2013年8月5日月曜日

【TORCH Vol.026】本を読むということ

教授 大和田 寛


 森鷗外の『不思議な鏡』のなかに、家計の遣り繰りをめぐって、夫婦のこんなやり取りがある。

 「あなた、年末もとうとう足りなかったのね。」
 「そうかなあ。もっと旨く遣り繰って行かれないかい。」 
 「そんな事を仰ったって、私のせいばかりじゃないわ。本の代も随分大変あってよ。続蔵経なんぞ、あれはいつまで出るのでしょう。もう置き場所にも困るのですが、際限がないのね。大日本史料に古文書に古事類苑、まああんなのは知れたものですの。やっぱり一番多いのは西洋の本よ。」 
 「そうだろう。しかしそれは仕方がない。あれは己の智慧が足りないから、西洋から借りて来るのだ。どうせ借物をしていては、自分で考え出す人には敵わないが、どうもあれがなくては,己の頭の中の遣り繰りが旨くつかないからなあ。」 
 「そんなに西洋から借りていて、いつか返せて。」
 「それは己の代には難しい。子や孫の代にもどうだか。何代も何代も立つうちには、返す時もあるだろう。」
 「まあ、のん気な話ね。」

(『鷗外全集』第10巻所収、岩波書店、1972年。なお、一部の表記を、新漢字・新仮名づかいに改めた。また、現在、ちくま文庫版『森鷗外全集』3、で読める。)

 冒頭から長い引用になってしまったが、30代でこの作品を初めて読んだ時もこの会話が気になった。それは「自分で考え出す人には敵わない」という謙遜な言い方に、ちょっと嫌味なものを感じたのである。それから幾星霜を経て鷗外より長生きしてしまった現在は、まったく違った感想を持つ。(ちなみに、鷗外は1862年1月に生まれ、1922年7月、満60歳6カ月で亡くなった。この作品は1912年の鷗外50歳の時のものである)。「自分の頭」で考えてきた文豪・思想家鷗外にして、50代に入ったからこそ言える言葉ではなかったかと。

 ところ鷗外と自分を比べようなんて大それた気持ちはさらさらないが、我が家でもきわめて低次元な、しかし外面的には似たような妻との会話が、日々繰り返されている。例えば、定期購読している数十巻の大冊の資料集に対して「あなた、この資料集あと何巻来るの」、又「今日また古本屋から大きな段ボールが届いたわ、もう置く場所ないわよ」、又「あなた、これから何年本読めると思っているの」等々。ただし我が家のはとても「のん気な」会話などではなく、最近、特に震災以降は、妻の声に怒気が含まれてきているのである。それは妻の問いに対して私が、「処置なしの書痴だからね、仕方ないね」とか「大学をやめたら1日12時間として、100年は読むつもり」とか、真面目に答えていないからと、わかっているが、妻を納得させる名回答などあり得ないのである。



 私は父の仕事の関係で、北海道の日本海に面した辺鄙な漁業の町で小4から中2までの4年を過ごした。そこは私にとって素晴らしいところだった。多少「もの」が見えてくる多感な時期だったこともあろう。内向的な性格ではあったが、友達もできたし、彼らと海や山を楽しむことを知った。そして本を読むことも覚えた。本を読んで色々なことがわかった。

 北海道の田舎にいても、『グリム童話』を読むとヨーロッパを想像することが出来た。

 しかしひとつがわかるとその何倍もの疑問が生まれた。例えばそこには、王子様お姫様がたくさん出てくる。旅人が森を抜けるとお城がありそこには必ず王様がいる。幼い頭はそこで悩み始める。日本には首都の東京と言うところに王様(天皇)がいるとのことだが、勿論見かけることもない(当時皇太子の結婚問題で、田舎の小学生にも多少ロイヤルファミリーのことが解りかけていたのだろう)。なぜヨーロッパにはたくさんの王様がいるのだろうか。いろいろ西洋の物語を読んで、それは貴族のことなのかとも思ってみたが、十分納得は出来なかった(その疑問は、大学で経済史を学び、ドイツの領邦国家を知ることによって、ようやく氷解した)。こうして次から次へと本を読んで、さらに疑問が増えていった。

 中2の終わり札幌に戻った。さすが札幌、北海道の大都市、本屋がたくさんあり文庫本を買うことを覚えた。最初に買ったのは、岩波文庫の『ソクラテスの弁明』と新潮文庫の『あすなろ物語』である。後者は、井上靖の小説で、転校したクラスの隣の座席の女子が薦めてくれた。転校前に、家にある『日本文学全集』で漱石や龍之介などは多少読んでいたが、現代文学は初めてだった。それは、主人公が祖母と暮らし、鉄棒に夢中になり同居する年上の美少女に淡い恋心を抱く、自伝的な作品である。下手ながら鉄棒少年だった私はその小説にすっかり魅せられた。『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスやプラトンの名前くらいは知っており、西洋の思想・哲学も少しは知りたかった、と言うとカッコいいようだが、それが星★ひとつ50円であることに驚いたというのが正直なところである(当時岩波文庫は,星★ひとつが50円であり、厚いのになると星が★★★、★★★★となり、150円・200円となった)。

