小松恵一(仙台大学教授・哲学)
教師(以下T、理屈が多くて、学生からはあまり人気はありそうもない。):
仙台大学生(以下S、部活も熱心に取り組んでいるし、勉強にも力を入れようとしている、文武両道を目指している。):
S: 前回は、「身体」と「身体の可能性」こそ、体育学部の中心テーマとなるというお話でした。今回はそれに続いて話したい、いや、お話をうかがいたいのですが、ぼくなりに前回の要約を言います。すべての人間は、「身体」をもっているわけです。「身体」をもたなければ、この世に生存できません。身体がなければ、それは幽霊になってしまう。その「身体」とその可能性をさまざまな角度から勉強するのが体育学部で、だから、文科系や理科系の科目があるということでしたね。
T: そのとおり。いいね。もう少し続けてくれますか。
S: それで・・・、しかも、その勉強というのは、自分のためというよりも他人のためということでしたね。もちろん、ぼくらは自分のために大学に来たわけで、体育学科だったらそこで競技成績を上げたいとか、体育教師になりたいという目的があるわけです。しかし、同時に忘れてならないのは、他のひとに伝えてあげるということが重要だということでしたか。
T: そう。自分ではない別のあるひとの身体とその可能性を育むことに主眼があるのではないかな。体育教員の養成は、自分がそれになりたいのだから、自分のためであると同時に、むろん生徒のための教員養成です。体育学科以外の学科にも、同じことは、つまり、他者のためであるということはみな当てはまるね。
S: まずは、自分のためであるけれども、それが同時にひとのためにもなる、ということですか。
T: そのとおりだね。学問というものは、究極的には人間のためという性格をもつわけですが、その程度は学問の種類によって多少違う。たとえば、数学や物理学などは、直接にひとのためというよりも、真理の探究という意味合いが強いでしょう。しかし、体育学部で学ぶことは、そうした学問の成果を踏まえて、むしろそれを他人のために生かしてゆくというところが重要なのだよ。それは同時に自分のためでもある。一般化して言えば、人間の存在している意味は、他者を介して自分に戻ってきて、はじめて確立できるものだよ。
<身体は自然である>
S: それから「身体」は「自然」の産物だということもありましたね。生まれて、成長して、老化して死んでしまうという過程は、自然が仕組んでいることだと。
T: そう、体育学部は「身体」を扱うわけですが、「身体」は、「自然」に属するものです。さらに、その「身体」は、人間の場合は自然のまま、何もしないで「人間の身体」になるのではなくて、広い意味で「学習」によってはじめて人間というものになるとも言ったね。
S: 言葉を学ぶということも「身体活動」として学習されるとか。
T: そう、人間の顔や口から喉にかけての筋肉構造は非常に複雑で、それは自然のたまものとしか言いようがない。そうした身体的条件がなければ「話す」ことはできない。ネアンデルタール人は、おそらく人間のせいで滅んでしまったけれども、もっとも人間に近いし、脳は、人間よりも大きな容積があったと言われている。しかし、彼らはたぶん人間ほどの複雑な言語は持っていなかった。それは喉の構造が話すのに適していなかったからだという説があります。人間は、そうした身体的条件の上で、言葉を学習できるのだね。自然の身体のあり方がまず人間固有の活動の前提条件としてある。
S: それもわかりますが、「自然」と言われても、何だかすべてが自然のような気もして、かなりおおざっぱなような。
T: たしかにそうだね。「自然」という言葉は、さまざまな意味で使われるからね。生物の長い進化の過程を経て、今から10数万年前に現生人類が誕生した。それ以来、人間はひとつの種として生存している。個体としてみれば、一個の身体は受精することから始まり、細胞分裂を経て誕生し、成長し、老化し、そして死を迎えます。その過程は、(医学などの科学技術によって最近はかなり手を加えられているとはいえ)基本的に自然の過程です。
<自然における多様性>
S: それはわかります。しかし、いろいろな身体がありますよね。なかには異常というか、奇形というか、そういうひともいます。さまざまな違いをもって生まれてくる。それも自然ですか。
T: もちろんそれも自然です。自然には正常も異常もありません。その二つの区別は人間がある基準を立てて、あとから言うにすぎないのだよ。いわゆる異常、奇形を見て、異常だと思うのは、差別です。ひとは、そもそもさまざまな素質で生まれてくるのですから、それを異常、正常と区切るのは、それは人工的に設けた区別でしかない。
S: しかし、そうしたひとも医学の力で何とかしようとすることもありますね。それは異常を何とか直そうということではないですか。
T: それは、異常・正常という枠組で考えるのではなく、むしろ、社会生活、つまり人間が作った枠組に合わせて、なるべく円滑に暮らせるようにするということだと思うよ。
S: でも、性同一性障害のひとはどうですか。自分の性に違和感を強烈にもっているひとは、手術してかえって自然な状態に帰るとはいえませんか。
T: 君も難しい例を出してくるね。その場合、自然とか不自然という枠組みで考える必要はないのではないかな。性同一性障害のひとは、生まれたまま、つまり手術前が自然なのだ、と言ってもいいけれども、そういう自然の状態で生きるべきだ、というようなことはないからね。人間は、自然を人工的に変え、手を加える存在です。それが人間の人間たるゆえんでもある。いま科学技術が発展して、自然を大幅に変えることがますますできるようになってきた。いまは、人間の身体という自然にも技術の力で手が加えられるようになってきた。しかし、もちろんそこには、いろいろな制限がありうる。人類の生存に関わるような改変はだめだろうし、あるいは道徳的にだめということもあるだろう。その基準は、おおざっぱに言えば、社会的合意ということだろうね。
ちなみに、人間はもう進化しないと考えられる。つまり、生物学的な意味では、人間はもはや進化することはないだろう。いま触れたように、人間自身が人間のあり方に介入しているからね。進化の原理は、自然選択natural selectionであるわけだが、環境の変化に対応できない種あるいは個体が自然によって選択され、滅亡したり生き残ったりするという自然の過程を人間は根本的に変えてしまった。さまざまな人間をそのまま認めてともに生きていこうとするところに、人間である証があるよね。現実はそうなっていないところも多々あるけれども。
しかも、進化による変化よりも、人工的に、人間の身体に介入しているそのスピードのほうが、圧倒的に早い。進化の時間的長さを追い越して、人間は自分の身体を変えてゆくだろうね。
<ドーピングと自然な身体>
しかし、体育学部では、人間の身体に直接侵襲するのではなく、なるべく自然のかたちで、身体の可能性を発展させようと考えるのだね。
S:そうですか。そうすると、ドーピングが禁止されているのは、身体の自然との関係があるのですね。
T:そう、人工的に身体に介入する技術が発達してゆく世の中で、スポーツは身体の自然性を保持する最後の砦なのです。しかし、そこにはいろいろな問題が含まれていることは確かなので、また次の機会にドーピングの話をすることにしよう。