2015年2月14日土曜日

【TORCH Vol.064】 「You Gotta Have Wa」

マーティ・キーナート


「和をもって日本となす」
(角川文庫) 文庫 – 1992/2
ロバート ホワイティング (著),
玉木 正之 (翻訳)


You Gotta Have Wa  (英語)
Robert Whiting (原著), 


既に20年以上前、野茂投手が海を渡る前に出版された、このロバートホワィティングの名著を読んだことのない方に、是非一読して頂きたく推薦します。

「これば、“文化摩擦”に関する本である。すなわち、日本とアメリカのあいだに存在している亀裂を、ベースボールというスポーツを通して描いたものだ。われわれアメリカ人にとって、異なる文化を理解することがいかに難しいものか、とりわけ日本というまったく異質の文化がいかに理解し難いものであるか―ということを、知ってもらうために書いた本なのである」〜書評より

日本の野球は、work ball=仕事 で、アメリカのベースボールは play ball=楽しみ であるという著者の言葉どおり、数々の日米の野球とベースボールの違いを軸に、野球の話だけではなく、日米文化と国民性の違いをたくみに現しているこの本は、現代の日本の若者の必読書でもあるべきと考える。私が常々学生諸君に訴える持論、「自国を理解する為には、まずは外(外国)に出て経験する事」を、この本を読めば、一層理解してもらえるだろう。著書の唱える、「日本では『和』が大事で『出る杭はうたれる』」というような風潮は、実際かなり変化してはいる。
それでも、グローバル、グローバルと叫ばれる現代日本において、考えさせられる指摘は多い。
日米の歴史と文化論としてお薦めの1冊。


【TORCH Vol.063】 濫読のすすめ

丸山 富雄

 大学2年生の1年間、友人と競って、小説に夢中になった時期があった。友人が作者の誰がよいといえば、私はこの作者の小説は面白いと譲らなかった。もともと小説は好きであったが、その1年間はまさに熱に侵されたかのように貪り読んだ。
 よく読んだのは三島由紀夫である。角川か新潮かは忘れたが三島の赤いカバーの文庫本を読み、それを本棚に並べ悦に耽っていた。『潮騒』『金閣寺』『午後の曳航』『宴の後』『仮面の告白』などなど。しかし私が彼の小説に没頭していた昭和45年11月25日、彼が市谷の自衛隊駐屯地で自決したことは非常に大きなショックであった。
 石原新太郎の『青年の樹』も当時の私に夢や勇気を与えてくれた。確かヤクザの跡取りが東大に進みラグビー部で活躍する場面もあったと記憶している。勘違いでなければ、そこで行われていた合宿中の山中湖一週マラソンを、私も仙台大学に赴任しラグビー部を持つことになると、山中湖の合宿ですぐに実践した。その他、若い頃であったせいか、私の性格からか、石坂洋二郎などの青春ものも好きで、数多く読んだ。『青い山脈』『陽の当たる坂道』『光る海』など。
 また小説は旅情や郷愁を誘うものである。太宰治の私小説である『津軽』の足跡を追って20年ほど前、斜陽館から津軽半島を一周した。小説に出てくる蟹田や小泊などの寒村に暫し止まり、太宰も遠い昔ここに居たんだろうと思いに耽った。石坂洋二郎の『青い山脈』の舞台は弘前かもしれないが、試合等で秋田の角館に行くと、いつも私にはそこが『青い山脈』の舞台のように感じる。桧木内川の土手を自転車に乗る女学生を想像した。その他、島崎藤村の詩集『若菜集』や『落梅集』の小諸や千曲川には大学時代に何度も訪れた。軽井沢では堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出す。行きたいと思いまだ行っていない所に、田宮虎彦の『足摺岬』、島崎藤村の『夜明け前』の舞台である馬篭などの木曽路、機会があれば是非行きたいと思っている。
 若い頃、学生時代に、是非、純文学にはまってみてはどうだろうか。きっと心の糧になると思います。

2014年12月15日月曜日

【TORCH Vol.062】 「パラダイムシフト」

橋本実

パラダイムとは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことをさす。例えば「それでも地球は動いている。」と地動説を唱えたガリレオが、天動説を主張する人々に裁判にかけられ有罪判決を受けたことは有名である。その当時は天動説がパラダイムであり地動説を唱えるものはすべて異端とされていた。天動説から地動説へ変化するには170年を要したが、最後には地動説が当たり前のこととなりパラダイムになった。このようにそれまでのパラダイムが大転換することをパラダイムシフトが起きたと言い、ある日突然、非連続的に起きる。

