藪 耕太郎(社会学)
私はこれまで、体育・スポーツ史を専門として研究を重ねてきました。といっても研究歴は僅か10年程度ですが、それでも幾度か壁にぶち当たった経験があります。この状況から抜け出すのは容易ではありません。あるいは逆に、スポーツの場面と同様に「ハマる」「ハイになる」経験をしたこともあります。この作用にはポジとネガの両面があり、だからこそ私たちは努力、邁進できるのでしょうし、しかし一歩間違えると傲慢、怠惰にもなりかねません。
これらの機会は研究やスポーツだけではなく、バイトや恋愛、その他日常生活の様々な場面でも遭遇し得るものでしょうが、ともあれ皆さんは、こうした機会とどう向き合っていますか。おそらく自分で考えるだけではなく、友人知人に相談したり、周囲の反応を窺ったり、メディアの情報を収集することで解決しようとするのではないでしょうか。
私も基本的には皆さんと同じです。ただ、研究の上で行き詰ったり、あるいは逆に調子に乗ってしまいそうなときに、人や情報ではなく、本に尋ねることもあります。丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)、E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書、1962)、ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1973)などがそれです。もちろん、それぞれが扱う内容や主張に相違はあります。しかし私にとってこれらの書物は、いずれも本(著者)と読者(私)の間で対話ができるという点で、等しい価値を持っています。
それにしても、初版の発行から数十年が経過し、著者はいずれも既に他界したにも関わらず、なぜ対話が可能なのでしょうか。それは、これらの書物が私にとっての「古典」であるからに他なりません。それでは「古典」とはなにか、ということについて、まずは丸山眞男『「文明論之概略」を読む・上』(岩波新書、1986)の「序 古典からどう学ぶか」(1-23頁)をもとに考えていきましょう。
この序文が最初に書かれたのは、私が生まれる2年前の1977年のことです。それにも関わらず、冒頭で描かれる社会のありようは、世紀を跨いで10年以上経った今でも非常にアクチュアルです。たとえば、「目や耳によって簡便迅速に情報を獲得する仕方が、あらゆる領域で氾濫し」(1頁)、「育児やセックスどころか、(中略)教養とか知的生活までもがハウ・ツゥ的技術の対象」(2頁)となった社会、といえば、現代でも十分に通用するでしょう。そして、時間と競争に追い立てられる状況下で、一方では社会を律するための確たる基準や形式、指針の実在感が失われ、他方で「時代遅れ」(3頁)への不安から常に最新の流行を追い求める態度が、若者の「古典離れ」(同上)を加速している、というのが丸山の見立てでした。
こんなふうに書くとまるで年長者の小言のようですが、しかし丸山の真骨頂はその先にあります。こうした現象は決して現代の若者に特有なのではなく、日本社会の歴史的構造に起因するものであり、また「古典を読んだ」と胸を張る年長者もまた、その経験が単なる懐メロ的な思い出の域を出ておらず、古典を自らに活用していない、と切り返すからです。それでは丸山は「古典」をどう捉えたのでしょうか。
丸山によれば「古典を読み、古典から学ぶことの意味は、(中略)自分自身を現代から隔離することにあります」(9頁)。なお、「『隔離』というのはそれ自体が積極的な(、、、、)努力であって、『逃避』ではありません」(同上)。そして「現代の雰囲気から意識的に隔離することによって、まさに現代の全体像を『距離を置いて』観察する目を養うことができます」と述べています。つまり、私たちの周囲に膨大な量の情報と決断が渦巻いているからこそ、一旦その状況から身を離す環境として「古典」が重要であり、この環境を通じて時代を見通す眼を養うことができる、と論じるわけです。
それでは、具体的にどんな書物が「古典」なのでしょうか。「ハウ・ツゥ的」思考を嫌う丸山はこの点を教えてくれません。そこでもう1冊、内田義彦『読書と社会科学』(岩波新書、1985)を取り上げましょう。第1章「『読むこと』と『聴くこと』と」にも古典について論じた箇所があるからです。内田によると、第1に「一読不明快[一度読んでも内容の全てが理解できない]」(21頁)であり、第2「一読にかけた深い読み(、、、、)の繰り返し(、、、、)」(22頁)が必要であり、かつ第3に「ていねいに読んで、しかも理解がちがってくる[読めば読むほど読み手の個性が浮き彫りになる]」(23頁)ものが古典として必須の条件となります。かなり乱暴ですが、古典とは読めども尽くせない豊潤な深みを持っている書物を指す、と要約できるでしょう。
また、内田は読書の実践について、丁寧で深い読みをするためには、著者と内容を信じることがまず重要だ、と説きます。最初から疑って読んでは、読みが適当になるからです。他方で自分を捨てて、著者の意見に寄り掛かること(盲信)もダメです。読み手としての私を信じ、他方で書き手の主張も信じる、その信頼関係があるからこそ、どうしても相容れない箇所が見つかり、そこに疑い(葛藤)が生まれます。つまり、「信じて疑え」(35頁)です。相手を信じるからこそ、その意見への理解や尊重ができ、しかしどう真摯に臨んでも譲れない自分の主張がある。この作業を通じてはじめて、自らが直面する大きな課題を突き詰められるのではないでしょうか。
先に、私にとって「古典」とは対話だと述べました。それはつまり、いま現在を生きる私の信条と、先人の思想や主張とを照合し、自己点検する作業に他なりません。その作業を通じて壁を突破するヒントを得ることもあれば、以前読んだときには気に留めなかった文章から自らの驕りに気付いたりもするわけです。読書という名の真剣勝負を受けて立ってくれるほど懐が深く、読むたびに発見と反省をもたらし、自らの立ち位置を確認させてくれる書物は、そう多くは無いでしょうが、そんな「古典」にもし出会えたならば、きっと時間も空間も飛び越えた対話の相手になり得ます。しかもその多くは携帯可能です。
もっとも、私は大学院時代の恩師に出会うまで、「古典」の意味など全く分かりませんでしたし、必ずしも常に気力と体力をフル活用して上述の「エラそうな」読書ができるわけでもありません。なにより、何が各人にとっての「古典」なのか、具体的に紹介することは不可能です。結局のところ、様々な文献に親しむ以外に「私の古典」を見つける手段は無く、だからこそ皆さんには図書館に足を運んでもらいたいのですが、それに加えて、ぜひ機会をみつけて教員に本の話を振ってみてください。先生方はきっと喜んでお話しされるでしょう。些細なきっかけから、自分にとって一生付き合える友/師匠としての「古典」がみつかれば、それはとても素敵な出合いだと思います。
所蔵Information <図書館で探してみよう!>
- 丸山眞男『日本の思想』岩波新書/121 Mm 図書館 2階
- E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書/所蔵なし
- ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫/所蔵なし
- 丸山眞男『「文明論之概略」を読む』岩波新書/304 Mm 図書館 1階
- 内田義彦『読書と社会科学』岩波新書/019 Uy 図書館 1階