 その後高校時代を含めて、岩波文庫の外国文学(赤帯)と哲学思想(青帯)と新潮文庫(これは外国文学と日本文学)を、併せて300冊位、岩波新書等を60~70冊位は読んだろうか。大概は★・★★のもので、おかげで岩波文庫に入っている外国の青春小説の定番、例えばゲーテ『若きウェルテルの悩み』・ヘッセ『車輪の下』・マン『トニオ・クレエゲル』などは、ほぼ読み尽した。

 高2の頃から、今思えばある意味では受験勉強からの逃避でもあったが、昔の高校生(旧制高校生)ガ読んだとされる教養主義的なもの、例えば阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、三木清『人生論ノート』等、また学徒動員された学生たちの手記『きけ わだつみのこえ』は、小説とは違った真剣さで読んだ。恐らく自信ない自分の人生を思い悩んでいたのだと思う。高校卒業の頃、学徒兵林尹夫(ただお)の『わがいのち 月明に燃ゆ』、(筑摩書房、1967年3月)が出て、すぐに読んだ(現在絶版)。同級生の間では、「勉強もしないで本ばかり読んでいる変な奴」で通っており、授業での発言から、先生からも「大和田君はどんな本を読んでいるのですか」と聞かれたりしていたために、多少は持っていたであろう「読書家」の自惚れを、この本は木っ端みじんに打ち砕いてくれたのである。

 この林さんはとてつもない読書家で、旧制高校から大学にかけての数年間に大量の本を読んでいるが、それがいずれも大作なのです。『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『魔の山』等である(ちなみに私が高校時代に読んだ長編は、辛うじてドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフ』くらいでする)。しかもデュ・ガールの『チボー家の人々』(当時の訳本で5分冊2000ページを超える)を、彼は旧制高校時代に、フランス語の原書で読んでいる。この事実に私は、完全に打ちのめされたのでした。

 大学に入ってからのことであるが、大学紛争世代の者として大学の授業もほとんどなかったので、この時とばかり読書三昧にひたった。上記の外国文学の長編を中心に、1日12時間位読書する生活が卒論開始まで続いた。同世代の文科系の学生なら誰でも読んでいた、大江健三郎や柴田翔、サルトルやマルクスも読んでいたことは言うまでもない。


 学生に何を読むべきかと言われたら、人それぞれでこれを推薦したいというような本はあり得ない。ただ、今の学生は、パソコン・携帯があって、本を読む環境がないことは、ある意味とても不幸だとは思う。人が本を読む理由は、詰まる所次の三つだと思う。一つは暇つぶしのため、二つは情報を得る(答えを得る)ため、三つ目は無目的な読書である。暇つぶしの読書は若い人には無縁であって欲しい。二つ目の理由が、本を読む動機で一番多いと思う。受験勉強も仕事のための読書も、旅行に行く前の準備として当該地のガイドブックを見ることも、辞書を引くことも、ここに含まれよう。しかし昨今、インターネット等で情報が取れるので、敢えて本に向かわなくなったのが実情であり、浅薄な知識が横行することにもなっていると考えられる。しかしこの3つ目の理由こそが、特に若い諸君に薦めたい読書である。無目的と言ったが、これは禅問答ではない。暇つぶしでもない。これを読んだらこういう答えが出てくるという事ではないので、無目的と表現したが、問題探しとでもいうべき読書であり、そこにこそ読書の本質があろう。だからこそ、人生を深く考えるきっかけとなるのではないだろうか。

 最初に引用した鷗外の文も、情報ではない何か(あるいは正解のないこと)を考えようとする時、本に教えてもらうのではなく、思考の羅針盤になってもらわなければ「己の頭の中の遣り繰りが旨くつかない」と解すれば、納得がいかないだろうか。本も読まずに「自分で考え出す人は、ただの思いつきか、唯我独尊に陥るということであろう。

 最近、山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)で知ったのですが、『チボー家の人々』を読む女子高生を主人公とするマンガがあるらしい。マンガには疎いのでその本(高野文子の『黄色い本』というらしい)を知らなかったのですが、今度読んでみようと思う。それを読んで一念発起して『チボー家の人々』のような長編小説を読む学生が一人でも出てきたら,嬉しいし、その人は無形の大きな財産を(つまり人生に対する大きな問題提起を)手にすることになろう。若い時の読書はそうありたいと思う。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
  • 森鴎外 「不思議な鏡」 『鴎外全集』第10巻 岩波書店 918 Mo 図書館2階
  • 井上靖 「あすなろ物語」 新潮社 913 Iy
  • ゲーテ 「若きウェルテルの悩み」 『世界文学全集』第1巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ヘッセ 「車輪の下」 『世界文学全集』第27巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「トニオ・クレエゲル」 『世界文学全集』第48巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • 阿部次郎 「三太郎の日記」 角川書店 914.6 Aj 図書館2階
  • ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」 『世界の文学』第17-18巻 中央公論社 908 S 図書館2階
  • ローラン 「ジャン・クリストフ」 『世界文学全集』第23-25巻  新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「魔の山」 『世界文学全集』第28-29巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ドストエフスキー 「罪と罰」 『世界の文学』第16巻 中央公論社 908 S 図書館2階