2013年8月5日月曜日

【TORCH Vol.028】本を読むこと



准教授 内丸 仁


 私自身、習慣的に読書をすることはなく、衝動的に何か本を読もうという思いに駆られて読むのがいつものパターンです。

 その際に私がどのような基準で本を選ぶのか考えてみると、書店で並んでいる書籍をだらだらと眺めて、タイトルが印象に残ったものを選んでいて、著者、書店、マスコミでのランキングや評価などを見て選ぶのではなく、何か明確な決まりやルーチンがあるわけでもなく、只漠然と選んでいます。また、最近は電子書籍が普及しているようですが、私自身はなぜか紙媒体の本を選んでしまいます。ページをめくり読みすすめることは私自身の中で何となく気持ちの良いものに感じられるからです。

 タイトルの印象というのは私にとって、創造の世界を広めるものであり、これから読むこの本に対する期待感があり、そうすることで、本を読むことのモチベーションにもなっているように思います。

 実際に読むと、100%私の印象通りの内容ではなく、タイトルの印象そのままの内容もあれば、全く違う内容のものもあります。ただ、全く違う内容であった場合に、これ以上読み進める必要はないとか期待を裏切られたと感じるかというとそんなことはなく、そこで読み進めていくとまた新しい期待感が生まれてきます。

 私が本を読み進める中での脳感は、すっかりその本の世界に入り込んでおり、同時に私自身の創造の中で推理したり、喜怒哀楽を共有したりと、一時現実の生活とは全く違う次元にいます。また、本を読んだ後の何かしら爽快感や活力が生まれる感覚は往々にしてあり、この感覚は私自身だけではなく皆さんも体験されることはあるのではないかと思います。

 私にとって本を読むことは、気分転換にもなり、同時に私自身の専門とする分野以外での視野を広めるだけでなく、創造性や事にあたるときの可能性を広げるための手段になっているかもしれないと思っています。

【TORCH Vol.027】2冊の「生物と無生物の間(あいだ)」



教授 小澤 輝高


 学生時代に読んだ「生物と無生物の間」(岩波新書)(川喜田愛郎著)についての書評を書くつもりでいたら、たまたま、書店で同じタイトルの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)(福岡伸一著)を見つけた。両書とも、ウイルスは生物か否かという命題が取り上げられているので、両著者の考えを比較した書評を書いてみようと思う。

 タイトルにあるような、生物と無生物の間(境界)はどこにあるのか、違いはどこにあるのか、あらためて尋ねられても、明快に答えられる人は少ないだろう。両書とも、無生物に近いウイルスの活動を取り上げながら、生物とは何かについて考えさせる内容である。

 「生物と無生物の間」(1956年刊行)では、ウイルス病のことが詳しく述べられた後、タバコモザイクウイルスは、ある条件下では、核蛋白質の結晶として単離することができるというスタンレーの実験結果(1935年)が紹介されていた。それを読んだ当時の私には、病原性を持つ微生物(ウイルス)が結晶化できるなどとは、夢にも思っていなかったので、大変感動した記憶が残っていた。ウイルスが鉱物や化学物質などと同じように、結晶化できるなら、ウイルスは無生物なのだろうか。ウイルスを結晶化したスタンレーの実験は、多くの人に衝撃を与えると同時に、ウイルスは生物なのか、それとも無生物なのかという命題を提起し、現在も決着がついていないようだ。ウイルスは、核酸(遺伝子)とそれを取り囲む蛋白質からなり、他者の細胞内に侵入し、その細胞内の遺伝子複製機構を利用して増殖する。ウイルスは細胞外では休眠状態にあるが、細胞内で自己増殖という生命活動を営んでいるのだから、細胞外で起こった現象だけを捉えて、ウイルスは無生物ではないかと議論しても意味がないと、著者(川喜田氏)は主張している。

