藪 耕太郎(仙台大学講師)
皆さんが高校生のとき、社会科関連の科目で「ニンゲンって何?」というテーマで授業を受けたことがあるかもしれません。それも生物学的な見地からではなく、人文・社会科学的な見方から、人間と他の生物との相違を定義しようとする試みは、昔から行われてきました。
たとえば、ホモ・サピエンス(知恵ある人)、ホモ・ファーベル(工作する人)、ホモ・エコノミクス(経済活動する人)といったことばを、どこかで聞いた覚えのある人も多いでしょう。これは知恵や工作、あるいは経済活動こそが、人間を人間たらしめる本源的な要素なのだ、という考え方を示すわけです。
それではホモ・ルーデンスとは何でしょうか?ズバリそれは「遊戯する/遊ぶ人」です。知恵やら工作やら経済やらに比べて、ずいぶん身近、ときに低俗な感じがしませんか。なかには「人間の本性が遊びにあるなんてとんでもない。人間はもっと気高くて上品であるべきだ!」なんて怒り出す人もいるかもしれません。でも、そうしたまっとうにみえる意見こそが、実はホイジンガのいう「真面目の支配」に私たちが毒されている証なのかもしれません。このはなしは後でします。
まず、ホイジンガの略歴をごく簡単に述べておきましょう。1872年にオランダに生まれたヨハン・ホイジンガ(ヘイツィンハとも言います)は、1945年に没するまで、生涯を通じてオランダ最古の大学ライデン大学を中心に、思索と研究、執筆を重ねた碩学(せきがく)(学問を深く探究した大家)です。『中世の秋』(1919)、『明日の影の中に』(1935)などの著作でも知られています。『ホモ・ルーデンス』は1938年に執筆されました。
同書が日本の体育・スポーツ界で脚光を浴びたのは1960年代のことです。1964年の東京オリンピックを軸に大衆のスポーツ欲求が増大したこととも関連しながら、スポーツの文化的な特性を知る重要な手がかりとして、ホイジンガ流の「遊び」の概念が導入されたわけです。ここでは、全12章からなる『ホモ・ルーデンス』を章立てごとに紹介するのではなく、遊びとスポーツの関係性から、この大著を読み解いてみましょう。
スポーツも文化のひとつですが、ホイジンガは「文化は、…(中略)…、遊びの中(なか)で始まったのだ」と述べます。つまり、文化やそれを成り立たせる社会や生活は、そもそもにおいて遊戯の対象だったのだ、とみなすわけです。その意味で遊びは低俗ではないどころか、遊びなくして人間は存在できない、だから私たちはホモ・ルーデンスなのだ、と彼は考えました。ホイジンガは時空を自在に操りながら、今日の私たちからみればとうてい遊びの領域にあるとは思えない分野、たとえば科学、宗教、政治などが、いかに遊ばれてきたのか、ということを、鮮やかに描き出します。
ところで皆さんの中には、「遊びは遊びであって、政治なんかとは根本的に違うでしょう。スポーツだって遊びでやったら怪我をするし面白くない」と思う人もいるでしょう。その意見はもっともですが、ここはもう少しホイジンガの思想に耳を傾けてみましょう。
『ホモ・ルーデンス』の最終章のタイトルは「現代文化における遊戯要素」で、皆さんになじみ深いスポーツに関する記述は、この箇所にしかありません。読解の易しい書物では無いので、興味があればまずはこの章から読み進めるのもアリでしょう。ともあれこの章における作者の態度は、前章までとは打って変わって悲観的です。「スポーツは遊戯領域から去ってゆく」とまで述べています。どういう意味でしょうか。
先ほど「真面目の支配」というフレーズを出しましたが、ホイジンガにとってまじめと遊びは必ずしも対立するものではありませんでした。一般的にイメージされる、遊び=不まじめ、とは異なる理解をしていたのです。やや強引にまとめると、遊びはなによりまず自発的な行為であり、この遊びにおける自由を確保するために、お互いの利害を排したり、あるいは実時間から分離したり、ルールを作ったりするわけです。つまり、遊ぶために「ある種の」まじめさが自然に要求されることになります。ホイジンガは「遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる」と記しています。
さて、先の一文に「ある種の」と括弧書きを付けた箇所をみてください。ホイジンガにとって、まじめさは複数あるものでした。私たちが現在当たり前と思っているまじめさは、そのうちのひとつに過ぎません。功利主義や合理性が強調された、これら近代において当然とされるまじめさを、仮に「真面目」と記して区別しましょう。そして、現在、スポーツの世界はどの程度真面目化しているか、少し考えてみてください。
…、どうでしょう?たとえば勝利至上主義や過度の商業主義、ドーピングや環境破壊などは、スポーツが真面目に支配されたことをひとつの要因とする問題ではないでしょうか。つまり、規則や規律の厳密化、訓練の強化、競争原理の高揚といった真面目さが、意図せざる問題をスポーツにもたらしている、と考えることもできるわけです。そこまで深刻に考えなくとも、スポーツが持つ気楽さや気軽さが、真面目の名の下に抑圧されているとしたら、やっぱりそこに問題が無いとは言い切れません。
「最近スポーツ頑張ってる?」と聞かれたら、「真面目に、一生懸命にやっています」と私たちは答えがちです。その回答に嘘が無いとしても、それがゴールではありません。「私たちが一生懸命に取り組んでいる、このスポーツなる文化は何だろう?」と自己の内外に問い続ける重要さを、ホイジンガの著作は訴えています。
ホイジンガが描くスポーツの未来像は決して明るいものではありません。それは彼の限界ではなく、生きた時代の反映です(彼はナチズムによる全体主義の嵐に全身で抗した人物でもありました)。他方で私たちはいま、ホイジンガが知らない時代を生きています。先ほどの問題に正面から向き合い是正しようとする活動があり、新しいスポーツ運動も次々に誕生するいまだからこそ、「遊び」について再考することは重要なのではないでしょうか。