2021年11月2日火曜日

【TORCH Vol.134】 「不確実性の時代に ーフランクル「夜と霧」(みすず書房)よりー」

 教授 中里 寛


 震災から10年が経ち,沿岸被災地にも復興住宅が建ち並ぶ。海が見えぬほど高く築かれた堤防は,忌まわしい記憶を呼び起こさせないための造作なのかも知れない。あのとき全てを失ってしまった方の中には,今を生きることに,未だ現実感が感じられない方もいるだろう。ある日突然,「起きるはずのない」ことが起きる…身近にも感じていなかった「死」が生々しい現実となって眼前に現れる。これが人生というものなのか。「死」も「生」も,あのときは各々の偶然でしかなかった。

 しかし,あのような悲劇はあれで「終わった」のではない。毎年のように発生する大規模水害,昨年からのコロナによる医療危機と景気低迷と,人生の苦難に終わりはない。今,日本の自殺者は,14年連続で3万人を超えているという。このような不確実性の高い時代であればあるほど,「人はなぜ,何のために生きるのか」という問いに直面する機会も多い。そして,時にはささやかな日々の暮らしを見つめ直してはその意味を考え,時には書物を紐解いて救いを求めることもあるだろう。

 ここに『夜と霧』という本がある。著者は,ナチスの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・フランクルだ。精神科医だったフランクルは,冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに,過酷な環境の中,囚人たちが何に絶望したか,何に希望を見い出したかを,隠し持っていた小さなメモにびっしりと記録したのだ。

 彼は,収容所という絶望的な環境の中で希望を失わなかった人たちの姿から,極限に置かれた人間の心理と行為の関係,そして人間の「生きる意味」とは何なのかを考える。そして,この書において人間の本質に関する二つの重要な見解を示している。

 一つ目は,人間の本質は,生理的欲求が満たされない極限状態にあっても,絶えず生きる意味,目的を求め,実現しようとすることにより,困難に耐えうる存在であるということ,そして二つ目は「人間は極限状態にあっても心の支えとなるもの……自分の役割や自分を待っているもの,例えば『愛する人』や『やり残した仕事』……がある人間は自己崩壊せずに生き延びることができる」ということである。

 

【極限状態を耐えうる資質とは】

 収容所では処刑のための様々な「選抜」が行われた。ガス室に送られるか,あるいはどの収容所に移されるかは,ちょっとした偶然で決まったのだ。明日生きながらえるかも分からない中,収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まる。しかしそれが裏切られると,多くの者は失望し,突如力つきて亡くなることが多かった。自暴自棄になり,食料と交換できる貴重な煙草を吸いつくして死んでいく者もいた。

 ところが,逆に,飢えと寒さの極限状態でも希望を失わず,人間らしさを失わなかった者たちがいた。それは,時には演芸会を催して音楽を楽しみ,美しい夕焼けに心を奪われるような価値観を持った者たちだ。フランクルは,彼らの姿を見て,人間には生きるための欲求が満たされない中でも,「創造する喜び」や「美や真理,愛などを体験する喜び」があると考えるようになる。

 過酷な運命にも向き合い,運命に毅然とした態度をとり,どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考えた。幸福を感じ取る力を持てるかどうかは,運命への向き合い方で決まるというのだ。

 このことは,人間の基本的欲求についてのマズローの説と相克するものである。マズロー(A.H.Maslow)は,人間の基本的欲求として五つを挙げ,同時にそれらの欲求の生起には一定の順序・段階があるとする「欲求階層説」を示した。すなわち,もしすべての欲求が満たされないとすれば,人間の行動はまず生理的欲求に支配される。その欲求がほぼ満たされた上で第二段階の安全欲求に行動を支配されるというものである。

 しかしフランクルは,収容所の体験から,人間とは必ずしも第一段階の生理的欲求が充足されない状況においても,崇高な価値観により生きながらえる力を得ることができると考えたのである。

 

【「心の支え」がある人間は自己崩壊しない】

 収容所の極寒と飢えの強制労働の中,いよいよ死を受け入れる覚悟をしたフランクルの心に突然溢れ出てきたのは,故郷で彼の帰還を待っている愛する人,その人の面影だった。

 

  すると,私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから,われわれが何キロメートルも雪の中を渡ったり,凍った場所を滑ったり,何度も互いに支えあったり,転んだり,ひっくり返ったりしながら,よろめき進んでいる間,もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはそのとき各々が,その妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は,それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像のなかでつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き,彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る……そしてたとえそこにいなくても……彼女の眼差しは,今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。

  そのとき私の身をふるわし私を貫いた考えは,多くの思想家が叡智の極みとしてその障害から生み出し,多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を,生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔りうる最後のものであり,最高のものであるいう真理である。(中略)収容所という,考えうる限りの最も悲惨な外的状態,また自らを形成するための何の活動もできず,ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態……このような状態においても人間は愛する眼差しの中に,彼がもっている愛する人間の精神的な像を想像して,自らを充たすことができるのである。

 

 愛する人の面影,その眼差しが,死を受け入れようとする自分を幾度となく,生きることに引き戻してくれた,というのだ。(実際にこのときにはすでに彼の妻は収容所で亡くなっていた)そして後にフランクルは言う。心の支え,つまり生きる目的を持つことが,生き残る唯一の道であったと。

 

 私たちは,自由で自己実現が約束されている環境こそが幸福であり,希望だと受け止めている。しかし災害や病気などに見舞われた時,その希望はいともたやすく潰えるものだ。しかしそれでもなお,生きる希望はパンドラの箱の奥底に潜んでいる。どんな状況においても今を大切にして自分の本分を尽くし,人の役に立とうとすること,そこに生きがいを見出すことが大事だとフランクルは考えたのだ。戦後,フランクルは「人生はどんな状況においても意味がある」と説き,生きがいを見つけられずに悩む人たちにメッセージを発し続けた。彼が残した言葉は,不確実性の高い,現代の不安の中を生きる私たちにとって,心の支えとなるのではないだろうか。