 今回、現代医学にパラダイムシフトを起こしつつある夏井睦氏の「傷は絶対消毒するな」と江部康二氏の「主食を抜けば糖尿病は良くなる」の2冊の本を紹介する。
 夏井睦氏の「傷は絶対消毒するな」は、これまでの治療と全く異なる新しい傷の治療法である(図1)。傷の治療は長い間、消毒をしてガーゼをあてる治療が続けられて来た。医師を含めた医療関係者は感染を防ぐために清潔と不潔について厳しく教育され、傷は必ず消毒するものだと教え込まれている。そのため傷を負った患者に痛がる消毒をし、ガーゼをあてる。傷の経過を見せに来れば傷にこびり付いたガーゼを剥がして更に傷を深くし、また消毒して治りを遅くするような治療をしてきた。誰もが傷は消毒しなければ感染を起こし重症化すると信じ、患者が痛がっても治るためには痛いのは仕方がないと考えているパラダイムが存在している。
 新しい治療は傷を消毒せず飲める水で洗い、傷を乾かさないようにラップで覆うとうものである。驚くべきことにこの方法で治療すると、これまでの治療に比べ半分の期間できれいに治る。しかも消毒しないので痛くない、傷をラップで覆うので水に濡らしても構わないし、乾燥しないので痛みもない。大人だけでなく、子供にとっても夢のような治療である。早く治り痛くないことは医療関係者だけでなく、患者にとっても大きな福音である。
 消毒薬を使うことはそこに存在する菌を殺すだけでなく、傷を修復しようとする自分自身の細胞までも殺すことになる。また、傷からの浸出液は細胞成長因子を含むので、これを逃がさないようにすれば傷は早く治る。この二点を守って治療すれば、例え指先を切断しても、まるでトカゲの尻尾が生えるように指が再生してくる。皮膚移植が唯一の治療と思われた重症な火傷も、手術せずにきれいに治っていく。
 消毒が不要な理由は感染症の原因は傷に菌が存在するだけでは起こらず、異物か血腫があって初めて感染症は引き起こされるからである。消毒ほどではないが、身体を石鹸などで洗いすぎることは、皮膚のトラブルの原因となることも述べている。人間の表皮は皮脂を餌とする常在菌で被われそれ以外の菌が住めない状況を作りだしている。すなわち、Propionibabacterum属の細菌が常在して、皮膚は健康を保っている。あまり皮脂を洗い落とすことは皮膚の健康を損なうもとであり、洗浄後にクリームを塗ることも好ましくないとしている。クリームには界面活性剤が含まれ皮脂が分解されてしまうためである。 皮膚を健康に保つためには、必要以上に皮脂を洗い落とさないことが大切で、温水に皮脂は溶けるのでシャワーだけでも十分となる。人間は常在菌と共生してこそ、皮膚の健康と外敵の侵入を防ぎ健康が保たれる。


