2014年3月3日月曜日

【TORCH Vol.046】図書館で出会う「友人」

田中 智仁(社会学)

 体育学部の教員としては不相応だが、私はスポーツが苦手である。いわゆるオタク系文化部が大好きで、さわやかに汗を流すのは嫌いだった。小学校から高校まで地域の囲碁教室に通い、中学・高校で所属した部活動もパソコン部、男子バレーボール部、帰宅部であった。男子バレー部は「初戦敗退」の常連校だったので、「オタクとは思われたくないけど、マジな体育会系は無理だから、一番ヒマそうなところ」という消極的な理由で選んだ。入学から卒業まで続けたのは、大学時代の文藝會だけである。

 また、クラスでも明らかに浮いた存在であった。物心ついた頃から変人扱いされ、女子からは「気持ち悪い」、教師からは「夢見る夢子さん」(何を考えているかわからない奴)と言われる始末である。このような有様で、友達が多いはずがない。もっとも、社会学者には不可欠な気質であろうから、今となっては「これでよかった」と思っている。
その一方で、人間は無いモノを求める。「友達がもっと多ければなあ…」と願ってしまうのだ。小学校入学前に「1年生になったら、友達100人できるかな」なんて歌を聞かされ、友達づくりが推奨される風潮があった。そのため、いつしか「友達が多いことはよいこと」という価値観が刷り込まれていたのだろう。

 大学生になって社会学と文藝に出会い、多くの友達ができた。社会学は批判的に物事を考える(「常識」を疑う)のが基本的態度だし、文藝も変人気質が不可欠である。ゼミや文藝會で似た者同士に囲まれ、ようやく人間になれた気がした。

 そこで、ふと思ったことがある。友達が増えると、どうしても一人ひとりと過ごす時間が限られてくるため、個々の関係は希薄になりやすい。しかし、友達が少なければ、その少ない友達と過ごす時間が多くなり、濃密な関係を築くことができる。つまり、友達づきあいに割ける時間や労力には限度があり、濃密な関係を築くためには友達が少ない方が有利なのではないかということだ。

 そうなると、「1年生になったら、友達100人できるかな」という歌詞は、「1年生になったら、希薄な関係でもいいから人脈を広げましょう」と推奨していることになる。これは、企業の営業マンのスタンスと同じではないか。小学校入学の時点で、社会学者のテンニースが言った「ゲゼルシャフト」(利害によって形成される人間関係やその社会)が望まれているのだ。なるほど、産業社会を生き抜くための社会化のステップが、義務教育としてライフコースに埋め込まれている。これが近代学校制度なのか…と、社会学的な屁理屈を楽しんでみたりした。

 そのとき、衝撃的な1冊と出会った。高田保馬著『社会学概論』(岩波書店)である。約90年前の社会学者である高田は、この本で「結合定量の法則」について述べている(初登場は1919年の著書『社会学原理』)。結合定量の法則とは、簡単に言えば「人づきあいの総量は限られている」という法則だ。この法則に従えば、多くの人と付き合うと関係が浅くなり、限られた人とだけ付き合えば関係は深くなる。なんと、私がふと思ったことと同じ内容ではないか。約90年前に私と同じことを考えていた人がいたのだ。

 高田は社会学の巨匠であり、経済学者としても活躍した人だが、なぜ結合定量の法則なんて理論を着想したのだろう。もしかしたら友達が少なかったのか。それとも、友達が多すぎてウンザリしていたのか。まあ、この際はどちらでもいい。とにかく、約90年前の社会学者と自分がつながったことに変わりはないし、これを機に高田に親近感をもってしまったのである。

 そして、高田への親近感はさらに深いものになる。私は社会学の観点から警備業を研究してきたが、そもそもの問題意識は「なぜ警備業が存在するのか?」という率直なものだ。防犯にせよ防火にせよ、警備業が扱っている分野は、基本的に日常生活の中で当たり前のこととして行われてきたことではないか。それをなぜ、わざわざお金を払って、警備業という得体の知れない他者にやってもらわなければならないのだろう。つまり、日常生活で防犯や防火を行っていれば、警備業なんて不要ではないかということだ。

 そこで、私は仮説を立てた。「家族(イエ)や地域社会(ムラ)の機能が縮小されて、それまで自分たちが行ってきた活動を他者が担うようになり、警備業もその一つとして存在しているのではないか」というものだ。この仮説は、社会学の発想としてはごく標準的なものである。実際に、教育社会学、家族社会学、地域社会学などの領域では先行研究も豊富に揃っている。

 しかしながら、社会学の各領域で研究されてきた内容は、警備業そのものを言い当てているわけではないし、「学校」や「町内会」などの個別のテーマに特化しがちである。各領域を横断するような一般理論があれば面白いのに…と思っていた。そのときに見つけたのが、同じく『社会学概論』で提起された「基礎社会衰耗の法則」だ。

 基礎社会衰耗の法則とは、簡単に言えば「家族や地域社会などの基礎社会は、近代化の進行にともなって機能を失い衰退していく」という法則である。この法則に従えば、家族や地域社会は近代化の進行にともなって防犯や防火の機能を失い、徐々に他者がその機能を担うようになっていく。その他者が警備業である…という説明になる。なんだ、これも私の仮説そのものではないか。

 高田さん、この一致は本当に偶然ですか?私と貴方はたぶん何回も会ってますよね?きっと、日頃から貴方とは盃を交わしながら、語り合ってきた仲だったのでしょう?そうと言ってください!…そんな気持ちになる。

 高田保馬は私が生まれる10年前に死没しているため、もちろん会ったことはない。霊感が強ければ会えるかもしれないが、私にその能力は無い。イタコに頼めば会話できるかもしれないが、安眠を邪魔するのも申し訳ない。なので、いつも『社会学概論』という本を通じて、友人・高田保馬とコミュニケーションしている。

 2014年現在、人々の「出会い」には様々なパターンがある。授業やサークルで一緒になる人、バイト先で知り合う人、SNSでつながる人…それらは紛れもなく「出会い」であり、教室、職場、SNSは「出会いの場」である。しかし、多くは「今を生きる人」との出会いであり、その人とリアルタイムでコミュニケーションすることが当然のスタイルとなっている。しかし、図書館も負けず劣らずの「出会いの場」なのだ。そして、図書館の凄さは、「今を生きていない人」に出会い、「本」を通じてコミュニケーションできることである。これは、他の「出会いの場」にはない出会いだろう。

 残念ながら、本学の図書館に高田の『社会学概論』は所蔵されていない(他の著書はいくつか所蔵されている)。しかし、約10万冊という膨大な蔵書がある。それらの著者には、「今を生きていない人」も少なくないだろうし、遠方にいる人も多いだろう。図書館に行けば、たとえタイムマシーンがなくても瞬間移動ができなくても、「時空を超えた友人」に出会える。

 みなさん、そんな友人と出会うのはいかがですか?