2023年2月7日火曜日

【TORCH Vol.143】自分のための読書

 助教 伊藤 愛莉  

幼稚園生の頃、『おひさま』という絵本雑誌を買ってもらったのが文字を読むこととの出会いだった。出産のため母がしばらく家におらず、寂しくないようにと買ってもらった。「へんてこライオン」や「クレヨンまる」などカラフルな絵とちょっと不思議な話に夢中になり、毎月の楽しみになった。この頃から本を読むことはいつも私を助けてくれていたのだなと思う。

小学生や中学生の頃は、宮部みゆきさん(『火車』は強烈なインパクトだった。個人情報の流出には本当に気を付けたい)や、有川浩さん(『図書館戦争』はラブコメ要素があり読みやすいが、表現の自由や抑止力について考えさせられた)、伊坂幸太郎さん(仙台に10年住んでいるがミルクコーラをまだ飲めていない。いちおしは飄々とした死神による人間の観察が面白い『死神の精度』)、三浦しをんさん(『風が強く吹いている』は読んだことがある人も多いでしょうか。辞書編纂という長い時間のかかるプロジェクトを題材にした『舟を編む』も好きである)などを読んだ。とにかく小説が好きだった。高校では古典にはまり、『源氏物語』や『枕草子』にとどまらず、大学の試験の古文の問題は一度読んだことがあるものが出たくらいだった。高校2年生の時の二者面談では、面接用紙の将来の夢の欄に「本に囲まれて暮らしたいです」と書いた(今はある意味この夢がかなったともいえるかもしれない)。

ところが、自由に本を読み放題になるはずの大学生時代、ただ自分の心のままに本を読むという時間を忘れてしまった。皆さんと同じように教員免許と卒業単位をとるためにほぼフルコマで授業を受け、それに伴うレポートや授業の理解のために必要な文献を読み、一人暮らしの家事をして、学費のためのバイトをしなければならなかったからだ。

さらに修士課程に進んでからは、もはや凶器になるサイズの英語の本をもとにした報告や、それ以外にも英語の授業が3コマくらい課された。本の1章以上か1日で論文1本を翻訳しないとぜんぜん間に合わない。当然その他に日本語の授業もある。1回の授業を身につけるには、最低15本くらいの英語や日本語の論文を読む必要があった。もちろん研究に興味があり進学したので、特に不満などはなくやる気に満ちていた。小説や古文とは異なる、論文や学術書の読み方(まずは要約、問いと結論を読み、どこまで読みこむかを判断したり、研究方法を確認したり、重要な研究の場合、その研究を自分が再現できるか頭でシュミレーションするなど色々)を身に着け、たくさんの知識が頭に入る感覚は楽しかった。しかし今思えば、私の文字好きの原点である小説や物語を読むという考えがなくなった時期だった。 

博士課程後半、これまで以上にたくさんの文献を読む必要がある時期に、文字を読むことが好きだった私についに異変が起きた。論文を読もうとしても文字の形がただ眼球をすべるだけの状態になった。文字を読もうとしても内容が、一切、はいってこなくなってしまったのだ。あれだけ好きだった文字たちがストレスの原因になってしまったので、しばらく、論文や学術書は封印することにした。少し時間が経ってから、まずは、11回論文をひらいたらokとか、それができるようになったら1頁読めたらokとか文字を読むためのリハビリみたいなことをしていた。

そんなもどかしい生活をしばらくしていると、上橋菜穂子さんの新刊が出ていると教えてくれた人がいた。上橋先生はアボリジニの研究者であり、児童文学者だ。守り人シリーズや、『獣の奏者』『鹿の王』などの作品がある。おそらく私の一番好きな作家さんであり続ける人である。私としたことが、上橋さんの新刊情報を見落とすほど本から離れていたのだった。その人は『香君』という本のリンクを送ってくれた。「上橋さんのファンだったよね!植物や昆虫が出てくる話だから好きそうだなと思って」そして、本の本体も送ってくれたのだ!

