体育学科 教授 宮西 智久
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
この謎めいた名文は、オーストリアのルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(ウィーン出生、1889−1951)が生前に唯一出版した著作『論理哲学論考』(1921)(以下、『論考』)の最後の断章で示された完結文である。この著作は、20世紀以前の哲学の常識を根本から変え、その問題を一挙に解決・解消しようとした20世紀最大の哲学書である。『論考』は、20世紀の哲学に大きな影響を与え、分析哲学(言語哲学)、論理実証主義、科学哲学をはじめ、さまざまな現代哲学の基礎を築いただけでなく、出版から百年経ったいまも、世界の文学や芸術などに多大な影響を与え続けている。
今回、本学附属図書館ブログ『書燈』において、『論考』を紹介する機会を得たので、哲学問題に関する伝統的な思考法による問答の応酬により“精神的痙攣”に陥らないために、学生(特に新入生)の皆さんにぜひ一読(否、復読)をすすめたい。
紙面に限りがあるため、以下、『論考』の要点をかいつまんで書く。
1. 思考と言語に関して、二つの考え方がある(野矢 2023)。ひとつは、思考が言語に意味を与えるーものに名をつけてその名に意味を与える、つまり「はじめに言葉(ロゴス)ありき」ーという考え方。もうひとつは、言語が思考を可能にするという考え方である。
2. 古代ギリシャ以来の哲学者は前者の「思考優位」の立場をとったのに対して、ウィトゲンシュタインは後者の「言語優位」の立場をとった。
3. では、ウィトゲンシュタインは哲学問題を考えるにあたって、具体的にどのように思考の限界を見定めようとしたのか。それは、「思考の限界は言語の限界である。」とし(※1)、そのあいだに“線引き”をする、つまり、語りえるもの(命題)と語りえぬもの(命題)を論理学の観点から明晰に区別し解明するという方法に依った。
※1:言語を分析の中心に据え、哲学的問題の解明を図ることを「言語論的転回」と呼ぶ。
4. ここで、語りえるものとは「意味のあるもの」、語りえぬものとは「無意味(ナンセンス)なもの」を指す。たとえば、「ハチ公は秋田犬である。(真)」、いや「ハチ公は青森犬である。(偽)」や、「漱石はエベレストに登った。(真それとも偽?)」などは、いずれも真偽の程が定かであるため語りえる有意味なものである。それに対して、「神は存在する。」「魂は不滅である。」「正と死について」「自我について」「善悪について」「価値について」「美について」「生きる意味は◯◯である。」「従うべき倫理は◯◯である。」などは、いずれも真偽の程が定かでない。つまり、これらは、我々の知覚や経験の対象とならない超越論的なもの(形而上学、倫理学、美学、現象学ほか)であるがゆえに、語りえぬ無意味なものである(※2)。
※2:ウィトゲンシュタインは、我々が言葉を使用する日常生活の場を離れて命題の真偽を問うことなどできないことを解明した。
5. このように、ウィトゲンシュタインは、後者の“示されるもの”であるところの語りえぬものはいずれも我々の言語(思考)の限界を超えているため無意味なものとして一掃したうえで、真なる命題は自然科学の命題のみであって、それ以外は何も語ってはならぬという結論に至った。
6. かくして、最終断章において、ウィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」と結んだのである。
7. さて、そうすると、哲学者はいったい何をなすべきか。ウィトゲンシュタイン(1986)は、哲学の目的は「ハエ取り壺の出口をハエに示してやることだ。」と比喩的に述べている。前掲の野矢は、「そうした哲学問題への知的衝動を沈静化することだ。」と述べている。
以上、『論考』のエッセンスを簡単にまとめてみたが、おおよそこのような主張をした哲学書である。『論考』の構成は規格外であり、極度に凝縮された文章は安易な解釈を我々に許さない。謎が多いゆえ、いまなお多くの読者を獲得し魅了し続けている。このブログを読んで『論考』に興味をもち、さらに詳しく知りたい学生は、以下の邦訳書・解説書に当たるとよいだろう。大学在籍中に、「これだけは読んでおきたい!」イチ押しの教養書として推奨します。
【推薦図書】
[1] ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳):論理哲学論考. 岩波文庫, 2003.
[2] 野矢茂樹:『論理哲学論考』を読む. ちくま学芸文庫, 2006.
[3] 野矢茂樹:言語哲学がはじまる. 岩波新書, 2023.
[4] 永井均:ウィトゲンシュタイン入門. ちくま新書, 1995.
[5] 飯田隆:ウィトゲンシュタイン−言語の限界. 講談社, 1997.
[6] 古田徹也:ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考. 角川選書, 2019.
[7] 古田徹也:はじめてのウィトゲンシュタイン. NHKブックス, 2020.
[8] ウィトゲンシュタイン全集8(藤本隆志訳):哲学探究. 大修館書店,
1986.