2012年12月21日金曜日

【TORCH Vol.003】小沢昭一さんを悼む

スポーツ情報マスメディア学科 齋藤 博

 俳優小沢昭一さんが逝った。

 小沢さんとは二度お会いしたことがある。いま、思えば夢のような出来事だった。

私は小さな田舎の町に育った。その町には4つ映画館があった。当時、映画は身近な娯楽だったので親に連れられて月に何度か見に行ったものだ。映画館は今と違って3本立て(映画の本編3本と予告編、ニュースが上映され入れ替えなし)で大人の世界をのぞき見たい子どもにとって格好の場所だった。なかでも刺激的だったのは日活映画で石原裕次郎や小林旭といったスターが活躍するスクリーンに胸を躍らせたものだ。スターたちの脇を固めるため必ずといってよいほど登場してくるのが「変な俳優」、小沢昭一さんだった。

 大学2年のとき、その小沢さんと初めてお会いした。通っていた大学の教室で小沢さんの講義を受けたのだ。当時、小沢さんは日本列島に残っている大道、門付けの諸芸を収録するというビッグプロジェクト、『日本の放浪芸』(日本ビクター、1971年)を制作するため、歌舞伎研究の郡司正勝先生(『おどりの美学』演劇出版社、1957年『かぶきの美学』演劇出版社、1967年などの名著がある)の研究室に通って指導を受けていた。そのついでに学生のために「日本の芸能」について講義をしてくれたのだ。笑ったり、感心したりの90分。このとき、芸能も研究対象になる学問の奥深さを知った。

 正統に対しては異端、中心には周縁があるがちょうどそのころからだった。異端や周縁に強い関心を持つようになったのは。小沢さんの著書、『私は河原乞食・考』(1969年、芸術生活社)、『私のための芸能野史』(1971年、三一書房)は夢中になって読んだ。山形県の蔵王温泉での女相撲の元大関へのインタビューでは芸能の原点を浮き彫りにしている。また、仙台の一番町で当時、足が不自由なことを利用して体につけた鐘を鳴らして歩いていたストリップ劇場のサンドイッチマンが有名な浪曲師だったということも知った。人にはそれぞれの人生があって、懸命に生きているということを実感した。

 小沢さんの影響をまともに受けてしまい、お金があると歌舞伎や新国劇(もちろん大向うで)、小劇場演劇、落語、講談、映画などあらゆるエンターテインメントを見て回った。寄席では桂文楽、柳家小さんが健在で立川談志と三代目古今亭志ん朝が芸を競い合っていたし、唐十郎は新宿花園神社で紅テント、寺山修二は渋谷の天井桟敷館、鈴木忠志は早稲田小劇場、佐藤信は黒テントと演劇界も盛り上がりをみせていた。映画は映画で日本の溝口健二や小津安二郎の影響を受けたフランスのヌーベルバーグ(新しい波)が全盛でその影響を受けた日本映画も面白かった。

 大学では結局、小沢さんと同じく仏文科に進んだ。フランスの俳優で演出家についての論文を書いたのは記憶のかなたとなった。このフランス人はバリ島の演劇に啓示を受けた人で小沢さんが追及する伝統芸能とも共通するところがあり、またまた、小沢さんの後ろを歩んだことになる。

 大学を卒業して仙台の民間放送局で長いこと仕事をしてきた。テレビ番組の制作が最も長かった。その間、いろいろな人と出会った。画家の中川一政の息子さんで春之助さんからはドラマの演出法を、久世光彦さんにはご自身が経営するプロダクションの人たちとともにドラマ制作を手伝ってもらった。久世さんのドラマはドラマでとても面白いが小説やエッセイも味わいがある。特に学生に読んでもらいたいのは『一九三四年冬-乱歩』(1993年、集英社)だ。江戸川乱歩をモデルにした小説で井上ひさしさんも絶賛している。

 テレビの仕事をしているうち、いよいよ小沢さんとご一緒できる機会が巡ってきた。それは、平成8年のことだった。『20世紀大サーカス~サワダファミリー・国境のない旅』というテレビ番組で小沢昭一さんに語りをお願いしたところ、快く引き受けていただいた。この番組は明治の中ごろ浅草の軽業師一座とともに海を渡り、ヨーロッパを代表するサーカス芸人になった沢田豊という人の人生を追ったドキュメンタリーでサーカスプロモーター、ノンフィクション作家の大島幹夫著『海を渡ったサーカス芸人―コスモポリタン沢田豊の生涯』(1993年、平凡社)を原案にした。ドイツのサラザニサーカスサーカス(第2次大戦中連合軍の空襲でドレスデンのエルベ川沿いにあった常設館は消失)で大スターになった沢田はその前は日露戦争、第1次大戦、その後は第2次大戦に人生を翻弄されながらも家族とともに生き抜いたというストーリーである。

 録音の当日、小沢さんは一人で現れた。沢田が公演のためブラジルのサンパウロを訪れこれまでの人生を現地の『日本新聞』に語ったくだりの名調子は忘れられない。「最初に飛び込んだのはうどん屋さんである。いきなり天ぷらうどんを2杯やり、海苔巻き4本、おいなり4つをやっつけ、それから数日通って下痢をした。」結局、一度も故郷に帰ることができなかった沢田が久しぶりに日本を感じたときの喜びを見事に表現していただいた。まさに味わい深く、軽妙な語り口。話芸である。

 小沢さんには番組に対して談話もいただいた。
 「日本の浮世絵が西洋の絵画に一石を投じたことはよく知られています。それと同じ現象がサーカスの世界にもみられたことについては、残念ながらこれまであまり語られたことがありません。江戸時代の終わりごろから、実にたくさんのサーカス芸人が海外に渡って行きました。その日本の芸人たちの技が、世界中のサーカスに様々なかたちで影響を与えたのです。」
 新宿の大久保寄りの小さな録音スタジオで天にも昇るような気持ちになった。ハイヤーでお送りするためスタジオの外に出たときだった。小沢さんがあたりを見回してにやっと笑って、言った。「このスタジオいいところにあるね」。いまでは韓流ブームとかで賑わっているらしいが以前はいかがわしい場所だったところだ。その時の小沢さんは、まるで自身が主演した映画『エロ事師たちより 人類学入門』(日活、今村昌平監督、1966年)の「スブやん」そのものに見えた。

 俳優、小沢昭一さんが今月10日、前立腺がんのため都内の自宅で亡くなった。83歳だった。また、「昭和」が寂しくなった。                   

合掌

2012年12月18日火曜日

【TORCH Vol.002】「メランコリア」と「ツリー・オブ・ライフ」という映画―――「自然」とは何か―――


小松恵一(哲学)

K:「メランコリア」はすごい映画だね。参ったよ。何だ、これは、という感じだね、初めて見たときは。しかし、なぜか記憶に残って、この映画は何なのか、つい考えてみたくなる。

