2014年3月7日金曜日

【TORCH Vol.050】何のために本を読むか?

講師 馬佳濛

 私は小学生からエリートスポーツ学校に選ばれ、練習漬けの日々を送ったため教室での読書機会が少なかった。いつ頃から読書の必要性を感じ、読書を始めたのかは、はっきり覚えていないが、意識的に本を読むようになり、家族からも「赤と黒」「阿Q正伝」など数々の世界の名著の本が渡された。

 最初の頃、本を読みたいから読むのではなく、本を読み終えるために読んでいた。読む気にならず集中できないため、行を読みズレたり、意味を理解できなく、同じ箇所を何度も繰り返して読んでいたりして、興味をそそられなかった。一つの事を早く済ませたい思いがあった時に、気持ちはもうそこに無いことがよくある。

 斎藤孝氏の「読書力」の一部「読書はスポーツだ」は興味深い。そこには、「読書はスポーツと同じような上達のプロセスがあり、また身体的行為である。」「一度読書が技として身につくとそう簡単には落ちない。」と記されている。私のようなスポーツ経験を持っているのであれば、考え方を変えて、スポーツの技を身に付ける心構えで読書を試しても良いかもしれない。そして、その習慣を身に付け、本を読んでいるうちに、読書自体の楽しさを味わえるようになり、読書に対する価値観が変わってくるかもしれない。

 ある日、ある記事に同感を覚えた。問:「私もたくさんの本を読んでいたのに、どうして読書の価値を感じられないのか?」答:「読書の意義は、読み終えるのではなく、あなたの人生の一部にすることだ。」。

 また、某大学心理学の教授が「多くの人が1日何ページを読んだかと競い合い、ある人は1日100ページ、ある人は1日200ページだという。しかし、「ページ」の単位で読書行為を尺で量ったこと自体は、そもそも問題だ。」という。同じように、どのくらい本を読んだかで読書歴を形容するとしたら、その考え方は、最初から間違っているだろう。

 読書は1つの享受行為である。しかし、一冊を読み終えた時、新しい体験が得られなければ、考え方を変えることもなく、異なった視点と観点からの啓発も得ていない、特に、良い本を読んだ後でも、うまく考えられない、うまく述べられない、うまく書けない、行動にも移らないとなってしまっては、その読書は時間の無駄だ。

 学ぶことは会得であり、ある時は一冊の本で十分、ある時は一万冊でも足りない。ある本は心で読む、ある本は十分な経験で読む、ある本は最後の一つ脳細胞を絞って読む、ある本は一生かけても読み足りない。これは、どの本を読んだかによるが、どのように読んだかがもっとも重要だ。

 最後に、あなたも一番崇敬な本を再び持ち、改めた気持ちで一度、二度、三度も読み返してみてはいかがでしょうか…