2012年12月21日金曜日

【TORCH Vol.003】小沢昭一さんを悼む

スポーツ情報マスメディア学科 齋藤 博

 俳優小沢昭一さんが逝った。

 小沢さんとは二度お会いしたことがある。いま、思えば夢のような出来事だった。

私は小さな田舎の町に育った。その町には4つ映画館があった。当時、映画は身近な娯楽だったので親に連れられて月に何度か見に行ったものだ。映画館は今と違って3本立て(映画の本編3本と予告編、ニュースが上映され入れ替えなし)で大人の世界をのぞき見たい子どもにとって格好の場所だった。なかでも刺激的だったのは日活映画で石原裕次郎や小林旭といったスターが活躍するスクリーンに胸を躍らせたものだ。スターたちの脇を固めるため必ずといってよいほど登場してくるのが「変な俳優」、小沢昭一さんだった。

 大学2年のとき、その小沢さんと初めてお会いした。通っていた大学の教室で小沢さんの講義を受けたのだ。当時、小沢さんは日本列島に残っている大道、門付けの諸芸を収録するというビッグプロジェクト、『日本の放浪芸』(日本ビクター、1971年)を制作するため、歌舞伎研究の郡司正勝先生(『おどりの美学』演劇出版社、1957年『かぶきの美学』演劇出版社、1967年などの名著がある)の研究室に通って指導を受けていた。そのついでに学生のために「日本の芸能」について講義をしてくれたのだ。笑ったり、感心したりの90分。このとき、芸能も研究対象になる学問の奥深さを知った。

 正統に対しては異端、中心には周縁があるがちょうどそのころからだった。異端や周縁に強い関心を持つようになったのは。小沢さんの著書、『私は河原乞食・考』(1969年、芸術生活社)、『私のための芸能野史』(1971年、三一書房)は夢中になって読んだ。山形県の蔵王温泉での女相撲の元大関へのインタビューでは芸能の原点を浮き彫りにしている。また、仙台の一番町で当時、足が不自由なことを利用して体につけた鐘を鳴らして歩いていたストリップ劇場のサンドイッチマンが有名な浪曲師だったということも知った。人にはそれぞれの人生があって、懸命に生きているということを実感した。

 小沢さんの影響をまともに受けてしまい、お金があると歌舞伎や新国劇(もちろん大向うで)、小劇場演劇、落語、講談、映画などあらゆるエンターテインメントを見て回った。寄席では桂文楽、柳家小さんが健在で立川談志と三代目古今亭志ん朝が芸を競い合っていたし、唐十郎は新宿花園神社で紅テント、寺山修二は渋谷の天井桟敷館、鈴木忠志は早稲田小劇場、佐藤信は黒テントと演劇界も盛り上がりをみせていた。映画は映画で日本の溝口健二や小津安二郎の影響を受けたフランスのヌーベルバーグ(新しい波)が全盛でその影響を受けた日本映画も面白かった。

 大学では結局、小沢さんと同じく仏文科に進んだ。フランスの俳優で演出家についての論文を書いたのは記憶のかなたとなった。このフランス人はバリ島の演劇に啓示を受けた人で小沢さんが追及する伝統芸能とも共通するところがあり、またまた、小沢さんの後ろを歩んだことになる。

 大学を卒業して仙台の民間放送局で長いこと仕事をしてきた。テレビ番組の制作が最も長かった。その間、いろいろな人と出会った。画家の中川一政の息子さんで春之助さんからはドラマの演出法を、久世光彦さんにはご自身が経営するプロダクションの人たちとともにドラマ制作を手伝ってもらった。久世さんのドラマはドラマでとても面白いが小説やエッセイも味わいがある。特に学生に読んでもらいたいのは『一九三四年冬-乱歩』(1993年、集英社)だ。江戸川乱歩をモデルにした小説で井上ひさしさんも絶賛している。

 テレビの仕事をしているうち、いよいよ小沢さんとご一緒できる機会が巡ってきた。それは、平成8年のことだった。『20世紀大サーカス~サワダファミリー・国境のない旅』というテレビ番組で小沢昭一さんに語りをお願いしたところ、快く引き受けていただいた。この番組は明治の中ごろ浅草の軽業師一座とともに海を渡り、ヨーロッパを代表するサーカス芸人になった沢田豊という人の人生を追ったドキュメンタリーでサーカスプロモーター、ノンフィクション作家の大島幹夫著『海を渡ったサーカス芸人―コスモポリタン沢田豊の生涯』(1993年、平凡社)を原案にした。ドイツのサラザニサーカスサーカス(第2次大戦中連合軍の空襲でドレスデンのエルベ川沿いにあった常設館は消失)で大スターになった沢田はその前は日露戦争、第1次大戦、その後は第2次大戦に人生を翻弄されながらも家族とともに生き抜いたというストーリーである。

 録音の当日、小沢さんは一人で現れた。沢田が公演のためブラジルのサンパウロを訪れこれまでの人生を現地の『日本新聞』に語ったくだりの名調子は忘れられない。「最初に飛び込んだのはうどん屋さんである。いきなり天ぷらうどんを2杯やり、海苔巻き4本、おいなり4つをやっつけ、それから数日通って下痢をした。」結局、一度も故郷に帰ることができなかった沢田が久しぶりに日本を感じたときの喜びを見事に表現していただいた。まさに味わい深く、軽妙な語り口。話芸である。

 小沢さんには番組に対して談話もいただいた。
 「日本の浮世絵が西洋の絵画に一石を投じたことはよく知られています。それと同じ現象がサーカスの世界にもみられたことについては、残念ながらこれまであまり語られたことがありません。江戸時代の終わりごろから、実にたくさんのサーカス芸人が海外に渡って行きました。その日本の芸人たちの技が、世界中のサーカスに様々なかたちで影響を与えたのです。」
 新宿の大久保寄りの小さな録音スタジオで天にも昇るような気持ちになった。ハイヤーでお送りするためスタジオの外に出たときだった。小沢さんがあたりを見回してにやっと笑って、言った。「このスタジオいいところにあるね」。いまでは韓流ブームとかで賑わっているらしいが以前はいかがわしい場所だったところだ。その時の小沢さんは、まるで自身が主演した映画『エロ事師たちより 人類学入門』(日活、今村昌平監督、1966年)の「スブやん」そのものに見えた。

 俳優、小沢昭一さんが今月10日、前立腺がんのため都内の自宅で亡くなった。83歳だった。また、「昭和」が寂しくなった。                   

合掌