  江部康二氏の「主食を抜けば糖尿病は治る」は炭水化物(糖質)の摂取を減らして、糖尿病を治療するというものだ(図2)。現在の糖尿病治療はカロリー制限食で血糖をコントロールし、悪化すればインスリンを注射するというものであり、これがパラダイムとなっている。
 新しい治療はカロリーを制限するのではなく、炭水化物(糖質)を制限するというものだ。三大栄養素と呼ばれるものは、蛋白質、脂質、炭水化物である。炭水化物は糖質と少量の食物繊維から成り立つので、炭水化物と糖質はおおむね同じと考えてよい。この三大栄養素の中で、我々の身体を構成するのは、脂質と蛋白質のみであり、炭水化物はエネルギー源でしかなく、唯一血糖値を上げるものである。また、血糖値を下げる働きをするホルモンであるインスリンを分泌させるのは炭水化物のみで、蛋白質と脂質はインスリンを一切分泌させない。例えば、焼肉屋さんに行き、お肉を食べ続けていても血糖値は上昇せずインスリンは分泌されないが、白いご飯を食べたとたんに血糖値が跳ね上がり、インスリンが分泌されることになる。炭水化物の摂取を制限すれば、そもそも血糖値は上昇せず、インスリンも分泌されないので膵臓機能は回復し、糖尿病は改善する。
 糖尿病食の1200カロリー制限食を食べたことがあれば分かるが、お腹が空いて、空いてとても長く続けることは不可能な辛い治療だ。しかし、これまでの栄養学はカロリーを基礎にして成り立っているので、糖尿病の食事指導もカロリー制限が主になり三大栄養素をバランスよく摂ることになっている。これでは、血糖を上げる炭水化物を摂り続けるので糖尿病が改善することはない。
インスリンは肥満ホルモンとも呼ばれ、血糖値を下げる際に糖を脂肪細胞の中に取り込ませる働きをする。逆に言えば、インスリンを分泌させなければ太ることもないし、太っている人はみるみる体重が減る。2週間糖質制限食を続ければ、体重は3kg以上減少しダイエット効果は抜群である。
 我々が食べ続けるのは60兆個あるといわれる身体の細胞を常に作り替え維持し生き続けるためである。炭水化物を摂取しないことに不安を覚えるかもしれないが、身体を作っているのは蛋白質と脂質のみであり心配はない。また、我々は糖新生というシステムを持ち、必要な血糖は常に肝臓で作り出せるので、無理に炭水化物を摂取する必要はない。必須脂肪酸、必須アミノ酸(蛋白質)はあっても、必須炭水化物は無いことからも不要なことからも不要なことがわかる。
 現在、日本には糖尿病患者が950万人、糖尿病予備軍は1100万人いると推計されている。生活習慣病の中で最も防がなければならないのは糖尿病だ。糖尿病の恐ろしさは、高血糖の血液が全身を循環することで、血管を傷つけ失明、神経障害、腎障害などを同時多発的に起こし命に関わる病態に移行していくことにある。
メタボリック症候群は内蔵脂肪の蓄積があり、高血圧症、脂質代謝異常症、糖尿病のうち二つ以上が当てはまれば確定診断される。内蔵脂肪を減らし肥満を防ぐことが、生活習慣病を予防しメタボリック症候群を防ぐことになる。厚生労働省は「1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後にクスリ」というキャンペーンをおこなっている。しかし、炭水化物を減らす糖質制限食をしなければ体重を減らすことは難しい。
 人生の後半を健康で生き生きと生活するためには、筋肉を減らさないように運動し続けることと、肥満から生活習慣病を引き起こさないように炭水化物(糖質)を制限した食事が重要になる。糖質制限食を続けていると、脂質代謝異常症や高血圧症も改善することが多い。肥満が改善されると内臓像脂肪が減少し、改善すると考えられている。服薬しながら糖尿病、脂質代謝異常症、高血圧症がコントロールされ正常値を維持しても病気が治ったとはいえず、医者からは一生薬を飲み続けるように言われる。肥満がある人の高血圧は、痩せなければ治らないことが多い。糖質制限食は薬もいらない糖尿病の治療法であり、肥満も解消する治療方法なので、肥満が原因となる生活習慣病の改善予防にもつながる画期的なものである。


 さて、なぜこれらがパラダイムシフトを起こすのかというと、医学界はこれまでの治療が正しく前述の治療は異端であるとする現状(パラダイム)があるからである。新しい傷の治療は、痛くなく早く治り、消毒薬や薬剤の使用が減るので医療費も削減できる。糖質制限食も、糖尿病治療に1.2兆円かかっている医療費を減らし、ほかの生活習慣病の治療費をも減らすことが可能になる。
 では、なぜ遅々として普及しないのかと言えば、専門家と呼ばれる医者たちの多くが反対しているからである。新しい傷の治療も糖質制限食も、極論すれば素人でも治療可能であり実施すればみるみる改善していく。そのことで困るのは、それまで傷の治療や糖尿病を専門にしていた医者たちである。この治療が普及すれば、専門性は不要となり、飯の種を失うことになる。同様に、製薬会社も薬が不要になれば大きな痛手を受けることになるので当然反対することになる。栄養士も肥満や糖尿病治療に関わっていることが多いので、糖質制限が普及すればこれまでのカロリーを中心とした知識を捨て、新たに学びなおす必要が生じるので反対することになる。
 しかし、一度自分で試した人はこれらの治療が正しいということがわかり、今までの治療が間違っていることがわかる。医者の中にも試してみて、患者にとって新しい治療のほうが優れていると考えている人もいる。昔とことなり、インターネットの力は大きく、夏井先生も江部先生も情報をネット上で常に発信している。ガリレオの時に170年を要したパラダイムシフトが、何年で起きるのか楽しみである。皆さんに今回紹介したこれらの方法は自分で試すことが出来るので、お勧めするし、ぜひ試して頂きたい。

