入れようとする自分を幾度となく,生きることに引き戻してくれた,というのだ。(実際にこのときにはすでに彼の妻は収容所で亡くなっていた)そして後にフランクルは言う。心の支え,つまり生きる目的を持つことが,生き残る唯一の道であったと。

 

 私たちは,自由で自己実現が約束されている環境こそが幸福であり,希望だと受け止めている。しかし災害や病気などに見舞われた時,その希望はいともたやすく潰えるものだ。しかしそれでもなお,生きる希望はパンドラの箱の奥底に潜んでいる。どんな状況においても今を大切にして自分の本分を尽くし,人の役に立とうとすること,そこに生きがいを見出すことが大事だとフランクルは考えたのだ。戦後,フランクルは「人生はどんな状況においても意味がある」と説き,生きがいを見つけられずに悩む人たちにメッセージを発し続けた。彼が残した言葉は,不確実性の高い,現代の不安の中を生きる私たちにとって,心の支えとなるのではないだろうか。


2021年10月19日火曜日

【TORCH Vol.133】 「思いどおりになんて育たない」

 教授 賞雅 さや子 

 私の専門分野は保育・幼児教育ですが、「育つ」「育てる」ということ全般に関心があります。ご紹介する、アリソン・ゴプニック著、渡会圭子訳、森口祐介解説『思いどおりになんて育たない-反ペアレンティングの科学-』(森北出版、2019年)は、心理学者・哲学者である著者が「親が子を育てる」という営みを科学的に追及する専門書でありますが、私はこの書を読んで、子どもだけではなく、若者も、大人も、そして私自身も「思いどおりになんて育っていない、育てられない」とひどく納得した、そんな1冊であります。

 「親が子を育てる目的とは何なのだろうか。子どもの世話はきつくて骨が折れるが、たいていの人が深い満足を感じている。それはなぜなのか。それだけの価値があると思える理由は何なのだろうか。」という問いからこの本は始まりますが、著者はこの問いに対して「現在のペアレンティング(親がなすべきこと)と呼ばれるものの考え方は、科学的、哲学的、政治的な観点から、そして人の生活という面から見ても、根本的に誤りであることを論じたい」という立場で、つまり、解説者の森口祐介氏の言葉を借りると「世の中にあふれる育児書に対する不満をぶつけて」、子どもの発達、学習、遊びなどについて論じています。

 本書の原題「The Gardener and the Carpenter(庭師と木工職人)」は、ペアレンティングがこうあるべきと推奨する親像を木工職人に、著者の提案する親像を庭師に例えたタイトルです。木工職人は設計書に従って材料を組み立て、頭に思い描いた品物をいくつでも同じ形に作り上げるのに対し、庭師がいくら念入りに計画を立てて、丁寧に世話をしても、思ったところに思うように花が咲かなかったり、病気になったり、枯れてしまったり、時には蒔いた覚えのない芽が伸びてきたりもします。子どもも植物同様思いどおりには育たないものだし、子育ても園芸のように「思いどおりにいかない」ものであることをイメージするものです。

ではなぜ育てるのか。育てることに価値があるのはなぜなのか。どのように育てたらよいのか。その答えはぜひ、本書をお読みいただき、考えてほしいと思います。この書は子育てに関する本ではありますが、私にとってそうであったように、子育てにとどまらず、広く養成や教育(育てること)、さらには私がどう生きるかということにまでヒントを与えてくれるものと思います。