 もう一方の「生物と無生物のあいだ」(2007年刊行)では、生命とは自己複製をおこなうシステムであり、ウイルスはこの概念に当てはまる。この点においては、ウイルスは生物である。しかし、生物とみなすには、もう一つの動的平衡という概念が必要であると主張している。動的平衡とは何か。例えば、生体を構成している蛋白質は、それを構成しているアミノ酸が、更に、それを構成している分子、原子が絶えず、置き換わっている現象を指している。ウイルスには、この動的平衡が見られないので無生物であると、著者(福岡氏)は断定している。確かに、動的平衡は、生命現象の重要な要素には違いないが、これがない、あるいは、ないように見えるからといって、無生物と断定してよいのだろうか疑問が残る。ウイルスを無生物とみなしたいがために、動的平衡という概念を持ち込んだようにも思える。私は、ウイルスに、動的平衡という概念を当てはめようとするよりも、むしろ、川喜田氏の「細胞の中に侵入して、生命体として振る舞う」という表現の方がウイルスの特徴を正しく捉えているような気がする。

 どちらの解釈が正しいにせよ、両書とも、生物とは何か、生命の神秘を考える上で、有用な書物と言ってよい。特に、福岡氏の「生物と無生物のあいだ」は、文章が上手で、ワトソン、クリックの二重らせんモデルから、最近の分子生物学的手法(PCR法、ノックアウトマウス、ES細胞)まで、分かりやすく書かれており、生物学を学んでいない人にも薦められる。更に、研究にまつわるエピソードなども興味深く面白かった。この本は、新書大賞、サントリー学芸賞のダブル受賞した書物でもある。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  • 川喜田愛郎 『生物と無生物の間』 岩波新書 460 Ka 図書館2階
  • 福岡伸一 『生物と無生物のあいだ』 講談社現代新書 460.4 Fs 図書館2階



【TORCH Vol.026】本を読むということ

教授 大和田 寛


 森鷗外の『不思議な鏡』のなかに、家計の遣り繰りをめぐって、夫婦のこんなやり取りがある。

 「あなた、年末もとうとう足りなかったのね。」
 「そうかなあ。もっと旨く遣り繰って行かれないかい。」 
 「そんな事を仰ったって、私のせいばかりじゃないわ。本の代も随分大変あってよ。続蔵経なんぞ、あれはいつまで出るのでしょう。もう置き場所にも困るのですが、際限がないのね。大日本史料に古文書に古事類苑、まああんなのは知れたものですの。やっぱり一番多いのは西洋の本よ。」 
 「そうだろう。しかしそれは仕方がない。あれは己の智慧が足りないから、西洋から借りて来るのだ。どうせ借物をしていては、自分で考え出す人には敵わないが、どうもあれがなくては,己の頭の中の遣り繰りが旨くつかないからなあ。」 
 「そんなに西洋から借りていて、いつか返せて。」
 「それは己の代には難しい。子や孫の代にもどうだか。何代も何代も立つうちには、返す時もあるだろう。」
 「まあ、のん気な話ね。」

(『鷗外全集』第10巻所収、岩波書店、1972年。なお、一部の表記を、新漢字・新仮名づかいに改めた。また、現在、ちくま文庫版『森鷗外全集』3、で読める。)

 冒頭から長い引用になってしまったが、30代でこの作品を初めて読んだ時もこの会話が気になった。それは「自分で考え出す人には敵わない」という謙遜な言い方に、ちょっと嫌味なものを感じたのである。それから幾星霜を経て鷗外より長生きしてしまった現在は、まったく違った感想を持つ。(ちなみに、鷗外は1862年1月に生まれ、1922年7月、満60歳6カ月で亡くなった。この作品は1912年の鷗外50歳の時のものである)。「自分の頭」で考えてきた文豪・思想家鷗外にして、50代に入ったからこそ言える言葉ではなかったかと。