T:評価もだいぶ分かれているようです。ろくでもない映画という意見もあるし、傑作というひともいます。この映画は、昨年(2011)のカンヌ国際映画祭に出品されていて、その際、監督のラルス・フォン・トリアー(Lars von Trier)は、ヒトラーにシンパシーを感じるとか、人間はみなヒトラー的要素を持つという発言をして、映画祭から追放されました。しかし、主演女優のキルスティン・ダンスト(Kirsten Dunst)が女優賞を獲得しています。

K:何がすごいかっていうと、地球が「メランコリア」という巨大惑星に飲み込まれて消滅してしまうんだから。地球の危機を扱った映画はいろいろあったけれど、大体は人々の努力と犠牲で結局は救われて、人類は生き残るという話が多かったのではないかね。この映画ではどうしようもなく、地球もそこにある生命もすべて滅亡しちゃう。しかし、パニック映画やスペクタクル映画ではないし、SF映画とも言えない。むしろ、メランコリアが憂鬱症を意味しているように、個人的な心理劇だね。

T:確かに、主人公は二人の姉妹で、彼らが人里離れた場所でどのように地球の終焉を迎えるかが、静かに描かれるだけです。
 第一部は、妹のジャスティンの結婚式ですね。姉のクレアの夫が大金持ちで、彼の所有する18ホールのゴルフ場を併設するお城のようなところで、結婚パーティが行われる。ジャスティン自身がどうしようもなく鬱状態で、しかも、母親が奇矯な性格なので、おもにこの二人のためにパーティはめちゃくちゃになって、上司や新郎とも決裂しちゃう。
 第二部は、その後、そのお城に引き取られた鬱のジャスティンと姉夫婦そしてその子の4人が、だんだんはっきりしてくる地球の滅亡をどのように迎えるかという話です。そのとき、鬱のジャスティンのほうがむしろ気丈に終末を迎えるわけです。

K:その第一部の前に、8分ぐらい、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を伴って映像詩とでも言うべき前置きがあるね。それが何とも美しい。その前置きですでに、地球がメランコリアに飲み込まれる様子が描かれているので、観客は本編が始まる前に、結末を知ることになる。その他、この部分では、スローモーションで馬が倒れるシーンとか、花嫁姿のジャスティンが蔦に絡めとられて逃れようにも逃れられないシーン、これまた花嫁姿のまま、ハムレットのオフィーリアみたいに小川を死体となって流れ行くといったイメージが現れ、映画の内容を象徴的に暗示するわけだ。
 さて、第一部のパーティの場面だ。人生の最上の幸福の時間であるかもしれない結婚の披露宴が、ぶち壊しになる。ジャスティンの両親は離婚しているが、二人とも出席している。父親が落ち着きのない変な奴で、スピーチのなかで、別れた妻のことを悪し様に言う。それを引き取って元妻、ジャスティンの母親がまた偏屈で次のように言うわけだ。
「結婚なんか信じていない、大嫌いだわ。死が二人を別つまで、そして永遠にですって。一つ言いたいのは、続く限りは楽しんだらということね」。
I wasn’t at the church. I don’t believe in marriage. ---Till death do us part, and forever and ever… Justine and Michael. I have one thing to say… Enjoy it while it lasts. I myself hate marriages, especially when they involve some of my closest family members.
さらに、パーティが進んで、ますます鬱が深まるジャスティンは、傲慢な上司に向かって言う。
「くだらないと言っても、まだ良すぎるくらいだわ。あなたが大嫌い。それを言う言葉も見つけられないくらいよ。軽蔑すべき権力欲の小心者。」 Nothing is too much for you, Jack. I hate you and your firm so deeply.  I couldn’t find the words to describe it. You are despicable, power-hungry little man, Jack.
それで、即刻解雇になる。実は、これは、監督自身が言いたかったことだと思うね。

T:でもなぜよりによってこんなひどい結婚パーティを持ってきたのですかねえ。この監督は、人生の幸福をそもそも認めたくないのでしょうか。例の最高の鬱映画ともいえる救いのない「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督ですから。

K:それはあるね。監督自身が鬱病だったようだ。しかし、結婚パーティを持ってきた意味を考えれば、たんに結婚とその幸福を否定したかったというのではなく、この社会の人間関係すべてを否定したかった、いや、むしろそれを棚上げして裸の人間を露呈させようとしたのではないかね。結婚式というのは、個人的な性愛関係だけではなく、当事者のまわりの親子関係、家族関係、親戚関係、仕事上の関係などあらゆる社会関係が凝縮して現れる場だよ。その場が崩壊して、否応なく個人に立ち返らざるを得なくなる。それが第二部の寒々とした孤独につながるポイントになるのではないかね。
 だから、その第二部のなかで最高に美しい場面は、文字通り裸の場面だよ。鬱の妹ジャスティンが、小川の緑に満ちた岸辺の斜面に全裸で横たわって、天空のメランコリアを見上げている場面。これほど美しいヌードはめったにないね。そのシーンが短いのでもっと続いて欲しかったよ。人間が自然との合一を果たす場面なのだね。

T:それはわかります。しかし、鬱病のジャスティンだからそういうことができたのではないですか。社会関係、人間関係からまったく離れてしまった人間だからこそ、さまざまな俗事を超越してしまえる。そういうことは普通の人間にはできません。

K:それはそうだね。妹のクレアは最後(最期)まで普通のひとで、恐れ慄き、どうにかして滅亡に抵抗しようとする。もちろんそれはまったくの無駄であることは分かりながら。最期のシーンでは、ジャスティンとクレア姉妹、それにクレアの子供の三人がサークルを組んで手を取り合い、メランコリアとの衝突を迎える。これはハッピーエンドだと誰かが言っていたけれど、そのときも恐れと慄きがクレアを去ることはない。メランコリアが地球と人間を滅亡させて、強制的に自然との一体をもたらすわけだ。恐ろしいね。

T:そうだとすると、ちょっと引っかかるのは、ジャスティンの次のせりふです。それは、メランコリアがどうしようもなく地球と激突するとジャスティンが悟り、そのため鬱から立ち直って落ち着きを取り戻して言う言葉なのです。
「地球は邪悪だ。地球のために悲しむ必要はないわ。誰もそれがなくとも嘆かない。地球上の生命は邪悪なのだから」。The earth is evil. We don’t need to grieve for it. Nobody will miss it. Life on earth is evil. 
これは、人間、生命、それを育む地球を呪うような言葉です。そうした価値判断を下す必要がどこにあったのでしょうか。地球と地球上の生命が消滅してしまうとしても、それは邪悪だからなのですかね。あるいは、邪悪で滅びるのだから、諦めるしかないという慰めの言葉ですかね。地球とその生命がどうのこうのというより、滅亡を見つめているだけでよかったのではないですか。

K:そうかもしれない。ジャスティンは、強いて言えばだが、自然から遠く離れつつある人間を嘆いているのかもしれない。その人間に利用されている地球を悼んでいるのかもしれない。ともかく、この映画は、人間と自然の関係を問うものだとは言えるね。もっと言いたいことはあるのだが、このあたりにしようか。

