講師 後藤満枝
この夏、ある介護実習施設を数名の学生たちと一緒に訪問した際、最後に実習指導者の方が学生たちに対してこんなことを話してくださった。「介護実習とは関係ない話になるけれども、やはり今自分が介護のこと以外に伝えられることとしたら、若いうちに本をたくさん読んだほうがよいということかな」と。
その指導者の方は中年の男性で、若い頃はあまり本を読むことが好きではなかったそうだが、あるときから本を読むようになったとのことだった。仕事をするようになるとなかなか本を読む時間がとれなくなったりするが、休みの日など一気に読むこともあるという。「本から学ぶことはそんなに多くはないかもしれないが、ただ、こういう考え方もあるんだなという一つの参考になることはあるよ」と、控えめにおっしゃった。
「こういう考え方もある」と知ることは読書の魅力の一つでもあり、本から学ぶことでもあると考える。もっともそれ以外にも本から学ぶことはたくさんあるとも思うが。
恥ずかしながら、私もこの指導者の方のようにこれまでそれほど多くの本を読んでこなかったし、むしろ普段本を読むことは少ないほうだが、「こういう考え方もあるんだなあ」と学ぶことのできた1冊の本がある。
それは、河合隼雄氏のエッセイ『こころの処方箋』である。河合氏は臨床心理学者で、生前、文化庁長官も務めていた人物だ。
私がこの本に出会ったのは高校生の頃である。高校時代の国語の先生が、最近買った図書としてなかなかよかったからと貸してくれたのだった。この本は当時は単行本として販売されていたが、現在は文庫本として店頭に置かれているようだ。読むと心が軽くなるような生き方のヒントとも言えるようなことが書かれてあり、55の章(篇)から構成されている。55章(篇)というと長そうに感じられるかもしれないが、1つひとつの章(篇)は単行本の場合4ページずつにまとめられているので非常に読みやすく、当時、私はわりと一気に読むことができたことを覚えている。その日のペースに合わせてきりの良いところまでちょっとずつ読んでいくのも良いだろう。この借りた本は読み終わってから先生に返却はしたものの、自分でもひそかに1冊購入し、現在も手元に置いている。ふとまた読んでみようかと思わせてくれる1冊だ。
河合氏自身があとがきで述べているように、この本に書かれていることは、時に「もともと自分の知っていたこと=腹の底では知っていること」でもあったりする。だが、改めて指摘されると「フムフム」「なるほど」「たしかに」と、妙に説得力があるのだ。例えば、自分が何かに行き詰まったり抱えたりしている事柄があった場合などに、そっと肩の荷をおろしてくれる「目からうろこ」のような考え方、心を軽くしてくれるような言葉が55章(篇)の中からきっと見つかるだろう。
おそらく河合氏の考え方には賛否両論あるのではないかと思われるのだが、人の考え方はそれぞれなので、こういう考え方もあるのだなあと、一つの参考に、何か課題を乗り越えるための手がかりになればそれでよいと思う。
55章(篇)のうち河合氏も特に好んで使用されていたとされていたのが、『ふたつよいことさてないものよ』という言葉であり、私もこの言葉がとても印象に残っている。
この「『ふたつよいことさてないものよ』というのは、ひとつよいことがあると、ひとつ悪いことがあるとも考えられる、ということだ」そうだ。世の中うまくできていて、「よいことづくめにならないように仕組まれている」という。
また、この言葉は、「ふたつわるいこともさてないものよと言っているとも考えられる」と河合氏は述べている。「何か悪いこと嫌なことがあるとき、よく目をこらしてみると、それに見合うよいことが存在していることが多い」という。
そして、この言葉はもう一つの見方ができるという。「さてないものよ」と言って、ふたつよいことが「絶対にない」などとは言っていないところが素晴らしいというのだ。ふたつよいことも、よほどの努力やよほどの幸運、またはその両者が重なったときなど、条件によってはあることもあるが、幸運によることのほうが多いようだ。「幸運によって、ふたつよいことがあったときも、うぬぼれで自分の努力によって生じたと思う人は、次に同じくらいの努力で、ふたつよいことをせしめようとするが、そうはゆかず、今度はふたつわるいことを背負い込んで、こんなはずではなかったのに、と嘆いたりすることにもなる」という。
「ふたつよいことがさてないもの、とわかってくると、何かよいことがあると、それとバランスする『わるい』ことの存在が前もって見えてくることが多い」ともいう。こうした「法則」のようものを知っておくことによって、私たちはそれなりの覚悟や難を軽くする工夫をしてあらかじめ備えておくことができるということが述べられている。
今回紹介したこの言葉以外にも「なるほど」とうなずける言葉はたくさんあったが、その中でも私が特に印象に残っている章(篇)の言葉を最後に5つ紹介させていただく。
「イライラは見とおしのなさを示す」
「100点以外はダメなときがある」
「やりたいことは、まずやってみる」
「二つの目で見ると奥行きがわかる」
「『知る』ことによって、二次災害を避ける」
もし今回紹介したこの本に興味を持たれた方がいれば、「こういう考え方もあるのだな」ぐらいの感覚でご一読いただき、参考にできそうなことがあれば、今後生きる上でのヒントにしていただければ幸いである。
【単行本】河合隼雄著『こころの処方箋』 新潮社 1992
【文庫本】河合隼雄著『こころの処方箋』 新潮文庫 1998