2022年12月20日火曜日

【TORCH Vol.141】メタバースを活用する 

 准教授 橋本智明

 情報機器の発達及び情報通信技術の発達により,我々は,様々な情報表現が可能となったのと同時に,様々な情報にアクセス可能となった.新型コロナウィルスの登場により社会が混乱し,今でもその影響は続いている.近年では特にメタバースが注目を浴びており,メタバースを様々な企業が取り扱っている.そもそもメタバースという言葉は,1992年ニール・スティーブンソンの『Snow Crash』という小説の中で出現した言葉と言われている.その一節が以下である.

  So Hiro's not actually here at all. He's in a computer-generated universe that his computer is drawing onto his goggles and pumping into his earphones. In the lingo, this imaginary place is known as the Metaverse. Hiro spends a lot of time in the Metaverse.Stephenson, Neal (1992). Snow Crash. Bantam Books. p. 22

 このように,メタバースという言葉自体は30年ほど前から存在していたことがわかる.だが,このメタバースに関してかなり深く掘り下げている書籍というのは決して多くはないように思える.そこで,学生でも比較的読みやすい新書として岡嶋裕史の著書である『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」』(光文社,2022年)をお勧めしたい.この本は著書のタイトルにあるように,メタバースとは何かという概念の話からスタートし,歴史,活用,今後とメタバースに関して幅広く記述されている.現在,我々がメタバースと聞くと,VRヘッドセットを装着し,コントローラを持ちながら,仮想現実において行動を起こすことを想像させる.岡嶋氏の著書では,ARMRを利用したミラーワールドもメタバースの一部であると考え,仮想現実だけでなく,ミラーワールドを含めた仮想世界をメタバースと捉えている.今後,このメタバースは,新たなメディアとして進化していく可能性が高いのではないかと私は考える.余談ではあるが,押井守監督の『アヴァロン』(2001年)というバーチャル世界とリアル世界を興味深く描いた作品があったが,その内容がふと想起された.

 メタバースは様々な可能性を含めて,様々な企業が参入し,開発が進められている.体育系大学という視点から考えると,メタバースとeスポーツとの関わりは無視することはできないだろう.岡嶋氏の著書の中でも,eスポーツに触れられており,eスポーツの効用として,スポーツにアクセスしにくい人々にもスポーツの参加の道が開かれていること,プロと初心者が同じフィールドで比較的簡単に安全に行えるなどを挙げている.「身体を動かすのがスポーツだ!」と言われる方もいると思うが,コントローラを使用すれば,身体の動きをコンピュータで認識できるようになっているため,メタバースでも身体を動かすことは可能である.メタバースが,これまでのスポーツの概念をどう変えていくのか,あるいはどう適応させていくのか,体育系大学に所属する教員としては考えていかなければならないことなのではないか.とりわけ,私のような情報に深く関わる人間としては,考えていかなければならないだろう.また,教育としての活用という面でもメタバースは様々な可能性がある.既に,仮想キャンパス,仮想教室での授業など実際に行われている.単なるオンライン授業とは異なり,その空間には仮想であれども人の存在が確認できる.私は,このような,教育面での活用についても興味があるため,今後技術的な面も含めて研究を進めていきたい.

 

2022年11月10日木曜日

【TORCH Vol.140】福祉をテーマにした漫画

 准教授  南條 正人

  私の専門は社会福祉学であるため、研究室の本棚にはその関連の専門書や社会福祉士の国家試験問題集が大半を占めています。その本棚の中には、福祉をテーマにした漫画を多く並べ、学生たちが研究室に立ち寄った際、その漫画を目にすることで福祉を身近に感じてもらいたいと考えています。福祉であればジャンルにこだわらず、児童福祉、介護福祉、障がい福祉、生活保護に係る漫画です。例えば、児童福祉では、夾竹桃ジン 著「ちいさいひと 青葉児童相談所物語」、介護福祉では、くさか里樹 著「ヘルプマン!」、障がい福祉では、山本おさむ 著「どんぐりの家」、生活保護では、柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活」などです。漫画というと、抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、これらの漫画は専門的な用語が使用されていたり、福祉のリアルな場面が多く描かれていることから、考えさせられることが多くあります。その中で、ソーシャルワーカー等の福祉専門職が登場する柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活」について紹介します。

