2013年1月25日金曜日

【TORCH Vol.006】書籍紹介「ピンダロス:内田次信訳 (2001) 祝勝歌集, 西洋古典叢書, 京都大学学術出版会」


阿部悟郎(体育学部体育学科)

 人々は、オリンピックが大好き。たしかに、あの夏のロンドン・オリンピックに、列島は大いにわいた・・・ような気がする。勝者にみる卓越、咆哮、そして歓喜、人々はそこに比類のなさをみる。いや、人々はそこに神をみるかもしれない。「競技者とは、人間の姿をした卓越なのである。(ワイスWeiss, P.)」

 ご存知の通り、あのオリンピックは、古代ギリシア期の祭典競技の一つ、オリュンピア祭に起源を有する。祭典競技はそれぞれの神を祭り、例えば、ピュティアPythia祭はアポロンを、イストミアIsthomia祭はポセイドンを、そしてネメアNemea祭とオリュンピアOlympia祭はゼウスを祭り、そこに渾身の競技を捧げたのであった(たぶん)。

 このような祭典競技を扱った文学作品をいわゆる西洋古典に見出すのは、さほど困難ではない。例えば、ホメーロスの叙事詩「イーリアスIlas」や「オデッセイアOdysseia」にもみられる。しかし、この代表的な作品の一つは、やはりピンダロスPindars / Pindarosの「祝勝歌」であるだろう。もともと、祭典競技会において勝者に対する簡略な誉め歌が歌われていた習慣があったそうな。それをピンダロスらが文学的ジャンルとしてピークにまで高めたのであった。

 さて、われわれは、幸いなことに、このピンダロスの「祝勝歌集」を西洋古典学専門家の内田次信による訳書を通して触れることができる。ちなみに、この訳書の帯には次の言葉が付されてあった。

 荘重、絢爛たる合唱歌、祭典競技の勝者を讃える稀有の詩人の技と魂・・・

 さて、この「祝勝歌集」は、先にあげたいわゆる四大祭典競技ごとに、それぞれ一つのまとまりをもって構成されている。つまり、オリュンピア祝勝歌集は十四の祝勝歌、ピュティア祝勝歌集は十一の祝勝歌、メネア祝勝歌集も十一の祝勝歌、そしてイストミア祝勝歌集は九の祝勝歌から構成されている。さらに、この訳書においては、一つ一つの祝勝歌に梗概と脚注説明が補われているため、安心して読み進めることができる。もちろん、いささかの安心と案の定の難解さが最後まで同居し続けるのではあるが。

 そして、一つ一つの祝勝歌は、おおよそ、ある競技種目の優勝者に捧げられている。例えば、オリュンピア第十二歌は、長距離走の優勝者エルゴテレスを、ピュティア第八歌は、レスリングの優勝者アリストメネスを心から讃え、美辞を贈っている。それでは、ピンダロスは、優勝者に、あるいは競技者に何をみていたのか。メネア第六歌の歌いだしをみてみよう:

 人の族は一つをなし、神の族も一つをなす。だが、どちらも同じ母から命の息吹をもらっている。あらゆる点で分かたれた力の差が両者を隔て、一方は無に等しいが、他方には青銅の座たる天空が永久に不動に存している。しかし、それでもわれわれは、偉大な心と身体において、いくぶん不死の神々に似通うのだ。・・・・・

 人々は、競技会において実現される卓越した競技パフォーマンスが崇高であればあるほど、そこに神との「似通い」を見出し、それを歓喜する。ピンダロスは、競技者の勝利を目指して頑張る姿に、その透徹とした目で神の現れをみたのである。やはり、競技者の「卓越は、人々を高揚させ、そして畏敬を呼び起こす。(ワイスWeiss, P.)」また、ピンダロスは、イストミア第五歌で、次のように歌いだす;

 太陽の母にして、その名多きテイアよ、あなたのゆえに人々は黄金を何にもまして力強きものと考え、あなたの尊さゆえに、女神よ、海上を競い合う船も、車につながれた馬たちも、旋回速き戦いにおいて人を感嘆させる。

