2014年3月14日金曜日

【TORCH Vol.051】「身につけたい 江戸しぐさ」

教授 齋藤浩二

 近年、日本人のマナーが低下していると言われている。自分勝手な言動が日常的になっているところが原因なのか。また、学校へ躾まで要求する親がいると聞くが、人間教育が欠落してしまっているのか、よいマナーを教えるべき“すべ”を知らないためなのか・・・。

 あまり電車に乗らない私ですが、出張の帰りに仙台から東仙台まで乗った。乗った車両のほとんどの乗客はみなスマホとにらめっこをしている光景を目にした。酔っ払いの大声で話されるよりはいいが、何か違和感をもった。座れるスペースが少しあったので近くに行って「すいません」と言ったがスマホに夢中なのか気が付かず、少し経ってからようやく座ることができた。しかし、座ったが何か後味がわるかった。そこで思い出したのは、『江戸しぐさ』の本のことであった。江戸町人の共生からくる相手への思いやりが根付いた、気持ちよく暮らすための心得のことである。「人にして気持ちいい、してもらって気持ちいい、はたの目に気持ちいい」と言うもので、人みな気持ち良く笑顔で暮らせるようにし、金や物よりも何より人間を大切にしたことである。その中に、「こぶし腰浮かせ」といい、渡し場で舟に乗るときに、後から来た客のために、こぶし分だけ腰を浮かせて詰めることである。誰かが言ってそうするのではなく、咄嗟に動きゆずりあう気持ちや行動のことである。

 私の好きなしぐさは「うっかりあやまり」で自分の「うかつ」を反省するところである。他人の不注意で自分に迷惑をかけられたときに「私もうかつでした。すいません。」と謝ることである。たとえば、電車の中で人の足を踏んでしまったら謝るのが当然ですが、踏まれた人が「足を避けられなかった私もうかつでした。すいません。」などと言葉を発せなくてもその場のしぐさで対応すること。これは身につけたいしぐさのひとつである。また、「肩引き」と言って、すれ違う際の自分の右肩・右腕を後ろへ引いて互いにぶつからないようにするしぐさ。(江戸時代は武士が刀を左腰に差していたことから、左側通行のために右肩を引いたわけであり、今日では左肩や左腕を引くこと)さらに、「傘かしげ」は雨や雪の日、相手も自分も濡れないように、傘を人のいない外側に傾けてすれ違うしぐさである。どちらも何気ないように普段行っているが、そこをサットやる身のこなしがイキに感じる行為である。この他に、「駕籠止めしぐさ」訪問先の手前で降りる謙虚さ、「階段では上がる人が立ち止まりを」「腕組みや足組みのしぐさは慎むべき」など失礼のないようにしぐさが挙げられている。

 江戸時代は人間とかいて「じんかん」といい、人と人にはよい間合いが大切であると説いている。親しき仲にも礼儀ありで、人付き合いをうまくやることが基本であることを教えてくれている。江戸しぐさは、武士道と同様に道徳的義務ではないかと思っている。

 大学教育の在り方についての教育再生実行会議の第三次提言に「日本人としてのアイデンティティを高め、日本文化を世界に発信する。」と盛り込まれている。我が国の伝統文化について理解を深める取り組みが行われ、中学校の武道必修化もそのひとつである。日本の良さ(文化)を紹介・指導できる人材の育成等が挙げられている。

 この日本の文化のよさとは何であろうか。東京オリンピックの開催決定で「おもてなし」が話題になったが、私はそのまえに「思いやり」があるのだろうと思った。今、忘れかけている礼儀や相手に対する思いやり、日本人が昔から身についていた振る舞い、人として恥ずかしくない心構え(しぐさ)ではないであろうか。この思いやりを日本の文化として実践すべきであると考えている。先日、剣道研修会にて講師の先生から、上記の「江戸しぐさ」について触れられ、古きよき日本人の養育から鍛育と続く段階的養育法「三つ心(三つ子の魂)、六つ躾(まねる)、九つ言葉(挨拶)、十二文、十五理で末決まる」について紹介された。その当時の外国人は日本の子供のことを「無邪気、利口、自由、手伝いをする、礼儀正しい」と見ていた。人間の基本をつくり始める大切な時期に、愛情深く接して心に豊かさを持つように躾をされていたのではないだろうか。時代が変わっても忘れてほしくない事がある。人と人々との出会い、人間が暮らしていくうえで大切に守りあう心としてのルールがあることを。

 私は他の学校を訪問した際、学生や生徒の行動をみるとその学校の指導がよく伝わってくることがある。これと同様に外部の方が本学に来訪されたとき、学生の姿がどのように映るのであろうかと学生の行動を見ることがある。人間は外見ではなく中身であるとよく言われているが、まずは外見や態度を整える事が大切であると思っている。服装を整える、靴をしっかりと履く、挨拶は自分からする、返事をはっきりという、脱いだ靴は揃えるなどを当たり前のことが自然のしぐさとしてできるようにしたいものである。さらに、暮らしていくうえでのルールやマナーを守ることが人とうまくやっていけることであると伝えていきたい。

・越川禮子『身につけよう!江戸しぐさ』kkロングセラーズ 

2014年3月7日金曜日

【TORCH Vol.050】何のために本を読むか?

講師 馬佳濛

 私は小学生からエリートスポーツ学校に選ばれ、練習漬けの日々を送ったため教室での読書機会が少なかった。いつ頃から読書の必要性を感じ、読書を始めたのかは、はっきり覚えていないが、意識的に本を読むようになり、家族からも「赤と黒」「阿Q正伝」など数々の世界の名著の本が渡された。

 最初の頃、本を読みたいから読むのではなく、本を読み終えるために読んでいた。読む気にならず集中できないため、行を読みズレたり、意味を理解できなく、同じ箇所を何度も繰り返して読んでいたりして、興味をそそられなかった。一つの事を早く済ませたい思いがあった時に、気持ちはもうそこに無いことがよくある。

 斎藤孝氏の「読書力」の一部「読書はスポーツだ」は興味深い。そこには、「読書はスポーツと同じような上達のプロセスがあり、また身体的行為である。」「一度読書が技として身につくとそう簡単には落ちない。」と記されている。私のようなスポーツ経験を持っているのであれば、考え方を変えて、スポーツの技を身に付ける心構えで読書を試しても良いかもしれない。そして、その習慣を身に付け、本を読んでいるうちに、読書自体の楽しさを味わえるようになり、読書に対する価値観が変わってくるかもしれない。