 この漫画の主人公は、福祉事務所の現業員(ケースワーカー : 社会福祉主事)で、生活保護に係る業務に携わり奮闘するストーリーです。ちなみに、この現業員とは、何かしらの理由によって生活が困窮している状態にある者等と面接をし、その者の預金等の資産や環境状況等を調査したうえで、保護の必要の有無やその扶助の種類を判断することとなっています。さらには、現に生活保護を受給している者の自宅を定期的に訪問し、生活指導も行うことになっていますが、この漫画では、これらの現業員の業務内容がリアルに描かれています。

この漫画を通して、私は自身の社会福祉士を取得するために行った社会福祉援助技術現場実習を思い出します。学生時代、福祉事務所で実習を実施させていただき、実際に生活保護を受給している方のご自宅を訪問するという貴重な体験をさせていただきました。ひとり親世帯、外国出身のご夫婦世帯など、各世帯によってニーズも異なり、生活保護は画一的に行うものではないということを学びました。この漫画からも私が体験したことのようなこととともに、生活保護の実態や生活保護法の目的、原理原則についても触れられており、社会福祉士の指定科目である「低所得者に対する支援と生活保護制度」の学びにもつながる内容です。

 

 以下は、この漫画である柏木ハルコ 著「健康で文化的な最低限度の生活(1)」の引用です。

 「もちろん生活保護の金を酒やパチンコに使うこと自体は違法ではありません。」

 

私は上記の内容を「ソーシャルワーク演習」の授業で取り上げています。生活保護費は税金から賄われており、そのお金をお酒やパチンコに使用することに対して、学生ひとり一人がどのように考えるか、グループディスカッションを行い、最終的には生活保護法の目的や社会福祉士の倫理綱領にふれるという演習授業を展開します。

 

 最後に、自分自身が体験したことがなくても、漫画の世界を通してその実態をリアルに知ることができると思います。多くの学生たちに、このように考えさせられる漫画を手にとり、福祉を身近に感じてもらいたいと考えています。

2022年10月17日月曜日

【TORCH Vol.139】ソフトバンクホークス大関選手が教えてくれたこと

准教授 朴澤憲治 

私はするスポーツはからっきし苦手なのですが、見るスポーツではプロ野球、特にヤクルトスワローズのファンです。

私が高校生だったころ、野村克也監督率いるヤクルトスワローズがID野球を旗印にセントラルリーグを席巻し、巨額資金で他球団から有力選手をかき集め巨大戦力を誇っていた読売巨人軍を倒すところを見るのが痛快でした。

当時のヤクルトは明るいチームカラーでありながら、データを駆使した戦術、野球の技術や戦術ではなく人生論からはじまるというミーティングが重視されること、他チームで戦力外となった選手がもう一度活躍するというチーム作りが素晴らしかったです。ブランド論には、人は商品やサービスを選ぶときには、その品質や価格だけでなくその背景にあるストーリーに魅力を感じて選ぶという説がありますが、当時の私はヤクルトスワローズ、そして野村監督のストーリーに魅せられ、大学合格後は神宮球場で野球を見ることも夢見て、東京の大学への進学を目指したのでした。

当時のヤクルト野村監督は選手や監督としての実績はもちろん素晴らしいのですが、私が野村監督を尊敬する理由は、球界のバイブルと言われる「野村ノート」をはじめ400冊を超える著作を残したことです。私はそのうち何冊か読みましたが、野球に関することだけでなく、組織論、リーダー論、教育論から古典の紹介や歴史の人物評まであり、その博学ぶりに驚かされました。これだけの著作は体験からだけでなく、多くの書物に目を通したからできたものであり、野村監督の著作では「野球は頭でやるスポーツ」とし、しばしば読書の効用が説かれています。また、厳しく指導したという愛弟子の古田選手は、他のプロ野球選手と違い読書習慣があったから考える野球がはじめからでき、大成したのだろうと指摘しています。