2014年9月11日木曜日

【TORCH Vol.061】 「スポーツ運動学(明和出版2009)」

コーチング系 川口 鉄二

 得体の知れないブログというものに躊躇していたものの、いつしか督促すら来なくなってしまったので、途中でまで書いておいたファイルを引っ張り出すことにしました。
□入門するということ
 運動学の授業のはじめに紹介するいくつかの参考書、実は私自身それらの本を読みこなすのに四苦八苦しています。昔、教科書として学生に紹介していたのは「マイネル スポーツ運動学」Bewegungslehre(1981大修館)で、旧東ドイツ1960年の上梓から約20年経って翻訳されたものです。更に20年経ち、2002年に日本オリジナル版「技の伝承」、そして「身体知の形成(上・下巻)」、「身体知の構造」(いずれも金子明友著 明和出版)が立て続けに出版されます。
これら日本版スポーツ運動学の難解さに途方に暮れていた2009年、待望の「入門書」(「スポーツ運動学」明和出版)が出版されます。しかし、「入門」=「簡単」という期待は見事に打ち砕かれ、辞書にもあるようにそれが「特定の師について全人格的に学ぶ」という意味であることを知ることになります。「このスポーツ運動学の入門書はその発生論的運動学の門をたたく人のために明確な道しるべを立てようとしている」もので「わかりやすく解説されているという意味での入門書ではない」と巻頭にも書かれているのですから、サンダルを履き替えざるを得ませんでした。
□「難解さ」の理由
スポーツ(諸)科学という寄り合い所帯の「研究のための研究」という現状を脱却するには、哲学や現象学的運動認識論が不可欠なのは何となくわかるのですが、それらを熟読すべきと言われれば我々コーチング仲間は途方に暮れるしかありません。でも教員のそんな苦しみとは裏腹に、ゼミの学生はこの入門書を読んで普通にレポートを書いてきたりします。つまり、学生にとってこの本の難しさは他の領域に比べて突出してるわけではなく、もしかしたら我々の頭の方が、「星の王子様」が不思議がるほど凝り固まっていたのかも知れません。
実は、金子明友先生がこの壮大な理論書の上梓後に「唯一」、歴史的な講義をして頂けたのが仙台大学でした(大学院「スポーツ運動学特講」)。専門用語を使いこなしてくる他大学院生に交じり、学部での下積みの無かった本学大学院生(社会人)は、運動経験やコーチ経験だけを頼りに四苦八苦して講義に臨んでいました。「何を教えているんだ」と説教されそうな私の心配とは裏腹に、本大学院生の授業レポートを読んだ先生からは次のような言葉を頂きました。「…(国立大の)院生は私の運動学は難しいと正直に述べています。頭で考えているからでしょう。仙台の院生は体で考えていてよく理解しているようです…どうも頭で伝統的な論理を弄するひとには私の運動学は不向きなようですね。現象学的運動学の超越論的論理学を基礎においている意味が分かっていないのかもしれません。現場で苦労している仙台の院生はさすがです。頑張るようにエールを送ってます」。
選手や指導者として実践現場で培った身体知というものは泥臭くて、様々な要因と複雑に絡み合っていますが、実践現場では決してそれら全体性という問題を避けては通れません。でもそんな経験があるからこそ、運動する主体の感覚を無視した科学的な見方に対して「直感的」に違和感を持つことができます。この種の理論を理解するにはそのような直感力も問われることになるようです。
□動感経験に頼る
 体育大学で培った技能と言っても、それが時とともに衰退していつしか動けなくなった時に、「競技実績」という過去の栄光だけしか残らないというのでは一般大学の体育会と何ら変わりません。大学では専門理論に没頭できる環境が次第に失われているという問題はありますが、実技実習であっても単に「できた」かどうかという「結果」だけでなく、その動感経験自体を分析し、動きの発生指導力の獲得に結び付けていくことが体育大学の原点だと思います。
スポーツ選手は「~しか知らない(例えば『逆立ち』)」と揶揄されることがありますが、どんな科学知を寄集めても逆立ちの経験には替えられないし、「コツ」や「カン」にかかわる研究では最終的には実践という動感世界とのかかわりが評価されます。ですから、この本の言葉の難解さに怯むことなく、自分の得意な運動経験に置き換えて考えることができれば、そこには「わかるような気がする」ことばかりが書かれているということに気づくはずです。もちろん、そんな風変わりな読み方が求められるのですから一人で読めとは言いません。仙台大学にはベテランのコーチ達や金子運動学直系の愚弟もいるのですから、悩めるパトス仲間として一緒に門をくぐってみてはいかがでしょう。