 ところ鷗外と自分を比べようなんて大それた気持ちはさらさらないが、我が家でもきわめて低次元な、しかし外面的には似たような妻との会話が、日々繰り返されている。例えば、定期購読している数十巻の大冊の資料集に対して「あなた、この資料集あと何巻来るの」、又「今日また古本屋から大きな段ボールが届いたわ、もう置く場所ないわよ」、又「あなた、これから何年本読めると思っているの」等々。ただし我が家のはとても「のん気な」会話などではなく、最近、特に震災以降は、妻の声に怒気が含まれてきているのである。それは妻の問いに対して私が、「処置なしの書痴だからね、仕方ないね」とか「大学をやめたら1日12時間として、100年は読むつもり」とか、真面目に答えていないからと、わかっているが、妻を納得させる名回答などあり得ないのである。



 私は父の仕事の関係で、北海道の日本海に面した辺鄙な漁業の町で小4から中2までの4年を過ごした。そこは私にとって素晴らしいところだった。多少「もの」が見えてくる多感な時期だったこともあろう。内向的な性格ではあったが、友達もできたし、彼らと海や山を楽しむことを知った。そして本を読むことも覚えた。本を読んで色々なことがわかった。

 北海道の田舎にいても、『グリム童話』を読むとヨーロッパを想像することが出来た。

 しかしひとつがわかるとその何倍もの疑問が生まれた。例えばそこには、王子様お姫様がたくさん出てくる。旅人が森を抜けるとお城がありそこには必ず王様がいる。幼い頭はそこで悩み始める。日本には首都の東京と言うところに王様(天皇)がいるとのことだが、勿論見かけることもない(当時皇太子の結婚問題で、田舎の小学生にも多少ロイヤルファミリーのことが解りかけていたのだろう)。なぜヨーロッパにはたくさんの王様がいるのだろうか。いろいろ西洋の物語を読んで、それは貴族のことなのかとも思ってみたが、十分納得は出来なかった(その疑問は、大学で経済史を学び、ドイツの領邦国家を知ることによって、ようやく氷解した)。こうして次から次へと本を読んで、さらに疑問が増えていった。

 中2の終わり札幌に戻った。さすが札幌、北海道の大都市、本屋がたくさんあり文庫本を買うことを覚えた。最初に買ったのは、岩波文庫の『ソクラテスの弁明』と新潮文庫の『あすなろ物語』である。後者は、井上靖の小説で、転校したクラスの隣の座席の女子が薦めてくれた。転校前に、家にある『日本文学全集』で漱石や龍之介などは多少読んでいたが、現代文学は初めてだった。それは、主人公が祖母と暮らし、鉄棒に夢中になり同居する年上の美少女に淡い恋心を抱く、自伝的な作品である。下手ながら鉄棒少年だった私はその小説にすっかり魅せられた。『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスやプラトンの名前くらいは知っており、西洋の思想・哲学も少しは知りたかった、と言うとカッコいいようだが、それが星★ひとつ50円であることに驚いたというのが正直なところである(当時岩波文庫は,星★ひとつが50円であり、厚いのになると星が★★★、★★★★となり、150円・200円となった)。

 その後高校時代を含めて、岩波文庫の外国文学(赤帯)と哲学思想(青帯)と新潮文庫(これは外国文学と日本文学)を、併せて300冊位、岩波新書等を60~70冊位は読んだろうか。大概は★・★★のもので、おかげで岩波文庫に入っている外国の青春小説の定番、例えばゲーテ『若きウェルテルの悩み』・ヘッセ『車輪の下』・マン『トニオ・クレエゲル』などは、ほぼ読み尽した。

 高2の頃から、今思えばある意味では受験勉強からの逃避でもあったが、昔の高校生(旧制高校生)ガ読んだとされる教養主義的なもの、例えば阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、三木清『人生論ノート』等、また学徒動員された学生たちの手記『きけ わだつみのこえ』は、小説とは違った真剣さで読んだ。恐らく自信ない自分の人生を思い悩んでいたのだと思う。高校卒業の頃、学徒兵林尹夫(ただお)の『わがいのち 月明に燃ゆ』、(筑摩書房、1967年3月)が出て、すぐに読んだ(現在絶版)。同級生の間では、「勉強もしないで本ばかり読んでいる変な奴」で通っており、授業での発言から、先生からも「大和田君はどんな本を読んでいるのですか」と聞かれたりしていたために、多少は持っていたであろう「読書家」の自惚れを、この本は木っ端みじんに打ち砕いてくれたのである。