野村監督の教えを実践していたのが、本学OBでソフトバンクホークスの大関選手です。202258日の西日本スポーツの記事「大関の落ち着きぶり、その源は 「考えが濃くなった」」(https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/919412/)によると、大関選手は仙台大時代、野球で汗を流す傍ら、読書にもふけったそうです。以下、記事を引用します。

「仙台大時代、大関は野球で汗を流す傍ら、読書にもふけった。ジャンルは哲学書に自己啓発本、ビジネス書と多岐にわたった。「高校までは目の前のことに必死で生きてきたけど、大学に入って自分で自分が分からなくなった。どういうふうに生きていけばいいのかなって」。野球はもちろん、人間関係にも悩みが生まれた時期だった。 「今になって大切な時間だったな、と思っている。人の考えを学んだり、人の経験を知ったりすることは確実に自分のプラスになっている」。24歳らしからぬマウンド上での落ち着きは、さまざまな先人の思想に触れたからこそ生まれたものだった。そんな左腕が今、人生のテーマに掲げるのは“自分を信じる”だ。「考え方がふらふらした時もあったけど、結局はそこに戻ってくる。シンプルだけどすごく難しい。これまで歩んできた自分を受け入れるからこそ、前に進んでいける。考えが変わってきたというより、濃くなってきた感じ」。自分を信じ抜いての116球が、プロ入り初めてのシャットアウト劇につながった。」

大関選手は2019年のドラフトで育成2位という評価でソフトバンクホークスに入団しました。失礼は承知のうえで書かせていただくと、ドラフト時点でプロ球団からの評価は決して高いものではなかったでしょう。しかし2021年には支配下登録を勝ち取り、2022年には優れた選手の多いソフトバンクの中で先発を担うだけでなく、一流選手の証でもあるオールスターゲームに出場しています。

プロ野球は野球の天才と言われるような若者たちが、ライバルとの厳しい競争の末に1軍選手の座をつかむという世界と認識しています。ましてや、ソフトバンクホークスは球界でもトップクラスの選手層を誇り、前評判の高い選手たちがドラフト高順位で入団しても、入団後芽が出ず失意のうちに退団していく選手も多いチームです。その中で、ドラフト時に低評価だったのにも関わらず、大関選手がライバルとの競争に勝って主力投手にまでなったのはなぜでしょうか。

その秘密は西日本スポーツの記事にあるように、彼の大学時代の過ごし方、野球の練習だけでなく読書を通してさまざまな考え方に触れた経験にあったのだと私は思います。ライバル選手に差をつけた理由は読書を通じて獲得した引き出しの多さだったと思うのです。

野村監督も選手時代は体格に恵まれたわけでもなく、テスト生での入団でそこから三冠王を獲得するまでの大打者となりましたが、その秘密のひとつは考えて野球をしたことでした。大関選手と共通するところを感じます。

私が大関選手について感心するのは、彼の学生時代の読書ジャンルの広さです。私の学生時代の読書と言えば、教員から指定された教科書をいやいや読む(そしてたいていは途中で読むのをやめる)か、たまたま経済系の本は読むのが好きになったのでそればかり読んでいました。哲学書は読もうとも思いませんでしたし、(いまだに食指が動きません。)自己啓発書やビジネス書もほとんど読むことはありませんでした。

しかし、社会に出てみると、考え方がそれぞれ異なる人たちと仕事をしていかなければならず、自分が学んできたことに固執したため多様な考え方があることがわからずしばしば苦労しました。多様なジャンルの読書をしておけば、様々な考え方があることを理解し、社会を複眼的に見るということが早くからできたはずですが、私にはそれができませんでした。