T:「ツリー・オブ・ライフ」(テレンス・マリック Terrence Malick 監督)のほうはどうですか。同じ年の同じカンヌ国際映画祭で、最高賞であるパルム・ドールを獲得していますね。この映画も人間と自然の関係がテーマであるように見えます。

K:いま時間がなくなってしまったよ。また次の機会に話そう。

2012年12月7日金曜日

【TORCH Vol.001】「図書館」とは、「活字を看る」とは、

学長 朴澤泰治
はじめに

 従来、「書燈」の名のもとに図書館の広報誌的な役割を担っていた不定期刊行物が、このほど学生の図書館利用および読書をより促進することを目的に図書館ブログ「書燈」に衣替えし、全教員がリレー式に寄稿を継続させていくということで、その第1号の寄稿依頼がありました。

 この類のものは、どちらかというと、豊富な読書経験や知識に裏付けられた高尚な「内容」あるいは「文体」ということが暗黙の前提になっているのではないかと考えられます。

 しかし、仙台大学の学生のためにという「目的」を踏まえ、そして「継続させる」ということに着目し、少々変わった内容の寄稿とすることにしました。『「図書館とは」、「活字を看る」とは、』と題し、「見る」ではなく「看る」としたのは、その意図に基づくものです。

 ちなみに、広辞苑に依れば、「みる」とは「自分の目で実際に確かめる」転じて「自分の判断で処理する」という意味です。そして意味合いとして、「目によって認識する」、「判断する」、「物事を調べ行う」および「仏前に供える花を切る」に分類化し、「物事を調べ行う」という意味合いについては、「取り扱う、行なう」、「過ごしていけるよう力添えする、世話をする、面倒をみる」および「看病する」ということが含まれるとしており、「看る」と書く場合もあるとしております。

 以下の記載が、学生諸君において、この題名に託した意図を汲み取れる内容として「看て」頂ければ幸甚です。

1.「図書館」とは

 図書館との交わりで最も強く私の記憶に残っている出来事は、何といっても新潟地震の揺れとの出会いです。新潟地震とは、昭和39(1964)年6月16日のお昼過ぎに新潟県沖を震源として発生したM7.5の地震のことで、仙台市も新潟市と同じ震度5(当時の基準)の揺れに襲われました。その時、私は、3年生として在学していた高校の3階にあった図書館で大学受験のために教科書を開いておりました。当時、「優に1m以上は」という感覚でしたが、座っていた椅子と使用していた長机とが一緒に大きく移動するという、かつて経験したこともない強い揺れに襲われました。昨年の東日本大震災の時、若し同じ状況にあったらどれほどの感覚に陥っただろうか、想像に余りあります。しかし、地震がおさまった後は、いつもと同じように教科書に向かっておりました。

 図書館は、様々な用途に使える空間です。特に現下のIT社会においては、その機能を単なる蔵書の活用の場に止めることは、もはや困難です。如何に図書館を使いこなすか、まさに学生諸君の腕の振るいどころと云えます。もちろん、他人に迷惑をかけないという大前提の下にですが。ちなみに、私の大学生時代は大学紛争のあおりで、逆に、図書館は閉鎖しっ放しとなり、使える空間自体が存在しておりませんでした。

 図書館との交わり(その2)として、写真を2枚、掲載します。一つはベラルーシの新しい国立図書館。もう一つはアメリカ東海岸ニューへブン市のエール大学の図書館です。国際交流で海外に出ると、都市や大学の図書館を見学する機会を得ますが、そのなかで印象に残った図書館の建物の写真です。ベラルーシ国立図書館の外観には奇抜という印象を受けましたが、内部は非常に機能的になっております。また訪問したいので、有効期間2020年までの図書館入館証を購入しました。

(ベラルーシ国立図書館)

 エール大学図書館では、活字印刷の発明者であるグーテンベルクが15世紀に印刷した紙版の聖書で、世に40部弱しか存在していないという印刷物の歴史的展示に出会いました。図書館は、内部の蔵書閲覧だけがその保有する機能ではない、ということに気付かされます。

(エール大学図書館)

2. 「活字を看る」とは

 古い話になりますが、高校に入学した時、夏季休業や冬季休業を利用して、高校3年間で世界的名作といわれる大作の書物にチャレンジすることにしました。不得手な国語を克服するための受験対策です。夏季休業中には、ドストエフスキーの「罪と罰」を1年次に、トルストイの「戦争と平和」を2年次に、与謝野晶子訳による紫式部の「源氏物語」を3年次に、それぞれ読破しました。冬季休業中には、夏目漱石の「我輩は猫である」あるいは天声人語の集録集その他、当時、大学入試で取り上げられる可能性の高い書物を通覧しました。今では「末摘花」程度の固有名詞しか浮かんできませんが、大量の活字物を克服したという経験は、実際の大学入試に際して、当時、どんな書物からの引用であっても対応できるという自信の基となりました。また、あらすじを掴んでいるという点も設問に対する恐怖心を和らげました。書物には、読書の対象ではなく「活字を看る」対象という機能もあると考えております。

 本年度から、中教審答申の「機能別分化」の観点なども踏まえ、体育系大学という特色を簡明に学生諸君が体験できる教養教育の一環として、「仙台大学の専門教養演習」を開講しました。競技種目別に同好の学生が集い、好きな種目に対する様々な視点からのアプローチを通じて「就業力」の基礎となる教養を身に付ける、という目的で設定されている授業科目です。

 サッカー競技については、1年間を通じて、2週間に1回、サッカーを取り巻く人文科学・社会科学・自然科学の各面から国際的トピックスを取り上げ、2年生約70名が「就業力」としての教養を身に付けるための学修をしております。夏季休業前、サッカー部長の立場で、私から長谷部誠著の「心を整える」のうち「活字を看て」欲しい部分を取り出し、その学生諸君に看てもらいました。「夜の時間をマネージメントする」、「指揮官の立場を想像する」、「変化に対応する」などと並んで「読書は自分の考えを深化させてくれる」、「読書ノートをつける」等の見出しも躍っている書物です。読書だけではなく、「活字を看る」ものとしての書物の位置付けもあると気付きます。

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リレーコラム「TORCH」とは?

 本学図書館ブログ「書燈」の新企画として新たにスタートしたリレーコラム「TORCH」は、学生の皆さんにもっと図書館を利用してもらいたい、もっと多くの本に触れてほしいという思いから、読書や図書館の魅力にさまざまな角度から光を当てることを目的として、リレー形式のコラムを連載することにしました。

 リレーコラムのタイトルは「TORCH(トーチ)」。コラムのバトンを繋いでいくことから、オリンピックの「トーチ・リレー(聖火リレー)」をモチーフにしました。

 英語の「torch」には「知識(学び)の『ともしび』」という意味もあります。このブログが一つのきっかけとなり、学生皆さんの知識の「ともしび(torch)」を未来へ「つなぐ(relay)」ことができればとも考えています。

 「TORCH」は週刊での連載を予定しています。ぜひお楽しみください!

2012年10月22日月曜日

【視察報告】知的書評合戦「ビブリオバトル2012宮城予選」に行ってきました!


