2015年3月14日土曜日

【TORCH Vol.066】 「自閉症の僕が跳びはねる理由」 東田 直樹 著 (株)エスコアール出版部

 「自閉症」 どなたも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
自閉症とは,生後36ケ月までに現れ,①他人との社会的関係の形成の困難さ ②言葉の発達の遅れ ③興味や関心が狭く特定のものにこだわる。これらを特徴とする行動の障害と言われています。私が特別支援学校の教員だった平成3年ころのDataでは,東北6県の知的障害養護学校(現特別支援学校)には,各学校におよそ25%の自閉児が在籍していました。奇声を上げたり,跳びはねたり,自傷行為を繰り返したりとコミュニケーションを取って,指導の手だてを考えるのに苦労した覚えがあります。
 今回紹介する「自閉症の僕が跳びはねる理由」の著者,東田直樹氏は,平成4年生まれ比較的重い自閉症で小・中学校は特別支援学校に学んだ経歴の青年です。同氏著「跳びはねる思考」イースト・プレス社の巻末の紹介によると『会話のできない重度の自閉症者でありながら,文字盤を指差しながら言葉を発していく「文字盤ポインティング」やパソコンを利用して,援助なしでのコミュニケーションが可能』となっています。
 私がこの本を知ったのは,昨年8月にNHK総合テレビで放映された「君が僕の息子について教えてくれたこと」というドキュメンタリー番組を見たことでした。東田氏が自分自身の内面を語ったエッセイを英訳したデイヴット・ミッチェル氏と面会し,自閉症である自身の思いを伝えたことが中心に描かれている番組でした。デイヴット・ミッチェル氏は自閉症の息子の親であり,東田氏のエッセイを読んで,我が子の気持ちが分かったと言います。
 特別支援教育を専門としている私がこんな事を言っては叱られますが,自閉症の子どもが何をどのように感じ,どのように考えているかを知ることは,すこぶる難しいことだと感じていました。しかし,この本を読んでみると,それぞれの短いエッセイは,今まで私の中で,もやもやしていた疑問に端的に答えてくれるものが並んでいたのです。5章に分けられた内容は,次のとおりです。(目次から引用・改変)
第1章 言葉について    口から出てくる不思議な音
第2章 対人関係について  コミュニケーションとりたいけど…
第3章 感覚の違いについて ちょっと不思議な感じ方。なにが違うの?
第4章 興味・関心について 好き嫌いってあるのかな?
第5章 活動について    どうしてそんなことするの?
まるでQ&Aのように簡潔明瞭に記述されています。ちょっと長くなりますが,「どうしてパニックになるのですか?」の一部を引用してみます。
『どうしてパニックになるのか,みんなには分からないと思います。~中略~ 僕たちだって,みんなと同じ思いを持っています。上手く話せない分,みんなよりもっと繊細かもしれません。思い通りにならない体,伝えられない気持ちを抱え,いつも僕らはぎりぎりのところで生きているのです。気が狂いそうになって,苦しくて苦しくてパニックになることもあります。そんな時には泣かせてください。側で優しく見守ってください。苦しさのあまり自分が分からなくなり,自傷,他傷行為をするのを止めてください。』

 本人が語っているから,なおのこと,苦しさを感じます。
昨今は自閉症というと発達障害の範疇であったり,自閉症スペクトラム障害といった新しい障害の概念で語られることが多くなっています。障害の有無にかかわらず「生きにくさ」というくくりで,考えると健常だと思っている自分自身にも当てはまる事象があるように思われてなりません。
このエッセイは,様々な国で翻訳されて,20か国以上でベストセラーになったと言われいます。興味のある方は,是非,ご一読をお勧めします。      渡邊 康男

【TORCH Vol.065】 科学とは何であろうか

宮西智久

 発光ダイオード(LED)の基礎と応用研究によって、昨年3人の日本人科学者がノーベル物理学賞を受賞した。受賞が決まったとき、日本中が歓喜するとともに、同じ日本人として多くの人たちが大変誇らしい思いをしたことだろう。
 さて、そのLEDにかぎらず、わたしたちの身のまわりを見渡してみると、携帯電話やスマホをはじめ、家電製品や乗り物などいろいろな物(文明の利器)があふれている。また、部屋の壁のスイッチを押せば電気がつき、水道の蛇口をひねれば水が出、コンロのスイッチを押せば火がつく。はたまた人類はもうすぐ73億人に到達する。これらはほんの一例に過ぎないが、いずれも科学(と技術の発展)のおかげであるのは疑う余地がない。このように、科学は、われわれの身近にあり、われわれに数多くの恩恵をもたらしてくれているが、はて、その科学とはそもそも「いったい何か?」と質問されたとき、きちんと答えられる人はいるだろうか。実は、科学哲学者といわれる専門家のあいだにおいても、科学とは何かについて規定することは案外やっかいのようだ。
 ここでは、わたしが院生の頃貪り読んだ科学哲学の名著を3つ簡単に紹介したい。

