2023年12月5日火曜日

【TORCH Vol.145】「ときには本屋さんの実店舗を訪れてみましょう!」


スポーツ情報マスメディア学科 教授 遠藤 教昭

私が高校入学から大学2年生ころまでは、毎日、仙台都心部を通って通学していました。別に好みでそうしていたわけではなく、たまたま都心が最短の通学路上にあったというだけの話ですけれども。

 

でもその状況をいいことに、ときどき寄り道しては、お気に入りのショップを訪れていました。当然ながら、仙台中心部にはいろいろ魅力的な店があります。百貨店やスーパーにも寄りましたが、書店や音楽レコード店(まだCDではありませんでした)やオーディオなど電気店が中心でした。

 

当時は大昔ですので(1970年代後半から80年代前半)、世の中にオンラインショップはまだ皆無で、本や音楽レコードを買うには実店舗に行くしかありませんでした。通学途中は買い物のいい機会だったというわけです。なお、現在と同様、ネット以外の通信販売はありましたが、特に若い世代には、当時からあまり一般的ではなかったように思われます。

 

さて、この学生時代の道草ショッピングを振り返って、何がいちばん印象的だったかと回顧すると、それは「本屋さんのブラウジング」です。このことばは急に思い付きましたが、調べてみると「browse」には、もともと「店で漫然と商品を見て回る」という意味があるようで、この文脈において誤用ではないようで安堵しています。そういえば、昔から図書館にブラウジングルームというのもありました。

 

本屋さんのブラウジングが印象的とはどういうことかを説明します。本以外のもの、例えば音楽のレコード(現在で言えばCD)だと、けっこう高価ですので、お店に行く前から購入するものを決めて行くことが多いと思います。本についても同様な場合もあるかも知れませんが、わたしの場合、少し時間があるときにゆっくりと本屋さんの中を巡って、たまたま見かけた面白そうな本を購入するということも、学生時代にはかなりあったと思い出されます。面白いというのは内容だけではなく、題目がいいとか、表紙やカバーが印象的だとか、本屋さんの配列がよかったとか、他の種々の要素もあることでしょう。本屋さんのブラウジングによって、たまたま自分の五感に訴えるような本を発見することは、決して稀ではないと思うのです。

 

結論的に申し上げたいことは、「学生の皆さんも、ときには本屋さんの実店舗を訪れてみましょう!」ということです。本屋さんをぶらぶらするのは、コンピュータの検索とは違った味があります。お時間に余裕のあるときにでも、お試しいただければ幸いです。未知の本との運命的な出会いで、気づいていなかったご自身の新しい可能性の発見に繋がるかも知れません。


2023年10月19日木曜日

【TORCH Vol.144】「痛いねえ,痛いねえ,痛いねえ」

 

                                                                              教授 小石 俊聡

 映画『みんなの学校』に出会ったのは,学校をつくるという理想と現実の狭間で思い悩んでいたある夏の日 のことでした。これは,大阪市住吉区にある「大阪市立大空小学校」の1年間を追ったドキュメンタリー映画 です。
 脚色も演出も全くない子どもたちと先生たちの姿に,心を打たれました。弱音を吐いている場合じゃないぞ と,背中を押してもくれました。 この大空小学校初代校長であった木村泰子氏の著書『「みんなの学校」が教えくれたこと~学び合いと 育ち合いを見届けた3290日~』を紹介します。

「痛いねえ,痛いねえ,痛いねえ」 転んだ教師になどかまわずそのまま階段を走り抜ければ,レイジは学校から逃げられたはずでした。でも,戻 ってきた。しかも,担当教師の体をいたわっているのです。 ふたりの姿が,涙でかすみました。教室の前で,しとしとと降る雨の音を聞きながら,私はレイジのクラスの子ど もたちとずっとその光景を,ただただ黙って見守っていました。(P64)

 レイジ(仮名)について,簡単に説明します。 ・4月の始業式に転入。体育館のギャラリーを奇声を発しながら走り回る。 ・毎朝10時頃,母親が自転車に乗せて連れてくる。(荷台にチューブで縛られて) ・隙あらば脱走する。担任が,片時も手を繋いでいなければならない。 ・担任がトイレに行った隙に学校を脱走し,夜中の2時に警察に保護されたことも。 ・その際の母親の言葉。 「校長先生の責任は一切問いません。何があっても,たとえ死んだとしても,それがあの子の運命ですから」