大関選手は卒業時にはすでにそのような経験をし、厳しいプロ野球の世界で一定の地位をつかみ取りました。やがて引退するときが来るでしょうが、彼ならば大学時代の学びとプロでの経験を活かして選手生活が終わった後も社会で活躍していくと確信しています。

さて、このような素晴らしい先輩を持つ仙台大学で学生に教えるという重大な責任を持ってから1年が経過しました。残念ながら、学生たちはスマホばかり見ていてあまり読書をしているようには見えませんが、私は大関選手の経験を学生たちに機会があるたびに語るようにしています。

私は学生時代の反省と大関選手エピソードから、所有している本のリストを作り、それぞれのジャンルがわかるようにしています。そして、本を読み終わった後はその感想を記録しています。こうすることで、自分がどのジャンルに関心があるのか、または関心がないジャンルはどれかが一目瞭然です。私が大学に入職してから購入した本は527冊でそのうち読み終わった本はこの記事を書いている時点で281冊なのですが、仕事に関係のあるジャンルに偏っているとリストから自分の読書傾向を分析することができ、読んでいないジャンルこそが自分の弱点だと認識できます。

 学生には大関選手のように多様なジャンルの本に触れることで複眼的な思考を身に着けてもらうように指導しつつ、まだまだ自分がそうなっていないことに反省しきりの日々です。

2022年9月26日月曜日

【TORCH Vol.138】「(新)学習指導要領」をよむ~遊べない子供達~

                                教授 山内明樹


 かつて、野原や路地、空き地からは子供達の歓声がうるさいと思うほど聞こえていた。汚れも気にせず遊びまわるその姿は元気そのもの、「生きる力」に満ち溢れていた。本来「哺乳動物の子供は好奇心が強く、一日遊んで成長するのが特徴であり、遊びの時間を取り上げられると情緒不安定になり、その後の成長に支障がでる(こともある)」という。これはそのままヒトの子供にもあてはまる(ハズ)。こう考えると、幼児期から(せめて)小学生くらいまでは、遊びながら(学び)成長していくのが自然ということ。かつて、子供達にとって(たぶん大人も)勉強は好奇心と遊びの延長であり、(もっと)おもしろいものであったに違いない。

多くの子供は「勉強は嫌いだ」という。それは「わからないから。難しいから。」という。科学は英語ではサイエンス、ラテン語ではスキエソチア(知識)であり、同じくラテン語のスキオ(知る)からきている。科学とは「色々なことを知る」ということ。これは他の動物にはない人間だけがもつ特性。サルも人間と同じような行動をしたり、ネコも大変な好奇心をもっているが、それは習性であったり生存のための本能からくる行動。本来、人間だけが必ずしも生存のためだけでなく知識を広めたいという心をもっている。今、勉強に背を向けている子供をどのようにして振り向かせればよいかが課題となる。

「人間は生得的に未知のものを知りたい欲求、いわゆる好奇心をもっている(ブルーナー)」。以前、沿岸部の高校に勤務していたころ、小学生対象の科学教室に企画委員としてかかわる機会があった。物おじせず、好奇心むき出しに質問をしかけてくる子供達に汗だくになって(ほとんどは冷や汗)応戦したのを思い出す。その発想や興味、関心などは、頭でっかちの理論からはとても推察できないような素晴らしいもので、時には短絡的とも思われる直感や夢想に近い願望なども、私達大人が忘れかけていたものを思い出させてくれるものであった。子供は決して「無感動」でも「勉強嫌い」でもない。「なぜ、どうして(好奇心)」に始まる彼らの「科学する心」を大切に育て、「勉強好き」を増やしていかなければと思う。

「知識の獲得には、思考操作だけでなく具体的操作を通すことが有効である(ピアジェ)」。教師が一方的に話したことを聞かせて指導するいわゆる講義調の授業では、結果として生徒は学習内容を暗記するしかない。学力(知識、思考力、態度等の資質能力)は具体的活動(言語活動、体験活動、協働)を通した学びの中で往還しながら育成されるものであり、授業過程や、学習・指導方法の質的改善を目指す工夫が求められる(アクティブラーニング)。