● K.ポパー(大内義一・森博訳):『科学的発見の論理』.恒星社厚生閣,1971.
 科学と科学でないもの(非科学または似非科学)を区別するために「反証可能性」という判定基準を設けることによって科学を規定した科学哲学の古典的名著。
 ポパーは、科学的理論(仮説)は帰納法によって正当化されないと主張した。帰納法とは、たとえば、「あるカラスは黒い」→「これまで観察されたすべてのカラスは黒い」→(ゆえに)「すべてのカラスは黒い」とする推論、すなわち単称命題(観察、事実、データ)から普遍命題(理論、仮説)を推論する方法である。しかし、どんなに多くの「黒いカラス」の事例を観察したとしても、このことは、「すべてのカラスは黒い」を正当化するものではない。このような考えにたどり着いたポパーは、科学的理論の正当化は、帰納的推論ではなく、演繹法から導出されなければならないと主張した。演繹法とは、帰納法の逆の推論の仕方である。つまり、最初に「すべてのカラスは黒い」という仮説を立てる。そうすると、「次に観察されるカラスも黒いはず」という推論が成り立つ。この推論を繰り返して「黒いカラス」が観察され続けると、その仮説はより確からしさ(確度)を増す。ただ、ここで重要なポイントは、仮にたった一度だけ「白いカラス」が観察されたとすると、はじめに立てた「すべてのカラスは黒い」という仮説は反証されてしまうため、いさぎよくその仮説を棄却しなければならないことである(ちなみに白変種の「白いカラス」は実在する)。このように、科学的理論は常に反証にさらされ、生き残ったものがよりよい科学的理論となる。その意味ですべての科学的理論は暫定的な仮説に過ぎない。ポパーは、「反証可能性」を持つ仮説こそが真の科学的理論であり、それを持たない仮説は非科学的理論であると断じて、科学と非科学のあいだに線を引いた(「境界設定問題」または「線引き問題」と呼ぶ)。
 ポパーの論理を身近な例であげると、たとえば、気象予報士が、「明日の天気は晴れか、くもりか、雨か、雪になるだろう」などと言ったとしたら、どうなるだろう。われわれは明日何を持って家を出て行けばよいのか迷ってしまう。つまり、明日の天気について起こり得るあらゆるケースをあげた、こうした言い方は反証不可能であるため何も言っていない(情報がない)ことに等しい。逆説的であるが、「明日は晴れになる」と言い切れるところに、反証可能な、つまり科学的に意味のある情報(命題、言明)が含まれているのである。
(感想)「反証可能性」は科学哲学上の概念であるが、身近な言説をチェックするときにも“ものさし”として使えると思う。

● N.R.ハンソン(村上陽一郎訳):『科学的発見のパターン』.講談社学術文庫,1986.
 仮説の検証でなく仮説の発見を論じた科学哲学の古典的名著。
 科学的理論の発見について、従来、「観察が理論に先行する」という見方が支配的であった。しかし、ハンソンはその見方を逆転して「理論が観察に先行する」(「観察の理論負荷性」と呼ぶ)と主張した。「観察の理論負荷性」について、わかりやすい例をあげれば、患者の胸部のX線写真を見るとき、普通の人はただの濃淡のある白黒像しか《見ること》ができないのに対して、医師は何らかの病状を《見ること》ができる。当たり前のことであるが、これは、医師がX線写真を診断するために「専門的な教育と訓練」を受け続けたことによってさまざまな病状にかんする専門的理論や知識・技術を学んでいたからこそ《見ること》ができたのである。普通の人と医師は同じ物を見ているはずなのに異なることを知覚しているというのは認識論の根本問題にもつながる。観察が理論負荷的であるとすれば、われわれの見る行為はその対象を何々《として見ること》にほかならず、「純粋無垢の観察」ないしは「生の事実」などはありえないことになる。ある理論が覆されるとすれば、それはデータ(観察、事実)からではなく、他の理論によってである。言い方を変えると、「事実が理論を造る」のではなく、「理論が事実を造る」ということである。
(感想)最後の著者の主張は、曲がりなりにも科学的な研究に従事している者として日々実感することである。