 6月のある日。レイジは初めて,6年生の教室に入ったのです。しかし,校長と担任が会話を始めたとたん,教 室から脱走しました。担任は,すぐさま彼を追いかけようと走り出します。その瞬間,結露で濡れていた廊下で 転倒。その時すでにレイジは,4階端の階段付近にいました。 校長の頭には「今夜も夜中の2時か・・・」という言葉が浮かんだそうです。 ところが……,前述の場面となりました。
 このあと,学校に何が起きたのか。なんと,彼は次の日から1日も欠かさず学校に通い,しかも,卒業まで1度 たりとも,教室からでさえ脱走することはなかったそうです。

 私は,本の中でも映画の中でも,このレイジの場面を忘れることができません。 教育とは,教え育てること。ダメなことはダメと指導をすることは必要ですし,学習面でも生活面でも,未熟な 子どもたちを導くためには,指導技術も必要です。
 しかし,レイジを一瞬で変えてしまったのは,指導技術もまだ身に付いていない初任の教師の姿です。「痛い ねえ,痛いねえ,痛いねえ」は,学校中の誰もが初めて聞いたレイジの言葉でした。 何が,彼の心をここまで 動かしたのでしょうか。
 なぜレイジが、戻って来たのか。正解は誰にも分かりません。なにしろ彼自身が,自分の気持ちや心の動きを 説明することができないのですから。そして,なぜ次の日から一日も休まず,脱走することもなく卒業式を迎えた のかも……。
  木村氏の言葉を引用します。
 「それは,その子が変わったのではなく,その子を見る周りの目が変わったからだと思います。痛いね,痛いね と先生のおしりをさすったレイジの姿が,周りの子どもや大人の心に変化をもたらしたのでしょう。学校中の誰も が,レイジを見る目が変わりました。」

 今からおよそ12年前。大阪の大空小学校で起きたこの出来事は,たった一人の新任教員と6年生の男の 子の話です。これをもって,「教育とはこうあるべき」とか「教師の力量とはなんぞや」などと,語っていけないこと は知っています。
 しかし,これは紛れもない事実です。
 ですから,教育に携わる人間の一人としてこれからもずっと,あの雨の日の出来事を大切にしていきたいと, 今も思っています。


2023年2月7日火曜日

【TORCH Vol.143】自分のための読書

 助教 伊藤 愛莉  

幼稚園生の頃、『おひさま』という絵本雑誌を買ってもらったのが文字を読むこととの出会いだった。出産のため母がしばらく家におらず、寂しくないようにと買ってもらった。「へんてこライオン」や「クレヨンまる」などカラフルな絵とちょっと不思議な話に夢中になり、毎月の楽しみになった。この頃から本を読むことはいつも私を助けてくれていたのだなと思う。

小学生や中学生の頃は、宮部みゆきさん(『火車』は強烈なインパクトだった。個人情報の流出には本当に気を付けたい)や、有川浩さん(『図書館戦争』はラブコメ要素があり読みやすいが、表現の自由や抑止力について考えさせられた)、伊坂幸太郎さん(仙台に10年住んでいるがミルクコーラをまだ飲めていない。いちおしは飄々とした死神による人間の観察が面白い『死神の精度』)、三浦しをんさん(『風が強く吹いている』は読んだことがある人も多いでしょうか。辞書編纂という長い時間のかかるプロジェクトを題材にした『舟を編む』も好きである)などを読んだ。とにかく小説が好きだった。高校では古典にはまり、『源氏物語』や『枕草子』にとどまらず、大学の試験の古文の問題は一度読んだことがあるものが出たくらいだった。高校2年生の時の二者面談では、面接用紙の将来の夢の欄に「本に囲まれて暮らしたいです」と書いた(今はある意味この夢がかなったともいえるかもしれない)。

ところが、自由に本を読み放題になるはずの大学生時代、ただ自分の心のままに本を読むという時間を忘れてしまった。皆さんと同じように教員免許と卒業単位をとるためにほぼフルコマで授業を受け、それに伴うレポートや授業の理解のために必要な文献を読み、一人暮らしの家事をして、学費のためのバイトをしなければならなかったからだ。