 さて、このテイアとは「輝き」である。万物を暖かく照らす太陽に、光それ自体を与える根源的な神なのだろうか。おそらく、ピンダロスが讃えたのは、競技会における結果としての勝利ではなく、勝利をめざし一心に精進する競技者の「輝き」の美しさではなかったのか。お抱え詩人や御用文学者がへつらいを込めて献上する名声への表層的な賛辞ではなく、それは人間の生の躍動に対する敬意ではなかったのか。西洋古典学者の久保正彰に従うならば、それは「競技に参加した若者の、その勝利の輝かしくまた意義深い一瞬」、さらにはそこにみる生の「輝き」への讃歌である(「西洋古典叢書月報28」)。

 われわれは、オリンピックだけでなく、数々の競技会において競技者のひたむきな頑張りに「輝き」を見出し、そして感動する。いな、平素の練習の場面においても、そのような瞬間を享受することがあるではないか。それをテイアと表現しようがしまいが、それは胸のうちに高揚と畏敬をたしかに呼び起こしてくれる。われわれにとって、その瞬間こそが宝なのではないのか。競技者の「輝き」に捧げられたこの讃美歌は、そのまま人間の生、それも崇高な目的を掲げ努力しようとする生の能動性に対する讃美歌と読むこともできる。

 このように読み進んでいくと、この詩歌は、スポーツ礼賛ではなく、むしろ現代スポーツに対する警鐘にも読めてくる。一心に競技する姿は美しい。われわれは、メダルの色や数ではなく、競技における人間の、この意義深い「輝き」の美しさを堪能するべきであるだろう。つまりは、人間の美しさを。ピンダロスの詩歌は、このような次元に誘ってくれる扉の一つであるだろう。

 さて、これ以上、この「祝勝歌集」について、あれやこれや愚かな言葉を重ねることは慎もう。おそらく、かの西洋古典学の大家、田中美知太郎ならば、次のように言うだろう。

 諸君、まずは「祝勝歌集」を読みたまえ。

(了)

2013年1月18日金曜日

【TORCH Vol.005】「古典」を読む意味



藪 耕太郎(社会学)


私はこれまで、体育・スポーツ史を専門として研究を重ねてきました。といっても研究歴は僅か10年程度ですが、それでも幾度か壁にぶち当たった経験があります。この状況から抜け出すのは容易ではありません。あるいは逆に、スポーツの場面と同様に「ハマる」「ハイになる」経験をしたこともあります。この作用にはポジとネガの両面があり、だからこそ私たちは努力、邁進できるのでしょうし、しかし一歩間違えると傲慢、怠惰にもなりかねません。

これらの機会は研究やスポーツだけではなく、バイトや恋愛、その他日常生活の様々な場面でも遭遇し得るものでしょうが、ともあれ皆さんは、こうした機会とどう向き合っていますか。おそらく自分で考えるだけではなく、友人知人に相談したり、周囲の反応を窺ったり、メディアの情報を収集することで解決しようとするのではないでしょうか。

私も基本的には皆さんと同じです。ただ、研究の上で行き詰ったり、あるいは逆に調子に乗ってしまいそうなときに、人や情報ではなく、本に尋ねることもあります。丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書、1962)ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1973)などがそれです。もちろん、それぞれが扱う内容や主張に相違はあります。しかし私にとってこれらの書物は、いずれも本(著者)と読者(私)の間で対話ができるという点で、等しい価値を持っています。

それにしても、初版の発行から数十年が経過し、著者はいずれも既に他界したにも関わらず、なぜ対話が可能なのでしょうか。それは、これらの書物が私にとっての「古典」であるからに他なりません。それでは「古典」とはなにか、ということについて、まずは丸山眞男『「文明論之概略」を読む・上』(岩波新書、1986)の「序 古典からどう学ぶか」(1-23頁)をもとに考えていきましょう。

この序文が最初に書かれたのは、私が生まれる2年前の1977年のことです。それにも関わらず、冒頭で描かれる社会のありようは、世紀を跨いで10年以上経った今でも非常にアクチュアルです。たとえば、「目や耳によって簡便迅速に情報を獲得する仕方が、あらゆる領域で氾濫し」(1頁)、「育児やセックスどころか、(中略)教養とか知的生活までもがハウ・ツゥ的技術の対象」(2頁)となった社会、といえば、現代でも十分に通用するでしょう。そして、時間と競争に追い立てられる状況下で、一方では社会を律するための確たる基準や形式、指針の実在感が失われ、他方で「時代遅れ」(3頁)への不安から常に最新の流行を追い求める態度が、若者の「古典離れ」(同上)を加速している、というのが丸山の見立てでした。