段ボールを開けたら、私の好みとしか言いようのないデザインの本がそこにあった。上橋さんの本にも集中できなかったらどうしようと思いながらも、お茶を淹れて、万全の態勢を整え私は本を読み始めた。一つ一つの文字を丁寧に読んで、登場人物の服装、光の差し方、空気の感触、香りなどを焦らずにゆっくりと味わった。こんな本の読み方をしたのは本当に久しぶりだった。提出期限のある論文執筆のための読書で、私は常に何かに追いこまれながら文字を読む癖がついてしまっていたのだ。

上橋さんの作品はファンタジーではあるが、とにかくその世界に本当にいるような気になる。現実よりも現実だと思わせる緻密な世界観、ストーリーの展開に、「そうそう、本を読むってこんな感じだった」とわくわくしながら次のページをめくる気持ちが湧き上がってきた。まる2日間ほど、その本のことしか考えずに没頭することができた。読み終わった後には、上橋さんの作品に必ず登場する、賢く、勇気があり、毅然とした登場人物が、私もこうありたいという気持ちを思い出させてくれた。そして、これくらいの長さの本を読めたことは、文字を読むことに対する安心感と、自分への信頼を私にもたらした。

 私はもともと、読書が好きではあるが、追い込まれながらする読書、何かを得なければならないと思わせる読書、押し付けられる読書、一生懸命読んでも理解できない読書も経験したことで、本を読むのは面倒、読書は苦手だなという敬遠する気持ちを持つ人がいるのもわかるような気がする。

 しかし、学生の皆さんには、InstagramTwitterTik TokYouTubeなどから得られる、誰でも簡単に発信できる文や情報だけではなく、作者が生みの苦しみを感じながらも書き上げ、本になることを許された文にたくさん触れてほしい。私にとって、読書という活動は、情報や刺激、やるべきことがたくさんあり、他者の視線を意識してしまう日常生活において、本と私だけの空間をあたえてくれるものである。文字から風景や心情を想像することは、いつも使っている脳の部位とは違うところが動いていて、たぶん瞑想のような効果があるのではと思っている。ただ心のままに自分が気になった本を開くと、それだけで自分を大切にできた気分になるのでおすすめだ。

オンライン授業を受け、スマホを使いこなす皆さんにとって、読書は特に難しいことではない。1ページよんで、よくわからないでもよいし、表紙がかわいいから買ってもよい。絵本や漫画ももちろん読書だし、目次に目を通すとか、あとがきを読むだけでもよい。3行よんでよくわからないでもよい。なんなら図書館や本屋さんで、タイトル、帯の言葉、表紙のデザインを見るだけでも読書といってよいと思う。こう考えると服とか靴をみることとそんなに変わりはないので、ぜひ本を目にする時間を生活に取り入れてほしい。

今から私が読もうと思っているのは、木下龍也さんの『あなたのための短歌集』という本だ。1ページめくれば、きっと心がほぐれると思う。中学生の頃、上橋菜穂子さんの講演会に連れて行ってくれた友人が「これすごい良い」とLINEで教えてくれたのでたぶん面白いはず。普段読書になじみのない方もこのあたりから本にふれてみてはいかがでしょう。

2023年1月16日月曜日

【TORCH Vol.142】快適な「繭の中」を出て、  他者と出会う旅をしよう

                               講師 安藤歩美

 私が初めてインターネットの世界に触れたのは、小学校高学年のころだ。自宅のパソコンを電話線に繋ぐだけで、未知の情報の海へと旅することができる高揚感。遠く離れた、顔も名前も知らない人々と交流ができる新鮮さ。私にとってインターネットは、多様な情報と人との出会いによって視野を広げてくれる、まさに世界に開かれた「窓」だった。

 ところが近年、インターネットが人々の「視野を狭める」危険性が指摘されるようになっている。SNSのフォローやブロック機能、webサービスのAIによるリコメンド機能の進化により、人々がインターネットを通じて得る情報は急速に「個人化」されるようになった。学生に聞くと、TikTokが個人の嗜好に合わせて「おすすめ」する動画を見ていると一時間ほど過ぎていることがよくあるという。Amazonがその人の閲覧・購入履歴から「おすすめ」してくる本をつい買い過ぎてしまい、大変だという人もいる。....これは私のことですが。

 どこまでも自由で多様なはずのインターネットで、実は人々が自分の興味関心のある情報だけを与えられる「繭の中」に閉じこもっているとしたら? キャス・サンスティーンの『#リパブリック インターネットは民主主義になにをもたらすのか』(勁草書房、2018)は、こうしたインターネットによる情報の「個人化」が民主主義社会にどんな影響を与えるのかを真正面から考察した本だ。著者によれば、同じ意見を持つ者同士が繋がり、異なる意見を排除できるSNSの環境は、社会の分極化や過激化を助長しかねない。しかし優良な民主主義体制にとって必要なのは「情報と熟考にもとづく決定」であり、そのためには自分と異なる立場の意見を知り、対話する機会こそが重要となる。