● T.クーン(中山茂訳):『科学革命の構造』.みすず書房,1971.
 「通常科学」「パラダイム」などの概念を使って科学の進歩を論じた科学哲学の古典的名著。
 クーンは、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を「通常科学」と呼んだ。「通常科学」の下では、科学者集団は「パラダイム」を支える法則、理論、装置を使ってあらゆる種類の問題を解決すること(パズル解き)が求められる。このようにして科学が「累積的に発展していく」という科学観が従来の見方であった。しかし、クーンはそのような科学観は虚構に過ぎないと説き、彼独自の科学の進歩論を唱えた。つまり、「通常科学」が進行していくと、その「パラダイム」の下で説明できない現象(反証事例)が観測され始める。こうした危機的状況が続いたあと、従来の「パラダイム」から別の新しい「パラダイム」へ変換(シフト)していくこと(革命)によって突然科学が非連続的に進歩するとクーンは主張する。たとえば、科学史上、大規模な革命をあげれば、古代ギリシャ時代のアリストテレス的世界観から中世に生起した機械論的自然観(「17世紀科学革命」)へ、あるいはニュートン力学からアインシュタインの相対理論へ「パラダイム」シフトした例がある。なお、異なる「パラダイム」間では、同じことば(専門語)を使用していても、もはやその概念がまったく異なるため、互いの理解が困難になるという状況が生じる(「通訳不可能性」と呼ぶ)。質量を例にあげると、ニュートン力学の質量は運動中保存されるが、アインシュタインの相対理論の質量はエネルギーに変換される。
(感想)この本に出会うまでのわたしは科学(科学者)とは、何か“神聖なもの”、“特別なもの”と思っていたが、「市民革命」ならぬ「科学革命」というわけであるから、科学の進歩が人間味溢れる出来事であったという著者の主張は目から鱗が落ちた。

 簡単な図書紹介であったが、将来研究者(科学者)を目指す学生にとって、これらの古典的名著は必読書であると思うので、じっくり手にとって読んでみてほしい。最後に、科学とは何かについて教養的に知りたい学生には、以下の書物がわかりやすいので一読をおすすめする。

【推薦図書】—科学哲学・科学史関係書籍
伊勢田哲治:『疑似科学と科学の哲学』.名古屋大学出版会,2003.
伊藤公一:『科学哲学』.放送大学教育振興会,1992.
伊藤俊太郎:『近代科学の源流』.中央公論社,2007.
伊藤俊太郎・広重徹・村上陽一郎:『思想史のなかの科学』.平凡社,2002
小林道夫:『科学哲学』.産業図書,1996.
村上陽一郎:『新しい科学論』.講談社,1992.
野家啓一:『科学の解釈学』.新曜社,1993.
戸田山和久:『科学哲学の冒険』.日本放送出版協会,2005.
内井惣七:『科学哲学入門』.世界思想社,1995.

2015年2月14日土曜日

【TORCH Vol.064】 「You Gotta Have Wa」

マーティ・キーナート


「和をもって日本となす」
(角川文庫) 文庫 – 1992/2
ロバート ホワイティング (著),
玉木 正之 (翻訳)


You Gotta Have Wa  (英語)
Robert Whiting (原著), 


既に20年以上前、野茂投手が海を渡る前に出版された、このロバートホワィティングの名著を読んだことのない方に、是非一読して頂きたく推薦します。

「これば、“文化摩擦”に関する本である。すなわち、日本とアメリカのあいだに存在している亀裂を、ベースボールというスポーツを通して描いたものだ。われわれアメリカ人にとって、異なる文化を理解することがいかに難しいものか、とりわけ日本というまったく異質の文化がいかに理解し難いものであるか―ということを、知ってもらうために書いた本なのである」〜書評より

日本の野球は、work ball=仕事 で、アメリカのベースボールは play ball=楽しみ であるという著者の言葉どおり、数々の日米の野球とベースボールの違いを軸に、野球の話だけではなく、日米文化と国民性の違いをたくみに現しているこの本は、現代の日本の若者の必読書でもあるべきと考える。私が常々学生諸君に訴える持論、「自国を理解する為には、まずは外(外国)に出て経験する事」を、この本を読めば、一層理解してもらえるだろう。著書の唱える、「日本では『和』が大事で『出る杭はうたれる』」というような風潮は、実際かなり変化してはいる。
それでも、グローバル、グローバルと叫ばれる現代日本において、考えさせられる指摘は多い。
日米の歴史と文化論としてお薦めの1冊。


