2013年6月8日土曜日

【TORCH Vol.019】中長距離走と主体性

助教 門野洋介

2011年9月のベルリンマラソン。当時の世界記録保持者ハイレ・ゲブレセラシエ(2時間3分59秒,エチオピア)とパトリック・マカウ(ケニア)が,スタート直後から世界新記録ペースで激しいデッドヒートを繰り広げていた。
「勝負が大きく動いたのは27km地点。マカウが仕掛けた。ゲブレセラシエが背後にピッタリとついていたのを嫌い,コース上を左に右にジグザグに走ったかと思うと,次の瞬間,猛烈なスパートをかけて一気に引き離しにかかった。それに対して必死にペースを上げるゲブレセラシエ。しかし,その直後,彼はコースアウトし,苦しそうな表情を浮かべながら,手で胸を押さえつけた。・・・
42.195kmを走っている時は,周りがどんな様子かを見ながら,多くの戦術を駆使しなければなりません。例えば,僕が速いペースで走れないフリをしたら,相手はどう思うでしょう? 相手は『僕には余りエネルギーがない』と思って,追い抜こうとします。当然,追い抜くためには,体に大きな負担がかかります。つまり,相手は多くのエネルギーを使って抜き去ろうとしますが,それはある意味で,相手の体力を浪費させる戦術になります。・・・
(NHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」角川書店より抜粋)」
27km地点でゲブレセラシエを振り切ったマカウは,30km以降もスピードが衰えることがない。
「30kmを過ぎ,一人で走っている時は,自分のペース配分により集中しなければなりませんでした。エネルギーはありましたが,ペースを維持するのはとても大変でした。なぜなら,遅すぎれば世界記録を達成できなかったでしょうし,速すぎても途中で疲れて達成できなかったでしょう。だから,ある一定のペースを維持することに集中しなければならず,それを頭で計算して足で実践するのは本当に大変でした。特に,最後の2kmは多くの観衆がいます。そこで,観衆に乗せられて必要以上にスピードを上げてしまうとペースが乱れるため,スピードをおさえるために苦労しました。・・・
(NHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」
角川書店より抜粋)」
マカウは30km以降もペースを落とすことなく走り抜き,2時間3分38秒の世界新記録で優勝した。一見単なる持久力勝負にみえるマラソンであるが,実はそう単純な競技ではない。選手やコーチは,目標とする成績を収めるために,レース中に起こりうるあらゆる事態を想定して様々な準備を行なう。それは,トレーニングやコンディショニングに関することはもちろん,レースの作戦や戦術の考案まで多岐に渡る。そしてレースでは,選手自身が感じる主観的なキツさや余力度,周りの選手の状況,ペース配分,ゴールまでの距離,気温や風,給水など,時々刻々と変化する自分や周りの状況を正確に把握し,その状況に応じて適切な判断を下すことにより,自らのパフォーマンスを最適化することが要求される。しかも,個人競技である陸上競技では(リレーや駅伝を除く),最終的に競技するのは選手一人なので,基本的にはこれらの思考・判断を選手自身が「主体的に」行わなくてはならない。

さて,私は現在陸上競技部で監督・中長距離コーチをしており,主に中長距離種目が専門の学生を指導しているが,上述の種目特性はもちろん,相手が学生であるという点も考慮し,なるべく学生自身が主体的に考えて取り組めるよう,試行錯誤しながら指導をしている。ところで,この「主体性」はどのようにして教えられるのだろうか。例えば,学生に対して「主体的にやりなさい」と言ったところで,彼らは「主体的に」できるようになるものではない。かといって,こちらが教えれば教えるほど,彼らはますます受動的になり,「主体性」を失っていく。では一体,「主体性」はいかにして教えられるのか。そもそも「主体性」とは何なのだろうか。その「主体性」について,医学教育を例に考察している興味深い本があったので,以下にその一部を抜粋して紹介する。
「過去にあった事例Aを目の前の事例Bに適用する。この帰納的な方法は,我々医者がしばしば用いる常套手段である。が,しかし,ある帰納法が有効であるという根拠はどこにもない。帰納法は有効な時も無効な時もある(ちなみに,演繹法にしてもこれは同じで,有効な場合とそうでないときがある)。そして,どういうときに帰納法が有効で,どういうときに無効かを言い当てる根源的な方法は,ない。・・・
AとBの違い。両者を区別することは,過去の事例にすがるのではなく,目の前の患者を診,そして判断を下すよりほかにない。AのときにはなかったBの特徴を見出すよりほかない。患者の問題がどこにあるのか,自らの力で「主体的に」考えなくてはならないのだ。・・・
事例に応じて立場をコロコロ変えていく節操のなさが,医療においては大切な態度となる。逆に一貫した,「常に」同じという硬直的な態度は,複雑であいまいな医療の世界にはうまくフィットしない。医学の世界ではあり世界観に固定されないほうがよいのだ。世界観の固定は思考停止と同義である。どの世界観が今このときの目の前の患者に一番フィットするのか,常に考え続けなければならない。世界観の固定,思考停止は複雑で曖昧な医療・医学の世界にはそぐわない。・・・
主体的に学ぶとは,自らが自分の意志で学ぶことである。思考停止に陥ることなく,「ほんとうにそうだろうか」と前提を問い続け,考え続ける態度で学ぶことである。したがって,そこには誤謬が伴わなければならない。なぜなら,思考を重ねることは試行錯誤を重ねることであり,思考の果てには必ず「誤謬」があるからである。ああでもなく,こうでもなく,と試行錯誤を繰り返し,誤謬を重ねながら,正解の見えない正解を模索していくのが,主体的に学ぶということだからである。
(岩田健太郎「主体性は教えられるか」筑摩選書より抜粋)」
興味を持たれた方は,先に紹介したNHKスペシャル取材班「42.195kmの科学―マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」角川書店とともに,ぜひ一読されたい。

所蔵Information <図書館で探してみよう!>

  •  『42.195Kmの科学 − 「つま先着地」vs「かかと着地」』 NHKスペシャル取材班 角川Oneテーマ21新書 角川書店 782.3 Nh 1階新書コーナー