 著者は「民主主義そのものの核心」として、情報の「セレンディピティ(偶然の出会い)」を挙げる。人は予期しなかった、自分で選ぶつもりのなかった情報に出会うことで、「似た考えを持つ者同士でのみ言葉を交わすような状況から予測される断片化、分極化、および過激思想から身を守る」ことができるからだ。とすれば、こうした「偶然の出会い」を生み出せるようなSNSやAI、webサービスのあり方をいかに設計できるかが、インターネットの存在を前提とした健全な民主主義社会のための一つの鍵と言えそうだ。

 17〜18世紀のイギリスでは、コーヒーを片手に身分や立場を超えて情報交換や政治談義ができる「コーヒー・ハウス」が栄えた。ハーバーマスはこうした市民のオープンで自由な議論の場を「公共圏」と呼び、熟議型の民主主義を支える重要な空間として位置付けた。多様な人が議論に参加できるインターネットも当初「公共圏」の役割を期待されていたはずだが、今日Twitterを覗けば、先鋭化・過激化した意見が対決している構図が目につき、異なる意見を持つ者同士が「熟議」している環境とは言い難い。

 今後ますます個人化していくインターネット環境の中で、私たちは快適な繭の中を飛び出し、いかに自分と違う他者と出会うことができるか。そして、意見や立場の異なる人同士が議論する「公共圏」を、いかにインターネット上に設計することができるのか。本書は現代に生きる私たち一人ひとりがこの難題に向き合うための、いくつもの示唆を与えてくれる。

2022年12月20日火曜日

【TORCH Vol.141】メタバースを活用する 

 准教授 橋本智明

 情報機器の発達及び情報通信技術の発達により,我々は,様々な情報表現が可能となったのと同時に,様々な情報にアクセス可能となった.新型コロナウィルスの登場により社会が混乱し,今でもその影響は続いている.近年では特にメタバースが注目を浴びており,メタバースを様々な企業が取り扱っている.そもそもメタバースという言葉は,1992年ニール・スティーブンソンの『Snow Crash』という小説の中で出現した言葉と言われている.その一節が以下である.

  So Hiro's not actually here at all. He's in a computer-generated universe that his computer is drawing onto his goggles and pumping into his earphones. In the lingo, this imaginary place is known as the Metaverse. Hiro spends a lot of time in the Metaverse.Stephenson, Neal (1992). Snow Crash. Bantam Books. p. 22

 このように,メタバースという言葉自体は30年ほど前から存在していたことがわかる.だが,このメタバースに関してかなり深く掘り下げている書籍というのは決して多くはないように思える.そこで,学生でも比較的読みやすい新書として岡嶋裕史の著書である『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」』(光文社,2022年)をお勧めしたい.この本は著書のタイトルにあるように,メタバースとは何かという概念の話からスタートし,歴史,活用,今後とメタバースに関して幅広く記述されている.現在,我々がメタバースと聞くと,VRヘッドセットを装着し,コントローラを持ちながら,仮想現実において行動を起こすことを想像させる.岡嶋氏の著書では,ARMRを利用したミラーワールドもメタバースの一部であると考え,仮想現実だけでなく,ミラーワールドを含めた仮想世界をメタバースと捉えている.今後,このメタバースは,新たなメディアとして進化していく可能性が高いのではないかと私は考える.余談ではあるが,押井守監督の『アヴァロン』(2001年)というバーチャル世界とリアル世界を興味深く描いた作品があったが,その内容がふと想起された.

 メタバースは様々な可能性を含めて,様々な企業が参入し,開発が進められている.体育系大学という視点から考えると,メタバースとeスポーツとの関わりは無視することはできないだろう.岡嶋氏の著書の中でも,eスポーツに触れられており,eスポーツの効用として,スポーツにアクセスしにくい人々にもスポーツの参加の道が開かれていること,プロと初心者が同じフィールドで比較的簡単に安全に行えるなどを挙げている.「身体を動かすのがスポーツだ!」と言われる方もいると思うが,コントローラを使用すれば,身体の動きをコンピュータで認識できるようになっているため,メタバースでも身体を動かすことは可能である.メタバースが,これまでのスポーツの概念をどう変えていくのか,あるいはどう適応させていくのか,体育系大学に所属する教員としては考えていかなければならないことなのではないか.とりわけ,私のような情報に深く関わる人間としては,考えていかなければならないだろう.また,教育としての活用という面でもメタバースは様々な可能性がある.既に,仮想キャンパス,仮想教室での授業など実際に行われている.単なるオンライン授業とは異なり,その空間には仮想であれども人の存在が確認できる.私は,このような,教育面での活用についても興味があるため,今後技術的な面も含めて研究を進めていきたい.

