小松恵一(哲学)
K:「メランコリア」はすごい映画だね。参ったよ。何だ、これは、という感じだね、初めて見たときは。しかし、なぜか記憶に残って、この映画は何なのか、つい考えてみたくなる。
T:評価もだいぶ分かれているようです。ろくでもない映画という意見もあるし、傑作というひともいます。この映画は、昨年(2011)のカンヌ国際映画祭に出品されていて、その際、監督のラルス・フォン・トリアー(Lars von Trier)は、ヒトラーにシンパシーを感じるとか、人間はみなヒトラー的要素を持つという発言をして、映画祭から追放されました。しかし、主演女優のキルスティン・ダンスト(Kirsten Dunst)が女優賞を獲得しています。
K:何がすごいかっていうと、地球が「メランコリア」という巨大惑星に飲み込まれて消滅してしまうんだから。地球の危機を扱った映画はいろいろあったけれど、大体は人々の努力と犠牲で結局は救われて、人類は生き残るという話が多かったのではないかね。この映画ではどうしようもなく、地球もそこにある生命もすべて滅亡しちゃう。しかし、パニック映画やスペクタクル映画ではないし、SF映画とも言えない。むしろ、メランコリアが憂鬱症を意味しているように、個人的な心理劇だね。
T:確かに、主人公は二人の姉妹で、彼らが人里離れた場所でどのように地球の終焉を迎えるかが、静かに描かれるだけです。
第一部は、妹のジャスティンの結婚式ですね。姉のクレアの夫が大金持ちで、彼の所有する18ホールのゴルフ場を併設するお城のようなところで、結婚パーティが行われる。ジャスティン自身がどうしようもなく鬱状態で、しかも、母親が奇矯な性格なので、おもにこの二人のためにパーティはめちゃくちゃになって、上司や新郎とも決裂しちゃう。
第二部は、その後、そのお城に引き取られた鬱のジャスティンと姉夫婦そしてその子の4人が、だんだんはっきりしてくる地球の滅亡をどのように迎えるかという話です。そのとき、鬱のジャスティンのほうがむしろ気丈に終末を迎えるわけです。
K:その第一部の前に、8分ぐらい、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を伴って映像詩とでも言うべき前置きがあるね。それが何とも美しい。その前置きですでに、地球がメランコリアに飲み込まれる様子が描かれているので、観客は本編が始まる前に、結末を知ることになる。その他、この部分では、スローモーションで馬が倒れるシーンとか、花嫁姿のジャスティンが蔦に絡めとられて逃れようにも逃れられないシーン、これまた花嫁姿のまま、ハムレットのオフィーリアみたいに小川を死体となって流れ行くといったイメージが現れ、映画の内容を象徴的に暗示するわけだ。
さて、第一部のパーティの場面だ。人生の最上の幸福の時間であるかもしれない結婚の披露宴が、ぶち壊しになる。ジャスティンの両親は離婚しているが、二人とも出席している。父親が落ち着きのない変な奴で、スピーチのなかで、別れた妻のことを悪し様に言う。それを引き取って元妻、ジャスティンの母親がまた偏屈で次のように言うわけだ。
「結婚なんか信じていない、大嫌いだわ。死が二人を別つまで、そして永遠にですって。一つ言いたいのは、続く限りは楽しんだらということね」。さらに、パーティが進んで、ますます鬱が深まるジャスティンは、傲慢な上司に向かって言う。
I wasn’t at the church. I don’t believe in marriage. ---Till death do us part, and forever and ever… Justine and Michael. I have one thing to say… Enjoy it while it lasts. I myself hate marriages, especially when they involve some of my closest family members.
