2013年2月8日金曜日

【TORCH Vol.008】好きな本を読むのなら今のうちですぜ。


荒井龍弥 仙台大学教授・宮城県名取市立みどり台中学校校長(出向中)

 最初にグチ。自慢じゃないが、本を読む時間がまとめて取れない。困ったものだ。それでもこのリレーコラムを書いてね、と図書委員会のご要望でした。鬼のようなご依頼だ。そりゃ書類はたくさん来ますよ。学校に来る文書のほとんどは校長を経由するのです。読んだよと認印をぺったんぺったん押していくのも校長の仕事だ。ある日数えたら50枚超えていた。だからと言って、公民館協力委員会(まあ会議だ)の出席依頼の書評なんて、書くほうも読むほうも面白くもなんともない。

 中学や高校の教員なら、生徒もくる。部活がある。飲んだ翌日だって、疲れたといって寝坊するわけにもいかない。教員に限らず、仕事をしている人はみんなそんなもんだろう。そりゃ仕事に関わる本や資料は睡眠時間を削ってでも目を通さなにゃならんが、好きな本を勤務時間内に好きなだけ読めるお方は、投げてるか干されてるかのどっちかだ。何をするにせよ、いいこともあれば悪いこともある。自分にとって都合の悪いことを引き受ける覚悟を決めることも志を立てるうちに入るのかも知れないっす。

 皆さん、好きな本を読むのなら今のうちですぜ。一日二冊(まじめなのと、楽しそうなの)を自分に課した学生時代がうそのようだ。金が続かず挫折したけど。本を読むためにわざわざ電車に乗ったりしたこともあったっけ。交通機関利用中は他にすることもないので絶好だ。でも車の運転中は読まないでね。高速道路で新聞を広げながら運転している猛者を見かけたが、あれはオソロシイ。


 仕事ではなく、楽しみのほうの本の話。通読した後、二度と読み返す気がしない本は「はずれ」、時間を置いて何度でも読みたくなるのが「あたり」と思っている。作者で追うのと、ジャンルで追うのを混在させるタイプだった。誰でもそうだな。そりゃそうだ。確率を上げるためには、前の「あたり」を手がかりにするのは当然だ。

 小中時代はホームズものから始まって、星新一や筒井康隆、「西部戦線異状なし」のレマルク、あるいは落語の筆記本や鉄道ものだったかなあ。近いところでは作者ならクライブ・カッスラーや西原理恵子、川端裕人、ジャンルなら登山ものや棋士の書いたエッセイなんてところだ。無難なところでは食べものがらみはどうだろう。佐川芳枝さんの「すし屋のかみさん」シリーズは好きだなあ。

 「あたり」を引くためには、もう一つ、舞台が自分に関わりのある土地という手もある。仙台で言えば伊集院静や伊坂幸太郎、古くは井上ひさしか。私の場合は家の墓が東京の深川にあるので、山本一力を初めとした江戸物にはつい手が出る。もっとも、国語の教科書を見ていたら、芥川龍之介の「トロッコ」がまだ載っていた。読んでみて、改めて自分の出身地(神奈川の湯河原だ)近くが舞台だったことを思いだした。読み返してなかったわけで、そんなにあてにはならないね。

 ただ、スポーツと同じで、日ごろ本から遠ざかれば遠ざかるほど打率は下がる、ということは言えそうだ。もっとも、ある程度の凡打は覚悟すべきかも知れない。首位打者だって3割そこそこだ。たとえに無理がありますね。


 図書館は好きだった。本とインクのにおい。中学のころは電車で30分かけて出かけ、図書館で「少年倶楽部」の「のらくろ」を読むのが楽しかった。戦前生まれではありません、念のため。高校になると隣町の図書館で友だちと受験勉強をするという名目で集まり、しゃべって怒られたり小説を読んだりする合間に勉強していた。

 でもまあ、周りが調べものや読書をしているところでは自分も多少は影響されるもんだ。そういう場所に自分をおくことだけでも、自らが成長していない焦りのようなものは少し和らぐ。いろんな図書館に行ってみよう。南相馬市の図書館は本屋のようだし、岩沼の図書館は名取のママたちに「岩沼のメディアテーク」と評判が立っているそうだ。


 これで終わるのも何だかしらける。講義ネタを一つ。小学四年の国語教科書に新美南吉の「ごんぎつね」というのがある。いたずらばかりしている独り身キツネの「ごん」が、村の兵十という男が捕った魚を逃がしてしまう。その後、兵十の母親の葬式がある。ごんはひとりぼっちになった兵十を自分と同じ境遇だと思い、あんないたずらをしなければよかった、と思う。せめてものつぐないにと、兵十の家に、そっと栗やマツタケなどを持っていく。兵十は誰が持ってきたかわからず不思議に思っていた。ある日、ごんが家の納屋の中にいるのを発見し、またいたずらしに来たと思い、撃ち殺してしまう、という話だ(ネタバレごめん)。四十年以上前から教科書の定番となっている物語だ。覚えている方もいるだろう。

 私はあまり好きな話ではなかった。せっかく改心した「ごん」が兵十に殺されて終わり、というストーリーが理不尽だと感じていたのだ。しかしここ十年ほど、いろんな先生の考えや実践を読んだり見たりして考えが変わった。ごんはキツネなのだ。キツネは古くから人々の信仰とおそれの対象で、稲荷神社のお使いとされていた。人があまり関わるとだまされたり、化かされる。敬して遠ざける、というスタンスだったのだろう。人にいたずらするのは、りっぱなキツネとして当然のことなのだ。おそれられこそすれ、しょせん人間と仲良くはなれない存在なのだ。兵十に親切にすることで、キツネとしての「道」をごんは踏み外してしまった。だから死ぬより他に結末はないのだ。そういう考えに触れてから、結末がすっきりと腑に落ちると同時に、「ごんぎつね」という物語が好きになった。愛知県の新美南吉記念館に行ったくらいだ。手に入れた研究紀要には、キツネと人間の関係について同じことをいう人がいた。ビンゴ。

 物語だ。いろんな読み方があっていいけれど、様々な知識や経験とすり合わせていくことで別の読み方もできる。もっと好きになることだってある。読書を楽しめないのは、そういうバックグラウンドとなる知識や経験の不足が一因となるのではないか、そう思う。でもそういう知識や経験だって読書によって得られる部分があるのだ。自分の世界を広げるとはそういうことかなと思う。