【TORCH Vol.063】 濫読のすすめ

丸山 富雄

 大学2年生の1年間、友人と競って、小説に夢中になった時期があった。友人が作者の誰がよいといえば、私はこの作者の小説は面白いと譲らなかった。もともと小説は好きであったが、その1年間はまさに熱に侵されたかのように貪り読んだ。
 よく読んだのは三島由紀夫である。角川か新潮かは忘れたが三島の赤いカバーの文庫本を読み、それを本棚に並べ悦に耽っていた。『潮騒』『金閣寺』『午後の曳航』『宴の後』『仮面の告白』などなど。しかし私が彼の小説に没頭していた昭和45年11月25日、彼が市谷の自衛隊駐屯地で自決したことは非常に大きなショックであった。
 石原新太郎の『青年の樹』も当時の私に夢や勇気を与えてくれた。確かヤクザの跡取りが東大に進みラグビー部で活躍する場面もあったと記憶している。勘違いでなければ、そこで行われていた合宿中の山中湖一週マラソンを、私も仙台大学に赴任しラグビー部を持つことになると、山中湖の合宿ですぐに実践した。その他、若い頃であったせいか、私の性格からか、石坂洋二郎などの青春ものも好きで、数多く読んだ。『青い山脈』『陽の当たる坂道』『光る海』など。
 また小説は旅情や郷愁を誘うものである。太宰治の私小説である『津軽』の足跡を追って20年ほど前、斜陽館から津軽半島を一周した。小説に出てくる蟹田や小泊などの寒村に暫し止まり、太宰も遠い昔ここに居たんだろうと思いに耽った。石坂洋二郎の『青い山脈』の舞台は弘前かもしれないが、試合等で秋田の角館に行くと、いつも私にはそこが『青い山脈』の舞台のように感じる。桧木内川の土手を自転車に乗る女学生を想像した。その他、島崎藤村の詩集『若菜集』や『落梅集』の小諸や千曲川には大学時代に何度も訪れた。軽井沢では堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出す。行きたいと思いまだ行っていない所に、田宮虎彦の『足摺岬』、島崎藤村の『夜明け前』の舞台である馬篭などの木曽路、機会があれば是非行きたいと思っている。
 若い頃、学生時代に、是非、純文学にはまってみてはどうだろうか。きっと心の糧になると思います。

2014年12月15日月曜日

【TORCH Vol.062】 「パラダイムシフト」

橋本実

パラダイムとは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことをさす。例えば「それでも地球は動いている。」と地動説を唱えたガリレオが、天動説を主張する人々に裁判にかけられ有罪判決を受けたことは有名である。その当時は天動説がパラダイムであり地動説を唱えるものはすべて異端とされていた。天動説から地動説へ変化するには170年を要したが、最後には地動説が当たり前のこととなりパラダイムになった。このようにそれまでのパラダイムが大転換することをパラダイムシフトが起きたと言い、ある日突然、非連続的に起きる。