こんなふうに書くとまるで年長者の小言のようですが、しかし丸山の真骨頂はその先にあります。こうした現象は決して現代の若者に特有なのではなく、日本社会の歴史的構造に起因するものであり、また「古典を読んだ」と胸を張る年長者もまた、その経験が単なる懐メロ的な思い出の域を出ておらず、古典を自らに活用していない、と切り返すからです。それでは丸山は「古典」をどう捉えたのでしょうか。

丸山によれば「古典を読み、古典から学ぶことの意味は、(中略)自分自身を現代から隔離することにあります」(9頁)。なお、「『隔離』というのはそれ自体が積極的な(、、、、)努力であって、『逃避』ではありません」(同上)。そして「現代の雰囲気から意識的に隔離することによって、まさに現代の全体像を『距離を置いて』観察する目を養うことができます」と述べています。つまり、私たちの周囲に膨大な量の情報と決断が渦巻いているからこそ、一旦その状況から身を離す環境として「古典」が重要であり、この環境を通じて時代を見通す眼を養うことができる、と論じるわけです。

それでは、具体的にどんな書物が「古典」なのでしょうか。「ハウ・ツゥ的」思考を嫌う丸山はこの点を教えてくれません。そこでもう1冊、内田義彦『読書と社会科学』(岩波新書、1985)を取り上げましょう。第1章「『読むこと』と『聴くこと』と」にも古典について論じた箇所があるからです。内田によると、第1に「一読不明快[一度読んでも内容の全てが理解できない]」(21頁)であり、第2「一読にかけた深い読み(、、、、)の繰り返し(、、、、)」(22頁)が必要であり、かつ第3に「ていねいに読んで、しかも理解がちがってくる[読めば読むほど読み手の個性が浮き彫りになる]」(23頁)ものが古典として必須の条件となります。かなり乱暴ですが、古典とは読めども尽くせない豊潤な深みを持っている書物を指す、と要約できるでしょう。

また、内田は読書の実践について、丁寧で深い読みをするためには、著者と内容を信じることがまず重要だ、と説きます。最初から疑って読んでは、読みが適当になるからです。他方で自分を捨てて、著者の意見に寄り掛かること(盲信)もダメです。読み手としての私を信じ、他方で書き手の主張も信じる、その信頼関係があるからこそ、どうしても相容れない箇所が見つかり、そこに疑い(葛藤)が生まれます。つまり、「信じて疑え」(35頁)です。相手を信じるからこそ、その意見への理解や尊重ができ、しかしどう真摯に臨んでも譲れない自分の主張がある。この作業を通じてはじめて、自らが直面する大きな課題を突き詰められるのではないでしょうか。

先に、私にとって「古典」とは対話だと述べました。それはつまり、いま現在を生きる私の信条と、先人の思想や主張とを照合し、自己点検する作業に他なりません。その作業を通じて壁を突破するヒントを得ることもあれば、以前読んだときには気に留めなかった文章から自らの驕りに気付いたりもするわけです。読書という名の真剣勝負を受けて立ってくれるほど懐が深く、読むたびに発見と反省をもたらし、自らの立ち位置を確認させてくれる書物は、そう多くは無いでしょうが、そんな「古典」にもし出会えたならば、きっと時間も空間も飛び越えた対話の相手になり得ます。しかもその多くは携帯可能です。

もっとも、私は大学院時代の恩師に出会うまで、「古典」の意味など全く分かりませんでしたし、必ずしも常に気力と体力をフル活用して上述の「エラそうな」読書ができるわけでもありません。なにより、何が各人にとっての「古典」なのか、具体的に紹介することは不可能です。結局のところ、様々な文献に親しむ以外に「私の古典」を見つける手段は無く、だからこそ皆さんには図書館に足を運んでもらいたいのですが、それに加えて、ぜひ機会をみつけて教員に本の話を振ってみてください。先生方はきっと喜んでお話しされるでしょう。些細なきっかけから、自分にとって一生付き合える友/師匠としての「古典」がみつかれば、それはとても素敵な出合いだと思います。