さらに修士課程に進んでからは、もはや凶器になるサイズの英語の本をもとにした報告や、それ以外にも英語の授業が3コマくらい課された。本の1章以上か1日で論文1本を翻訳しないとぜんぜん間に合わない。当然その他に日本語の授業もある。1回の授業を身につけるには、最低15本くらいの英語や日本語の論文を読む必要があった。もちろん研究に興味があり進学したので、特に不満などはなくやる気に満ちていた。小説や古文とは異なる、論文や学術書の読み方(まずは要約、問いと結論を読み、どこまで読みこむかを判断したり、研究方法を確認したり、重要な研究の場合、その研究を自分が再現できるか頭でシュミレーションするなど色々)を身に着け、たくさんの知識が頭に入る感覚は楽しかった。しかし今思えば、私の文字好きの原点である小説や物語を読むという考えがなくなった時期だった。 

博士課程後半、これまで以上にたくさんの文献を読む必要がある時期に、文字を読むことが好きだった私についに異変が起きた。論文を読もうとしても文字の形がただ眼球をすべるだけの状態になった。文字を読もうとしても内容が、一切、はいってこなくなってしまったのだ。あれだけ好きだった文字たちがストレスの原因になってしまったので、しばらく、論文や学術書は封印することにした。少し時間が経ってから、まずは、11回論文をひらいたらokとか、それができるようになったら1頁読めたらokとか文字を読むためのリハビリみたいなことをしていた。

そんなもどかしい生活をしばらくしていると、上橋菜穂子さんの新刊が出ていると教えてくれた人がいた。上橋先生はアボリジニの研究者であり、児童文学者だ。守り人シリーズや、『獣の奏者』『鹿の王』などの作品がある。おそらく私の一番好きな作家さんであり続ける人である。私としたことが、上橋さんの新刊情報を見落とすほど本から離れていたのだった。その人は『香君』という本のリンクを送ってくれた。「上橋さんのファンだったよね!植物や昆虫が出てくる話だから好きそうだなと思って」そして、本の本体も送ってくれたのだ!

段ボールを開けたら、私の好みとしか言いようのないデザインの本がそこにあった。上橋さんの本にも集中できなかったらどうしようと思いながらも、お茶を淹れて、万全の態勢を整え私は本を読み始めた。一つ一つの文字を丁寧に読んで、登場人物の服装、光の差し方、空気の感触、香りなどを焦らずにゆっくりと味わった。こんな本の読み方をしたのは本当に久しぶりだった。提出期限のある論文執筆のための読書で、私は常に何かに追いこまれながら文字を読む癖がついてしまっていたのだ。

上橋さんの作品はファンタジーではあるが、とにかくその世界に本当にいるような気になる。現実よりも現実だと思わせる緻密な世界観、ストーリーの展開に、「そうそう、本を読むってこんな感じだった」とわくわくしながら次のページをめくる気持ちが湧き上がってきた。まる2日間ほど、その本のことしか考えずに没頭することができた。読み終わった後には、上橋さんの作品に必ず登場する、賢く、勇気があり、毅然とした登場人物が、私もこうありたいという気持ちを思い出させてくれた。そして、これくらいの長さの本を読めたことは、文字を読むことに対する安心感と、自分への信頼を私にもたらした。

 私はもともと、読書が好きではあるが、追い込まれながらする読書、何かを得なければならないと思わせる読書、押し付けられる読書、一生懸命読んでも理解できない読書も経験したことで、本を読むのは面倒、読書は苦手だなという敬遠する気持ちを持つ人がいるのもわかるような気がする。

 しかし、学生の皆さんには、InstagramTwitterTik TokYouTubeなどから得られる、誰でも簡単に発信できる文や情報だけではなく、作者が生みの苦しみを感じながらも書き上げ、本になることを許された文にたくさん触れてほしい。私にとって、読書という活動は、情報や刺激、やるべきことがたくさんあり、他者の視線を意識してしまう日常生活において、本と私だけの空間をあたえてくれるものである。文字から風景や心情を想像することは、いつも使っている脳の部位とは違うところが動いていて、たぶん瞑想のような効果があるのではと思っている。ただ心のままに自分が気になった本を開くと、それだけで自分を大切にできた気分になるのでおすすめだ。