 ある日、ある記事に同感を覚えた。問:「私もたくさんの本を読んでいたのに、どうして読書の価値を感じられないのか?」答:「読書の意義は、読み終えるのではなく、あなたの人生の一部にすることだ。」。

 また、某大学心理学の教授が「多くの人が1日何ページを読んだかと競い合い、ある人は1日100ページ、ある人は1日200ページだという。しかし、「ページ」の単位で読書行為を尺で量ったこと自体は、そもそも問題だ。」という。同じように、どのくらい本を読んだかで読書歴を形容するとしたら、その考え方は、最初から間違っているだろう。

 読書は1つの享受行為である。しかし、一冊を読み終えた時、新しい体験が得られなければ、考え方を変えることもなく、異なった視点と観点からの啓発も得ていない、特に、良い本を読んだ後でも、うまく考えられない、うまく述べられない、うまく書けない、行動にも移らないとなってしまっては、その読書は時間の無駄だ。

 学ぶことは会得であり、ある時は一冊の本で十分、ある時は一万冊でも足りない。ある本は心で読む、ある本は十分な経験で読む、ある本は最後の一つ脳細胞を絞って読む、ある本は一生かけても読み足りない。これは、どの本を読んだかによるが、どのように読んだかがもっとも重要だ。

 最後に、あなたも一番崇敬な本を再び持ち、改めた気持ちで一度、二度、三度も読み返してみてはいかがでしょうか…

2014年3月3日月曜日

【TORCH Vol.049】私のおススメ本 ― 東北、宮城に因んで

教授 佐藤幹男

(1)荻原井泉水:『奥の細道ノート』(新潮文庫)

 松尾芭蕉の書いた「奥の細道」は、誰もが知っている古典であり、東北人にとってもなじみ深い作品である。1689年5月、江戸を出発した芭蕉は、門人の曾良とともに約150日間で東北、北陸を巡り、その時の旅の記録をもとに12年後に作品に仕上げたものが「奥の細道」である。芭蕉は、西行や能因といった「古人」のたどった足跡を歩いたわけだが、現代人は「奥の細道」に記されている芭蕉の足跡をたどり、東北各地の風物や人に触れることとなる。東北の人にとっては地元のPRに大いに役立つ作品といってよい。

 仙台大学のあるこの船岡の地も当然、彼らは通過している。前夜の宿泊地である福島の飯坂温泉を出発し、白石、船岡を経て、その後、岩沼、仙台へと歩みを進めた当時を思い起こすと、何となく芭蕉に親しみを感じるから不思議である。

 しかし、これだけ有名な本であるにもかかわらず、これを読んだという人は意外に少ないのではないだろうか。昔の木版の定本は半紙53枚の薄い本だったというから、古典に慣れ親しんだ人が本文だけ読むなら30分もあれば足りる。しかし、現代人にとっては、昔の言葉で書かれていることもあって読んでもわかりそうもない。注釈書に頼るのも面倒である。ということで、あらためて「奥の細道」を読んでみようかなという方におススメしたいのがこの本である。荻原井泉水という著者はすでに故人となっているが、松尾芭蕉研究者としても有名だった俳人である。専門書のようにも見えるが、予想に反して、映画解説のように面白く解説してくれている本がこれである。今から40年以上も前に読んだ本だが、私が出会った本のなかでも思い出に残る貴重な1冊である。

 特に、この「奥の細道」という古典は、単なる「紀行」ではなく、「紀行的な作品」であるという指摘に興味をひかれた。以前からも「奥の細道」にはフィクションがあるという指摘は知っていたが、それはそれで芸術作品として少しも差し支えない、むしろそうした作品と思われるものの方に却って名句があるという荻原の指摘にうなずきながら読み進めていったことを覚えている。特に、昭和になってから再発見された曾良の「随行日記」と対照してみると、かなりフィクションが多いこと、事実誤認や間違いも多いこともわかってきたことなどが紹介されている。その例が具体的で面白い。

 例えば、「荒海や佐渡に横たふ天の川」という新潟での名句は、客観的事実ではなく、主観的事実に基づいて作られた作品であるという。天の川は一般に秋の季題とされるが、芭蕉の時代には七夕との関連で7月7日に取り上げるべき季題であった。しかし、この時期、天の川は佐渡の方には横たわってはいない。実際は、佐渡の東にあたる本土つづきの弥彦山の上に横たわっているという事実。さらに、「あらたうと青葉若葉の日の光」という句は、4月上旬に日光で作った句だが、その季節の日光はまだ枯木に芽が出たころであり、実際には青葉若葉はまだ出ていないという具合である。

 さらに、飯坂温泉に泊まったのは事実であるが、「奥の細道」には「飯塚」と書かれており、それは芭蕉の書き誤りであること。また、「岩沼に宿る」とあるが、実際は仙台まで行き、国分町に泊まっていること。しかし、なぜ、そう書いたのはよくわからないという。石巻の日和山から金華山を見たという記述もあるが、実際は牡鹿半島の陰になって見えないこと。田代島や網地島と勘違いしたのではないか、等々。

 「奥の細道」という芸術作品を鑑賞するためだけでなく、実際はどうだったのか、という現代的な視点で読んでみるのも面白い。


(2)アーサー・ビナード:『日本の名詩、英語でおどる』(みすず書房、2007年)

 著者は、最近、少し有名になってきた日本在住のアメリカ人。詩集、エッセイ、絵本の翻訳などの他、テレビやラジオにも出演しているので知っている人もいるだろう。
 内容は、ビナードが、日本の26人の詩人の作品を英語に翻訳し、それに彼のエッセイを添えたもの。萩原朔太郎、山村暮鳥、中原中也、高村光太郎といった教科書に出てくるような著名な詩人のほか、まど・みちお、石垣りん、茨木のり子、などの作品もおさめられている。

 この本は、個人的に仙台の知人から、親類の人の詩が載っているから読んでみて、と紹介されたものだが、その詩人とは、菅原克己という人(1911~1988)。出身地の宮城県でもあまり知られていない詩人だが、そんな菅原をアーサー・ビナードは高く評価している。菅原克己は、宮城県亘理郡で生まれ、少年時代を仙台で過ごした。小学校の校長だった父親が1923年に急死。母親の実家を頼って大震災の後、東京に移る。豊島師範学校で学ぶが、学生運動に加わって退学処分となる。その後も言論弾圧のなか活動をつづけ、戦後は詩誌に参加するなど文学運動に加わった、というような経歴の人物である。『菅原克己全詩集』(西田書店)がある。