 

2022年11月10日木曜日

【TORCH Vol.140】福祉をテーマにした漫画

 准教授  南條 正人

  私の専門は社会福祉学であるため、研究室の本棚にはその関連の専門書や社会福祉士の国家試験問題集が大半を占めています。その本棚の中には、福祉をテーマにした漫画を多く並べ、学生たちが研究室に立ち寄った際、その漫画を目にすることで福祉を身近に感じてもらいたいと考えています。福祉であればジャンルにこだわらず、児童福祉、介護福祉、障がい福祉、生活保護に係る漫画です。例えば、児童福祉では、夾竹桃ジン 著「ちいさいひと 青葉児童相談所物語」、介護福祉では、くさか里樹 著「ヘルプマン!」、障がい福祉では、山本おさむ 著「どんぐりの家」、生活保護では、柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活」などです。漫画というと、抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、これらの漫画は専門的な用語が使用されていたり、福祉のリアルな場面が多く描かれていることから、考えさせられることが多くあります。その中で、ソーシャルワーカー等の福祉専門職が登場する柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活」について紹介します。

 この漫画の主人公は、福祉事務所の現業員(ケースワーカー : 社会福祉主事)で、生活保護に係る業務に携わり奮闘するストーリーです。ちなみに、この現業員とは、何かしらの理由によって生活が困窮している状態にある者等と面接をし、その者の預金等の資産や環境状況等を調査したうえで、保護の必要の有無やその扶助の種類を判断することとなっています。さらには、現に生活保護を受給している者の自宅を定期的に訪問し、生活指導も行うことになっていますが、この漫画では、これらの現業員の業務内容がリアルに描かれています。

この漫画を通して、私は自身の社会福祉士を取得するために行った社会福祉援助技術現場実習を思い出します。学生時代、福祉事務所で実習を実施させていただき、実際に生活保護を受給している方のご自宅を訪問するという貴重な体験をさせていただきました。ひとり親世帯、外国出身のご夫婦世帯など、各世帯によってニーズも異なり、生活保護は画一的に行うものではないということを学びました。この漫画からも私が体験したことのようなこととともに、生活保護の実態や生活保護法の目的、原理原則についても触れられており、社会福祉士の指定科目である「低所得者に対する支援と生活保護制度」の学びにもつながる内容です。

 

 以下は、この漫画である柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活(1)」の引用です。

 「もちろん生活保護の金を酒やパチンコに使うこと自体は違法ではありません。」

 

私は上記の内容を「ソーシャルワーク演習」の授業で取り上げています。生活保護費は税金から賄われており、そのお金をお酒やパチンコに使用することに対して、学生ひとり一人がどのように考えるか、グループディスカッションを行い、最終的には生活保護法の目的や社会福祉士の倫理綱領にふれるという演習授業を展開します。

 

 最後に、自分自身が体験したことがなくても、漫画の世界を通してその実態をリアルに知ることができると思います。多くの学生たちに、このように考えさせられる漫画を手にとり、福祉を身近に感じてもらいたいと考えています。

2022年10月17日月曜日

【TORCH Vol.139】ソフトバンクホークス大関選手が教えてくれたこと

准教授 朴澤憲治 

私はするスポーツはからっきし苦手なのですが、見るスポーツではプロ野球、特にヤクルトスワローズのファンです。

私が高校生だったころ、野村克也監督率いるヤクルトスワローズがID野球を旗印にセントラルリーグを席巻し、巨額資金で他球団から有力選手をかき集め巨大戦力を誇っていた読売巨人軍を倒すところを見るのが痛快でした。

