2013年7月19日金曜日

【TORCH Vol.025】藤沢周平と3冊の本

教授 児玉善廣

 自分の出身地,あるいはその周辺を舞台や題材にした「本」(小説に限らず)は,皆さんの中にも,数冊は思い当たるものがあるだろう。例えば,私が教員になろうと決めるきっかけとなった一冊,夏目漱石の「坊ちゃん」は愛媛県「松山」が舞台であることはよく知られている。

 私の生まれ育ったところは山形県の庄内であるが,その「庄内」を題材にした小説で,最近話題になっているのは,藤沢周平(昭和2年(1927)~平成9年(1997))の作品群である。藤沢先生(以下先生)は,現在の鶴岡市高坂出身であり,北国の小藩(海坂藩)を舞台にした時代ものはほとんど「庄内」で,特に鶴岡をイメージしていると言われている。先生の作品集が注目されはじめた出来事は数本の映画化であった。その最初の作品が「寅さん」で有名な山田洋次監督が手掛けた「たそがれ清兵衛」(出演:真田広之,宮沢りえ 2002)である。この事は皆さんよく御存じであろう。その後「蝉しぐれ」(監督:黒土三男 出演:市川染五郎,木村佳乃 2005),「武士の一分」(監督:山田洋次 出演:木村拓哉,檀 れい 2006)などが続く。実に田舎の時代劇とはいえ,先生の作品には当時の武士社会をテーマにし,「侍」と言う一つの「職業」に捉えながら人間の生き方を考えさせるべく,人間の本質と社会観を伝えようとしている様に思う。また,これらの作品に表現されている風景は,先生の原風景であると思うが,それは、私にとっても同じように原風景となって映っている。しかし,先生の作品については既に評論や解説本となって数多く出版されており,街角の本屋さんでも簡単に手に入る訳で,いまさら私の出る幕ではないと思う。(藤沢周平記念館が鶴岡公園内にあるので,是非お出かけ下さい)。

 そこで今回は,皆さんにはあまり知られていない,次の3冊の本から「庄内」を紹介したいと思う。

■ 1冊目は(1972)佐藤三郎「酒田の本間家」中央書院.

 庄内地方には2つの中心都市がある。南の鶴岡市と北の酒田市(映画「おくりびと」で話題となったロケ地)である。確かに鶴岡には鶴ヶ岡城があって,藩の中心ではあったが,酒田も江戸時代は庄内藩の一部であった。

 酒田と言えばなんといっても日本を代表する大地主,本間家を忘れるわけにはいかない。言葉に「本間様にはなれないけれど,せめてなりたや殿様に」と言われる程の本間家である(ちなみに本間家であって本間氏とは言わない)。日本一の大地主として天下に知られ,たびたび藩に献金,献上米をして藩の財政危機や飢饉に貢献した記録が残されている。酒田には昭和22年(1947)に開館した本間美術館がある。それは6000坪の広大な庭園を持つ本間家の別荘敷地に建てたものである。所蔵品は庄内藩酒井家,米沢藩上杉家からの拝領品が中心であるが,そのような品物が多いのは,それらの藩に本間家がどれだけ手助けしたかを現している。

 この本は,そのような本間家がいつ頃から酒田に居住し,どの様に財を成し,どのくらい藩や地域に貢献したかを詳しく記したものである。

■ 2冊目は(2010)佐藤賢一「新徴組」新潮社.

 まず初めに,何で新徴組が庄内と関係しているのかと疑問を抱く方が多いだろう。あるいはその前に,「新徴組」って何?ということが先かもしれない。文久3年(1863)尊王攘夷論者清河八郎(彼もたまたま庄内藩士)の発案で,江戸幕府により組織された「浪士組」の一部。将軍家茂警護のため上洛したが,近藤勇らと考えが合わず,江戸に帰ったグループである(ちなみに近藤らは,あの「新撰組」として京都に残った)。元治元年(1964)庄内藩酒井家に預けられ,江戸市中の警備を担当した。こんな言葉が残っている。「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」。「新徴組」を「御回りさん」と表現している訳だが,現在警察官を「御巡りさん」と呼ぶのはここから来ているそうな。

 幕府瓦解後「新徴組」は庄内藩に付随して庄内に入り,新政府軍と戦っている。戊辰戦争終結後,藩の石高が大きく減封されたため,藩をあげて開墾事業に取り組むが,「新徴組」もこれに従事した。現在,鶴岡市羽黒地区松ヶ岡に開墾時の組小屋として「新徴屋敷」の一部が保存されている。

 この本は,江戸,そして庄内での「新徴組」の軌跡を,組に所属していた新撰組沖田総司の義兄である沖田林太郎を主人公にして描いたものである。

■ 3冊目は(2007)佐高 信「西郷隆盛伝説」角川学芸出版.

 またまた何で?庄内藩を攻撃した新政府軍の総大将、西郷隆盛が庄内と関係するの?と思われるかもしれない。この本ではその経緯のきっかけを,鹿児島南洲墓地にある,18歳と20歳の二人の庄内藩士の墓の紹介から始めている。この墓の説明版には「明治8年,他藩士ながら特に私学校入学を許された。西南の役が起こると帰国するよう説得されたが,敢えて従軍した」とあるそうだ。従軍したとは西郷軍にである。山形庄内の地から,何故彼らは鹿児島に渡り,且つ西郷のために戦ったのであろうか?。

 戊辰戦争において庄内藩は会津落城後も,最後まで新政府軍と戦った(このあたりの経緯は前記「新徴組」が詳しい)。されど庄内藩は多勢に無勢,勇戦空しく敗れるのだが,その後の庄内藩への処置が公明寛大であり,その指図は西郷隆盛によるものであったと言う。このことから庄内藩では,西郷を仇敵変じて大恩人と思うようになるのである。

 この歴史的出来事から「西郷南洲遺訓」なるものが今に残る事になる。これは岩波文庫等でも見ることができる。41条と追加の2条を主とする,西郷隆盛の言葉や教えを集めたものである。この編纂は明治22年(1889),鹿児島の人ではなく,旧庄内藩士達の手によって行われ,全国行脚して広まったと言われている。庄内の人間は,西郷隆盛を絶対に忘れる訳にはいかないのである。

 「俺だったら庄内藩とだけは喧嘩しねぇな。”ぼんやり顔”に騙されっちまうが,鶴岡の人間てなぁ,どっか切れてやがるからな。・・・(略)あんたらも勝ったからって,あんまり調子に乗らねぇほうがいいぜ。こちとら腹の奥では,負けたなんて思ってねぇんだからよ」。2冊目の「新徴組」の終りの方で,主人公の沖田林太郎が西郷隆盛と鶴岡の街中で出会って,こんな言葉を彼に言っている(沖田はその時,西郷が薩摩藩の人間とは思っているが,西郷隆盛本人だったとは判っていない。しかし,本当に出会ったかどうかは定かではない。)。ちなみに,沖田は江戸生まれなので「べらんめぇ」口調ではあったが,その言い回しは幸いにして,鶴岡庶(民)の性分を理解する上で非常に解り易い表現になった言葉のように私は思う・・・・・・。