 少し長いが、菅原の詩とビナードの英訳を紹介しよう。

小さなとものり
 朝になると おとなりの二つの子が ぼくの家のドアをたたく。
<オジチャン、オジャマシテモイイデスカ>
それは、すぐとなりなのだけれど いつも とおくから ふいにあらわれるようだ
ともちゃん、今日はお山に行こう。
お山の公園では 銀杏が金の葉っぱをいっぱいつけ、ヒマラヤ杉が蒼い影をひいている。
ともちゃんは おむつのお尻を帆のように立てて 木立の光と影の間を走りまわる。
陽ざしをうけると、アツイといい、木陰に入ると、サムイという。
まるで忙しいビーバーの子のようだ。
遊びにあきると、こんどは オンブ、という。
朝になると おとなりの二つの子が ぼくの家のドアをたたく。
ぼくの年月の最初の方から ふしぎそうにのぞきこむように….. 。
小さなとものり、
いつかきみも思い出のなかに入るだろう。
そして、きみのオジチャンは やはり光と影の木立の間に 
チラチラするきみを透かしてみるだろう。
お尻を帆のように立てた とおい小さなこどもの姿を。 
Little Tomonori
Morning brings the little two-years-old over from next door
― he knocks and asks, “ Mister, may I come in ?”
Our houses sit so close together, and yet it’s as if he arrives from far away, always, out of the blue.
“Hey Tomo, let’s go to the mountain today.”
Just up the hill, in our neighborhood park, the ginkgoes wear their countless,
Golden leaves, while Himalayan cedars hold their aqua-tinged shadows in tow.
Bulky diaper hoisted well above his hips, Tomonori sets sail through the light
and shadows of the park.
When sunbeams shower down on him he says, “It’s hot.”
When he drifts deep into the shade, “Brrrrr.”
I imagine him a busy beaver pup.
When tired of playing he calls, “Piggyback ride!”
Morning brings little Tomonori over, he knocks on my door, and from back
at the very beginning of my many years, peeks in, full of wonder….
 Two-years-old Tomo, one day you too will make your way into the inlet of memories.
  As for Mister, why, I’ll be here still peering at the light and shadows,
catching glimpses of you drifting through, diaper hoisted high,
like a sail, little faraway child.

  本文には、「まど・みおち」のこんな詩も紹介されている。童謡でもおなじみの詩である。
Goat Mail(やぎさん ゆうびん)
The White Goat sent a letter to the Black Goat.
The Black Goat ate it up before he’d read it.
Then, “Hmmm,” he thought, “Better write a letter” ―
Dear White Goat,
What was in that letter you wrote ?
(後略)
英語の勉強にもなると思います。ぜひ、お試しください。

 最後に、少し宣伝をさせていただきます。

 最近、拙著『戦後教育改革期における現職研修の成立過程』(学術出版会 2013年12月)を出版しました。専門的な本ですので、お読みくださいとは申しません。図書館に入れておきましたので、機会があったらご覧下さい。

【TORCH Vol.048】「私のつぶやき」

教授 佐藤久夫

東京オリンピック開催が決定!

 1964年に東京オリンピックが開催された時、私は中学3年生だった。今でも鮮明に覚えているのは、開会式で整然と行進する日本選手団の姿であり、その先頭には8頭身のバスケットボール選手たちが並んでいたこと。そして、その後最終聖火ランナーが聖火台に点火したシーンである。オリンピックを契機に日本経済は大いに発展し、それこそ各家庭にテレビが普及していたった時代である。

 数々の競技がテレビで実況され、ニュースにもなった。特に「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーチームがソ連と戦った決勝戦は、私だけでなく、全国民が注目したに違いない。優勝まであと1ポイントとなった際、実況アナウンサーが何度も「金メダルポイント」と絶叫したのは語り草であり、私の耳に今も残っている。バレーボールに限らず、すべての日本選手団のプレイぶりに感動を覚え、私自身はバスケットボールに更に夢中になっていくきっかけとなった。

 バスケットボール競技は、東京オリンピックでは男子だけの開催であったが、長期にわたる強化を経て、10位(16チーム中)の結果を残した。入賞には至らなかったが、前大会でベスト4のイタリアを破るなど大健闘といえる戦いぶりだった。当時、東京オリンピックの強化に向けて掲げられたテーマは長身者の発掘・育成と日本人の体力不足を補う平面バスケットボールの展開だった。それから約50年。7年後に二度目の東京オリンピックを控えた現在の日本代表の強化テーマも以前と変わっていない。以前にも小誌にて掲載したことがあるが、強化策は何ら進歩していないと感じている。

 自分の経験から語ればチームの強化には時間がかかる。仙台高校において指導に当たった16年間において、毎年、練習、実戦の中から反省し、改善していくという積み重ねによって強化していった。現在の日本代表を見るにつけ思うのは、積み木を積み上げていくような地道な作業が成されていないと感じられ、それが競技力向上に効果を見ない原因となっているのだと思っている。

 2020年オリンピックの東京開催決定の朗報に誰もが大きく喜んでいる。私自身、人生で2度も母国でのオリンピックを見られるとなれば、これほど幸運なことはない。同時にすべてのバスケットボール関係者が日本代表が強くなってほしいと願っているに違いない。
そうしたたくさんの方々から連絡をいただいた。これまでの反省に基づき、新しい方法を見出し、7年後を契機に日本代表が国際舞台で活躍できるようにしなければならないといった話もされた。「がんばろう。やろう」。そうした言葉とともに、私も日本を強くしなければという情熱が湧いてきた。1964年以降の日本代表の強化を今一度、しっかりと検証し、7年後には前大会以上の結果を収めてもらいたいものだ。
(月刊バスケットボール10月号投稿)

積み木を積み重ねるように強化は進む

 この号が店頭に並ぶ頃には、ウインターカップを一か月後に控え、全国の出場チームが出そろっている。それぞれのチームは、相当の苦労・努力の上に予選を勝ち抜いたに違いない。そして、それは1年や2年の苦労ではないはずで、毎年、毎年、苦労や工夫、バージョンアップを繰り返し、その積み重ねによって強化してきているのだ。要するに、単独チームにおける強化は、積み木を一つ一つ積み重ねていくように、1シーズン、1シーズンを積み重ねていくことによって成り立っていくものなのだ。