「くだらないと言っても、まだ良すぎるくらいだわ。あなたが大嫌い。それを言う言葉も見つけられないくらいよ。軽蔑すべき権力欲の小心者。」 Nothing is too much for you, Jack. I hate you and your firm so deeply. I couldn’t find the words to describe it. You are despicable, power-hungry little man, Jack.それで、即刻解雇になる。実は、これは、監督自身が言いたかったことだと思うね。
T:でもなぜよりによってこんなひどい結婚パーティを持ってきたのですかねえ。この監督は、人生の幸福をそもそも認めたくないのでしょうか。例の最高の鬱映画ともいえる救いのない「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督ですから。
K:それはあるね。監督自身が鬱病だったようだ。しかし、結婚パーティを持ってきた意味を考えれば、たんに結婚とその幸福を否定したかったというのではなく、この社会の人間関係すべてを否定したかった、いや、むしろそれを棚上げして裸の人間を露呈させようとしたのではないかね。結婚式というのは、個人的な性愛関係だけではなく、当事者のまわりの親子関係、家族関係、親戚関係、仕事上の関係などあらゆる社会関係が凝縮して現れる場だよ。その場が崩壊して、否応なく個人に立ち返らざるを得なくなる。それが第二部の寒々とした孤独につながるポイントになるのではないかね。
だから、その第二部のなかで最高に美しい場面は、文字通り裸の場面だよ。鬱の妹ジャスティンが、小川の緑に満ちた岸辺の斜面に全裸で横たわって、天空のメランコリアを見上げている場面。これほど美しいヌードはめったにないね。そのシーンが短いのでもっと続いて欲しかったよ。人間が自然との合一を果たす場面なのだね。
T:それはわかります。しかし、鬱病のジャスティンだからそういうことができたのではないですか。社会関係、人間関係からまったく離れてしまった人間だからこそ、さまざまな俗事を超越してしまえる。そういうことは普通の人間にはできません。
K:それはそうだね。妹のクレアは最後(最期)まで普通のひとで、恐れ慄き、どうにかして滅亡に抵抗しようとする。もちろんそれはまったくの無駄であることは分かりながら。最期のシーンでは、ジャスティンとクレア姉妹、それにクレアの子供の三人がサークルを組んで手を取り合い、メランコリアとの衝突を迎える。これはハッピーエンドだと誰かが言っていたけれど、そのときも恐れと慄きがクレアを去ることはない。メランコリアが地球と人間を滅亡させて、強制的に自然との一体をもたらすわけだ。恐ろしいね。
T:そうだとすると、ちょっと引っかかるのは、ジャスティンの次のせりふです。それは、メランコリアがどうしようもなく地球と激突するとジャスティンが悟り、そのため鬱から立ち直って落ち着きを取り戻して言う言葉なのです。
「地球は邪悪だ。地球のために悲しむ必要はないわ。誰もそれがなくとも嘆かない。地球上の生命は邪悪なのだから」。The earth is evil. We don’t need to grieve for it. Nobody will miss it. Life on earth is evil.これは、人間、生命、それを育む地球を呪うような言葉です。そうした価値判断を下す必要がどこにあったのでしょうか。地球と地球上の生命が消滅してしまうとしても、それは邪悪だからなのですかね。あるいは、邪悪で滅びるのだから、諦めるしかないという慰めの言葉ですかね。地球とその生命がどうのこうのというより、滅亡を見つめているだけでよかったのではないですか。
K:そうかもしれない。ジャスティンは、強いて言えばだが、自然から遠く離れつつある人間を嘆いているのかもしれない。その人間に利用されている地球を悼んでいるのかもしれない。ともかく、この映画は、人間と自然の関係を問うものだとは言えるね。もっと言いたいことはあるのだが、このあたりにしようか。
T:「ツリー・オブ・ライフ」(テレンス・マリック Terrence Malick 監督)のほうはどうですか。同じ年の同じカンヌ国際映画祭で、最高賞であるパルム・ドールを獲得していますね。この映画も人間と自然の関係がテーマであるように見えます。
K:いま時間がなくなってしまったよ。また次の機会に話そう。