【TORCH Vol.060】 中房敏朗著「体罰の歴史的背景」

長見 真

 今年の4月に一通のEメールがやってきた。送り主は中房敏朗氏。氏は、2011年度まで本学でスポーツ史の専任教員としてご活躍され、現在は大阪体育大学で教鞭を執られている方である。「~拙文を書きました。ご笑覧いただき、何かの足しにでもなれば幸いです。」と閉じられたメール文書の添付ファイルを開けると、大変スリリングなタイトルの論文が現れた。それが、「体罰の歴史的背景」である。
 周知のとおり、2012年12月に、大阪市の高校でバスケットボール部の主将であった高校生が顧問教員の度重なる体罰を苦にして自殺した大変痛ましい事件をきっかけに、学校運動部あるいは学校における暴力的行為が大きな社会問題となっている。こういった状況下において書かれたこの論文は、「体罰の歴史的背景について先行研究を手がかりに描出すること」を目的としており、その際「今日の体罰が置かれている歴史的な流れや全体的な構図について、できるだけ射程を大きく広げながら探り出すことをめざそう」としている。それでは、論文の展開をみてみよう。
 まずは、体罰の起源としてこれまで暗黙の裡に支持されてきた軍事的起源説(戦前の軍事的規律が体罰として普及する)に氏は一定の評価を与えつつも、それが根本原因ではないとみる。そして、体罰の起源を文明史的なレベルまで射程を広げ、非対称的な権力関係が形成された中で、権威的立場にある上位の者がその従属的立場にある下位の者をしつけ、正し、罰するために「身体的懲罰」(=体罰)を課す、という構図を導き出し、体罰は非対称的な権力関係が現れた古代文明の発生とともに出現した古い人間文化であり、権威的立場にある上位の者が課す体罰は、理性的方法であれば罪に問われず、容認されてきたことを明らかにする。
 このような体罰発生の構図は近代以前の教師-生徒という非対称的な権力関係においても同様に当てはまり、教師による体罰は行使され、容認されてきた。近代に入ると、現在の学校の姿である近代学校教育制度が確立され、同一年齢の者(生徒)に知識や技術を効率よく、より多くの生徒に身に付けさせることが求められた。そこでの教室空間は、「ランカスター・システム」といわれる、現在の教室の原型である秩序と教授のシステムがつくられた。そして、教室という密閉空間の秩序を維持するために、教師は体罰を含む懲戒の権限を持ち続け、決して比喩ではない「教鞭」という鞭や杖が使用された(執られた)のであった。
 さて、このように体罰の起源を文明史に求め、近代学校教育制度の教室空間にその使用を容認し続けている歴史的背景を踏まえた上で、氏は、日本のスポーツ界は過剰に「学校化」しており、このことより体罰への衝動が惹起すると述べている。それは以下の通りである。日本の体育・スポーツ界は明治以降、学校(近代学校教育制度)の管理下において発展してきたものであり、教師-生徒関係と同様の監督―選手という非対称的な権力関係が存在し、加えて「長幼の序」を美徳として重んじる伝統的な価値観も後押しして、監督を頂点とする密閉空間(教室)が形成されている。そしてこの密閉空間への選手(生徒)の参入は、自発的なものではあるものの、監督(教師)への服従が求められることを前提としており、その中で勝利や栄光を追い求める。そしてその成果や実績(=「勝利」および勝利から得られる「進学・就職」)によって、勝利に至るまでの困難な過程が肯定され、正当化され、美化される。また、「教室」の外側にいる「保護者(視聴者やファン)」は、勝利や成果を期待すると同時に、勝利や成果が積み上げられることによって、「教室」の中の事柄に対して口出しがしづらくなる。このことにより、勝利や成果といった「結果」が重視され求められることとは対照的に、「過程」が不透明なものになり、「教室」内の権力関係は、より強いものとなり、「厳しい指導」がかえって選手(生徒)の感謝の念を呼び覚ます。こういった構図の中で、戦前の軍事的規律から派生した「びんた」という身体技法を継承しながら体罰への衝動が惹起するのである。
 さて私は今年度、本学1年生約60名を対象に、体罰経験について簡単なアンケートをおこなったが、自分自身が体罰を受けたあるいは行使した経験のある学生は約22%、自分自身は体罰を受けたり行使した経験はないが、体罰を行使する場面を見たことがある学生は約36%、自分自身体罰を受けたり行使したことはないしその場面を見たこともない学生は約42%であった。この結果は日本の体育系大学の学生についても同じような割合であると考えられる。体罰の行使によって勝利や「進学」という実績を得た者は、指導者(教師)に対して感謝の念を抱くことにより、自身がスポーツ指導者の立場に立った時に選手(生徒)に対して同じことを繰り返してしまう。こういった負の循環を断ち切るために、体育系大学の果たす役割は非常に大きい。しかし、スポーツ指導者を目指す者に体罰のない指導の必要性を教育することで体罰問題が解決される、といった単純なものではないことを、この論文は教えてくれる。体罰を根絶するためには、過剰に「学校化」されたスポーツ界、近代学校教育制度に支えられた現代の「学校」、そして学校空間に存在する教師-生徒といった非対称的な権力関係のあり方およびそこでのふるまい方を問い直すことが必要なのである。成熟社会を迎えたわが国において、スポーツ界、学校教育界の大きな転換(脱構築)が求められるのである。
 このような論評を書かせていただいた最後に、急いで氏に対してお詫びとお礼を言わなければならない。冒頭に述べた氏が「教鞭を執られている」という文は、比喩表現とはいえ、言葉を変えなければならないと思っており、お詫びしなければならない。また、「何かの足しにでもなれば幸いです」については、こういった論評を書かせていただいたことが私にとって大変有意義なものであったので、氏に感謝申し上げたい。