所蔵Information <図書館で探してみよう!>
  • 丸山眞男『日本の思想』岩波新書/121 Mm 図書館 2階
  • E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書/所蔵なし
  • ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫/所蔵なし
  • 丸山眞男『「文明論之概略」を読む』岩波新書/304 Mm  図書館 1階
  • 内田義彦『読書と社会科学』岩波新書/019 Uy    図書館 1階

2013年1月11日金曜日

【TORCH Vol.004】「インテリジェンス」のすゝめ(INTELLIGENCE for All Students)


阿部篤志(講師・スポーツ情報戦略)

 2013年がスタートしました。学生の皆さん、今年の抱負は何ですか。

 皆さんのスポーツへの関わり方は十人十色です。競技者としてパフォーマンス向上を志向する人、コーチとしてチーム力を高めていこうと試行錯誤する人、アスレティックトレーナーや栄養スタッフ、情報戦略スタッフなど、裏方としてチームを支えていこうとする人など。あるいはマネジメントやマーケティング領域からのアプローチで期待に応えうるスポーツ組織を育てていこうと考える人もいるでしょう。将来は教員となって子どもたちにスポーツの素晴らしさを伝えていこうと考えている人も多くいます。さらには行政職として、未来の社会を支えるスポーツ政策の立案に関わっていきたい!という人もいるかも知れません。

 今日は、そんな皆さんが、それぞれの目的において「情報」を有効に活用する上で、きっと役に立つヒントを得られるであろう2冊の参考文献を紹介します。ちなみに表題の「インテリジェンス」とは、辞書をひけば「知性」といったことばで説明されていると思いますが、ここでは「それぞれの目的に関わる行動やその意思決定において『役に立つ情報』のこと」と定義しておきたいと思います。


  • 大森義夫著「日本のインテリジェンス機関」文春新書(2005)
  • 小林良樹著「インテリジェンスの基礎理論」立花書房(2011)


*「インテリジェンス」との付き合い方

 これらはいずれも「国家情報戦略」(政策や外交などに関するインテリジェンス)に関わる文献です。タイトルをみて、歴史上での国家間の攻防に興味のある人はその裏で重要な役割を果たしてきた「情報」の話に「おっ!」と興味を持つかも知れませんし、逆に「スパイ」のような世界をイメージし、その不透明で一見怪しげな業界を怪訝に思う人もいるでしょう。

 上にあげた本は、良くも悪くも、確かにそういった世界で行なわれている情報活動について書かれたものです。ただし、他にも数多くある同種の「インテリジェンス」本と比較しても、上記2冊にはぜひここで紹介しておきたい、いくつかの特長があります。

 その特長は、本学でスポーツ情報戦略を学んでいる考えている皆さんに大きく関係しているのはもちろんのこと、冒頭に述べたように、様々な立ち位置からの「スポーツの発展への寄与」や「スポーツを通した問題解決」を志す皆さんにとっても、それぞれの目的において「情報」にいかに向き合うのかを考える上で、とても参考になる文献(まさしく「参考文献」!)だと私は思います。

*「情報のシャワー」と心構え

 一冊目の「日本のインテリジェンス機関」は、元内閣情報調査室長の大森さんが書いた本です。大森さんとはご縁があり、勉強会や打ち合わせで幾度かご一緒させてもらいました。一見、物静かな「お父さん」といった雰囲気ですが、一度議論が始まるとその眼光は鷹よりも鋭く(!)、そしてその洞察はマリアナ海溝よりも深く(?)、自然と背筋がピンとなる緊張感を与えてくれる方でした。いわば、スポーツ情報戦略研究の「師匠」でもあります(詳細は「JISS 10年の歴史」p52-53を参照のこと)。

