2026年2月5日木曜日

【TORCH Vol. 167】「風林火山」は武田信玄の200年前、宮城の地で掲げられていた

 

                    子ども運動教育学科 教授 小野 敬弘


■「破軍の星」 北方謙三著 集英社文庫

武田信玄の代名詞とされている「風林火山」だが、信玄が掲げる200年も前の1330年頃、ときは鎌倉時代末期、この宮城の地で「風林火山」と書かれた軍旗をなびかせていた武将がいたことを知っているだろうか。そもそもこの「風林火山」は、周知のとおり中国の孫武が記した「孫子」という兵法書の中の教えのひとつである。その内容は、「風のように速く、林のように静かに、火のように激しく、山のように動かない。」というもので軍隊を動かす際の心得とされるものである。この考え方は、人として世を渡る際にも実に理にかなったものと称されているのと同時に、スポーツにも戦術・戦略を練る際の概念として親和性があり多くの競技において精神的な拠りどころにもなっている。過去に私も高校教員として運動部活動を指導してきたが、かくのごとく臨機応変に戦況そして人生を見定める力をつけてほしいと願い諭してきた。


正しくは「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と表記されるが、この旗を最初に掲げた男は、先述の通り、宮城、多賀城にいたらしいのである。しかし、多賀城に政庁が創建されたのは奈良時代の724年であり、約300年の時を経てこの地は平定し、その後、政庁は荒廃している。ではなぜ、さらに300年後の多賀城にこの武将は登場したのか。詳しい書物がない中で、北方謙三が史実に基づき描いた「破軍の星」という小説にたどり着いた。

彼の名は北畠顕家(きたばたけあきいえ)、実は武将ではなく天皇家の末裔にあたる公卿で、幼い頃からその才覚が認められたエリート貴族である。南北朝の動乱を招いた後醍醐天皇による建武の新政以降、再び勢力を持ち始めた東北地方の豪族を抑えるため、弱冠十六歳にして地方統治機関となった陸奥国の国府、多賀城に入った。顕家は繊細かつ大胆で人心掌握に長けており、東北地方の主だった実力者を次々と服従させ自身の配下に置いていき、わずか一年ほどで東北を安定に導いた。

しかしその矢先、後醍醐天皇の政策に不満を持った足利尊氏が謀反を起こし京都を占領する。すぐさま顕家に足利討伐の命が下るが、この若きプリンスは見事に百戦錬磨の足利尊氏を打ち破り九州へ追いやることに成功する。任務を完遂させ多賀城に戻る顕家。そして物語はクライマックスへと入っていく。


この本の読後、顕家の清々しい戦い方に胸を打たれ、多賀城市にある東北歴史博物館にゆかりのある資料がないかすぐに足を運んでみだ。しかし、見つけたのは展示ブースの長い長い多賀城史の年表の中にたった1行、「北畠顕家多賀城に入る」ただそれだけだった。多賀城の後に城を構えた福島県の霊山(りょうぜん)には彼を祭る立派な神社もあるというのに、あまりの軽い扱いに愕然とした。ただこれには歴史作家、司馬遼太郎も、彼は多賀城政庁跡の上に居を構えたのではなく、当時の状況から推測して城は現在の仙台市岩切付近だったのではないかと語っている。資料が乏しく諸説あるため、地元多賀城では元城主としての愛着が湧きにくいものと思われるが、彼の活躍いかんによっては室町幕府自体が成立せず、日本史そのものが大きく変わっていたかもしれないという儚くも切ない壮絶な歴史ドラマが宮城の地にあったのだ。

宮城県を「風林火山発祥の地」として彼の功績を称えたいほど一読の価値がある一冊だ。