中房敏朗(2014)体罰の歴史的背景.大阪体育大学紀要,45:199-207.

2014年7月24日木曜日

【TORCH Vol.059】 「読み比べて分かる我が恩師の偉大さ」 -皆さんもぜひ読み比べを-

仲野 隆士

 「君ら院生は、本当に本を読んでないねぇ・・・」、これが大学院で私を指導してくださった先生の当時の口癖でした。その先生は本を読むということが三度の飯よりも好きというくらい様々なジャンルの本を読んでおられ、しかも必要に応じて繰り返し読み直すということをされていましたので、我々院生が実に物足りなく写っていたのでしょう。当時の私は、ご指摘の通り確かに本を読むという確固たる習慣が欠如していました。それゆえに、修士論文を完成するまでの過程において多くの文献や研究論文を読んだりすることが不可欠でしたので、本当に苦労しました。その先生が、院に進学した1984年の年末に、『スポーツとルールの社会学』《面白さ》をささえる倫理と論理と題する本を出版されました。体育原理とスポーツ社会学が専門の先生でしたので、タイトルも内容も専門領域に合致したものでした。
 この先生に論文指導を受ける身として、この本を読まなければ何も始まらないと考えた私は、とにかく1冊購入し読破を試みました。思えば、それまでの人生において初めて真剣に本と向き合ったように思います。しかしながら、この本は私の手に終えるような代物ではありませんでした。部分的には理解できるのですが、いわゆる法律や法社会学を勉強しないと完全には理解できないものでした。もちろん、自分なりに勉強し必死に理解しようと努力はしました。しかし、それでもなお解釈し切れなかった部分が多々あり、消化不良のままで終わってしまったというのが正直なところでした。著者であるご本人は、法律や法社会学などについて我々の想像を超える勉強を重ね専門知識を蓄積され、専門家に教えを請うといったこともされていたのを院生である我々は知っていました。そういった努力を何年も何年も続け完成された本ですので、凡人である我々には簡単に読破できなかったのかもしれません。当時の我々院生は、先生に対し「先生の書かれた本は難し過ぎて我々には理解できない部分があります」といったことを正直に伝えた記憶があります。先生にとってみれば、実に嘆かわしい院生であったに違いありません。
 いつしか月日は流れ、先生があの本の続編を退職される前に出版されることを知り、出版と同時に購入し読破しました。いや、「私にも読破できた」というのが正解でしょう。2007年に出版された『スポーツルールの論理』というタイトルの本がそれです。まさか「じゃんけん」からルールを考えるという発想から組み立て直すとは奇想天外で、さすがは非凡にして個性の強い先生らしさが溢れていました。しかも全体の構成が面白くて分かりやすいので、正に目からうろこの思いがしました。「バレーボールというスポーツは、プレイする誰かがルール違反をしない限りどちらにも得点は入らず、ネットを挟んだ緩やかなボールのラリーが延々と続く」という説明も、「なるほど確かに良く考えてみればそうだな」と頷ける説得力があります。その他にも、前作では理解に苦しんだ部分も、続編では容易に理解することができました。「何だ、こういうことを先生は言わんとしていたのか!」とか、「確かにこの図や表なら全体の構造や説明が分かりやすい」といったことを自問自答しました。いうなれば、先生が世に問いたかったことを、凡人である我々にも理解できるレベルに落とす涙ぐましい努力と労力を注いでくれたわけです。このように書くのは簡単ですが、普通はこんな手間のかかる面倒な作業はしないでしょう。そこに、恩師である先生の偉大さを感じています。
