2024年12月12日木曜日

【TORCH Vol.150】『ありがとうの神様』「神様が味方をする71の習慣」(ダイヤモンド社) ~人生の悩みを解決する法則と方程式とは?~

 スポーツ栄養学科 教授 石澤 浩二

ここ8年ほどずっと愛読したり、愛聴したりしているものがあります。それは、斎藤一人氏と小林正観氏の書籍と話(YouTube等)です。お二人には、出逢いがもっと早ければと思うこともありますが、前職場の定年を終え、この人性の折り返し地点にある時にこそ、お二人に出会えたことを、天に感謝しています。
 基本的にお二人共、共通する考え方が多く、どちらもその道で大変な成功を納めており、誰にも当てはまる教えなのですが、特に斎藤一人さんはビジネスマンや商売人向けで、小林正観さんは万人向けであると感じます。

 今回は、特に小林正観さんに焦点を当てます。小林氏の教えを読むことで、人生観ががらりと変わる方も多いと思いますが、読みやすい、興味のある個所から気軽に読んでみてください。すると、私のようにその日から、人生の重荷がやけに軽く感じられるようになるかも知れません。仕事で、学業で、人生で行き詰まった時にも読むのに最適です。

小林氏は1948年東京生まれ。中央大学法学部卒。心理学博士、教育学博士、社会学博士。心学研究家、コンセプター、デザイナー。SKPブランドオーナー。2011 年没。亡くなる直前まで年間300回ほどの講演を毎年開催。小林氏は元々、無神論で、唯物論者で、努力至上主義の塊のような方でした。それは、当時、最も受験生の多い大学で偏差値最高にある中央大学法学部合格卒業であることからも垣間見られます。
 そんな小林正観氏が、40年の研究を通して、人生の法則や方程式を発見し、神様の存在を知るようになっていきます。人生の後半で、上記のような無茶苦茶な努力は無用とまで唱えます。彼の発見した数々の法則や方程式には、腑に落ち過ぎて驚かされます。人生のモノの見方・考え方を改めさせてくれます。

 冒頭の『ありがとうの神様』はこれまでベストセラーになった小林氏の数々の書物のエッセンスをまとめた「ベスト•メッセージ集」と言われています。数々の珠玉の法則が並んでいます。正に、人生で挫折したり、失敗したり、問題を抱えたりした時に、悟りと癒やしと希望を与えてくれるものばかりです。また、若い学生の皆さんが読むのには、人生の転ばぬ先の杖となることでしょう。


 私がなるほどと納得した71の習慣、法則からほんの一部をシェアします。

1「ありがとう」を言い続けると、また「ありがとう」と言いたくなる現象が降ってくる

宇宙では、「その人がいつも言っている言葉」が「その人の好きな言葉だろう」と思って、「もっとたくさん言わせて、喜ばせてあげたい」という法則が働いています。

神様は、「その言葉がそんなに好きなのなら、その言葉を言いたくなるような現象を用意してあげよう」という働きかけをはじめるらしいのです。(略)「神様」は宇宙法則の番人です。「否定的な言葉を言う人には否定的な現象を、肯定的な言葉を言う人には肯定的な現象を降られている」のです。(略)たくさんの「ありがとう」を口にするだけで、「神様の力」を自由に味方につけることができそうです。

 

2 幸も不幸も存在しない。そう思う「心」があるだけ(「幸せの本質」とは)

 「幸せ」は個人にのみ帰属するものです。「幸せの本体」がどこかにあるのではなく、私が「幸せ」と思えば「幸せ」に、「不幸」と思えば「不幸」になります。(略)すべての人が、「幸せだ」と言える出来事や現象があるのではなく、自分が「幸せだ」と思った瞬間に、そう思った人にだけ「幸せ」が生じるのです。(略)

 目が見える。耳が聞こえる。呼吸ができる。言葉が発せられる。手でものを持つことができる。自分の足で歩ける。携帯で会話できる。家族がいる•••と、いろいろなものに幸せを感じようと思えば、1秒に数十個の幸せを感じることさえできるでしょう。(略)毎秒毎秒毎秒毎秒、「私」が幸せだと思うすべてのことが、「私」にとっての幸せになります。

 

 その他に、「人間関係」、「仕事」、「お金」、「子ども」、「病気」、「運」、「イライラ」、「男女」などすべての悩みが解決する習慣や法則が満載です。

 ここまで読んでくださった皆様に、ありがとう!