新学習指導要領では、改訂の趣旨(「主体的・対話的で深い学び」の実現)を具体的に実践する機会として、「総合的な探究の時間」の設置、「理数探究」「古典探究」「地理探究」等の新設をはじめ、各教科学習の中でも、「探究活動」が幅広く取入れられている。これは、「生徒自身が問題を発見し、考察を加え、試行錯誤を繰り返しながら、課題解決を図る」というもの。生徒は、授業(教師や仲間との協働)を通じ解決策を探りながら、生涯を通じて社会人(学習者)に求められる姿勢・態度、実践力を備えていく。

埼玉県で教育長を勤められた先生が、「授業は、川の流れに似ている」と話されていた。川は、上流から中流、下流へと流れ、やがて海に注ぐ。海にたどりつくことを授業のゴールとするのなら、そこに至るまでの流れが学習の過程にあたるのだという。先生曰く、「現在の川は護岸がよく整備されている。それは、結構なことなのだが、川は自らの意思で進路を選ぶこともゆるされない。決まったコースをゴールをめざしただひたすらに流れていく。私たちの授業もそうなってはいないだろうか」。

スマホやパソコンに「問い」を入れ、「なぜ」と入力すると答えが返ってくるような時代、知識を教え込む授業や、ゴールにいかにはやくたどりつくかという授業から脱却しなければならない。先生は、「川に学べ、川の流れに学べ」とおっしゃっている。ここでいう川は、自分の意思で流れる川、進路を決められる川。自分の意思で流れる川は、蛇行する。氾濫することもある。でも、やがてその場所は土地が肥え、豊かな恵みをもたらしながら海へと注いでいく。


2022年4月15日金曜日

【TORCH Vol.137】 「ちっぽけな完成より、大きな未完成」

副学長 松本文弘

これは、石坂洋次郎の「若い人」という小説の一節である。

「若い人」は、高校の新任青年教師を中心に、生徒、教師との間で起こる様々な日常を描いた娯楽小説であり洋次郎がこの小説を書くにあたっては、自身が実際に勤務していた秋田県の横手高等女学校での経験を参考としている。

戦前の19331937年に公開されたこの小説は、その後4回に渡って映画化された。特に、1962年版では主人公の青年教師役に石原裕次郎を迎え、問題のある女子高生を吉永小百合、理論派の若手女教師を浅丘ルリ子が演じるという豪華キャストである。想像するに、当時は、国民の多くがこの作品について知っていたのだろう。

私が、このフレーズと出会ったのは1989年、高校教師となってから7年目の初夏であった。東北大会の引率で秋田県横手市を訪れた際、試合後にたまた石坂洋次郎記念館に立ち寄ったところ、「若い人」の直筆原稿が展示されており、そこに「ちっぽけな完成より、大きな未完成」という若き青年教師の大望が記されていた。

主人公である青年教師の公開研究授業の日、指導主事は授業について核心を突く講評をし、ベテラン教師からの老獪な質問にも正々堂々と応じる。これらのやりとりについて主人公と女教師が回顧しながら帰る際、女教師は指導主事のような立派な先生になりたいと述べる。それに対し主人公は、あの指導主事の姿は「ちっぽけな完成」に過ぎない、今の自分は未熟で完成にはほど遠いが、彼とはレベルの違う高みを目指しているのだ、と強がる場面での言葉である。

あるいは、この言葉は、戦後、「青い山脈」等が大ヒットし、国民的作家と言われる洋次郎の若き日の大望をそのまま記したものかもしれない。

この言葉に出会った頃は、自分自身も、若手教師として勢いだけで仕事をしている時期であり、粗削りでも大きく育っていきたいという思いに大いに同調したものだ。

また、作品全体を通して、若い教師にありがちな理想と現実のギャップによる葛藤、ベテラン教師とのいさかい、女子生徒との微妙な関係、同僚教師との苦しみの共有など、現代にも通ずる「教師あるある」の連続で、非常に刺激的な小説であった。