 学生の皆さん、自分が楽しんできた・継続してきたスポーツのルールについて深く考えたことがありますか。スポーツのルールそのものについてもですが、いかがですか。もしも深く考えたことが無いのであれば、ぜひ『スポーツルールの論理』を読んでみてください。きっと個々のルールの存在理由やスポーツのルールというものが担う機能や構造が分かります。また、スポーツというものをより深く理解することができると思います。その上で、さらに余力のある人は、先生の前作である『スポーツとルールの社会学』に挑戦してみてください。こちらは極めて手ごわいですが、夏休みや年末年始といった長期の休みの折にでも読んでみてはいかがでしょうか。スポーツのルールを取り上げた本は何冊か読みましたが、この本を超える本に出くわしたことがありません。読む価値は十分あります。この夏、私も再度2冊を読み比べてみることにします。教員の皆様も、時間が許せば読み比べてみてはいかがでしょうか。
 余談ですが、その先生の教えで「同じコトを続けていけば、いつかは専門家と言われるようになるものだ」というものがありました。スポーツのルールのことを何年も何年も考え続けた結果、先生はスポーツのルールの専門書を2冊も出版した専門家になられました。私も、本学に赴任してからこれまで続けてきたレクリエーション支援の活動や、スペシャルオリンピックス(SO)の活動があります。これからも継続してきますが、いつの日か私自身の集大成として、本にまとめて出版できたらと考えています。

<取り上げた本の紹介>

・守能信次『スポーツとルールの社会学』《面白さ》をささえる倫理と論理 名古屋大学出版会
 1984年 
・守能信次『スポーツルールの論理』 大修館書店 2007年

【TORCH Vol.058】 池井戸潤 『ルーズヴェルト・ゲーム』 ~企業スポーツのエンタメ参考書~

高成田 亨

日本のスポーツを大学とともに支えてきた企業スポーツの歴史や現状、今後のあり方を学ぶ「企業スポーツ論」という講義を続けている。ある日の授業のあとで、「先生が話しをしていたのと同じような話がこの本に書かれています」と言って、紹介されたのが池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』(講談社文庫)だった。

早速、本屋で買い求めてわかったのは、この作家が「倍返し」で話題になったテレビドラマ「半沢直樹」の原作者(原作は『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』=いずれも文春文庫)であり、2011年には『下町ロケット』(小学館文庫)で直木賞を受賞した人物で、受賞後の第1作として2012年に刊行されたのがこの作品ということだ。

直木賞といえば、芥川賞と並び、文学界ではもっとも権威のある賞だけに、直木賞作家となった池井戸氏が相当に力を入れたものだと想像できる。実際、読んでみると、その筋書きの面白さにつられて一気に読んでしまった。