当時のヤクルトは明るいチームカラーでありながら、データを駆使した戦術、野球の技術や戦術ではなく人生論からはじまるというミーティングが重視されること、他チームで戦力外となった選手がもう一度活躍するというチーム作りが素晴らしかったです。ブランド論には、人は商品やサービスを選ぶときには、その品質や価格だけでなくその背景にあるストーリーに魅力を感じて選ぶという説がありますが、当時の私はヤクルトスワローズ、そして野村監督のストーリーに魅せられ、大学合格後は神宮球場で野球を見ることも夢見て、東京の大学への進学を目指したのでした。

当時のヤクルト野村監督は選手や監督としての実績はもちろん素晴らしいのですが、私が野村監督を尊敬する理由は、球界のバイブルと言われる「野村ノート」をはじめ400冊を超える著作を残したことです。私はそのうち何冊か読みましたが、野球に関することだけでなく、組織論、リーダー論、教育論から古典の紹介や歴史の人物評まであり、その博学ぶりに驚かされました。これだけの著作は体験からだけでなく、多くの書物に目を通したからできたものであり、野村監督の著作では「野球は頭でやるスポーツ」とし、しばしば読書の効用が説かれています。また、厳しく指導したという愛弟子の古田選手は、他のプロ野球選手と違い読書習慣があったから考える野球がはじめからでき、大成したのだろうと指摘しています。

野村監督の教えを実践していたのが、本学OBでソフトバンクホークスの大関選手です。202258日の西日本スポーツの記事「大関の落ち着きぶり、その源は 「考えが濃くなった」」(https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/919412/)によると、大関選手は仙台大時代、野球で汗を流す傍ら、読書にもふけったそうです。以下、記事を引用します。

「仙台大時代、大関は野球で汗を流す傍ら、読書にもふけった。ジャンルは哲学書に自己啓発本、ビジネス書と多岐にわたった。「高校までは目の前のことに必死で生きてきたけど、大学に入って自分で自分が分からなくなった。どういうふうに生きていけばいいのかなって」。野球はもちろん、人間関係にも悩みが生まれた時期だった。 「今になって大切な時間だったな、と思っている。人の考えを学んだり、人の経験を知ったりすることは確実に自分のプラスになっている」。24歳らしからぬマウンド上での落ち着きは、さまざまな先人の思想に触れたからこそ生まれたものだった。そんな左腕が今、人生のテーマに掲げるのは“自分を信じる”だ。「考え方がふらふらした時もあったけど、結局はそこに戻ってくる。シンプルだけどすごく難しい。これまで歩んできた自分を受け入れるからこそ、前に進んでいける。考えが変わってきたというより、濃くなってきた感じ」。自分を信じ抜いての116球が、プロ入り初めてのシャットアウト劇につながった。」

大関選手は2019年のドラフトで育成2位という評価でソフトバンクホークスに入団しました。失礼は承知のうえで書かせていただくと、ドラフト時点でプロ球団からの評価は決して高いものではなかったでしょう。しかし2021年には支配下登録を勝ち取り、2022年には優れた選手の多いソフトバンクの中で先発を担うだけでなく、一流選手の証でもあるオールスターゲームに出場しています。

プロ野球は野球の天才と言われるような若者たちが、ライバルとの厳しい競争の末に1軍選手の座をつかむという世界と認識しています。ましてや、ソフトバンクホークスは球界でもトップクラスの選手層を誇り、前評判の高い選手たちがドラフト高順位で入団しても、入団後芽が出ず失意のうちに退団していく選手も多いチームです。その中で、ドラフト時に低評価だったのにも関わらず、大関選手がライバルとの競争に勝って主力投手にまでなったのはなぜでしょうか。

その秘密は西日本スポーツの記事にあるように、彼の大学時代の過ごし方、野球の練習だけでなく読書を通してさまざまな考え方に触れた経験にあったのだと私は思います。ライバル選手に差をつけた理由は読書を通じて獲得した引き出しの多さだったと思うのです。

野村監督も選手時代は体格に恵まれたわけでもなく、テスト生での入団でそこから三冠王を獲得するまでの大打者となりましたが、その秘密のひとつは考えて野球をしたことでした。大関選手と共通するところを感じます。

私が大関選手について感心するのは、彼の学生時代の読書ジャンルの広さです。私の学生時代の読書と言えば、教員から指定された教科書をいやいや読む(そしてたいていは途中で読むのをやめる)か、たまたま経済系の本は読むのが好きになったのでそればかり読んでいました。哲学書は読もうとも思いませんでしたし、(いまだに食指が動きません。)自己啓発書やビジネス書もほとんど読むことはありませんでした。