報告:阿部篤志(図書館企画委員会委員) 

 2012年10月4日、宮城県仙台市にある東北学院大学中央図書館にて「ビブリオバトル2012宮城大会」が開催されました。9月25日のブログでもご紹介しましたが、このイベントは「大学生・大学院生によるゲーム感覚を取り入れた新しいスタイルの参加型『書評合戦』。ビブリオバトラー(発表者)がおすすめ本を1人5分でプレゼンし、バトラーと観客が一番読みたくなった本に投票し、『チャンプ本』を決定」(チラシより抜粋)するものです。本学でも教授会で紹介し、先生方から研究室を通して学生に声がけをしていただきましたので、興味を持った学生さんもいるかと思います。

 とても面白そうなこの企画イベントをぜひ生で観てみたい!と思い、ふらりと出かけてみました。18時半を過ぎると、雰囲気ある東北学院大学の中央図書館の入り口すぐにある会場には一人また一人と、このイベントを観戦する方が参集。私も受付を済ませ、これからの壮絶な決戦(!?)を想起させるBGMを聴きながら、19時の開戦を楽しみに待ちました。

 今回の予選に挑んだバトラーは6名。うち4名がホームである東北学院大学の学生さんで、1名が東北大学から、もう1名が宮城教育大学からの参加でした。対戦順はその場の「くじ」で決めます。6冊の本に差し込まれた栞(しおり)を引きます。そしていよいよバトル開始。

 前方のスクリーンで時間がカウントダウンされる中、バトラーの皆さんはおすすめ本を手にさまざまな表現で本の魅力を伝えます。本の主人公に自分を重ね、その雰囲気を醸し出す帽子を衣装に発表する方がいれば、「これは大切な人に送りたい一冊です!」と熱いメッセージを送る方や、本に描かれた特徴的な表現を引用しながら、その背景にある幸福観や自然観に触れて魅力を解説する方も。そのアプローチの仕方が6名それぞれに個性的で、良いプレゼンテーションとは何か?への答えは一つではないことを改めて実感しました。

本の紹介をするビブリオバトラー

 結果。宮城大会の決戦を制し1位となった東北大学文学部2年の玉田優花子と、次点の貝森義仁さん(宮城教育大学教育学部4年)が宮城・福島ブロックへ進出しました。 その後、貝森さんが同ブロックの勝者となり東京での首都決戦へ。ビブリオバトルのウェブサイトによれば、貝森さんは決勝にも進出したようです(素晴らしい!)。

 玉田さんが紹介してくれた「火山のふもとで」(松家仁之著)にとても興味が湧いたので、視察後、早速amazonで注文。通勤の車内で読んでいます。


 以下のURLには、首都決戦で紹介された本の一覧があります。

 読書の秋。このうちの1冊を手にしてみてはいかがでしょうか。仙台大学でもこのイベント、やってみたいですね。

2012年9月25日火曜日

ビブリオバトラー参加者募集!

おすすめの本を紹介して勝負する「ビブリオバトル」。
その宮城予選が10月4日に開催されます。
ぜひご参加ください。観覧だけでも大歓迎です。

【寄稿】スポーツ雑誌レビュー&ブリーフィング<9月>


阿部篤志(仙台大学講師・スポーツ情報戦略)

<Pick Up>「トップアスリートをめぐる施策」和久貴洋(日本スポーツ振興センター情報・国際部情報・国際課課長)



和久は、この10年におけるトップスポーツの競技力向上に関する施策のキーワードは「革新(innovation)」「綜合(synthesis)」「選択と集中(focus & concentration)」であり、ライバルとの競争優位性を確保するために、いかに素早くインパクトある革新を生み、有効な資源を綜合し、集中投下するかという競い合いであったと総括しながら、トップスポーツの競技力向上施策の現状と将来展望を概観し、今後のより効果的な政策・施策立案のためにどのような情報やエビデンスを集積していく必要があるかについて検討する。

近年のトップスポーツにおける国際競争は、より高いパフォーマンス水準での僅差の競い合いであり、それを生み出す競争構造は、トレーニングの高度化やアスリート、コーチのフルタイム化、コーチングや強化活動の高品質化などからなる。この10年でその変化を生んだ世界の競技力向上施策の枠組みは「統括組織」の設置、「強化戦略プラン」の策定、「ナショナルプログラム」の開発などに整理でき、「この枠組みを逸脱するようなイノベーションはほとんど起こっていない」と和久は考察する。

その上で、今後のトップスポーツ施策に係る重要な国内外の動向やエビデンスについて、「オリンピック金メダルランキング及び金メダルシェア」「各国代表選手団を構成するアスリートの年齢構成」「メダルポテンシャルアスリートとメダル獲得成功率」「フルタイムアスリートのメダル獲得」などを示した上で、特にUKスポーツが2012年ロンドンオリンピックに向けて実施した「Mission 2012」(英国におけるトップアスリート育成や競技力向上の中核を担う競技団体の組織能力の向上を意図した取り組み)の事例を挙げ、今後のトップスポーツの競技力向上施策が「表層のイノベーション競争」から「深層の能力構築競争」へと転換すると和久は分析する。そして、今後における日本のトップスポーツ施策を検討する上で、組織能力や能力構築に係る情報やエビデンスの体系的な集積が必要であることを指摘する。


文責:阿部篤志

<雑誌特集リスト> 
タイトル
ID
特集/主要トピックス
Strength & Conditioning Journal Japan
Vol.19 No.7, Aug/Sep 2012
特集「「スポーツ基本法」に見るスポーツ指導者の存在」福永哲夫(鹿屋体育大学学長)
月刊体育施設[スポーツファシリティーズ]
8月号(第4110号)
シンポジウム「スポーツ基本法の改正とわが国のスポーツ施設のあり方」野川春夫(順天堂大学スポーツ健康科学部学部長)
体育科教育
2010.10
6010
特集「体育の常識を問い直す」:運動の特性、問題解決学習、学習観など
Sports Japan
Vol.3
2012 09-10
第1特集「スポーツ新世紀」の国民体育大会、第2特集「今、なぜ武道なのか〜中学校の「武道必修化」を考える〜
みんなのスポーツ
No.386
2012 89
特集「総合型クラブにおけるマネジメントと財務基盤の自立」
体育の科学
2012 Vol.62
9
月号
特集「健康・スポーツ施策の動向」:和久「トップアスリートをめぐる施策」、海老原「文部科学省「スポーツコミュニティの形成促進」」ほか
臨床スポーツ医学
Vol.29
No.9 2012
特集「スポーツ栄養の最近の動向」:エリートアスリートに対する栄養管理、オーストラリアのスポーツ栄養事情ほか



***

「雑誌レビュー&ブリーフィング」は、阿部ゼミの勉強の一環でやっている「情報ブリーフィング」の一つです。仙台大学付属図書館に所蔵されている、主に体育・スポーツ系の雑誌の特集や主要トピックスのタイトルを、毎月1回、さらっとレビューします。またその中でちょっと気になる話題について概略をブリーフィングします。雑誌情報を俯瞰する情報としてご活用いただき、気になる特集などがあれば、図書館の雑誌コーナーに行きましょう!