 今回、現代医学にパラダイムシフトを起こしつつある夏井睦氏の「傷は絶対消毒するな」と江部康二氏の「主食を抜けば糖尿病は良くなる」の2冊の本を紹介する。
 夏井睦氏の「傷は絶対消毒するな」は、これまでの治療と全く異なる新しい傷の治療法である(図1)。傷の治療は長い間、消毒をしてガーゼをあてる治療が続けられて来た。医師を含めた医療関係者は感染を防ぐために清潔と不潔について厳しく教育され、傷は必ず消毒するものだと教え込まれている。そのため傷を負った患者に痛がる消毒をし、ガーゼをあてる。傷の経過を見せに来れば傷にこびり付いたガーゼを剥がして更に傷を深くし、また消毒して治りを遅くするような治療をしてきた。誰もが傷は消毒しなければ感染を起こし重症化すると信じ、患者が痛がっても治るためには痛いのは仕方がないと考えているパラダイムが存在している。
 新しい治療は傷を消毒せず飲める水で洗い、傷を乾かさないようにラップで覆うとうものである。驚くべきことにこの方法で治療すると、これまでの治療に比べ半分の期間できれいに治る。しかも消毒しないので痛くない、傷をラップで覆うので水に濡らしても構わないし、乾燥しないので痛みもない。大人だけでなく、子供にとっても夢のような治療である。早く治り痛くないことは医療関係者だけでなく、患者にとっても大きな福音である。
 消毒薬を使うことはそこに存在する菌を殺すだけでなく、傷を修復しようとする自分自身の細胞までも殺すことになる。また、傷からの浸出液は細胞成長因子を含むので、これを逃がさないようにすれば傷は早く治る。この二点を守って治療すれば、例え指先を切断しても、まるでトカゲの尻尾が生えるように指が再生してくる。皮膚移植が唯一の治療と思われた重症な火傷も、手術せずにきれいに治っていく。
 消毒が不要な理由は感染症の原因は傷に菌が存在するだけでは起こらず、異物か血腫があって初めて感染症は引き起こされるからである。消毒ほどではないが、身体を石鹸などで洗いすぎることは、皮膚のトラブルの原因となることも述べている。人間の表皮は皮脂を餌とする常在菌で被われそれ以外の菌が住めない状況を作りだしている。すなわち、Propionibabacterum属の細菌が常在して、皮膚は健康を保っている。あまり皮脂を洗い落とすことは皮膚の健康を損なうもとであり、洗浄後にクリームを塗ることも好ましくないとしている。クリームには界面活性剤が含まれ皮脂が分解されてしまうためである。 皮膚を健康に保つためには、必要以上に皮脂を洗い落とさないことが大切で、温水に皮脂は溶けるのでシャワーだけでも十分となる。人間は常在菌と共生してこそ、皮膚の健康と外敵の侵入を防ぎ健康が保たれる。


  江部康二氏の「主食を抜けば糖尿病は治る」は炭水化物(糖質)の摂取を減らして、糖尿病を治療するというものだ(図2)。現在の糖尿病治療はカロリー制限食で血糖をコントロールし、悪化すればインスリンを注射するというものであり、これがパラダイムとなっている。
 新しい治療はカロリーを制限するのではなく、炭水化物(糖質)を制限するというものだ。三大栄養素と呼ばれるものは、蛋白質、脂質、炭水化物である。炭水化物は糖質と少量の食物繊維から成り立つので、炭水化物と糖質はおおむね同じと考えてよい。この三大栄養素の中で、我々の身体を構成するのは、脂質と蛋白質のみであり、炭水化物はエネルギー源でしかなく、唯一血糖値を上げるものである。また、血糖値を下げる働きをするホルモンであるインスリンを分泌させるのは炭水化物のみで、蛋白質と脂質はインスリンを一切分泌させない。例えば、焼肉屋さんに行き、お肉を食べ続けていても血糖値は上昇せずインスリンは分泌されないが、白いご飯を食べたとたんに血糖値が跳ね上がり、インスリンが分泌されることになる。炭水化物の摂取を制限すれば、そもそも血糖値は上昇せず、インスリンも分泌されないので膵臓機能は回復し、糖尿病は改善する。
 糖尿病食の1200カロリー制限食を食べたことがあれば分かるが、お腹が空いて、空いてとても長く続けることは不可能な辛い治療だ。しかし、これまでの栄養学はカロリーを基礎にして成り立っているので、糖尿病の食事指導もカロリー制限が主になり三大栄養素をバランスよく摂ることになっている。これでは、血糖を上げる炭水化物を摂り続けるので糖尿病が改善することはない。
インスリンは肥満ホルモンとも呼ばれ、血糖値を下げる際に糖を脂肪細胞の中に取り込ませる働きをする。逆に言えば、インスリンを分泌させなければ太ることもないし、太っている人はみるみる体重が減る。2週間糖質制限食を続ければ、体重は3kg以上減少しダイエット効果は抜群である。
 我々が食べ続けるのは60兆個あるといわれる身体の細胞を常に作り替え維持し生き続けるためである。炭水化物を摂取しないことに不安を覚えるかもしれないが、身体を作っているのは蛋白質と脂質のみであり心配はない。また、我々は糖新生というシステムを持ち、必要な血糖は常に肝臓で作り出せるので、無理に炭水化物を摂取する必要はない。必須脂肪酸、必須アミノ酸(蛋白質)はあっても、必須炭水化物は無いことからも不要なことからも不要なことがわかる。
 現在、日本には糖尿病患者が950万人、糖尿病予備軍は1100万人いると推計されている。生活習慣病の中で最も防がなければならないのは糖尿病だ。糖尿病の恐ろしさは、高血糖の血液が全身を循環することで、血管を傷つけ失明、神経障害、腎障害などを同時多発的に起こし命に関わる病態に移行していくことにある。
メタボリック症候群は内蔵脂肪の蓄積があり、高血圧症、脂質代謝異常症、糖尿病のうち二つ以上が当てはまれば確定診断される。内蔵脂肪を減らし肥満を防ぐことが、生活習慣病を予防しメタボリック症候群を防ぐことになる。厚生労働省は「1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後にクスリ」というキャンペーンをおこなっている。しかし、炭水化物を減らす糖質制限食をしなければ体重を減らすことは難しい。
 人生の後半を健康で生き生きと生活するためには、筋肉を減らさないように運動し続けることと、肥満から生活習慣病を引き起こさないように炭水化物(糖質)を制限した食事が重要になる。糖質制限食を続けていると、脂質代謝異常症や高血圧症も改善することが多い。肥満が改善されると内臓像脂肪が減少し、改善すると考えられている。服薬しながら糖尿病、脂質代謝異常症、高血圧症がコントロールされ正常値を維持しても病気が治ったとはいえず、医者からは一生薬を飲み続けるように言われる。肥満がある人の高血圧は、痩せなければ治らないことが多い。糖質制限食は薬もいらない糖尿病の治療法であり、肥満も解消する治療方法なので、肥満が原因となる生活習慣病の改善予防にもつながる画期的なものである。