 東京オリンピック・パラリンピック開催を7年後に控え、日本代表チームも国際舞台で活躍できるチームへと変貌を遂げて欲しいと思っているが、代表チームを単独チームと置き換えれば、この7年間を一年一年、しっかりと積み木を積み重ねることができるかどうか。それが土台となり、2020年以降に、より一層大きな力を生み出すことになるはずなのだ。積み木を一つ一つ積み重ね、しっかりとした土台を築くためには、より多くの経験が必要となる。その基盤となるものは、1964年の東京オリンピック以後の代表の強化策、戦術、戦略。更に世界に通じる日本のスキルとはいかなるものかという検証と、反省によって行われなければならないというのが私の持論である。

 今シーズンは多くの高校、中学の選手たちと、バスケットボールの未来についての話を聞く時間を得ることができた。そうした選手たちに共通して感じることは、自分のバスケットボールの未来に対して、夢を持たなくなってきているのではないかということである。バスケットボールを続けていく上でのモチベーションが、期待と夢が薄れてきていると感じるのだ。私などは1964年の東京オリンピックをテレビで見て、国際舞台での活躍にあこがれを感じ、オリンピック選手になりたいとの思いで東京に出てきたものだ。今の若い選手たちにしても、日の丸を付けたいという夢を語る者はいたが、その上で、国際舞台で活躍したいとの言葉を聞くことはなかった。バスケットボールが大好きで、日々練習を積み重ねている若者たちに大きな夢を抱かせ、今以上に日本においてバスケットボールが盛り上がりを見せるようになるためには、代表チームの国際舞台での活躍が必要であろう。2020年の東京オリンピック・バラリンピックの開催は、さまざまな意味で、日本バスケットボール界の将来を左右する大きな、本当に大きなチャンスなのである。
(月刊バスケットボール11月号投稿)

本物のまぐれで優勝したウインターカップ

 4年前、明成高での一度目のウインターカップの優勝においては、「だれもができることを、しっかりと遂行すれば優勝できる」という印象を持ったが、それはまだ、まぐれ勝ちのようなものだった。今回も、そのまぐれのような優勝ではあったが、2度も起きれば本物のまぐれと感じている。

 これまでも示してきたとおり、私の目指しているバスケットボールは、流れに逆らっているようなスタイルだろう。それは、自分のバスケットボール観に逆らわず、自分のチームにマッチするスタイルと言い換えられるかもしれない。現在では、オフェンスでの仕掛けを早めるためにピック&ロールなどを多用する傾向にあるが、そうした流行にとらわれないバスケットボールを求めている。私が大事に思っていることは、技術、戦術といった方法論の前に、自分の目指すべきチームのビジョンはどういったものなのかといったことである。

 私が求めてきたスタイルの源流は、これまでの偉業を成し遂げてきた指導者の方々の良い所を、自分なりに吸収しているところにある。それは、「古きを知って、新しきを得る」と言えるだろうか。夏のインターハイで優勝した京北高の田渡優コーチも、同様に周囲から学び、吸収しながら、あのすばらしい二段構え、三段構えのコンビネーション・バスケットボールを築き上げられた。今回の優勝の後、私が勉強させていただき、大いに影響を受けた偉大な先輩諸兄から、たくさんの祝福の言葉をいただいた。中でも、前人未到の58回の全国制覇を果たしている能代工高の礎を築き上げた加藤廣志氏から、大変なお褒めの言葉をいただいたことは、これまでの努力が報われたようであり、感慨もひとしおだった。
(月刊バスケットボール1月号投稿)

【TORCH Vol.047】「本(媒体)を選ぶ」

講師 藤本晋也

 私は他の人と比べると、本を読む量が少ない方である。最近では、時間を作り読むように心掛けてはいるが、乗物移動中に活字を見ると酔う体質であることから、本や紙媒体をはじめ、PCやタブレット等、アナログやデジタルの媒体問わず、活字を見るともれなく酔うことになる。そのため、最近活字媒体の読み上げ機能等を導入し利用しようかと考えている。

 私にとって本は、小学生の頃、家での親の勧めや、学校の読書の時間等の設定により、半ば強制的に勧められ、仕方なくその時間を過ごすために読んでいた。しかし、親によると幼児期には、覚えていないが、絵本は好んでよく手に取っていたと聞いている。この違いには何があるのか考えると、活字情報を主とする“本”とビジュアル情報であるイラストを主とする“絵本”と捉えることができる。

 本として見た場合、同じものなのかもしれないが、本は、物事の概要をつかみ、深く理解するための情報を与えてくれる物。絵本は、イメージをつくりやすく、想像を膨らませてくれる物。この2つは、私にとって受け取る情報の質が異っていたと考えており、これらの違いが現在でも情報元として本を選択する大きな要因となっている。

 書籍よりもどちらかというと、専門誌、いわゆる雑誌をよく読む。特にモノ(物)系の雑誌で読むのが、雑誌の中ほど、もしくは最後の方に位置する、白黒のページである。最近の雑誌は全面カラーページが増え少なくなってきたが、この白黒のページには、興味を引くような情報が意外に多く掲載されていた。それは、その記事を担当する記者の体験記やコラムなどである。この内容には記者自身の感想はもちろんであるが、新しい製品等の活用用途や、通常使用ではありえないような内容を実験的に意図的に実践した結果等掲載していた。これらの情報は、あくまで、記事を担当した記者の主観的な立場で書かれていることが多いわけだが、意外にもユーザーが実施したくてもできないことをしているケースや、新しい方法を提案していたりすることが多かった。このような情報は、書籍である本には、まず掲載されない情報である。

 近年のICT技術の進歩により、当コラムに投稿されている先生方の中にも記述されているが、紙媒体をデジタルデータにし持ち歩き閲覧できるようにする“自炊”など、電子書籍による活字情報の閲覧のみならず、先に述べた読み上げ機能等、それらも含めた様々なビジュアル的表現が可能となってきている。最近では、電子雑誌等のページの画像部分が動画で閲覧できたり、3Dで立体的に見られたりと、紙媒体ではできなかったことができるようになってきている。

 このように、経験を基に記述してきたが、一般社会においても、情報の媒体とその活用方法がさらに多様化している現状を考えると、改めてこれまでの書籍、雑誌等の紙媒体としての情報の蓄積が圧倒的に多いということ。それらが膨大な量で記録・保管・管理されていることがわかる。そこから、情報の検索能力の向上が必要不可欠な能力としてこれまで言われてきたが、さらに、これら情報媒体が、活用されるシーンに応じて、日々進化し拡張しているということも考えると、検索能力の向上と同時に、自身にあった本の活用(媒体選択)能力も必要になってくるのではないだろうか。