2012年7月6日金曜日

熱中症特集


7月の特集として、図書館入口の新着図書コーナーでは、「熱中症」に関連した図書を集めてみました。熱中症対策にぜひ活用してください。

展示図書リスト
◎中村純友 『熱中症--息子の死を糧にして』 悠飛社 (916Nm)
◎日本救急医学会編集 『熱中症 日本を襲う熱波の恐怖』 へるす出版 (493.19Ni)
◎中井誠一 他 『高温環境とスポーツ・運動』 篠原出版新社 (780.193Ns)
◎平田耕造 他 『体温』 ナップ (491.361Hk)
◎井上芳光 他 『体温Ⅱ』 ナップ (491.361Iy)
◎栄養学レビュー編集委員会編 『水分補給 代謝と調節』 建帛社 (498.56Ei)
◎藤田紘一郎 『水と体の健康学』 ソフトバンククリエイティブ (498.3Fk)

2012年6月25日月曜日

【図書館だより】夏休みの読書のために〜読書案内


図書委員会

<震災関連>
大震災をどのように捉え何をなすべきか
  • 内橋克人編『大震災のなかで:私たちは何をすべきか』岩波新書 2011年6月
  • 内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』朝日新聞 2011年4月

放射線の理解と具体的な対処法
  • 中川恵一『放射線のひみつ―正しく理解し、この時代を生き延びるための30の解説』朝日出版社 2011年6月
  • 高田純『放射線から子どもの命を守る』(幻冬舎ルネッサンス新書)2011年7月

反原発の闘士である人のエネルギー論と予言的な書。
  • 広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)2010年7月
  • 広瀬隆『原子炉時限爆弾―大地震におびえる日本列島』ダイヤモンド社 2010年8月

<アジア・太平洋戦争を理解する>(挙げればきりがないが)
  • 大岡昇平『俘虜記』、『野火』
  • 遠藤周作『海と毒薬』
  • 大江健三郎『ヒロシマノート』
  • 井伏鱒二『黒い雨』
  • 児島譲『東京裁判』上、下、中公文庫
  • 吉田裕『アジア太平洋戦争』(シリーズ日本近現代史6)岩波新書

<スポーツ・ドキュメンタリー>
ボクシングに賭けた青春群像
  • 後藤正治『遠いリング』岩波現代文庫
スポーツの世界で有名ではないが、魅力ある男たち
  • 後藤正治『咬ませ犬』岩波書店(同時代ライブラリー)
松井秀喜、伊達公子、岡野功、古賀稔彦など孤高のスポーツ・パーソンを描く
  • 後藤正治『孤高の戦い人』岩波現代文庫
最強のクライマー山野井泰史の挑戦と壮絶な戦い 
  • 沢木耕太郎『凍』新潮文庫

<自然科学関係>
スリリングな最新の宇宙論(インフレーション理論、マルチバースなど)
  • 佐藤勝彦『宇宙論入門』岩波新書
地球と生命の進化の関係にかんする大胆な仮説
  • 丸山茂徳、磯崎行雄『地球と生命の歴史』岩波新書
生命の複雑さ・精妙さ、細胞で何が行われているか
  • 永田和宏『タンパク質の一生――生命活動の舞台裏』岩波新書

<文明論・人生論>
哲学者はオオカミから何を学ぶか
  • マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ――愛・死・幸福についてのレッスン』白水社
若者層の増大という視点から世界史を解釈する論争の書
  • グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち――人口学が警告する驚愕の未来』新潮選書

【寄稿】雑誌レビュー&ブリーフィング<6月>

阿部篤志(仙台大学講師・スポーツ情報戦略)


<Pick Up>「多様性」の概念を含めた統合的な遺伝学教育の必要性〜スポーツの真のグローバル化を見据えて


平成242012)年度から中学、高校の学習指導要領が改訂され、高校生物ではDNA・遺伝子が中心となり、メンデルの遺伝の法則「遺伝の規則性と遺伝子」は中学校(義務教育)に移行したことが歓迎されている。課題もある。遺伝学は元来、「遺伝の仕組み」と「多様性」を統一的に理解するための学問とされているが、日本では「genetics」が「遺伝学」と邦訳されたため、前者に重きが置かれ、「多様性」の概念が軽視されがちとなった(池内)。

スポーツと遺伝は、素質を有する人材の識別(Identification)し、育成、強化することで国際競技力向上を図る「タレント発掘・育成(TID)」の領域における一つの課題として取り上げられてきた。2001年〜2004年のJISSタレント発掘研究プロジェクトでも取り上げた。近い将来、個人の全ゲノム情報が比較的安価に得られるようになる(鎌谷)ことが見込まれることから、今後、遺伝的な観点からのTIDの議論は活発化することが予想される。

別の視点からも、「多様性」の観点からの遺伝学教育がスポーツ領域でも重要になると考えられる。その契機はユースオリンピック(YOG)の創設(2010)、スポーツ基本法の制定(2011)及びスポーツ基本計画の策定(2012)である。

前者の文脈では、スポーツの文化・教育との融合の潮流が促進されれば、トップアスリートのみならず、各世代のアスリートやスポーツ関係者がグローバル(マクロには国際的に、ミクロには同一集団を超えて)に交流するようになる。その時に重要なことは多様性への寛容である。また後者では、これから日本ではオリンピックスポーツとパラリンピックスポーツはさらに距離を縮め、地域においてもいわゆる健常者と障がい者が交流することが多くなる。その際に、表面的に取り繕いではなく、ゲノム多様性への理解を通じた本質的な交流が図れるようになることは、スポーツを通じた社会の発展において重要な課題である。


文責:阿部篤志


<雑誌特集リスト> 
タイトル
ID
特集/主要トピックス
情報の科学と技術
Vol.62
No.6, 2012
電子ブックと出版
初等教育資料
No.887
JUN, 2012
自ら学ぶ子どもを育てる授業づくり
生物の科学 遺伝
Vol.66
No.3, 2012
新学習指導要領とこれからの生物教育〜何が変わり、どう変わるべきか[遺伝と進化の分野を中心として]/「遺伝的多様性」と「ヒトの遺伝」に理解を
月刊体育施設[スポーツファシリティーズ]
5月号(第417号)
toto助成によるスポーツ施設整備〜2008年度から2010年度までに328件・約56億円の事業実施
公衆衛生
Vol.76
No.6, 2012
運動とは何か〜人々にとっての「スポーツ」と「運動」の意味を考える
体育の科学
2012 Vol.62
5
月号
スポーツにみるグローバルとローカル〜文化としてのスポーツのグローバル化の複雑な様相/スポーツを支える地域戦略
臨床スポーツ医学
Vol.29
No.6 2012
アスリートの手指の外傷と障害〜診断から競技復帰までのアプローチ
バイオメカニクス研究
No.16
No.1 2012
野球の投・打動作の分析〜2010世界大学野球選手権大会における試み


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「雑誌レビュー&ブリーフィング」は、阿部ゼミの勉強の一環でやっている「情報ブリーフィング」の一つです。仙台大学付属図書館に所蔵されている、主に体育・スポーツ系の雑誌の特集や主要トピックスのタイトルを、毎月1回、さらっとレビューします。またその中でちょっと気になる話題について概略をブリーフィングします。雑誌情報を俯瞰する情報としてご活用いただき、気になる特集などがあれば、図書館の雑誌コーナーに行きましょう!