2024年12月11日水曜日

【TORCH Vol.149】「雨の日は図書館で自然と出会おう」

子ども運動教育学科 講師 庄子佳吾 


私は子どもたちの自然体験・野外教育を研究テーマとしていますが、ある日の野外活動で、5歳の女の子が雨上がりの森で不思議そうな表情を見せました。「木の葉っぱから水が落ちてくるの、なんで?」

その瞬間、子どもたちの「なぜ?」という純粋な疑問が、どれほど貴重な学びの機会となるかを実感しました。しかし、現代の子どもたちは、そもそもそんな「なぜ?」に出会う機会が少なくなっているように感じます。

 

今回は、「子どもと自然」についての理解を深める手がかりとして、私の研究と実践に大きな影響を与えた本をご紹介したいと思います。

 

1冊目は、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』です。「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない著者のこの言葉は、私たちに重要な示唆を与えてくれます。この本は、子どもたちの感性をいかに育むか、その本質的な意味を考えさせてくれます。

カーソンは本書で、自身の甥とともに過ごした自然体験を生き生きと描いています。夜の浜辺を歩き、波の音を聴き、星空を見上げ、潮の香りを感じる。そんな何気ない体験の中に、実は豊かな学びが潜んでいることを教えてくれます。

著者は「センス・オブ・ワンダー」について、次のように述べています。「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちています。私たち大人が『センス・オブ・ワンダー』この神秘さや不思議さに目を見はる感性を持ちつづけ、子どもたちと共有できれば、きっと喜びは倍増するでしょう。」

 

私のゼミでは、この本をきっかけに、キャンパス内で「子どもの目線」になって自然観察を行う活動を始めました。例えば、地面に寝転がって空を見上げ、木々の葉の重なりが作り出す光と影の美しさを観察します。また、アリの行列をじっくりと観察し、その緻密な社会性に目を向けます。普段は見過ごしてしまう小さな草花や虫たちの存在に、新鮮な驚きを持って気づくことができるのです。

 

もう1冊は、佐々木正人の『アフォーダンス新しい認知の理論』です。この本は、人間と環境の関係性について、新しい視点を提供してくれます。「アフォーダンス」とは、環境が動物に提供する「行為の可能性」のことを指します。

例えば、子どもたちが自然の中で見せる様々な行動。木に登りたがったり、石を投げたがったり。本書では、そういった行動を単なる「危険な行為」として禁止するのではなく、子どもの発達にとって重要な意味を持つ環境との対話として捉え直すことの重要性を説いています。

 

佐々木は本書で、「環境のなかの情報は、知覚する人(動物)の身体的な特性と相対的な関係にある」と述べています。子どもにとって木の枝は「登れる」もの、石は「投げられる」ものとして知覚される。それは単なる物理的な特性ではなく、子どもと環境との間に生まれる関係性なのです。

これら2冊に共通するのは、自然を「教える」のではなく、自然と「出会う」ことの大切さです。先ほどの女の子の「なぜ?」も、まさにそんな自然との素直な出会いから生まれたものでした。

 

実は、図書館には自然との出会いのヒントが詰まっています。例えば、『センス・オブ・ワンダー』を読んだ後、実際にキャンパスの自然の中に出かけてみる。カーソンが描いたように、五感を澄ませて自然を感じてみる。または、『アフォーダンス』の視点から、自然の中での人々の行動を観察してみる。

 

最近では、スマートフォンやタブレットで手軽に情報を得られる時代になりました。しかし、紙の本には独特の魅力があります。ページをめくるたびに香る紙の匂い、触れる感触、そして何より、私たちの想像力を刺激してくれる力。それは、自然体験と同じように、五感を通じた深い学びを提供してくれるのです。