 さて、なぜこれらがパラダイムシフトを起こすのかというと、医学界はこれまでの治療が正しく前述の治療は異端であるとする現状(パラダイム)があるからである。新しい傷の治療は、痛くなく早く治り、消毒薬や薬剤の使用が減るので医療費も削減できる。糖質制限食も、糖尿病治療に1.2兆円かかっている医療費を減らし、ほかの生活習慣病の治療費をも減らすことが可能になる。
 では、なぜ遅々として普及しないのかと言えば、専門家と呼ばれる医者たちの多くが反対しているからである。新しい傷の治療も糖質制限食も、極論すれば素人でも治療可能であり実施すればみるみる改善していく。そのことで困るのは、それまで傷の治療や糖尿病を専門にしていた医者たちである。この治療が普及すれば、専門性は不要となり、飯の種を失うことになる。同様に、製薬会社も薬が不要になれば大きな痛手を受けることになるので当然反対することになる。栄養士も肥満や糖尿病治療に関わっていることが多いので、糖質制限が普及すればこれまでのカロリーを中心とした知識を捨て、新たに学びなおす必要が生じるので反対することになる。
 しかし、一度自分で試した人はこれらの治療が正しいということがわかり、今までの治療が間違っていることがわかる。医者の中にも試してみて、患者にとって新しい治療のほうが優れていると考えている人もいる。昔とことなり、インターネットの力は大きく、夏井先生も江部先生も情報をネット上で常に発信している。ガリレオの時に170年を要したパラダイムシフトが、何年で起きるのか楽しみである。皆さんに今回紹介したこれらの方法は自分で試すことが出来るので、お勧めするし、ぜひ試して頂きたい。