 この林さんはとてつもない読書家で、旧制高校から大学にかけての数年間に大量の本を読んでいるが、それがいずれも大作なのです。『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『魔の山』等である(ちなみに私が高校時代に読んだ長編は、辛うじてドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフ』くらいでする)。しかもデュ・ガールの『チボー家の人々』(当時の訳本で5分冊2000ページを超える)を、彼は旧制高校時代に、フランス語の原書で読んでいる。この事実に私は、完全に打ちのめされたのでした。

 大学に入ってからのことであるが、大学紛争世代の者として大学の授業もほとんどなかったので、この時とばかり読書三昧にひたった。上記の外国文学の長編を中心に、1日12時間位読書する生活が卒論開始まで続いた。同世代の文科系の学生なら誰でも読んでいた、大江健三郎や柴田翔、サルトルやマルクスも読んでいたことは言うまでもない。


 学生に何を読むべきかと言われたら、人それぞれでこれを推薦したいというような本はあり得ない。ただ、今の学生は、パソコン・携帯があって、本を読む環境がないことは、ある意味とても不幸だとは思う。人が本を読む理由は、詰まる所次の三つだと思う。一つは暇つぶしのため、二つは情報を得る(答えを得る)ため、三つ目は無目的な読書である。暇つぶしの読書は若い人には無縁であって欲しい。二つ目の理由が、本を読む動機で一番多いと思う。受験勉強も仕事のための読書も、旅行に行く前の準備として当該地のガイドブックを見ることも、辞書を引くことも、ここに含まれよう。しかし昨今、インターネット等で情報が取れるので、敢えて本に向かわなくなったのが実情であり、浅薄な知識が横行することにもなっていると考えられる。しかしこの3つ目の理由こそが、特に若い諸君に薦めたい読書である。無目的と言ったが、これは禅問答ではない。暇つぶしでもない。これを読んだらこういう答えが出てくるという事ではないので、無目的と表現したが、問題探しとでもいうべき読書であり、そこにこそ読書の本質があろう。だからこそ、人生を深く考えるきっかけとなるのではないだろうか。

 最初に引用した鷗外の文も、情報ではない何か(あるいは正解のないこと)を考えようとする時、本に教えてもらうのではなく、思考の羅針盤になってもらわなければ「己の頭の中の遣り繰りが旨くつかない」と解すれば、納得がいかないだろうか。本も読まずに「自分で考え出す人は、ただの思いつきか、唯我独尊に陥るということであろう。

 最近、山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)で知ったのですが、『チボー家の人々』を読む女子高生を主人公とするマンガがあるらしい。マンガには疎いのでその本(高野文子の『黄色い本』というらしい)を知らなかったのですが、今度読んでみようと思う。それを読んで一念発起して『チボー家の人々』のような長編小説を読む学生が一人でも出てきたら,嬉しいし、その人は無形の大きな財産を(つまり人生に対する大きな問題提起を)手にすることになろう。若い時の読書はそうありたいと思う。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
  • 森鴎外 「不思議な鏡」 『鴎外全集』第10巻 岩波書店 918 Mo 図書館2階
  • 井上靖 「あすなろ物語」 新潮社 913 Iy
  • ゲーテ 「若きウェルテルの悩み」 『世界文学全集』第1巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ヘッセ 「車輪の下」 『世界文学全集』第27巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「トニオ・クレエゲル」 『世界文学全集』第48巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • 阿部次郎 「三太郎の日記」 角川書店 914.6 Aj 図書館2階
  • ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」 『世界の文学』第17-18巻 中央公論社 908 S 図書館2階
  • ローラン 「ジャン・クリストフ」 『世界文学全集』第23-25巻  新潮社 908 Si 図書館2階
  • トーマス・マン 「魔の山」 『世界文学全集』第28-29巻 新潮社 908 Si 図書館2階
  • ドストエフスキー 「罪と罰」 『世界の文学』第16巻 中央公論社 908 S 図書館2階