自然と子どもたちの関係について考えるとき、私たちはともすれば「教育的な意義」や「学習効果」といった側面にばかり目を向けがちです。しかし、カーソンが教えてくれたように、本当に大切なのは、自然の不思議さや美しさに心を動かされる体験そのものなのかもしれません。

 

図書館には、自然との出会いを豊かにしてくれる本がたくさん眠っています。環境教育や野外教育に関する専門書から、自然観察の図鑑、詩人たちが綴った自然への思いまで、実に様々な本と出会うことができます。

皆さんも、図書館で借りた本を片手に、キャンパスの自然を観察してみませんか?たとえば、昼休みのわずか15分間でも、木陰でページをめくりながら小鳥のさえずりに耳を傾ける。そんなちょっとした実践から始めてみるのもいいでしょう。

雨の日は図書館で、晴れの日は自然の中で、豊かな体験を重ねていってください。そして、その体験をまた本を通じて深めていく。そんな学びの循環が、きっと皆さんの人生をより豊かなものにしてくれるはずです。

2024年3月17日日曜日

【TORCH Vol.148】「私の情報行動の変化と図書館」

               スポーツ情報マスメディア学科 教授 齋藤長行


近年、私の情報行動は変化しました。特に、ここ2、3年は、デジタル・インターフェースが高度にユーザー・フレンドリーになっていることから、私にとってデジタル・ディバイスは重要な情報源へのアクセス経路となっています。私は、寝ている時と、トレーニングをしている時以外のほとんどの時間は、デジタル・ディバイスに触れているのではないかと思うくらいです。

この様に、私はデジタル・ディバイスのヘビーユーザーだと自負しているのですが、実は大の図書館好きです。週に2、3回は図書館で時間を過ごしています。と言っても、小説、新聞やルポライター記事を読むのではなく、もっぱら図書館に設置されたフリーアドレスの机の上で論文を書いています。

ただ、図書館での時間の過ごし方(論文の書き方)も様変わりしました。5、6年前までは、図書館に設置された机に図書資料を山積して、それらを片っ端から読み漁り、重要個所に付箋を貼るなどして情報を整理・分類し、それらを基に論文を書いていました。

それが現在では、図書館に自分のデジタル・ディバイスを持ち込んで、スクリーンに映し出されている情報を読み解き、それらを発想の起点として論文執筆に活用しています。紙で読むという行為の頻度がかなり減りました。

さらに、ここ最近の私の情報の変化は、「読む」前に「聴く」という行動を行うようになりました。具体的には、書籍を「読む」前に、最初に電子書籍の音声読み上げ機能を使って、全体の内容を聴き取ります。最初の段階の「聴く」においては、重要個所に電子付箋を貼るようにしています。そしてその後の「読む」という段階において、電子付箋を貼った個所を入念に「読み返す」という行動をとっています。

 この様に私の活字を読むという行動は変化しています。しかし、そのような情報行動をしているにもかかわらず、公共の場としての図書館の重要性は、なんら変わっていません。おそらく、図書館の落ち着いた雰囲気や、本の匂いが好きなのかもしれません。

情報を得るという行動様式は変わっても、知を生み出す場としての図書館の役割は変わらないのだと思います。


2024年2月19日月曜日

【TORCH Vol.147】「22215」


                 スポーツ情報マスメディア学科 助教 山口恭正 

 

学生時代から文章を読むことのみならず書くことも好きだった私は現在、研究者の端くれとして論文やら記事やらを執筆している。研究分野の都合上、何かと数字で論じることが多くなってしまい、数字に頼らず何かしらを主張するために文章を紡いでいた時代の感覚は、院生生活と共に失われてしまったのかもしれない。

 

 とは言いつつも、数字というものは「自分の主張に都合の良い論理的命題を設定する」(この言い方が適切かどうかはさておき)のに非常に便利であるため、学術論文のみならず書物や報道では重用されている。学術論文では統計学というハードルによってその妥当性や信頼性は担保されている(と見なせる)。一方、報道や一般図書、雑誌においては自浄作用の乏しい業界なのか、不可解な数字の扱いが多いため、私は懐疑的な見方をせざるを得ない。

 

 

 さて、タイトルの数字に関して皆様は何を、どう思うだろうか?