オンライン授業を受け、スマホを使いこなす皆さんにとって、読書は特に難しいことではない。1ページよんで、よくわからないでもよいし、表紙がかわいいから買ってもよい。絵本や漫画ももちろん読書だし、目次に目を通すとか、あとがきを読むだけでもよい。3行よんでよくわからないでもよい。なんなら図書館や本屋さんで、タイトル、帯の言葉、表紙のデザインを見るだけでも読書といってよいと思う。こう考えると服とか靴をみることとそんなに変わりはないので、ぜひ本を目にする時間を生活に取り入れてほしい。

今から私が読もうと思っているのは、木下龍也さんの『あなたのための短歌集』という本だ。1ページめくれば、きっと心がほぐれると思う。中学生の頃、上橋菜穂子さんの講演会に連れて行ってくれた友人が「これすごい良い」とLINEで教えてくれたのでたぶん面白いはず。普段読書になじみのない方もこのあたりから本にふれてみてはいかがでしょう。

2023年1月16日月曜日

【TORCH Vol.142】快適な「繭の中」を出て、  他者と出会う旅をしよう

                               講師 安藤歩美

 私が初めてインターネットの世界に触れたのは、小学校高学年のころだ。自宅のパソコンを電話線に繋ぐだけで、未知の情報の海へと旅することができる高揚感。遠く離れた、顔も名前も知らない人々と交流ができる新鮮さ。私にとってインターネットは、多様な情報と人との出会いによって視野を広げてくれる、まさに世界に開かれた「窓」だった。

 ところが近年、インターネットが人々の「視野を狭める」危険性が指摘されるようになっている。SNSのフォローやブロック機能、webサービスのAIによるリコメンド機能の進化により、人々がインターネットを通じて得る情報は急速に「個人化」されるようになった。学生に聞くと、TikTokが個人の嗜好に合わせて「おすすめ」する動画を見ていると一時間ほど過ぎていることがよくあるという。Amazonがその人の閲覧・購入履歴から「おすすめ」してくる本をつい買い過ぎてしまい、大変だという人もいる。....これは私のことですが。

 どこまでも自由で多様なはずのインターネットで、実は人々が自分の興味関心のある情報だけを与えられる「繭の中」に閉じこもっているとしたら? キャス・サンスティーンの『#リパブリック インターネットは民主主義になにをもたらすのか』(勁草書房、2018)は、こうしたインターネットによる情報の「個人化」が民主主義社会にどんな影響を与えるのかを真正面から考察した本だ。著者によれば、同じ意見を持つ者同士が繋がり、異なる意見を排除できるSNSの環境は、社会の分極化や過激化を助長しかねない。しかし優良な民主主義体制にとって必要なのは「情報と熟考にもとづく決定」であり、そのためには自分と異なる立場の意見を知り、対話する機会こそが重要となる。

 著者は「民主主義そのものの核心」として、情報の「セレンディピティ(偶然の出会い)」を挙げる。人は予期しなかった、自分で選ぶつもりのなかった情報に出会うことで、「似た考えを持つ者同士でのみ言葉を交わすような状況から予測される断片化、分極化、および過激思想から身を守る」ことができるからだ。とすれば、こうした「偶然の出会い」を生み出せるようなSNSやAI、webサービスのあり方をいかに設計できるかが、インターネットの存在を前提とした健全な民主主義社会のための一つの鍵と言えそうだ。

 17〜18世紀のイギリスでは、コーヒーを片手に身分や立場を超えて情報交換や政治談義ができる「コーヒー・ハウス」が栄えた。ハーバーマスはこうした市民のオープンで自由な議論の場を「公共圏」と呼び、熟議型の民主主義を支える重要な空間として位置付けた。多様な人が議論に参加できるインターネットも当初「公共圏」の役割を期待されていたはずだが、今日Twitterを覗けば、先鋭化・過激化した意見が対決している構図が目につき、異なる意見を持つ者同士が「熟議」している環境とは言い難い。

 今後ますます個人化していくインターネット環境の中で、私たちは快適な繭の中を飛び出し、いかに自分と違う他者と出会うことができるか。そして、意見や立場の異なる人同士が議論する「公共圏」を、いかにインターネット上に設計することができるのか。本書は現代に生きる私たち一人ひとりがこの難題に向き合うための、いくつもの示唆を与えてくれる。