しかし、社会に出てみると、考え方がそれぞれ異なる人たちと仕事をしていかなければならず、自分が学んできたことに固執したため多様な考え方があることがわからずしばしば苦労しました。多様なジャンルの読書をしておけば、様々な考え方があることを理解し、社会を複眼的に見るということが早くからできたはずですが、私にはそれができませんでした。

大関選手は卒業時にはすでにそのような経験をし、厳しいプロ野球の世界で一定の地位をつかみ取りました。やがて引退するときが来るでしょうが、彼ならば大学時代の学びとプロでの経験を活かして選手生活が終わった後も社会で活躍していくと確信しています。

さて、このような素晴らしい先輩を持つ仙台大学で学生に教えるという重大な責任を持ってから1年が経過しました。残念ながら、学生たちはスマホばかり見ていてあまり読書をしているようには見えませんが、私は大関選手の経験を学生たちに機会があるたびに語るようにしています。

私は学生時代の反省と大関選手エピソードから、所有している本のリストを作り、それぞれのジャンルがわかるようにしています。そして、本を読み終わった後はその感想を記録しています。こうすることで、自分がどのジャンルに関心があるのか、または関心がないジャンルはどれかが一目瞭然です。私が大学に入職してから購入した本は527冊でそのうち読み終わった本はこの記事を書いている時点で281冊なのですが、仕事に関係のあるジャンルに偏っているとリストから自分の読書傾向を分析することができ、読んでいないジャンルこそが自分の弱点だと認識できます。

 学生には大関選手のように多様なジャンルの本に触れることで複眼的な思考を身に着けてもらうように指導しつつ、まだまだ自分がそうなっていないことに反省しきりの日々です。

2022年9月26日月曜日

【TORCH Vol.138】「(新)学習指導要領」をよむ~遊べない子供達~

                                教授 山内明樹


 かつて、野原や路地、空き地からは子供達の歓声がうるさいと思うほど聞こえていた。汚れも気にせず遊びまわるその姿は元気そのもの、「生きる力」に満ち溢れていた。本来「哺乳動物の子供は好奇心が強く、一日遊んで成長するのが特徴であり、遊びの時間を取り上げられると情緒不安定になり、その後の成長に支障がでる(こともある)」という。これはそのままヒトの子供にもあてはまる(ハズ)。こう考えると、幼児期から(せめて)小学生くらいまでは、遊びながら(学び)成長していくのが自然ということ。かつて、子供達にとって(たぶん大人も)勉強は好奇心と遊びの延長であり、(もっと)おもしろいものであったに違いない。

多くの子供は「勉強は嫌いだ」という。それは「わからないから。難しいから。」という。科学は英語ではサイエンス、ラテン語ではスキエソチア(知識)であり、同じくラテン語のスキオ(知る)からきている。科学とは「色々なことを知る」ということ。これは他の動物にはない人間だけがもつ特性。サルも人間と同じような行動をしたり、ネコも大変な好奇心をもっているが、それは習性であったり生存のための本能からくる行動。本来、人間だけが必ずしも生存のためだけでなく知識を広めたいという心をもっている。今、勉強に背を向けている子供をどのようにして振り向かせればよいかが課題となる。

「人間は生得的に未知のものを知りたい欲求、いわゆる好奇心をもっている(ブルーナー)」。以前、沿岸部の高校に勤務していたころ、小学生対象の科学教室に企画委員としてかかわる機会があった。物おじせず、好奇心むき出しに質問をしかけてくる子供達に汗だくになって(ほとんどは冷や汗)応戦したのを思い出す。その発想や興味、関心などは、頭でっかちの理論からはとても推察できないような素晴らしいもので、時には短絡的とも思われる直感や夢想に近い願望なども、私達大人が忘れかけていたものを思い出させてくれるものであった。子供は決して「無感動」でも「勉強嫌い」でもない。「なぜ、どうして(好奇心)」に始まる彼らの「科学する心」を大切に育て、「勉強好き」を増やしていかなければと思う。

「知識の獲得には、思考操作だけでなく具体的操作を通すことが有効である(ピアジェ)」。教師が一方的に話したことを聞かせて指導するいわゆる講義調の授業では、結果として生徒は学習内容を暗記するしかない。学力(知識、思考力、態度等の資質能力)は具体的活動(言語活動、体験活動、協働)を通した学びの中で往還しながら育成されるものであり、授業過程や、学習・指導方法の質的改善を目指す工夫が求められる(アクティブラーニング)。