 その大森さんが書かれた本は、重苦しくなりがちな「インテリジェンス」の議論を努めて前向きに「一般化」しようとしている点が特長です。これまでに仕えた歴代の総理大臣との直接のやりとりにおける「失敗談」をざっくばらんに交えながら、ご自身が「情報」の最前線で経験してきたことを通して、「役に立つ情報」とはどのようなものか、「情報の難しさ」はどこにあるのか、そして「情報を扱う人に求められる能力や心構え」などについて、心に響くキーワードを用いてまとめてくれています。例えば...
 「事態は急変する。情報カンを研ぎ澄ましておくためには一瞬たりといえども情報のシャワーから離れてはいけない」(p190)
これは先に紹介したJISSの10周年記念誌への寄稿においても、「3日休めばお客に分かる、2日休めば共演者に分かる、1日休めば自分に分かる」という歌舞伎界の教えを引用して、情報を扱うことの厄介さや情報に向き合うことへの覚悟について指摘していただいたことですが、これって、すべての仕事に通じる大切な「心構え」だと思いませんか。

*部活や仕事を考察する新たな「モノサシ」

 さて、大森さんの本で「情報」への実践的刺激をたっぷりと受けた後は、二冊目の「インテリジェンスの基礎理論」をお手にどうぞ。これは慶応義塾大学の小林先生が、湘南藤沢キャンパス(SFC)での授業の講義録をまとめたものです。

 この本はその成り立ちから、「インテリジェンスはもとより国際政治や国家安全保障の知識が必ずしも豊富ではない初学者を読者に想定して執筆」(小林)されているので、とても分かりやすく「インテリジェンス」について整理されています。

目次
 第Ⅰ章:インテリジェンスとは何か〜定義、機能、特徴
 第Ⅱ章:インテリジェンス・プロセス
 第Ⅲ章:インテリジェンス・コミュニティ〜日米の組織
 第Ⅳ章:インフォメーションの収集
 第Ⅴ章:インフォメーションの分析
 (第Ⅵ章〜第Ⅸ章は割愛)

 目次をみても、とてもシンプルに「インテリジェンス」について項目立てて説明されていることが分かります。中でもこの本の特長は、第Ⅰ章で提起されている「インテリジェンスの三つの意義」の整理だと思います。小林先生はその意義について、「プロダクトとしてのインテリジェンス(Intelligence as Product)」「プロセスとしてのインテリジェンス(Intelligence as Process)」「組織としてのインテリジェンス(Intelligence as Organization)」の三つに分類・整理しています。私たちが「インテリジェンス」と表現する場合に、これら三つの「異なった意義が混在して用いられている」場合があり、「インテリジェンスに関する議論を行う際には、混乱を避けるためにも、どれについて議論をしているのかを明確にすべき」であると小林先生は指摘した上で、その三つについて解説をしています。

 「プロダクト」というのはいわゆる情報の「成果物」であり、判断を行なう上で役に立つ「知識としてのアウトプット」のことです。「プロセス」とは情報活動の「過程」であり、情報を必要とする人からの「要求」に始まり、「収集、分析、報告、フィードバック」といった各段階から構成されるものです。そして「組織」とはそのプロセスの一主体となる、情報を扱う組織(米国「CIA」や「内閣情報調査室」など)をさします。

 ここでピンと来た人は「ビンゴ」です。このテキストには、「情報」を専門としない多くの皆さんにとっても、それぞれの立ち位置に置き換えて実践的に参考にすることができる教養や実務スキルに繋がるエッセンスやヒントがたくさん詰まっているのです。

 例えば、部活動であれば、ヘッドコーチやチームメイトが求めている「情報」を、どのようなタイミングで、どの程度の量と質で、どのような方法で提供することが望ましいのか、その選択肢のそれぞれのメリットやデメリットは何か、を考える上でも役に立つでしょう。

 また既に就職やアルバイトなどで仕事に就いている人にとっては、自分が所属する組織において、社内外で飛び交う情報やコミュニケーションをどのように整理・綜合し、成果を生むための「意思決定」に活かしていけば良いのか、を評価・考察する一つの新たな「モノサシ」にもなります。

 新年の「読み初め」。「インテリジェンス」から始めてみてはいかがですか。これらの本は図書館の2階にあります。

大森義夫 『日本のインテリジェンス機関』
出版社 文藝春秋
請求記号 391.6 Oy
配架場所 図書館2階

小林良樹 『インテリジェンスの基礎理論』
出版社 立花書房
請求記号 391.6 Ky
配架場所 図書館2階