 

 

 これは忘れもしない2011311日の東日本大震災の犠牲者(2023310日時点での死者・行方不明者・震災関連死含む)の数である。日本人、特に東北地方の人間であればその記憶は強く残り、記録を目にすることも多かろう。ちなみに、私たちの多くが海外の災害について関心を持たないのと同様に、国際学会で海外の人に「仙台ってどの辺?」と聞かれて「東北地方だよ、ほら、東日本大震災があった地域の近くだよ」と言ってもあまりピンと来ない人は多い。

 

 私が強く印象に残っている災害と言えば2004年のスマトラ島沖地震が挙げられる。年末、親戚の家のテレビに映し出される被災した国々の映像に非常に驚いた記憶がある。とりわけ、東南アジア諸国で生じた津波の映像は、2011年まで「津波」の代表的な概念を脳内に形成していた。そんなスマトラ沖地震の人的被害は正確には算出されていないが、死者行方不明者合わせて20万人から30万人という報告がよく見られる。

 

 2024年は11日の「令和6年能登半島地震」に始まり、依然として復興の目途どころか被害の全貌すらも明らかになっていない。2月の初めの時点で死者は240人とされ、13人が安否不明となっている。

 

 さて、ここまで2004年のスマトラ島沖地震、2011年の東日本大震災、2024年の能登半島地震を挙げてきた。それぞれ人的被害からその規模や深刻さがしばしば議論される。現に報道では、犠牲者が100人を越えたのは熊本地震以来だという説明がされていた。

 

 ここで私が引っ掛かりを感じるのが、災害の規模を犠牲者の数という数値に置き換えて議論する事に関する是非である。前半に述べた通りに、数字というものはある種の論理的な命題、大小に関わる論理構造を明示してくれる非常に便利な存在であるが、その利用の是非には一定の議論の余地があるだろう。

 

 個人的な話になり恐縮ではあるが、私が中学三年生の卒業式の前日に東日本大震災が発生し、高校では少し遅れて入学式があった。思えば仙台市地下鉄南北線が一部動いておらず登校に苦労した覚えがある。そんな高校時代にクラスで初めて話をした前の席の奴は、県内沿岸部出身で家を丸ごと失っていた。当時の彼の苦労を推し量ることは叶わないが、そんな彼の前でたとえばスマトラ島沖地震を引き合いに出して、東日本大震災の被害規模の「小ささ」を議論する事は到底出来ないだろう。

 

 世の中には「数字じゃ議論できないこともある」と声高に叫ぶ方もいらっしゃるが、エビデンスの無い議論は「感想」として淘汰される現代社会において、精神論的議論はナンセンスである。

 

 私が強調したいのは、浅はかな精神論的文脈から離れた、数字という強力な論理ツールの扱い方を今一度見直してみるべきではないかという事である。インターネットが普及し、欲しい情報が容易に手に入り発信・拡散できてしまう時代だからこそ、データを正しく読み取り、そしてそのデータを賢く真摯に善良な市民として使い、発信することがこれからの社会人には必要不可欠であろう。

 

 研究者コミュニティにおいても、研究インフラの一つである統計学の正しい扱い方が求められている。2018年のアメリカ統計協会(American Statistical Association)の声明を皮切りに(無論ACM等ではもっと前から議論がされていたが)統計解析に関する考え方の見直しが提唱されている。

 

 優秀な分析ソフトの登場により私のような統計学のエンドユーザーは容易に統計解析を行えるようになったが、はたしてその何パーセントが統計解析の結果を正しく解釈しているだろうか?