2014年9月11日木曜日

【TORCH Vol.061】 「スポーツ運動学(明和出版2009)」

コーチング系 川口 鉄二

 得体の知れないブログというものに躊躇していたものの、いつしか督促すら来なくなってしまったので、途中でまで書いておいたファイルを引っ張り出すことにしました。
□入門するということ
 運動学の授業のはじめに紹介するいくつかの参考書、実は私自身それらの本を読みこなすのに四苦八苦しています。昔、教科書として学生に紹介していたのは「マイネル スポーツ運動学」Bewegungslehre(1981大修館)で、旧東ドイツ1960年の上梓から約20年経って翻訳されたものです。更に20年経ち、2002年に日本オリジナル版「技の伝承」、そして「身体知の形成(上・下巻)」、「身体知の構造」(いずれも金子明友著 明和出版)が立て続けに出版されます。
これら日本版スポーツ運動学の難解さに途方に暮れていた2009年、待望の「入門書」(「スポーツ運動学」明和出版)が出版されます。しかし、「入門」=「簡単」という期待は見事に打ち砕かれ、辞書にもあるようにそれが「特定の師について全人格的に学ぶ」という意味であることを知ることになります。「このスポーツ運動学の入門書はその発生論的運動学の門をたたく人のために明確な道しるべを立てようとしている」もので「わかりやすく解説されているという意味での入門書ではない」と巻頭にも書かれているのですから、サンダルを履き替えざるを得ませんでした。
□「難解さ」の理由
スポーツ(諸)科学という寄り合い所帯の「研究のための研究」という現状を脱却するには、哲学や現象学的運動認識論が不可欠なのは何となくわかるのですが、それらを熟読すべきと言われれば我々コーチング仲間は途方に暮れるしかありません。でも教員のそんな苦しみとは裏腹に、ゼミの学生はこの入門書を読んで普通にレポートを書いてきたりします。つまり、学生にとってこの本の難しさは他の領域に比べて突出してるわけではなく、もしかしたら我々の頭の方が、「星の王子様」が不思議がるほど凝り固まっていたのかも知れません。
実は、金子明友先生がこの壮大な理論書の上梓後に「唯一」、歴史的な講義をして頂けたのが仙台大学でした(大学院「スポーツ運動学特講」)。専門用語を使いこなしてくる他大学院生に交じり、学部での下積みの無かった本学大学院生(社会人)は、運動経験やコーチ経験だけを頼りに四苦八苦して講義に臨んでいました。「何を教えているんだ」と説教されそうな私の心配とは裏腹に、本大学院生の授業レポートを読んだ先生からは次のような言葉を頂きました。「…(国立大の)院生は私の運動学は難しいと正直に述べています。頭で考えているからでしょう。仙台の院生は体で考えていてよく理解しているようです…どうも頭で伝統的な論理を弄するひとには私の運動学は不向きなようですね。現象学的運動学の超越論的論理学を基礎においている意味が分かっていないのかもしれません。現場で苦労している仙台の院生はさすがです。頑張るようにエールを送ってます」。
選手や指導者として実践現場で培った身体知というものは泥臭くて、様々な要因と複雑に絡み合っていますが、実践現場では決してそれら全体性という問題を避けては通れません。でもそんな経験があるからこそ、運動する主体の感覚を無視した科学的な見方に対して「直感的」に違和感を持つことができます。この種の理論を理解するにはそのような直感力も問われることになるようです。
□動感経験に頼る
 体育大学で培った技能と言っても、それが時とともに衰退していつしか動けなくなった時に、「競技実績」という過去の栄光だけしか残らないというのでは一般大学の体育会と何ら変わりません。大学では専門理論に没頭できる環境が次第に失われているという問題はありますが、実技実習であっても単に「できた」かどうかという「結果」だけでなく、その動感経験自体を分析し、動きの発生指導力の獲得に結び付けていくことが体育大学の原点だと思います。
スポーツ選手は「~しか知らない(例えば『逆立ち』)」と揶揄されることがありますが、どんな科学知を寄集めても逆立ちの経験には替えられないし、「コツ」や「カン」にかかわる研究では最終的には実践という動感世界とのかかわりが評価されます。ですから、この本の言葉の難解さに怯むことなく、自分の得意な運動経験に置き換えて考えることができれば、そこには「わかるような気がする」ことばかりが書かれているということに気づくはずです。もちろん、そんな風変わりな読み方が求められるのですから一人で読めとは言いません。仙台大学にはベテランのコーチ達や金子運動学直系の愚弟もいるのですから、悩めるパトス仲間として一緒に門をくぐってみてはいかがでしょう。