【寄稿】雑誌レビュー&ブリーフィング<5月>


阿部篤志(仙台大学講師・スポーツ情報戦略)

「雑誌レビュー&ブリーフィング」は、阿部ゼミの勉強の一環でやっている「情報ブリーフィング」の一つです。仙台大学付属図書館に所蔵されている、主に体育・スポーツ系の雑誌の特集や主要トピックスのタイトルを、毎月1回、さらっとレビューします。またその中でちょっと気になる話題について概略をブリーフィングします。雑誌情報を俯瞰する情報としてご活用いただき、気になる特集などがあれば、図書館の雑誌コーナーに行きましょう!

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<Pick Up>
子どもの運動・スポーツ適正実施のための基本指針(日本学術会議)

Strength & Conditioning Journal・5月号の特集「日本学術会議(健康・スポーツ科学分 科会)の提言『子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針』」では、福 永哲夫氏(鹿屋体育大学学長、NSCA ジャパン編集委員長)が本提言(2011年8月)における指針について概説している。福永氏は提言作成の背景について、「我が国における子どもの健康・体力はピーク時に比べて依然として低いものの、関係者の努力によって(中略)様々な取り組みが行なわれるようになり、その基盤となるエビデンスも増加しつつある」としながらも、その先例やエビデンスの入手の難易度にばらつきがあり、「信頼できる学術的根拠に基づく、全国民が誰でも、いつでも、どこででも自由に使える共通の指針を策定することは、きわめて重要な意味をもっている」と指摘した上で、その指針について概説。日本学術会議のウェブサイトに詳細あり。
文責:阿部篤志

<雑誌特集リスト>
月刊トレーニング・ジャーナル「主観と客観〜動きのズレを認識する」May 2012 No.391
コーチング・クリニック「“筋トレ”と向き合う/“筋トレ”最新情報〜競技特異的トレーニング〜JISSにおけるサポート事例」2012年6月号
指導者のためのスポーツ ジャーナル「動きはじめたスポーツ」2012春号 Vol.291
みんなのスポーツ「社会資本としての学校施設を活かす」2012.5 No.383
体育の科学「運動と心臓・血管」2012 Vol.62
体育科教育「ICT 活用とこれからの体育授業 」2012.05
Strength & Conditioning Journal「日本学術会議(健康・スポーツ科学分科会)の提言「子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針」について」2012.5 Vol.19 No.4
月刊スポーツメディスン「腹筋と背筋〜体幹筋解明へのアプローチ」May 2012 140
子どもと発育発達「子どもの成育環境と健康」Vol.9 No.4
月刊社会教育「つながりの創造へ〜サークル・団体活動から考える」2012.5 No.679
教育学研究「現職教師教育カリキュラムの教育学的検討;働き学び生きる23歳の若者たち〜「若者の教育とキャリア形成に関する調査」結果から〜」2012.3 Vol.79 No.1
季刊環境研究「環境庁設立40周年〜環境行政の40年を振り返る」2012 No.165
中央公論「会議の政治学〜会議は劇場、言葉が勝負する」2012.6

【図書館だより】2011年度「新書」貸出ベスト10


1位 若者のための仕事論(朝日新書)
2位 スポーツを仕事にする!(ちくまプリマー新書)
3位 ファッション・ライフのはじめ方(岩波ジュニア新書)
4位 社会を生きるための教科書(岩波ジュニア新書)
5位 野球へのラブレター(文春新書)
6位 世界130カ国自転車旅行(文春新書)
7位 話しベタはスポーツ新聞を読みなさい!(双葉新書)
8位 20歳からの「現代文」入門(生活人新書)
9位 就活のまえに(ちくまプリマー新書)
10位 謎解き!宮崎・ジブリアニメ(ベスト新書)

気になるタイトルがあれば、図書館へ行こう!
仙台大学附属図書館

【図書館だより】2011年度「図書」貸出ベスト10


1位 戦う身体をつくるアスリートの食事と栄養
2位 スポーツ選手の栄養学と食事プログラム
3位 トップアスリートになる勝つためのスポーツ食book
4位 体育哲学原論
5位 アスリートのための食トレ
6位 スポーツと健康の栄養学
7位 子どものためのスポーツめし
8位 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
9位 スポーツ生理学
10位 らくらく図解統計分析教室

気になるタイトルがあれば、図書館へ行こう!
仙台大学附属図書館

【連載】「身体」という「自然」について


小松恵一(仙台大学教授・哲学)

教師(以下T、理屈が多くて、学生からはあまり人気はありそうもない。):
仙台大学生(以下S、部活も熱心に取り組んでいるし、勉強にも力を入れようとしている、文武両道を目指している。):

S: 前回は、「身体」と「身体の可能性」こそ、体育学部の中心テーマとなるというお話でした。今回はそれに続いて話したい、いや、お話をうかがいたいのですが、ぼくなりに前回の要約を言います。すべての人間は、「身体」をもっているわけです。「身体」をもたなければ、この世に生存できません。身体がなければ、それは幽霊になってしまう。その「身体」とその可能性をさまざまな角度から勉強するのが体育学部で、だから、文科系や理科系の科目があるということでしたね。

T: そのとおり。いいね。もう少し続けてくれますか。

S: それで・・・、しかも、その勉強というのは、自分のためというよりも他人のためということでしたね。もちろん、ぼくらは自分のために大学に来たわけで、体育学科だったらそこで競技成績を上げたいとか、体育教師になりたいという目的があるわけです。しかし、同時に忘れてならないのは、他のひとに伝えてあげるということが重要だということでしたか。

T: そう。自分ではない別のあるひとの身体とその可能性を育むことに主眼があるのではないかな。体育教員の養成は、自分がそれになりたいのだから、自分のためであると同時に、むろん生徒のための教員養成です。体育学科以外の学科にも、同じことは、つまり、他者のためであるということはみな当てはまるね。

S: まずは、自分のためであるけれども、それが同時にひとのためにもなる、ということですか。

T: そのとおりだね。学問というものは、究極的には人間のためという性格をもつわけですが、その程度は学問の種類によって多少違う。たとえば、数学や物理学などは、直接にひとのためというよりも、真理の探究という意味合いが強いでしょう。しかし、体育学部で学ぶことは、そうした学問の成果を踏まえて、むしろそれを他人のために生かしてゆくというところが重要なのだよ。それは同時に自分のためでもある。一般化して言えば、人間の存在している意味は、他者を介して自分に戻ってきて、はじめて確立できるものだよ。