【TORCH Vol.046】図書館で出会う「友人」

田中 智仁(社会学)

 体育学部の教員としては不相応だが、私はスポーツが苦手である。いわゆるオタク系文化部が大好きで、さわやかに汗を流すのは嫌いだった。小学校から高校まで地域の囲碁教室に通い、中学・高校で所属した部活動もパソコン部、男子バレーボール部、帰宅部であった。男子バレー部は「初戦敗退」の常連校だったので、「オタクとは思われたくないけど、マジな体育会系は無理だから、一番ヒマそうなところ」という消極的な理由で選んだ。入学から卒業まで続けたのは、大学時代の文藝會だけである。

 また、クラスでも明らかに浮いた存在であった。物心ついた頃から変人扱いされ、女子からは「気持ち悪い」、教師からは「夢見る夢子さん」(何を考えているかわからない奴)と言われる始末である。このような有様で、友達が多いはずがない。もっとも、社会学者には不可欠な気質であろうから、今となっては「これでよかった」と思っている。
その一方で、人間は無いモノを求める。「友達がもっと多ければなあ…」と願ってしまうのだ。小学校入学前に「1年生になったら、友達100人できるかな」なんて歌を聞かされ、友達づくりが推奨される風潮があった。そのため、いつしか「友達が多いことはよいこと」という価値観が刷り込まれていたのだろう。

 大学生になって社会学と文藝に出会い、多くの友達ができた。社会学は批判的に物事を考える(「常識」を疑う)のが基本的態度だし、文藝も変人気質が不可欠である。ゼミや文藝會で似た者同士に囲まれ、ようやく人間になれた気がした。

 そこで、ふと思ったことがある。友達が増えると、どうしても一人ひとりと過ごす時間が限られてくるため、個々の関係は希薄になりやすい。しかし、友達が少なければ、その少ない友達と過ごす時間が多くなり、濃密な関係を築くことができる。つまり、友達づきあいに割ける時間や労力には限度があり、濃密な関係を築くためには友達が少ない方が有利なのではないかということだ。

 そうなると、「1年生になったら、友達100人できるかな」という歌詞は、「1年生になったら、希薄な関係でもいいから人脈を広げましょう」と推奨していることになる。これは、企業の営業マンのスタンスと同じではないか。小学校入学の時点で、社会学者のテンニースが言った「ゲゼルシャフト」(利害によって形成される人間関係やその社会)が望まれているのだ。なるほど、産業社会を生き抜くための社会化のステップが、義務教育としてライフコースに埋め込まれている。これが近代学校制度なのか…と、社会学的な屁理屈を楽しんでみたりした。

 そのとき、衝撃的な1冊と出会った。高田保馬著『社会学概論』(岩波書店)である。約90年前の社会学者である高田は、この本で「結合定量の法則」について述べている(初登場は1919年の著書『社会学原理』)。結合定量の法則とは、簡単に言えば「人づきあいの総量は限られている」という法則だ。この法則に従えば、多くの人と付き合うと関係が浅くなり、限られた人とだけ付き合えば関係は深くなる。なんと、私がふと思ったことと同じ内容ではないか。約90年前に私と同じことを考えていた人がいたのだ。

 高田は社会学の巨匠であり、経済学者としても活躍した人だが、なぜ結合定量の法則なんて理論を着想したのだろう。もしかしたら友達が少なかったのか。それとも、友達が多すぎてウンザリしていたのか。まあ、この際はどちらでもいい。とにかく、約90年前の社会学者と自分がつながったことに変わりはないし、これを機に高田に親近感をもってしまったのである。

 そして、高田への親近感はさらに深いものになる。私は社会学の観点から警備業を研究してきたが、そもそもの問題意識は「なぜ警備業が存在するのか?」という率直なものだ。防犯にせよ防火にせよ、警備業が扱っている分野は、基本的に日常生活の中で当たり前のこととして行われてきたことではないか。それをなぜ、わざわざお金を払って、警備業という得体の知れない他者にやってもらわなければならないのだろう。つまり、日常生活で防犯や防火を行っていれば、警備業なんて不要ではないかということだ。

 そこで、私は仮説を立てた。「家族(イエ)や地域社会(ムラ)の機能が縮小されて、それまで自分たちが行ってきた活動を他者が担うようになり、警備業もその一つとして存在しているのではないか」というものだ。この仮説は、社会学の発想としてはごく標準的なものである。実際に、教育社会学、家族社会学、地域社会学などの領域では先行研究も豊富に揃っている。

 しかしながら、社会学の各領域で研究されてきた内容は、警備業そのものを言い当てているわけではないし、「学校」や「町内会」などの個別のテーマに特化しがちである。各領域を横断するような一般理論があれば面白いのに…と思っていた。そのときに見つけたのが、同じく『社会学概論』で提起された「基礎社会衰耗の法則」だ。

 基礎社会衰耗の法則とは、簡単に言えば「家族や地域社会などの基礎社会は、近代化の進行にともなって機能を失い衰退していく」という法則である。この法則に従えば、家族や地域社会は近代化の進行にともなって防犯や防火の機能を失い、徐々に他者がその機能を担うようになっていく。その他者が警備業である…という説明になる。なんだ、これも私の仮説そのものではないか。

 高田さん、この一致は本当に偶然ですか?私と貴方はたぶん何回も会ってますよね?きっと、日頃から貴方とは盃を交わしながら、語り合ってきた仲だったのでしょう?そうと言ってください!…そんな気持ちになる。

 高田保馬は私が生まれる10年前に死没しているため、もちろん会ったことはない。霊感が強ければ会えるかもしれないが、私にその能力は無い。イタコに頼めば会話できるかもしれないが、安眠を邪魔するのも申し訳ない。なので、いつも『社会学概論』という本を通じて、友人・高田保馬とコミュニケーションしている。

 2014年現在、人々の「出会い」には様々なパターンがある。授業やサークルで一緒になる人、バイト先で知り合う人、SNSでつながる人…それらは紛れもなく「出会い」であり、教室、職場、SNSは「出会いの場」である。しかし、多くは「今を生きる人」との出会いであり、その人とリアルタイムでコミュニケーションすることが当然のスタイルとなっている。しかし、図書館も負けず劣らずの「出会いの場」なのだ。そして、図書館の凄さは、「今を生きていない人」に出会い、「本」を通じてコミュニケーションできることである。これは、他の「出会いの場」にはない出会いだろう。

 残念ながら、本学の図書館に高田の『社会学概論』は所蔵されていない(他の著書はいくつか所蔵されている)。しかし、約10万冊という膨大な蔵書がある。それらの著者には、「今を生きていない人」も少なくないだろうし、遠方にいる人も多いだろう。図書館に行けば、たとえタイムマシーンがなくても瞬間移動ができなくても、「時空を超えた友人」に出会える。

 みなさん、そんな友人と出会うのはいかがですか?

