2019年7月8日月曜日

【TORCH Vol.115】私の大切な一冊『旅をする木』星野道夫



体育学科 講師 小勝健司



 この本に出会ったのは、2001年、私が29才の年だった。当時、大学時代の友人が主催していた異業種交流会に、当時勤めていた出版社の上司とともに参加することがあり、その友人が手に持っていた本が、「旅をする木」星野道夫著(文春文庫)だった。上司が、その本をみて「いい本だよね」と言っていたこともあり、後日書店で購入することにしたのだ。



 星野道夫は、大学の先輩にも当たるが、自分の信念に従い自分の人生を歩んだ写真家である。星野が19才の時に神田の古本屋で目にしたアラスカの辺境にあるエスキモーの村の航空写真(シシュマレフ村)に心惹かれ、その村に手紙を出したことがきっかけで、 22才でアラスカ大学野生動物学部に入学し、同時に写真家としてのスタートを切った。その後18年間、アラスカに暮らし、人を寄せ付けない圧倒的な自然やそこで暮らす動物、また、その自然に寄り添う人の営みに対して撮影し発表してゆく。また写真だけでなく、深く優しい文章を書き残したエッセイストでもある。

 1996年の夏、44才でカムチャツカにて熊に襲われ亡くなった星野道夫の代表するエッセイが「旅をする木」であった。その本との出会いは、その後、悩める29才の男の背中を後押しすることになったことは間違いない。

 私が大学を卒業した1990年代後半は、バブルが崩壊し日本社会が大きく変革してゆく過渡期でもあったが、それでも企業では新入社員一括採用、年功序列、終身雇用がまだまだ当たり前とされていた時代だった。しかし私は、1年で最初の会社を辞めた。その後、出版社に就職したものの、29才になっても社会人としてのキャリアプランを構築できずに悶々と過ごしていた。今思うと、大学までサッカーを続けた自己認識に固執しつづけ、社会人へのマインドシフトに失敗したダメな社会人だった。ただ、自分の本質に正直にいたいと思ってきた結果でもあった。

 そんな私であったが、出版社に入社したことで本が好きになった。知識と情報を授かり、ストーリーを楽しみ、作者の思考を覗くこともできる。見知らぬ土地を探索することや他人の人生を体験することも可能となった。さらに、本のどこかに潜んでいる自分の心にとどまる一章節との出会いは、知識と想像力を養い、人生を豊かにするツールとなることを再確信することができた。



 久しぶりに「旅をする木」を本棚から探し出してきた。気になるページの角を折るのは、私の本を読む時の癖である。ページをめくってゆくと、当時のことがリフレインしてくる。

 当時、私の気になったセンテンスをいくつか書き出してみたい。

・『北国の秋』より

[無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、なんと粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。アラスカの秋は、自分にとって、そんな季節です。]

・『春の知らせ』より

[一羽のベニヒワがマイナス50°の寒気の中でさえずるのも、そこに生命のもつ強さを感じます。けれども、自然はいつも、強さの裏に脆さをひめています。そしてぼくが惹かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です。日々生きているということは、当たり前のことではなくて、実は奇跡的なことのような気がします。]

『もうひとつの時間』より

[ぼくたちが毎日生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。]

・『生まれもった川』より

[人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通する一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。]

・『ある家族の旅』より

[二十代のはじめ、親友の山での遭難を通して、人間の一生がいかに短いものなのか、そしてある日突然断ち切られるものなのかを僕は、感じとった。私たちは、カレンダーや時計の針で刻まれた時間に生きているのではなく、もと漠然としていて、脆い、それぞれの生命の時間を生きていることを教えてくれた。自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。]



 星野道夫の優しく温かい文体は、アラスカの厳しく壮大な自然と日々の風景、悠久の時間の中を生きる人々の暮らしと多様性を描きながら、生命と死に対する作者のメッセージとして強く訴えてくる。日本から遠く離れた異国の話だけではなく、同じ時間を生きる地球上に存在するすべての生き物の原理原則であり、本質的な問いかけと感じた。当時の私にとって、時間的、空間的視座を上げてくれた本であった。

 その年(2001年)の911日、アメリカ合衆国で同時多発テロが起きた。私は、自分にもう一度向き合った。その年、私は会社に退職届けを出し、もう一度サッカーの世界に戻ろうとトレーナーの道に進むことを決意した。



 あれから約20年経過し、ITAI、バイオなどの台頭とともに世界規模で変化のスピードが加速している。より便利に効率的に、成果を追い求める我々の生き方は、物質的豊かさと引き換えに多くのモノを見失っている気がしてならない。本当の豊かさとは何なのか。星野の写真と言葉は、時代の変化とともに違ったメッセージを投げかけてくる。



 「旅をする木」は、自分の生き方を後押ししてくれた大切な本である。このような一冊にいつ出会えるかわからないが、本を通して未知の世界との出会いをこれからも楽しみにしてゆきたい。