<身体は自然である> 

S: それから「身体」は「自然」の産物だということもありましたね。生まれて、成長して、老化して死んでしまうという過程は、自然が仕組んでいることだと。

T: そう、体育学部は「身体」を扱うわけですが、「身体」は、「自然」に属するものです。さらに、その「身体」は、人間の場合は自然のまま、何もしないで「人間の身体」になるのではなくて、広い意味で「学習」によってはじめて人間というものになるとも言ったね。

S: 言葉を学ぶということも「身体活動」として学習されるとか。

T: そう、人間の顔や口から喉にかけての筋肉構造は非常に複雑で、それは自然のたまものとしか言いようがない。そうした身体的条件がなければ「話す」ことはできない。ネアンデルタール人は、おそらく人間のせいで滅んでしまったけれども、もっとも人間に近いし、脳は、人間よりも大きな容積があったと言われている。しかし、彼らはたぶん人間ほどの複雑な言語は持っていなかった。それは喉の構造が話すのに適していなかったからだという説があります。人間は、そうした身体的条件の上で、言葉を学習できるのだね。自然の身体のあり方がまず人間固有の活動の前提条件としてある。

S: それもわかりますが、「自然」と言われても、何だかすべてが自然のような気もして、かなりおおざっぱなような。

T: たしかにそうだね。「自然」という言葉は、さまざまな意味で使われるからね。生物の長い進化の過程を経て、今から10数万年前に現生人類が誕生した。それ以来、人間はひとつの種として生存している。個体としてみれば、一個の身体は受精することから始まり、細胞分裂を経て誕生し、成長し、老化し、そして死を迎えます。その過程は、(医学などの科学技術によって最近はかなり手を加えられているとはいえ)基本的に自然の過程です。

<自然における多様性>

S: それはわかります。しかし、いろいろな身体がありますよね。なかには異常というか、奇形というか、そういうひともいます。さまざまな違いをもって生まれてくる。それも自然ですか。

T: もちろんそれも自然です。自然には正常も異常もありません。その二つの区別は人間がある基準を立てて、あとから言うにすぎないのだよ。いわゆる異常、奇形を見て、異常だと思うのは、差別です。ひとは、そもそもさまざまな素質で生まれてくるのですから、それを異常、正常と区切るのは、それは人工的に設けた区別でしかない。

S: しかし、そうしたひとも医学の力で何とかしようとすることもありますね。それは異常を何とか直そうということではないですか。

T: それは、異常・正常という枠組で考えるのではなく、むしろ、社会生活、つまり人間が作った枠組に合わせて、なるべく円滑に暮らせるようにするということだと思うよ。

S: でも、性同一性障害のひとはどうですか。自分の性に違和感を強烈にもっているひとは、手術してかえって自然な状態に帰るとはいえませんか。

T: 君も難しい例を出してくるね。その場合、自然とか不自然という枠組みで考える必要はないのではないかな。性同一性障害のひとは、生まれたまま、つまり手術前が自然なのだ、と言ってもいいけれども、そういう自然の状態で生きるべきだ、というようなことはないからね。人間は、自然を人工的に変え、手を加える存在です。それが人間の人間たるゆえんでもある。いま科学技術が発展して、自然を大幅に変えることがますますできるようになってきた。いまは、人間の身体という自然にも技術の力で手が加えられるようになってきた。しかし、もちろんそこには、いろいろな制限がありうる。人類の生存に関わるような改変はだめだろうし、あるいは道徳的にだめということもあるだろう。その基準は、おおざっぱに言えば、社会的合意ということだろうね。
ちなみに、人間はもう進化しないと考えられる。つまり、生物学的な意味では、人間はもはや進化することはないだろう。いま触れたように、人間自身が人間のあり方に介入しているからね。進化の原理は、自然選択natural selectionであるわけだが、環境の変化に対応できない種あるいは個体が自然によって選択され、滅亡したり生き残ったりするという自然の過程を人間は根本的に変えてしまった。さまざまな人間をそのまま認めてともに生きていこうとするところに、人間である証があるよね。現実はそうなっていないところも多々あるけれども。
しかも、進化による変化よりも、人工的に、人間の身体に介入しているそのスピードのほうが、圧倒的に早い。進化の時間的長さを追い越して、人間は自分の身体を変えてゆくだろうね。

<ドーピングと自然な身体>

しかし、体育学部では、人間の身体に直接侵襲するのではなく、なるべく自然のかたちで、身体の可能性を発展させようと考えるのだね。

S:そうですか。そうすると、ドーピングが禁止されているのは、身体の自然との関係があるのですね。

T:そう、人工的に身体に介入する技術が発達してゆく世の中で、スポーツは身体の自然性を保持する最後の砦なのです。しかし、そこにはいろいろな問題が含まれていることは確かなので、また次の機会にドーピングの話をすることにしよう。

【書評】ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳)『ホモ・ルーデンス』中公文庫,1973(初版)


藪 耕太郎(仙台大学講師)

皆さんが高校生のとき、社会科関連の科目で「ニンゲンって何?」というテーマで授業を受けたことがあるかもしれません。それも生物学的な見地からではなく、人文・社会科学的な見方から、人間と他の生物との相違を定義しようとする試みは、昔から行われてきました。

たとえば、ホモ・サピエンス(知恵ある人)、ホモ・ファーベル(工作する人)、ホモ・エコノミクス(経済活動する人)といったことばを、どこかで聞いた覚えのある人も多いでしょう。これは知恵や工作、あるいは経済活動こそが、人間を人間たらしめる本源的な要素なのだ、という考え方を示すわけです。

それではホモ・ルーデンスとは何でしょうか?ズバリそれは「遊戯する/遊ぶ人」です。知恵やら工作やら経済やらに比べて、ずいぶん身近、ときに低俗な感じがしませんか。なかには「人間の本性が遊びにあるなんてとんでもない。人間はもっと気高くて上品であるべきだ!」なんて怒り出す人もいるかもしれません。でも、そうしたまっとうにみえる意見こそが、実はホイジンガのいう「真面目の支配」に私たちが毒されている証なのかもしれません。このはなしは後でします。

まず、ホイジンガの略歴をごく簡単に述べておきましょう。1872年にオランダに生まれたヨハン・ホイジンガ(ヘイツィンハとも言います)は、1945年に没するまで、生涯を通じてオランダ最古の大学ライデン大学を中心に、思索と研究、執筆を重ねた碩学(せきがく)(学問を深く探究した大家)です。『中世の秋』(1919)、『明日の影の中に』(1935)などの著作でも知られています。『ホモ・ルーデンス』は1938年に執筆されました。

同書が日本の体育・スポーツ界で脚光を浴びたのは1960年代のことです。1964年の東京オリンピックを軸に大衆のスポーツ欲求が増大したこととも関連しながら、スポーツの文化的な特性を知る重要な手がかりとして、ホイジンガ流の「遊び」の概念が導入されたわけです。ここでは、全12章からなる『ホモ・ルーデンス』を章立てごとに紹介するのではなく、遊びとスポーツの関係性から、この大著を読み解いてみましょう。