中堅の電子部品メーカーである青島製作所は、創業者が熱心な野球ファンで、自らも企業内に野球チームを設けて、支援してきた。しかし、ライバル会社のミツワ電器に監督と主力投手や打者を引き抜かれ、成績不振に陥ったところに、2008年のリーマンショックで会社本体の経営も苦しくなり、野球部の存続も危うくなる。

そこで、風前の灯火(ともしび)となった野球部を再興するために立ち上がった男たちがこの物語のヒーローたちで、次々に襲いかかる危機と、その後の逆襲というか「倍返し」は、はじめからテレビの連続ドラマを意識したようなで展開になっている。作者の思惑通り、2014年4月から6月までテレビドラマとして放送されたというから、ご覧になった人も多いのではないか。

★企業スポーツの歴史
日本の企業は、西欧の文化であるスポーツが我が国に紹介された明治以降、企業内にスポーツチームをつくり、その競い合いのなかで、日本のスポーツ全体の水準を国際レベルにまで高めてきた。その成功例のひとつが1964年の東京オリンピックで、紡績会社ニチボー(現ユニチカ)の企業チーム「ニチボー貝塚」の選手を主力とした女子バレーボールが金メダルを獲得した物語だ。

日本で企業スポーツが発達したのは、社員の福利厚生の一環として、従業員によるスポーツチームを積極的に支援したためだが、戦前は労働運動のエネルギーを企業スポーツに向けさせたり、戦後は企業の名前をPRする広告塔としての役割を課せられたりした。さらに企業は経営者が父、従業員が子どもの家族という家族主義の経営が社会に受け入れられ、その家族統合のシンボルとして企業スポーツが使われてきた。

しかし、1990年代にバブル経済が崩壊すると、企業チームを養うだけの財力がなくなったうえに、従業員を大事にする家族主義ではリストラができないとして、企業スポーツは次々に廃部の憂き目にあってきた。2000年代に入ると、廃部の動きは目立たなくなったが、リーマンショックとともに、再び企業スポーツを廃部にする動きが目立ってきた。

この小説の時代設定も、企業スポーツにとっては最後の逆風ともいえるリーマンショックのころで、企業が懸命に生き残り策をさぐるなかで、企業スポーツに何が求められたのかがよく描かれている。この題名は、世界大恐慌から第2次大戦にかけて米国の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(1882~1945)が野球でいちばん面白いのは8対7のゲームだと語ったというエピソードが小説のなかに出てくるので、そこからとったものだろう。

★日産自動車硬式野球部
企業スポーツの現実は、ルーズベルトゲームどころか、経営者の鶴の一声で完封負けというところが多かったが、それでも小説的な展開を見せたという点で思い出されるのは都市対抗野球で活躍した日産自動車の野球チームだ。

1959年に神奈川のチームとして産声をあげた日産自動車硬式野球部は、社会人野球の甲子園ともいえる都市対抗野球に29回の出場を誇る強豪で、1984年と1998年の2度にわたって優勝し、その栄冠である黒獅子旗を獲得している。1999年、悪化する会社の経営を立て直すために、提携先のルノーから「コストカッター」の異名で送り込まれてきたのがカルロス・ゴーン社長だ。

大胆なリストラを進めるゴーン氏のもとで、野球チームも存続が危ぶまれたが、この年の夏の都市対抗野球大会で奮戦する自社のチームを観戦したゴーン氏は、スタンドを埋める応援団の盛り上がりに感銘を受け、直後の記者会見で「都市対抗野球こそは日本の企業文化の象徴」と語り、野球部の存続を明言した。

残念ながらリーマンショック後の2009年、野球部の廃止が決まり、企業スポーツとしては、最後に逆転負け気を喫したが、強引なコスト削減を進めたゴーン氏ですら、野球チームを切ることが難しかったわけで、日本の企業文化における企業スポーツの重要性を物語るエピソードだろう。

★企業スポーツの参考書
この小説の結末がどんな展開になったかは、小説を読んでいただくしかないが、日本の企業スポーツが置かれた最近の状況をわかりやすく、そして面白く解説する参考書として、みなさんには本書を薦めたい。企業スポーツ論を講義するのなら、このぐらいのエンタメ精神がなければ、学生はついてきませんよ。本書を私に紹介した学生の真の意図は、そんなところにあったのかもしれない。スタンドを沸かせるどころか眠らせるのを得意とする私自身の授業ゲームにも、大いに参考になったと、告白しておこう。