 

 実験デザインや入力したデータの妥当性や信頼性に関わらず、何らかの結果を出力してくれる統計ソフトに表示される値と閾値との関係だけを見て何かを論じてはいないだろうか?その結果はどういった文脈で評価されるべきだろうか?どんな条件の下で妥当と言えるのだろうか?

 

 研究者がこうした問題と向き合うのと同様に、報道機関や書籍出版社においても数理的なリテラシーの改善がよりよい社会構築には求められている。一部自浄作用の乏しい報道機関が時折、数字を用いて作為的な偏向報道を行うケースも見られる今日において、発信側のモラル向上と受信側のリテラシー向上、双方への啓発活動が高等教育機関では必要だろう。

 

 数字を使って何かを議論するということには、一定の責任と素養が必要なのは明白であり、それを支えてくれるのが「知」と呼ばれるものなのだろう。それを養うには、受動的に情報を享受するだけでなく、能動的に情報を得て解釈するという知的活動が不可欠であり、書籍や新聞、インターネットを駆使して多角的に情報を収集する営みがその下地となる。

 

 ところで、ここまでの文章で私はWeb用に最大200字を目安に段落を分けて執筆している。様々なデバイスで読まれる事を念頭に置いただけでなく、こういう書き方でないと若い世代は文章を読んでくれないらしい。かつてWebで記事を書いていた際に編集の方から教わった手法であるが、可読性はいかがなものだろうか。

 

 スマートフォンの普及も相まって、こうした「読みやすい形式」の記事がインターネット上に氾濫することで、ぎっしりと文字が詰まった本を読むという行為は若い世代を中心にかなりの負担になっているらしい。

 

 かく言う私も最近は本を読むという行為が苦痛となってきた(老眼ではない)。

 

 本記事は図書館ブログの記事として、こうしたスタイルで文章を執筆してしまったのは、書を司る図書館のポリシーに反するのかもしれない。ただ、本を読むという事そのものがスキルとなる時代が既に来ているのではないだろうか。「本が読める」というだけで重用される未来だって十分に考えられる。

 

 

 そんな時代のために、学生の皆様には是非、本を読むというスキルを身に付け、知的な営みを愉しむ下地を育んでいただきたいものだ。仙台大学の学生にとって、この記事がその呼び水となるとともに、数値データへの考え方、そして一人の東北人として東日本大震災に関して考えるきっかけとなれば幸いである。




2024年1月11日木曜日

【TORCH Vol.146】マイナーリーガーからメジャーリーガーへの著作権

 

「ようやくスポットライトが当たりだした著作権」
(副題:私の人生を変えた著作権法との出会い)

 

現代武道学科 教授 清野正哉

 

今でこそ多くの人は、なんとなく著作権という言葉を知っています。教育現場では、先生たちが、総合学習だけでなく、社会や理科等の主要科目の授業の中でも、インターネットとタブレットを使う学習の際に、気を付けなければならないキーワードの一つとして、この著作権に直面しています。そして、高校、大学等でも同じです。最近のAI、中でも生成AI(例 ChatGPT(Chat Generative Pre-trained Transformer)の利用でも、この著作権に関する新たな問題が提起されて、教育現場だけでなく、ビジネスの現場でも、大きな関心が示されています。

さて、私がこの著作権と出会ったのは、前前職の参議院文教科学委員会調査室の時です。衆参両院には、霞が関の各省庁を所管とする常任委員会があり、それに応じて調査局や調査室()があります。ここでは、各省庁の内閣提出法案や議員立法に関する様々な資料等を作成し、各省庁の問題等について調査等を行っています。そして、こうした内部資料に基づき、衆議院調査局や参議院の各常任委員会調査室は、国会議員へのレクチャーを行ったり、依頼された関係資料・情報の提供等を行ったりしています。

()衆議院は制度改正をして、衆議院調査局として、この内部組織の中で、委員会ごとに調査業務を行っており、参議院は、従前同様に、常任委員会ごとに調査室が設置されています。なお、参議院の調査室のトップ(数として20以上)は、給与基準では各省の事務次官と局長の間のポストとなります。また、衆参両院にある法制局では、立案等(法律案作成等)が中心となります。