【TORCH Vol.045】趣味本、職業本、実用本?

教授 佐藤滋

 はるか昔、テレビがまだ白黒だった頃のNHKに「夢で会いましょう」という番組があった。永六輔と中村八大のコンビによるプロデュースだったはずと、今そそくさとWikipediaで調べてみると、1961年4月〜1966年4月(筆者の中学高校時代)、構成が永六輔、音楽が中村八大とある。その下には,出演者として、谷幹一、渥美清、EHエリック、坂本九などの今は亡き懐かしい名前が出てくる。本欄の読者諸兄姉はほとんど知らない名前だろう。私にとってのハイライトは、この番組のエンディングで世界のさまざまの言葉で挨拶する音声が字幕とともに流れるところである。この番組のこの部分が何とも魅力的で毎週見ていたものである。そんな訳の分からない音声の何が魅力的だったのかをうまく表現することはできないのだが、意味の分からない音声を聞いて、興奮したことは今になっても強い印象として残っている。

 その後、あるとき高校の担任に「佐藤君、アメリカに行ける留学試験があるぞ、受かるとただでアメリカに行けるぞ」と言われた。その担任は英語ではなく数学の先生だったし、成績優秀者が集まるわが母校で私の英語の成績が抜群でもなかったので、いまだにどういう弾みで私にそのような声がかかったのかは分からない。とにかく受けたら受かってしまい、海外に行くなど考えられない時代だったので、先生も両親も驚いていた。結果、その後の1年アメリカ英語の中で過ごし、ヨーロッパアジア中南米からの留学生と交流し、彼らの訛りの強い英語も聞きながら帰国したわけである。

 上述した私の本能的とも言える言語音声への興味はその後も尽きることなく、卒業論文や博士論文にまで続いた。少年時代という物事の分からない時期に興味が引かれたものが、学位取得のネタになり、大学教員として就職することができ、東北大学、順天堂大学を定年退職し、仙台大学もそのようになる見込みとなっている。ありがたいことである。これは、なによりも情報工学や神経科学分野で、基礎研究としての人間言語の音声や文法の研究を評価してくれる体制があったことが、論文書きとしての私の研究者生活を成り立たせていたことが大きい。大変幸せなことであった。

 さて、少し話を戻すと、私はサウンドスペクトログラフによる母音の音響分析を卒論でやり、その後の博士論文のテーマが意味概念から生成する音声合成、いずれも音声関係に執着したものとなった。少年時代、違う言葉で話す人の声の響きの違いに衝撃を受けたのであったが、大学時代になると口の中でどのように舌を動かすからどうなるのか、声道(声帯から唇までをそう呼ぶ)の形や調音器官(舌や唇や口蓋垂など)の動きと音声波形との関係などと、関心がよりマニアックになってきた。1969年の卒論であるが、自分でも今となるとどのようにして入手したのか思い出せないのだが、詳細なX線撮影の母音発音写真を多数収納した当時の東ドイツ製の図書が入手でき、それをトレースしたり、母音の音響分析と照合しながら、あまりできの良くないものを仕上げた。大学紛争のさなかの1969年に紛争を完全に無視しながらそんなことをやっていた自分の凝り性を思う。同級生には、学生運動に関わり留置所に出入りしたり、学生同士の悶着で負傷した者などなど、大学を一年遅れて卒業した者も多数にのぼるのである。

 要するに、中学以来の興味がたまたま研究に繋がり、大学での研究活動を続ける形で生き残ることができたというのが結果論である。いま本棚を眺めると懐かしい本たちがいまだにそこにありうれしい気持ちになるが、一方では、修士博士の学生たちに学位を取らせるという責務も負っていたため、多数の(主として英語の)論文も読まなければならなかったし、学会に投稿できる水準の論文を(英語で)書く(あるいは書かせる)ためのネタ探しも大変であった。正直に言うとこの辺の責務はけっこう苦痛であったが、大学の教育研究者としての社会的責務を果たしたかな、と自己満足することもある。読んだ論文で、残しておきたいものはほとんどPDF化したが、本類はそのまま本棚に残っている。これらは、音声の趣味本と大学職を成り立たせるための職業本が渾然一体としたものとなっている。懐かしいものを含めて関連書籍を列挙する。

  • 服部四郎「音声学」岩波書店
  • 近藤一夫「数理音声学序説」東京大学出版会
  • 藤村靖「音声科学原論」岩波書店
  • 千葉・梶山「母音」岩波書店
  • 酒井邦嘉「言語の脳科学」中央公論新社
  • Fant「Acoustic Theory of Speech production」Mouton
  • Zsiga「The Sound of Language」Wiley-Blackwell
  • Ladefoged「The Sound of the World’s Languages」Wiley-Blackwell
  • Labrune「The Phonology of Japanese」Oxford
  • Ritt「Selfish Sounds and Linguistic Evolution」Cambridge

 実は、以上述べたような「私の世界」的な言語音声への関心については、私だけではなく世界中の人が興味を持ってきた世界であり、さまざまな教科書や専門書が日本でも英語でもメジャーな出版社から出版されている。専門分野的に言うと文系での古くからの音声学は、世界のことばに使われる音声の膨大な分類学的データベースかつことばを学ぶ者への指標を提供するものである。理工医学系的には、音声科学、音声言語脳科学などで(幼児期からの)言語習得、(脳障害などによる)言語喪失についての世界的な研究の蓄積がある。