新学習指導要領では、改訂の趣旨(「主体的・対話的で深い学び」の実現)を具体的に実践する機会として、「総合的な探究の時間」の設置、「理数探究」「古典探究」「地理探究」等の新設をはじめ、各教科学習の中でも、「探究活動」が幅広く取入れられている。これは、「生徒自身が問題を発見し、考察を加え、試行錯誤を繰り返しながら、課題解決を図る」というもの。生徒は、授業(教師や仲間との協働)を通じ解決策を探りながら、生涯を通じて社会人(学習者)に求められる姿勢・態度、実践力を備えていく。

埼玉県で教育長を勤められた先生が、「授業は、川の流れに似ている」と話されていた。川は、上流から中流、下流へと流れ、やがて海に注ぐ。海にたどりつくことを授業のゴールとするのなら、そこに至るまでの流れが学習の過程にあたるのだという。先生曰く、「現在の川は護岸がよく整備されている。それは、結構なことなのだが、川は自らの意思で進路を選ぶこともゆるされない。決まったコースをゴールをめざしただひたすらに流れていく。私たちの授業もそうなってはいないだろうか」。

スマホやパソコンに「問い」を入れ、「なぜ」と入力すると答えが返ってくるような時代、知識を教え込む授業や、ゴールにいかにはやくたどりつくかという授業から脱却しなければならない。先生は、「川に学べ、川の流れに学べ」とおっしゃっている。ここでいう川は、自分の意思で流れる川、進路を決められる川。自分の意思で流れる川は、蛇行する。氾濫することもある。でも、やがてその場所は土地が肥え、豊かな恵みをもたらしながら海へと注いでいく。


2022年4月15日金曜日

【TORCH Vol.137】 「ちっぽけな完成より、大きな未完成」

副学長 松本文弘

これは、石坂洋次郎の「若い人」という小説の一節である。

「若い人」は、高校の新任青年教師を中心に、生徒、教師との間で起こる様々な日常を描いた娯楽小説であり洋次郎がこの小説を書くにあたっては、自身が実際に勤務していた秋田県の横手高等女学校での経験を参考としている。

戦前の19331937年に公開されたこの小説は、その後4回に渡って映画化された。特に、1962年版では主人公の青年教師役に石原裕次郎を迎え、問題のある女子高生を吉永小百合、理論派の若手女教師を浅丘ルリ子が演じるという豪華キャストである。想像するに、当時は、国民の多くがこの作品について知っていたのだろう。

私が、このフレーズと出会ったのは1989年、高校教師となってから7年目の初夏であった。東北大会の引率で秋田県横手市を訪れた際、試合後にたまた石坂洋次郎記念館に立ち寄ったところ、「若い人」の直筆原稿が展示されており、そこに「ちっぽけな完成より、大きな未完成」という若き青年教師の大望が記されていた。

主人公である青年教師の公開研究授業の日、指導主事は授業について核心を突く講評をし、ベテラン教師からの老獪な質問にも正々堂々と応じる。これらのやりとりについて主人公と女教師が回顧しながら帰る際、女教師は指導主事のような立派な先生になりたいと述べる。それに対し主人公は、あの指導主事の姿は「ちっぽけな完成」に過ぎない、今の自分は未熟で完成にはほど遠いが、彼とはレベルの違う高みを目指しているのだ、と強がる場面での言葉である。

あるいは、この言葉は、戦後、「青い山脈」等が大ヒットし、国民的作家と言われる洋次郎の若き日の大望をそのまま記したものかもしれない。

この言葉に出会った頃は、自分自身も、若手教師として勢いだけで仕事をしている時期であり、粗削りでも大きく育っていきたいという思いに大いに同調したものだ。

また、作品全体を通して、若い教師にありがちな理想と現実のギャップによる葛藤、ベテラン教師とのいさかい、女子生徒との微妙な関係、同僚教師との苦しみの共有など、現代にも通ずる「教師あるある」の連続で、非常に刺激的な小説であった。

50年前の創作の結末が50年後の自分のそれと同様となったことは何たる奇遇か、はたまた必然か。作品の主人公は、その後、どんな教師人生を送ったのだろうか。

読者であった私にも30年の歳月が流れたが、現在も未完成な姿のままである。