2015年12月20日日曜日

【TORCH Vol.074】「教育を考えるための基礎文献」

金井里弥

  教育についての本を読んでみたい、けれど何から読んで良いのか分からない。何度かトライしたけど難しくて挫折してしまった。そんな方(教育学初心者)にお勧めの本をいくつかご紹介します。


【広田照幸・伊藤茂樹著『教育問題はなぜまちがって語られるのか?―「わかったつもり」からの脱却』】
 本書を読んだ時、「数字は嘘をつく。」という言葉を思い出しました。私の恩師である統計学の教授から耳にタコが出来るほど聞いた言葉です。とりわけ社会科学においては、数字を扱う人間は意図的にも無意図的にも現実を歪める可能性を大いに秘め、またそれを読み取る側の人間もまた然りであり、このことを十分に踏まえたうえで「数」と対峙しなくてはなりません。本書はまさにその核心に迫るような示唆を提供してくれます。

本書のタイトルには「教育問題」とありますが、教育に限らず、政治、経済、社会あらゆる問題の捉え方に応用できる基本的な視点を提供してくれています。著者もそうした汎用性を意識して書いてくれています。特に教育にクローズアップしたのは、タイトルが示す通り、政治、経済などの問題に比して教育は殊にまちがって語られやすいからでしょう。教育はあらゆる人にとってあまりに身近な問題であり、それゆえに、感覚的、感情的に解釈されてしまいがちです。この情報社会において、感覚論、感情論に流されず、「事実」と「解釈」を可能な限り区別しながら物事を捉えていくためには、どのような視点や姿勢が求められるのかを、本書は非常に平易な文体で分かりやすく解説してくれています。特に、教職を志す学生には、教育問題について客観的な洞察と多面的な視野をもって議論するための基礎を本書から学んで欲しいと思います。


【大田尭『なぜ学校へ行くのか』】
 本書は、学校の現状、歴史、それを取り巻く環境を踏まえたうえで、そもそも教育とは何かという根本的な問いから、学校の在り方(果たし得る役割)を問い直します。その役割を果たすために、学校における教育はどうあるべきなのかについても、展望が描かれています。大田氏は特に、学校教育は正解を覚える能力を育てるのではなく、多様な選択肢の中から選ぶ能力(物事を分別する力ともいう)を育てるべきことを強調します。

「『法隆寺は誰が建てた』という問いに、「大工さんが建てた」と答えて×をもらったという話があります。だがいったいどんな大工さんが建てたのかと追究すると、これは歴史研究の大変興味ある課題であることはたしかです。子どもたちの考えることには、大人の思いがけぬ新鮮な問題がかくれています。」

子どもの発言は、学びの「種」であり、教師はそれを正しい種か間違った種かで判断するのではなく、それを発芽させ、学びを深められるよう導くことが大切であるということを、ここでの大田氏の指摘から読み取ることができます。本書は、学校教育の本質について、実はかなり込み入った議論を展開しているのですが、非常に読みやすい文体で、丁寧に説明してくれていますので、本腰を入れれば、教育学についての知識がそれほどなくとも、挫折せずに読むことができるでしょう。随所に、デカルトの『方法序説』やルソーの『エミール』などの名著から引用があったり、生物学的な話や宮大工の話が出てきたりするので、教養の幅もググッと広がります。


【イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』】
 大田氏の本で学校の在り方を問い直してみたら、少し頑張ってイヴァン・イリッチにも手を伸ばしてみてはどうでしょうか。本書は、学校に行くことが当たり前、授業に出席することが当たり前、真面目に先生のお話を聞いて、きちんとノートをとらなければなりません、そんな形で、子どもたちが強制的に「学ばされる」教育があたかも最善と見なされている現状を問題視し、脱学校論を展開しています。しかし、タイトルの通り、イリッチが着目しているものは「学校」というよりも、まるで強制学習所になってしまった学校で特定の価値観が植え付けられ、価値が制度化されていく「社会」です。そうした社会に警鐘を鳴らし、脱学校化された社会を展望しているのが本書です。では、学校をなくしてしまったら、人々はどこでどうやって学べば良いのか、それについてもイリッチは斬新な提案を試みています。イリッチの提案は、現代社会においてはまだ限界があります。しかし、学校教育の在り方を改めて考えるうえでは、学校(とその周辺地域)という限られた空間を想定して思考をめぐらすのではなく、より大きな範囲で、「学校と社会との関係性」あるいは「社会の中における学校」という視点から学校を捉え直すことも大切です。そのための貴重な視点を本書は提供してくれるでしょう。