 さて、では表題の最後にある「実用本」であるが、私の関心事や関係書籍が、実用本に連続的につながっているということなのである。小学校からの英語教育の開始、中高での英語授業は英語でやるべし、などなど、世界は英語だ、と大騒ぎの教育界であるし、大学ではグローバル化だ、学生の海外派遣だ、TOEFL、TOEIC、IELTSの受験勉強が大学英語だ、会話もできるようにさせろ、など自分ができないことを棚に上げての主張である。
 このような雰囲気と関係ないように見える私の「趣味本・職業本」の延長線上には、特に最近、日本人の英語を上手にするための良い指導本がたくさん出ている。私の本棚にもそのような本が並んでいるのである。一部紹介して本稿を閉じることにする。より詳しく知りたい方は、筆者まで直接お問い合わせいただきたい。ただし、英語をしゃべれるようになるためには、口を動かす運動神経回路を鍛えることが必須であって、このごろのテレビコマーシャルのように、家事をしながらCD音声を耳に流していただけで話せるようになった、なんてことは原理的にありえないと付言しておく。

  • 竹内真生子「日本人のための英語発音完全教本」アスク出版
  • 白井恭弘「英語はもっと科学的に学習しよう」日経出版
  • 坂本美枝「カランメソッド:英語反射力を鍛える奇跡の学習法」東洋経済新報社
  • 英語音声学研究会「大人の英語発音講座」NHK出版
  • 味園真紀「たった72パターンでこんなに話せる英会話」明日香出版社

【TORCH Vol.044】図書館内巡り

准教授 長橋雅人

この度、本稿を書くために図書館内の本を少しですが見て回りました。その中で、学生が興味をもつかもしれない??記述がありましたので、以下に記します。

●書籍①「毒をもつ動物と応急手当」より抜粋(興味深いカラー写真有り)
・ハチ…野外学習、庭いじりなどでハチと遭遇することは意外と多いものです。特にスズメバチは大型で、毒の量も多いので刺されないようにすることが大切です。~(略)~。[予防]※ハチは黒くて動くものに寄ってくるので、野山を歩く時は白い衣服を着用します。※匂いもハチを刺激します。香水、ファンデーション、整髪料などに対して敏感となるので、これらは使用しないことです。~(略)~。[応急手当]~(略)~。
・ハブクラゲ…ハブクラゲはインド洋からフィリピン、琉球列島近海の海岸地域に分布します。~(略)~。触手には毒の入ったカプセル(刺胞)がたくさんついています。遊泳中に触手に触れると刺胞が発射され、毒が体内に注入されます。~(略)~。[症状]刺されると(触手に触れると)激痛があり、呼吸が停止するなどショック症状を起こすことがあります。~(略)~。[応急手当]~(略)~。

●書籍②「気象・天候の知識」より抜粋
・(風の力をあなどってはいけない)『風圧と風速の関係』…風にさらされた物体が風から受ける力を風圧というが、物体が受ける風圧は、風速の2乗に比例する。風速が2倍になれば風圧は4倍、3倍になれば9倍になる計算だ。風の力をあなどってはいけない。
・『“ところにより”ってどこ?』…「くもり、ところにより雨…」こんな天気予報を聞いたら、あなたは傘を持っていくだろうか。「ところにより」とは、その現象が起こる地域を特定できない場合で、さらにその現象が起こる地域の合計面積が予報対象区域の半分に満たない場合を指す。つまり、いつふいの雨に降られるかわからないわけで、こういう予報に加えて、降水確率が30%以上だったら、折りたたみの傘ぐらいは持って出かけたほうが安心だ。

 他にどのようなことが書いてあるか気になった人は、図書館に行って是非確認して下さい。また、その際には、他の本も手に取り眺めてみてください。きっと役に立つと思われます。

※書籍
①「毒をもつ動物と応急手当」篠永哲,少年写真新聞社
②「気象・天候の知識」高塚哲広,㈱西東社

【TORCH Vol.043】伊集院静「夕空晴れて」(文春文庫『受け月』所収)

教授 坂根治美

 スポーツ好きの人にはきっと興味を持って読んでもらえる作品だと思います。学生の皆さんの中には、中学校の国語の教科書に掲載されている作品の一部を読んだという人もいるかもしれません。

 少年野球チームに入って熱心に練習に参加している息子の茂が全く試合に出してもらえず、グラウンド整備や先輩選手の小間使いのようなことばかりさせられていることを知った母親の由美が、監督の冷泉の自宅に出向きクレームをつけようとしたとき冷泉から聞かされたこととは……。

 息子を思う母親の立場からすれば「いまいましく」、「意地悪そうな」人物にしか見えなかった冷泉は、実は亡くなった夫、小田悟の高校時代の野球部の後輩で、プロ野球選手を目指したものの夢かなわず、道を踏み外しかけていたところを悟に誘われて故郷に戻り、少年野球チームの指導者となっていたのです。

「もうすぐですよ。もうすぐ小田三塁手もゲームに出られるようになります。……名選手にならなくったっていいんですよ。自分のためだけに野球をしない人間になればいいと思っています」。

 由美と息子の茂、由美と夫の悟、悟と茂、それぞれの間の想いや思い出が、悟のかつての指導者佐々木(少年野球チームの会長)および冷泉と悟の間の想いや思い出と重なっていくところで、冷泉はそのように語ります。
 
 故郷での再婚を勧める両親の想いをしっかりと受けとめながら、由美は悟と出会った町で茂と暮らし続けていく決心をします。ラストシーンとして描かれる近くの河原での母と息子のキャッチボール。由美が笑いながら茂に投げた白球の軌跡が、その前向きな気持ちと夫と息子への想いを象徴しているようです。

 読み返すたびに涙なしには読み終えられない作品に出会えたことは、とても幸せなことだと思っています。

【TORCH Vol.042】「本を探してみる」

准教授 竹村英和

 このブログを執筆するにあたって、「自分自身で最初に読んだ本は何だろう?」と、ふと考えてみました。おそらく幼稚園生のときに読んだ「こどものせかい」という絵本であったと記憶しています。今から30年以上も前のことですので漠然とした記憶ですが、描かれている絵を見ながら、空想を膨らませ、興味を持ったのではないかと思います。

 あれから30年以上が経過した現在、定期的に読書をする習慣はありません。しかし、本を読むことが嫌いというわけではなく、新幹線や飛行機で移動するときなど時間に余裕がある際には、必ずといっていいほど本を読んでいます。また、何かを購入する目的がなくても、書店に立ち寄ることもあります。

 具体的な目的もなく書店で本を眺めていると、ふと興味が持てそうな本を見つけることがあります。それは、漫画であったり、推理小説であったり、スポーツ指導者の考え方に関するものであったりと様々です。そして、実際に読み始めると、その本に引き込まれていくとともに、新たな発見をすることがあります。

 学生の皆さんも、子どものときに空想を膨らませ、興味を持ったことが一つはあると思います。また、大人になった現在も漫画を含めた何らかの本を読むことに夢中になったことがあるのではないでしょうか。

