2014年9月11日木曜日

【TORCH Vol.060】 中房敏朗著「体罰の歴史的背景」

長見 真

 今年の4月に一通のEメールがやってきた。送り主は中房敏朗氏。氏は、2011年度まで本学でスポーツ史の専任教員としてご活躍され、現在は大阪体育大学で教鞭を執られている方である。「~拙文を書きました。ご笑覧いただき、何かの足しにでもなれば幸いです。」と閉じられたメール文書の添付ファイルを開けると、大変スリリングなタイトルの論文が現れた。それが、「体罰の歴史的背景」である。
 周知のとおり、2012年12月に、大阪市の高校でバスケットボール部の主将であった高校生が顧問教員の度重なる体罰を苦にして自殺した大変痛ましい事件をきっかけに、学校運動部あるいは学校における暴力的行為が大きな社会問題となっている。こういった状況下において書かれたこの論文は、「体罰の歴史的背景について先行研究を手がかりに描出すること」を目的としており、その際「今日の体罰が置かれている歴史的な流れや全体的な構図について、できるだけ射程を大きく広げながら探り出すことをめざそう」としている。それでは、論文の展開をみてみよう。
 まずは、体罰の起源としてこれまで暗黙の裡に支持されてきた軍事的起源説(戦前の軍事的規律が体罰として普及する)に氏は一定の評価を与えつつも、それが根本原因ではないとみる。そして、体罰の起源を文明史的なレベルまで射程を広げ、非対称的な権力関係が形成された中で、権威的立場にある上位の者がその従属的立場にある下位の者をしつけ、正し、罰するために「身体的懲罰」(=体罰)を課す、という構図を導き出し、体罰は非対称的な権力関係が現れた古代文明の発生とともに出現した古い人間文化であり、権威的立場にある上位の者が課す体罰は、理性的方法であれば罪に問われず、容認されてきたことを明らかにする。
 このような体罰発生の構図は近代以前の教師-生徒という非対称的な権力関係においても同様に当てはまり、教師による体罰は行使され、容認されてきた。近代に入ると、現在の学校の姿である近代学校教育制度が確立され、同一年齢の者(生徒)に知識や技術を効率よく、より多くの生徒に身に付けさせることが求められた。そこでの教室空間は、「ランカスター・システム」といわれる、現在の教室の原型である秩序と教授のシステムがつくられた。そして、教室という密閉空間の秩序を維持するために、教師は体罰を含む懲戒の権限を持ち続け、決して比喩ではない「教鞭」という鞭や杖が使用された(執られた)のであった。
 さて、このように体罰の起源を文明史に求め、近代学校教育制度の教室空間にその使用を容認し続けている歴史的背景を踏まえた上で、氏は、日本のスポーツ界は過剰に「学校化」しており、このことより体罰への衝動が惹起すると述べている。それは以下の通りである。日本の体育・スポーツ界は明治以降、学校(近代学校教育制度)の管理下において発展してきたものであり、教師-生徒関係と同様の監督―選手という非対称的な権力関係が存在し、加えて「長幼の序」を美徳として重んじる伝統的な価値観も後押しして、監督を頂点とする密閉空間(教室)が形成されている。そしてこの密閉空間への選手(生徒)の参入は、自発的なものではあるものの、監督(教師)への服従が求められることを前提としており、その中で勝利や栄光を追い求める。そしてその成果や実績(=「勝利」および勝利から得られる「進学・就職」)によって、勝利に至るまでの困難な過程が肯定され、正当化され、美化される。また、「教室」の外側にいる「保護者(視聴者やファン)」は、勝利や成果を期待すると同時に、勝利や成果が積み上げられることによって、「教室」の中の事柄に対して口出しがしづらくなる。このことにより、勝利や成果といった「結果」が重視され求められることとは対照的に、「過程」が不透明なものになり、「教室」内の権力関係は、より強いものとなり、「厳しい指導」がかえって選手(生徒)の感謝の念を呼び覚ます。こういった構図の中で、戦前の軍事的規律から派生した「びんた」という身体技法を継承しながら体罰への衝動が惹起するのである。
 さて私は今年度、本学1年生約60名を対象に、体罰経験について簡単なアンケートをおこなったが、自分自身が体罰を受けたあるいは行使した経験のある学生は約22%、自分自身は体罰を受けたり行使した経験はないが、体罰を行使する場面を見たことがある学生は約36%、自分自身体罰を受けたり行使したことはないしその場面を見たこともない学生は約42%であった。この結果は日本の体育系大学の学生についても同じような割合であると考えられる。体罰の行使によって勝利や「進学」という実績を得た者は、指導者(教師)に対して感謝の念を抱くことにより、自身がスポーツ指導者の立場に立った時に選手(生徒)に対して同じことを繰り返してしまう。こういった負の循環を断ち切るために、体育系大学の果たす役割は非常に大きい。しかし、スポーツ指導者を目指す者に体罰のない指導の必要性を教育することで体罰問題が解決される、といった単純なものではないことを、この論文は教えてくれる。体罰を根絶するためには、過剰に「学校化」されたスポーツ界、近代学校教育制度に支えられた現代の「学校」、そして学校空間に存在する教師-生徒といった非対称的な権力関係のあり方およびそこでのふるまい方を問い直すことが必要なのである。成熟社会を迎えたわが国において、スポーツ界、学校教育界の大きな転換(脱構築)が求められるのである。
 このような論評を書かせていただいた最後に、急いで氏に対してお詫びとお礼を言わなければならない。冒頭に述べた氏が「教鞭を執られている」という文は、比喩表現とはいえ、言葉を変えなければならないと思っており、お詫びしなければならない。また、「何かの足しにでもなれば幸いです」については、こういった論評を書かせていただいたことが私にとって大変有意義なものであったので、氏に感謝申し上げたい。

中房敏朗(2014)体罰の歴史的背景.大阪体育大学紀要,45:199-207.