教授 山内明樹
かつて、野原や路地、空き地からは子供達の歓声がうるさいと思うほど聞こえていた。汚れも気にせず遊びまわるその姿は元気そのもの、「生きる力」に満ち溢れていた。本来「哺乳動物の子供は好奇心が強く、一日遊んで成長するのが特徴であり、遊びの時間を取り上げられると情緒不安定になり、その後の成長に支障がでる(こともある)」という。これはそのままヒトの子供にもあてはまる(ハズ)。こう考えると、幼児期から(せめて)小学生くらいまでは、遊びながら(学び)成長していくのが自然ということ。かつて、子供達にとって(たぶん大人も)勉強は好奇心と遊びの延長であり、(もっと)おもしろいものであったに違いない。
多くの子供は「勉強は嫌いだ」という。それは「わからないから。難しいから。」という。科学は英語ではサイエンス、ラテン語ではスキエソチア(知識)であり、同じくラテン語のスキオ(知る)からきている。科学とは「色々なことを知る」ということ。これは他の動物にはない人間だけがもつ特性。サルも人間と同じような行動をしたり、ネコも大変な好奇心をもっているが、それは習性であったり生存のための本能からくる行動。本来、人間だけが必ずしも生存のためだけでなく知識を広めたいという心をもっている。今、勉強に背を向けている子供をどのようにして振り向かせればよいかが課題となる。
「人間は生得的に未知のものを知りたい欲求、いわゆる好奇心をもっている(ブルーナー)」。以前、沿岸部の高校に勤務していたころ、小学生対象の科学教室に企画委員としてかかわる機会があった。物おじせず、好奇心むき出しに質問をしかけてくる子供達に汗だくになって(ほとんどは冷や汗)応戦したのを思い出す。その発想や興味、関心などは、頭でっかちの理論からはとても推察できないような素晴らしいもので、時には短絡的とも思われる直感や夢想に近い願望なども、私達大人が忘れかけていたものを思い出させてくれるものであった。子供は決して「無感動」でも「勉強嫌い」でもない。「なぜ、どうして(好奇心)」に始まる彼らの「科学する心」を大切に育て、「勉強好き」を増やしていかなければと思う。
「知識の獲得には、思考操作だけでなく具体的操作を通すことが有効である(ピアジェ)」。教師が一方的に話したことを聞かせて指導するいわゆる講義調の授業では、結果として生徒は学習内容を暗記するしかない。学力(知識、思考力、態度等の資質能力)は具体的活動(言語活動、体験活動、協働)を通した学びの中で往還しながら育成されるものであり、授業過程や、学習・指導方法の質的改善を目指す工夫が求められる(アクティブラーニング)。
新学習指導要領では、改訂の趣旨(「主体的・対話的で深い学び」の実現)を具体的に実践する機会として、「総合的な探究の時間」の設置、「理数探究」「古典探究」「地理探究」等の新設をはじめ、各教科学習の中でも、「探究活動」が幅広く取入れられている。これは、「生徒自身が問題を発見し、考察を加え、試行錯誤を繰り返しながら、課題解決を図る」というもの。生徒は、授業(教師や仲間との協働)を通じ解決策を探りながら、生涯を通じて社会人(学習者)に求められる姿勢・態度、実践力を備えていく。
埼玉県で教育長を勤められた先生が、「授業は、川の流れに似ている」と話されていた。川は、上流から中流、下流へと流れ、やがて海に注ぐ。海にたどりつくことを授業のゴールとするのなら、そこに至るまでの流れが学習の過程にあたるのだという。先生曰く、「現在の川は護岸がよく整備されている。それは、結構なことなのだが、川は自らの意思で進路を選ぶこともゆるされない。決まったコースをゴールをめざしただひたすらに流れていく。私たちの授業もそうなってはいないだろうか」。
スマホやパソコンに「問い」を入れ、「なぜ」と入力すると答えが返ってくるような時代、知識を教え込む授業や、ゴールにいかにはやくたどりつくかという授業から脱却しなければならない。先生は、「川に学べ、川の流れに学べ」とおっしゃっている。ここでいう川は、自分の意思で流れる川、進路を決められる川。自分の意思で流れる川は、蛇行する。氾濫することもある。でも、やがてその場所は土地が肥え、豊かな恵みをもたらしながら海へと注いでいく。