 あまり知られていませんが、この衆議院調査局や参議院の各調査室は、霞が関にとっては厄介な存在と受け止められています。これらの組織からの資料要求や情報提供には、原則、対応せざるを得ないからです(説明要求が求められると出向かざるをえません)

 当時、文部科学省は、一部の団体が独占的に行っていた著作権管理業務を一般にも開放すべく、新規立法として著作権等管理事業法案を国会提出しました。音楽関係であれば、日本音楽著作権協会(JASRAC)が有名です。

こうした内閣提出法案が国会提出されると、衆参両院の調査局・室や法制局は、そのための各種資料等を作成し、いつでも国会議員からの依頼に対応できるよう、法案の問題点や課題、担当省庁の抱えている問題点等を盛り込んだ法案参考資料を作成することとなります。

ある時、当時の文教科学委員会調査室室長から、この法案の担当を命じられ、若干の抵抗を示しながら、最終的にはこの法案の担当者として係わることとなりました。その室長は、以前私が参議院事務局議事部法規課法規係長をしているときの同法規課長でもあり、その後、私が文書課課長補佐時代でも、国会警備の責任者である警務部長(各省庁の局長級のポスト)として、私を併任として部下とした方でもありました。こうしたことから、最初は、担当外してくれと抵抗しましたが、説得され最終的には引き受けることになった次第です。

ところで、役所という宮仕えなのになぜ抵抗したかといえば、この法案そのものの難易度は高くないのですが、その前提として著作権法全般をすべて理解し、いつでも国会議員から問い合わせやレクチャー等に応じなければならないからです。

おそらく、著作権法と聞きますと、一般的には、コピーしてはダメとの、著作権法の規定する権利は、単一であり、難しくない権利ととらえる方が多いと思います。

実は、この著作権法には、大きく二つの権利(著作財産権著作者人格権)があります。その著作財産権には、さらに、複製権、上演権・演奏権、上映権、公衆送信権、二次的著作物の利用権、公の伝達権、口述権、展示権、譲渡権、貸与権、頒布権、二次的著作物の創作権があり、著作者人格権には、公表権、氏名表示権、同一性保持権があります。 

この二つの権利のほかに、さらに、著作権に隣接する権利という趣旨で「著作隣接権」があり、実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者にこの権利が付与されています。例えば、この実演家には、ヒップホップダンス(HIPHOP DANCE)(例 ブレキン)のダンサーが含まれます。

 こうした権利を著作者等に認めるととともに、今度は、こうした権利を制限するための例外規定をいくつも認めているのです。例えば、私たちが自己使用のため複製することを認めている私的使用のための複製や図書館である程度自由に複製・インターネット送信等を認めていること(著作権法第 30条等)や最近のオンライン授業とその課金処理等の規定やインターネット・AI利用における権利制限規定等です。著作権法は、原則、著作者等の権利者保護のための非常に多くの権利を規定し(「著作権法は権利の束といわれる」)、また、例外規定も多数用意するという複雑な仕組みをとり、しかも刑罰(10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金、法人による侵害の場合は3億円以下の罰金等)も規定しているのです。

著作権法は、最近の情報通信技術やアプリケーション、AI等の進展により、日々様々な課題が提起されています。

私が役所時代に著作権法を学ばなければならなかったときは、今ほどの情報通信技術等に翻弄されるほどの状況ではありませんでしたが、この複雑な著作権法の理解には、生理的拒否反応をせざるを得ませんでした(私の大学院での専攻は刑事法ですから、全くの門外漢。)

しかも、当時は、この著作権法をはじめとした知的財産法(この名称の法律はなく、特許法、実用新案法、意匠法、商標法等の総称として、この表現が使われます。)は、メジャーな法ではなく、しかも、著作権法といえば、以前は弁理士国家試験の試験科目にも入っていないくらい、マイナーもマイナーの法として、世間的認知は低いものでした(私が、在学した東北大学法学部には、著作権法という授業はありませんでした。)