スポーツも文化のひとつですが、ホイジンガは「文化は、…(中略)…、遊びの中(なか)で始まったのだ」と述べます。つまり、文化やそれを成り立たせる社会や生活は、そもそもにおいて遊戯の対象だったのだ、とみなすわけです。その意味で遊びは低俗ではないどころか、遊びなくして人間は存在できない、だから私たちはホモ・ルーデンスなのだ、と彼は考えました。ホイジンガは時空を自在に操りながら、今日の私たちからみればとうてい遊びの領域にあるとは思えない分野、たとえば科学、宗教、政治などが、いかに遊ばれてきたのか、ということを、鮮やかに描き出します。

ところで皆さんの中には、「遊びは遊びであって、政治なんかとは根本的に違うでしょう。スポーツだって遊びでやったら怪我をするし面白くない」と思う人もいるでしょう。その意見はもっともですが、ここはもう少しホイジンガの思想に耳を傾けてみましょう。

『ホモ・ルーデンス』の最終章のタイトルは「現代文化における遊戯要素」で、皆さんになじみ深いスポーツに関する記述は、この箇所にしかありません。読解の易しい書物では無いので、興味があればまずはこの章から読み進めるのもアリでしょう。ともあれこの章における作者の態度は、前章までとは打って変わって悲観的です。「スポーツは遊戯領域から去ってゆく」とまで述べています。どういう意味でしょうか。

先ほど「真面目の支配」というフレーズを出しましたが、ホイジンガにとってまじめと遊びは必ずしも対立するものではありませんでした。一般的にイメージされる、遊び=不まじめ、とは異なる理解をしていたのです。やや強引にまとめると、遊びはなによりまず自発的な行為であり、この遊びにおける自由を確保するために、お互いの利害を排したり、あるいは実時間から分離したり、ルールを作ったりするわけです。つまり、遊ぶために「ある種の」まじめさが自然に要求されることになります。ホイジンガは「遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる」と記しています。

さて、先の一文に「ある種の」と括弧書きを付けた箇所をみてください。ホイジンガにとって、まじめさは複数あるものでした。私たちが現在当たり前と思っているまじめさは、そのうちのひとつに過ぎません。功利主義や合理性が強調された、これら近代において当然とされるまじめさを、仮に「真面目」と記して区別しましょう。そして、現在、スポーツの世界はどの程度真面目化しているか、少し考えてみてください。

…、どうでしょう?たとえば勝利至上主義や過度の商業主義、ドーピングや環境破壊などは、スポーツが真面目に支配されたことをひとつの要因とする問題ではないでしょうか。つまり、規則や規律の厳密化、訓練の強化、競争原理の高揚といった真面目さが、意図せざる問題をスポーツにもたらしている、と考えることもできるわけです。そこまで深刻に考えなくとも、スポーツが持つ気楽さや気軽さが、真面目の名の下に抑圧されているとしたら、やっぱりそこに問題が無いとは言い切れません。

「最近スポーツ頑張ってる?」と聞かれたら、「真面目に、一生懸命にやっています」と私たちは答えがちです。その回答に嘘が無いとしても、それがゴールではありません。「私たちが一生懸命に取り組んでいる、このスポーツなる文化は何だろう?」と自己の内外に問い続ける重要さを、ホイジンガの著作は訴えています。

ホイジンガが描くスポーツの未来像は決して明るいものではありません。それは彼の限界ではなく、生きた時代の反映です(彼はナチズムによる全体主義の嵐に全身で抗した人物でもありました)。他方で私たちはいま、ホイジンガが知らない時代を生きています。先ほどの問題に正面から向き合い是正しようとする活動があり、新しいスポーツ運動も次々に誕生するいまだからこそ、「遊び」について再考することは重要なのではないでしょうか。

「学ぶ力」を育てる学習環境について


図書館長 鈴木省三

人類は過去50万年にわたって、絶えず変化する環境に適応するために、身体能力を磨き、思考する脳を進化させてきた。ともすれば、わたしたちは狩猟採集生活をしていた祖先を、もっぱら体力に頼って生きてきた野蛮な人間と見なしがちだが、彼らにしても長く生き延びるには、厳しい環境の中、知恵をはたらかせて獲物を追い、巧みに捕らえ、蓄えなければならなかった。人類の脳の回路には、食や体の活動と学習とのつながりがもともと組み込まれている(John J.Ratey)。

スポーツの意義とは、人間の体を動かすという本源的な欲求にこたえるとともに、爽快感、達成感、他者との連帯感等の精神的充足や楽しさ、喜びを与え、また、健康の保持増進、体力の向上のみならず、とりわけ青少年にとっては、スポーツが人間形成に多大な影響を与えるなど、心身の両面にわたる健全な発達に資するものである(文部科学省)。

しかし、現在、子どもの体力低下、中高年のメタボリックシンドローム、高齢者の介護問題等を考えると、心身の活動と学習とのつながりが崩れているとともに、人間が体を動かしたいという本源的な欲求に応える保健体育の授業実践がなされてきたのかが疑問である。

近年、人間の遺伝子解析が進み、日本人は一般に不安を感じやすく、弱気で神経質だと言われている。これには「性格」遺伝子(セロトニン・トランスポータSS型)が関与しており、その型の存在する割合はアメリカ人では20%弱だが、日本人は70%近くになる。また、この遺伝子の割合が多い民族は、好き嫌いの感情を表す扁桃核が敏感に反応する。このことは、課題解決型の学習を学生に実施させると、欧米の学生は、積極的、論理的に答えを導き出そうとするものの、温和で消極的な日本人は、生徒の学習意欲を高める動機づけや学習方略が先生には必要となる。

日本の歴史を振り返ってみると、寺子屋によって高水準の教育が庶民の間で広範に定着しており、明治初期における日本の識字率は世界最高クラスにあった。明治期の日本が急速に近代化を達成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を社会に与えていたことを評価する見解もあり、そのKey wordsは次の6項目になるであろう。①少人数 ②驚きを与える(感動)  ③丁重と厳格 ④チームワーク ⑤仲間 ⑥コミュニケーション。

このような社会的背景の中、スポーツ界においてもスポーツ振興基本計画における「国際競技力向上のための総合的方策」のひとつとして日本オリンピック委員会(JOC)がナショナルコーチアカデミーを創設した。 この制度は、Top of the Topのコーチの資質向上のための「学ぶ力」を熟成する教育の場として期待される。「アカデミーでは、役立つことを教えるが、答えは教えない。答えの出し方を学ぶ場である。」と位置づけている。

このように、「学ぶ力」を日本人に合った環境での学習方略を模索する試みが多方面でなされている。

これらのことから、仙台大学図書館は、学生の学習や大学が行う高等教育及ぶ学術研究活動全般を支える学術情報基盤の役割とともに、仙台大学生に合った「学ぶ力」を熟成する学習環境をさらに構築したいと考えている。

この件に関して、図書館を利用する皆さんのアイディアや要望をお待ちしています。