【TORCH Vol.060】 中房敏朗著「体罰の歴史的背景」

長見 真

 今年の4月に一通のEメールがやってきた。送り主は中房敏朗氏。氏は、2011年度まで本学でスポーツ史の専任教員としてご活躍され、現在は大阪体育大学で教鞭を執られている方である。「~拙文を書きました。ご笑覧いただき、何かの足しにでもなれば幸いです。」と閉じられたメール文書の添付ファイルを開けると、大変スリリングなタイトルの論文が現れた。それが、「体罰の歴史的背景」である。
 周知のとおり、2012年12月に、大阪市の高校でバスケットボール部の主将であった高校生が顧問教員の度重なる体罰を苦にして自殺した大変痛ましい事件をきっかけに、学校運動部あるいは学校における暴力的行為が大きな社会問題となっている。こういった状況下において書かれたこの論文は、「体罰の歴史的背景について先行研究を手がかりに描出すること」を目的としており、その際「今日の体罰が置かれている歴史的な流れや全体的な構図について、できるだけ射程を大きく広げながら探り出すことをめざそう」としている。それでは、論文の展開をみてみよう。
 まずは、体罰の起源としてこれまで暗黙の裡に支持されてきた軍事的起源説(戦前の軍事的規律が体罰として普及する)に氏は一定の評価を与えつつも、それが根本原因ではないとみる。そして、体罰の起源を文明史的なレベルまで射程を広げ、非対称的な権力関係が形成された中で、権威的立場にある上位の者がその従属的立場にある下位の者をしつけ、正し、罰するために「身体的懲罰」(=体罰)を課す、という構図を導き出し、体罰は非対称的な権力関係が現れた古代文明の発生とともに出現した古い人間文化であり、権威的立場にある上位の者が課す体罰は、理性的方法であれば罪に問われず、容認されてきたことを明らかにする。
 このような体罰発生の構図は近代以前の教師-生徒という非対称的な権力関係においても同様に当てはまり、教師による体罰は行使され、容認されてきた。近代に入ると、現在の学校の姿である近代学校教育制度が確立され、同一年齢の者(生徒)に知識や技術を効率よく、より多くの生徒に身に付けさせることが求められた。そこでの教室空間は、「ランカスター・システム」といわれる、現在の教室の原型である秩序と教授のシステムがつくられた。そして、教室という密閉空間の秩序を維持するために、教師は体罰を含む懲戒の権限を持ち続け、決して比喩ではない「教鞭」という鞭や杖が使用された(執られた)のであった。
 さて、このように体罰の起源を文明史に求め、近代学校教育制度の教室空間にその使用を容認し続けている歴史的背景を踏まえた上で、氏は、日本のスポーツ界は過剰に「学校化」しており、このことより体罰への衝動が惹起すると述べている。それは以下の通りである。日本の体育・スポーツ界は明治以降、学校(近代学校教育制度)の管理下において発展してきたものであり、教師-生徒関係と同様の監督―選手という非対称的な権力関係が存在し、加えて「長幼の序」を美徳として重んじる伝統的な価値観も後押しして、監督を頂点とする密閉空間(教室)が形成されている。そしてこの密閉空間への選手(生徒)の参入は、自発的なものではあるものの、監督(教師)への服従が求められることを前提としており、その中で勝利や栄光を追い求める。そしてその成果や実績(=「勝利」および勝利から得られる「進学・就職」)によって、勝利に至るまでの困難な過程が肯定され、正当化され、美化される。また、「教室」の外側にいる「保護者(視聴者やファン)」は、勝利や成果を期待すると同時に、勝利や成果が積み上げられることによって、「教室」の中の事柄に対して口出しがしづらくなる。このことにより、勝利や成果といった「結果」が重視され求められることとは対照的に、「過程」が不透明なものになり、「教室」内の権力関係は、より強いものとなり、「厳しい指導」がかえって選手(生徒)の感謝の念を呼び覚ます。こういった構図の中で、戦前の軍事的規律から派生した「びんた」という身体技法を継承しながら体罰への衝動が惹起するのである。
 さて私は今年度、本学1年生約60名を対象に、体罰経験について簡単なアンケートをおこなったが、自分自身が体罰を受けたあるいは行使した経験のある学生は約22%、自分自身は体罰を受けたり行使した経験はないが、体罰を行使する場面を見たことがある学生は約36%、自分自身体罰を受けたり行使したことはないしその場面を見たこともない学生は約42%であった。この結果は日本の体育系大学の学生についても同じような割合であると考えられる。体罰の行使によって勝利や「進学」という実績を得た者は、指導者(教師)に対して感謝の念を抱くことにより、自身がスポーツ指導者の立場に立った時に選手(生徒)に対して同じことを繰り返してしまう。こういった負の循環を断ち切るために、体育系大学の果たす役割は非常に大きい。しかし、スポーツ指導者を目指す者に体罰のない指導の必要性を教育することで体罰問題が解決される、といった単純なものではないことを、この論文は教えてくれる。体罰を根絶するためには、過剰に「学校化」されたスポーツ界、近代学校教育制度に支えられた現代の「学校」、そして学校空間に存在する教師-生徒といった非対称的な権力関係のあり方およびそこでのふるまい方を問い直すことが必要なのである。成熟社会を迎えたわが国において、スポーツ界、学校教育界の大きな転換(脱構築)が求められるのである。
 このような論評を書かせていただいた最後に、急いで氏に対してお詫びとお礼を言わなければならない。冒頭に述べた氏が「教鞭を執られている」という文は、比喩表現とはいえ、言葉を変えなければならないと思っており、お詫びしなければならない。また、「何かの足しにでもなれば幸いです」については、こういった論評を書かせていただいたことが私にとって大変有意義なものであったので、氏に感謝申し上げたい。

中房敏朗(2014)体罰の歴史的背景.大阪体育大学紀要,45:199-207.