 図書館や書店で「本」を眺めていると、自分自身が興味を持てる新たな「出会い」があるかもしれません。そして、本との出会いは単に知識を身につけるだけではなく、自分自身の視野を広げることや、気分転換にもつなげられるのではないかと思います。

 興味の持ち方は、人それぞれです。本を「探してみる」・「眺めてみる」、あるいはこのブログで紹介されている諸先生方の記事を手がかりにすることで、自分自身に合った本を見つけることができるのではないでしょうか。

【TORCH Vol.041】回想

助教 仲田 直樹

 この執筆を依頼されたとき何を書こうか迷った。現在は、大学の研究費の使途でも本を読むように促されており、そのおかげでたくさんの本を読んでいる。しかし、それらは専門的な柔道に関する本かウエイトトレーニングに関する本であり、これらのことを書いたり、ましてや勧めることなどできない。そこで、毎日の生活を精一杯過ごした、というよりもこなしてきた懐かしき小中学校時代に触れていくことにした。

 小学校時代、私は電車で1時間以上かけて塾に通っていた。その塾ではとにかく宿題が多く、1週間平均にして問題集50ページほど出される。それから、6年生になると宿題が半分くらいに減った代わりに小説を数十ページ読み、そこまでの要約と感想を書くようになった。そこで与えられた小説が夏目漱石の「坊ちゃん」である。私は愛媛県伊予市出身ということで当時「坊ちゃん」が松山を舞台に書かれていたことくらいは知っていたが、大して興味はなく、それが5教科になんの意味があるのかわからずやっていた。

 この頃、隣町の内子町出身、大江健三郎さんが日本文学史上2人目のノーベル文学賞を受賞したと話題になった。そして、当たり前のように「坊ちゃん」の次はノーベル文学賞を受賞した理由に挙げられる「万延元年のフットボール」へと変わった。しかし、本に興味がない小学校6年生の少年には難しく、もはや理解不能であった。この宿題は塾を辞める中学3年まで続いたが、速読というレベルではないが読むのが早くなったこと、苦手な国語が嫌いではなくなったことなど、中学生になってから意識の変化もあり、読解力がついたと自分でもわかった。

 私は、中学1年から神奈川県に柔道留学するまでの3年間、普通とは違う生活を送っていた。ここで出てきた“普通”という言葉は結婚してから極力使わないようにしている。育った環境や習慣、考え方の違いがあるのは当然である上、さらには私が3兄弟、妻が3姉妹であるため、おならや大便についてのモラルのなさには度々指摘を受けている。南條准教授が外国へ行く度に感じると言われる“日本の常識は世界の非常識”と、さすがに外国にいるようだとまでは思わないが、様々な価値観の違いには現在も苦戦している。

 ここでいう普通の中学生の生活とは、学校から下校して就寝(23時くらい)まで順番は問わないが、宿題と夕食と入浴を済ませることであるとしておく。私の生活は週に3日、部活動後も道場で稽古していたが、それ以外の日は部活動後、夕食を摂り入浴して1,5時間ほど仮眠する。22時あたりに起きて勉強を始め、就寝は2時~3時であるが、その間勉強しているのは2時間くらいである。勉強しているかと思えば机の上を掃除したり、ベッドに横になって小説を読んでいるかと思えば漫画に代わっている。月曜日は1時からスクールウォーズとワールドプロレスを毎週楽しみに見ていた。とにかく柔道をしている時とは違い、勉強に対する集中力はもたなかったのである。塾の宿題が山ほどあり、当時は自分なりに考え一番よいサイクルだと思っていたが、今思えば全て悪循環である。

 しかし、無駄な時間は多いが毎日2時間以上勉強していたため、学校の成績は常に300人以上いる中で30番以内にはいた。将来教員を目指す者として、決して自慢できる順位ではないが、当時ある程度は満足していた。弟の2人も同じ中学校であり、彼らは常に学年トップの成績であったため、年に1、2度家族が集まる場で私は今でも恰好の劣等生である。なにかと理由をつけて小馬鹿にしてくるのでこちらの反撃手段としては腕立て伏せを命じることくらいである。彼らもまた、私と同じで5教科以外は勉強しても意味がない、という考えであったため、9教科になると格段に順位が落ちた。そこまでは知っていたが、3者面談か家庭訪問で母親が担任の先生に“どういう教育をしているんですか?!”と一括されたことは先月、弟から聞かされた。

 この中学時代は与えられた本を読むのではなく、自分で興味がある本を買って読むようになった。その中でも「ガリバー旅行記」、「オズの魔法使い」、「山下清」などは今でも印象に残っており、あらずじを他人に一通り説明できるほどである。

 高校に入ってからは本を読むことが少なくなったが、高校3年の時に陸上の女子マラソンで高橋尚子選手がシドニー五輪で優勝したが、そこで小出監督が出された「君ならできる」を読んだ。ここでは“自主性を重んじることも大切だが、強くしたいなら強制させトレーニングさせることが重要である”という考えは今監督をしている中で共感でき大事にしている。また、大学1年時に何気なく買った“栃木リンチ殺人事件・両親の手記”は、怒りが込み上げてきて最速であろう2日で読んだのを覚えている。

 本ではないが、芥川龍之介さんの名前を真似ているであろう映画「三丁目の夕日‘64」の茶川竜之介の、父の背中を見せられ見せるシーンは現在の少年柔道の指導にも大きな活力を与えてくれている。大学の事業として立ち上げた仙台大学柔道塾の稽古日は火・金・土曜日の2時間であり部活指導に加え、日曜の試合も小学生は多いため月に1度休みがあればいいほうである。また、贅沢な要望だが、社会人の飲み会はだいたい金曜である。そのため大学内での若手教員飲み会にも毎回欠席、忘年会も毎年行けないのは残念である。そんなの知ったこっちゃないのが塾生であるが当たり前である。しかし、子供たちの成長はそんなわがままも吹き飛ばしてくれ、大切な少年期の夜の時間を預かっている者としてしっかり指導しなければならない。そして将来、この中から仙台大学柔道塾を“昔、仲田先生も僕らのために家庭も休みもそこそこに指導してくれた”と言って指導者となって引き継いでくれることが夢である。また、私自身も熱心なよき指導者にそのように成長させてもらった。

 この執筆を機に他の先生方のブログを拝見し、自分の専門分野以外の知識も身に付け、大きく成長していきたいと思うようになってきた。