こうしたことから、著作権法に対するほぼゼロの知識状態とモチベーションの最悪状態から、私の著作権法との闘いが始まりした。まずは、著作権法の教科書を多数買い、役所の資料等も参照しながら、そして、(文部科学省)文化庁著作権課等に対して職権(あたかも著作権法のエキスパートとして)で問い合わせたりしての悪戦苦闘の日々が続きました。その後、なんとか著作権法を理解し、本体である内閣提出法案の著作権等管理事業法案の資料作りも部下とともにこなして、国会議員の前では、張り子の著作権法エキスパートとしてレクチャー等していきました。

人前で説明することが数多くなると、徐々に、知識の定着や理解が深まり、いつしか張り子ではなくなりました。その後、以前から出版社の依頼で法律専門誌に出稿していたことから、この著作権等管理事業法の解説書の出版を頼まれました。

ここから、人生初の本の出版へと道を進むこととなります。今度は、この本の出版のための原稿書きという作業を職務外に行わなければならなくなり、昼間は公務に、夜や休日は原稿書きの日々となりました。

著作権等管理事業法の内容を十分理解していることと原稿作成とは大きく異なります。このギャップによる精神的な負担に、神経をすり減らしていきました。しかし、出版社の担当者の助言等を受けながら、ようやく、なんとか本の出版にこぎつけた時には、今まで経験したことのない喜びを感じたのを今でも覚えています。そして、この時の経験が、その後、各種出版や各種執筆に大きく役立つこととなりました。

本の出版で、役所の外の人たちの付き合いが多くなり、それからというもの役所の了解をとりつつ、著作権関係の様々な依頼を受けるようになりました。その後、これが縁で、コンピュータの公立大学の学長(NTT出身)の強い引きで、公務員から自治体に出向し、その後、大学教員への道を進みました。

まさに、著作権法との出会いが私の人生の転機をもたらしたのでした。

そして、当時は、著作権法の専門家が少なったこともあり、しかも、著作権法学会でも色がついていない(どこの派閥に入っていない)ことから、著作権関係の講演やセミナーに引っ張りだこ、となり、国内にとどまらず海外にも足を延ばすといった、まさに二束草鞋(大学と実務)の生活となりました。

その後、日本全国すべて知財ブームとなり、この流れとともに、著作権法の専門家も弁護士や弁理士の中からも多く出現するようになりました(儲かるから)。それでもしばらくは、東北地方は首都圏、関西圏と比べると、まだまだ著作権法のニーズは少ない感じでした。

そして、インターネット、ソーシャルメディア・SNSの出現、スマートフォンの普及により、いつでもどこでも誰もがクリエーターの時代が到来することとなり、この著作権法への関心がさらに広がりました。

「誰もがクリエーター」においては、低年齢化も進み、学校教育の現場でも、関心が高まっていることは、本稿の冒頭に述べた通りです。

著作権関係の講演・セミナーの依頼を受けてきた中で、以前は企業関係からの依頼が主でしたが、途中からは、自治体、教育委員会、学校関係に代わってきたことに、教育現場での戸惑いを肌で感じるようになりました。

著作権()への関心の主体が変わってきたことは、著作権()の関係者の裾野がますます広がっていることの現れでもあります。

コロナ禍でオンライン授業が普及しました。ここでも著作権法が関係しています。例えば、教員が他人の著作物を使用して作成した教材を生徒の端末に送信したり、サーバにアップロードすることができるのは、最近の著作権法の改正があったからです(著作権法35条関係)。ただし、その場合、当該教育機関の設置者が、補償金を支払うことが義務付けられています(SARTRAS関係)。

そして、最近のAI、とりわけ著作権の関係では生成AIの問題への解決が急務です。しかし、文部科学省も、この生成AIの使用では、著作権には気を付けましょうといっていますが、どのように気を付けたらいいのかについては、多くの方にはなかなか理解できないと思います。著作権法の権利制限規定や最近の技術開発に伴うAI関係への整備規定の解釈においても、著作権法はますます注目されています。

この著作権法とはまだまだ付き合うこととなりそうです。