50年前の創作の結末が50年後の自分のそれと同様となったことは何たる奇遇か、はたまた必然か。作品の主人公は、その後、どんな教師人生を送ったのだろうか。

読者であった私にも30年の歳月が流れたが、現在も未完成な姿のままである。


2022年4月1日金曜日

【TORCH Vol.136】 「本を読めることへの感謝」

 教授 重巣吉美


読書との本格的な出会いは、中学生の時でした。昼休みになると、学校の図書館に通いました。本がたくさんあって、一人で没頭できる時間が楽しかったことを思い出しました。様々なジャンルの本を手にとって読みましたが、中学生の私は、海外の古典的な推理小説にはまり読み続けました。その後は、読まなければならない本や読みたいなと思う本を購入して読んできました。なぜこんなジャンルに惹かれるのかなと思うような本もたくさんあります。でも、活字を読むこと、本を手にして読むことが楽しいのです。

老眼になって、初めて眼鏡をかけなければならなくなった私は、矯正をしなければならない人の気持ちを実感しました。想像はできていたのですが、いざ、自分が体験したからこそわかることはやはり大きいのだと思います。矯正をしなければ文字が読めないことだけでも不自由であることがよくわかりました。大きな分厚い本は持ち運ぶのも大変だから、今や電子書籍が老眼になった私にも便利なのかもしれません。しかし、どうしても、紙媒体で物としての実態のある本で読みたくなります。

本を読んで、自分で考えたり想像したりできることが楽しみの一つです。今回は、最近読んだものから思うことを2つ書かせていただきます。

一つ目は、小川 糸著「とわの庭」「ライオンのおやつ」という二冊の小説です。「とわの庭」は、生まれて戸籍もなく、家の外に一歩も出たことのない盲目の少女「とわ」の話です。ある日母親から捨てられ、ゴミ屋敷となった家で命をつなぎ、火事が起こったことで、社会と接点ができて助けられ、支援を受けながら盲導犬と暮らす話です。現代社会の縮図のような課題がたくさん詰まったものでした。虐待を受けるだけでも大変なのに、視覚障害があり、飢えてゴミ屋敷にいなければならなかった・・・これまで関わってきた学校にも同じような境遇の子どもたちがおり、子どもがなぜこんなことにならなければならないのかという現実の問題と重なりました。同じ著者の「ライオンのおやつ」は、末期癌の主人公を描くターミナルケアの話です。もう半世紀近く前に、看護の勉強をしている中で、ターミナルケアについて、ホスピスにおける看護について、死にゆく人の看護についてゼミで議論をしたことを思い出したり、自分や家族の最後を考えたりと、これも重い現実の問題を思い巡らせてくれました。

二つ目は、ブレイディみかこ著「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」です。どちらも、イギリスで暮らす著者の家族や環境を含めた生活について書かれたものです。その中で、彼女の息子さんが学校でどのような学びをしているのかを書いている部分があります。日本の小・中学校、特に中学校でも、こんな学び方をしてきたら、子どもたちは違うだろうと思うことがあります。日本の教育のすべてがダメなわけでも、間違っているわけでも、成果がないわけでもないのです。しかし、イギリスという伝統と文化の中で育まれてきた教育によって育つ力を知り、実際に最近の子どもたちに伝わる様子を本を通して知ることで、きっと、日本でも今子どもたちに必要としているのは、このような力ではないだろうかという気持ちにさせられました。正解がない中、自分も周りの人も、よりbetterな生活が送れるよう、社会と関わり合い自分に合う納得解を導いていける力を身に付けていくことが求められています。せめて大学でそんな授業ができるようにしたいと自分を鼓舞することにもつながったように感じています。

 

楽しみとして読める本があること、そして、本を読むこと、活字を読めることを楽しめることは、私の人生を豊かに幸せにしてくれています。(2022/3