2017年8月10日木曜日

[TORCH Vol.099] 保育士による『政治学入門』―子ども・反緊縮・アナキズム―

三谷 高史


ブレイディみかこ(2017a)『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から―』、みすず書房

このブログの読者(として想定されているはず)の学生の皆さんは、「積読(つんどく)」ということばをご存知でしょうか。買った、借りた、いただいたなどした本を「あとで読もう」、「必要な時に読もう」と、積んでおく行為(=積んどく=積読)を指します。そう、「読」という字が含まれていながらも、実際には読んでいないのです。積読とは怠慢…ではなくて、忙しさの象徴です。今回、皆さんに紹介する本は積読状態──お恥ずかしい話、わたしの場合は完全に怠慢だったものなのですが、とても「良い」本でしたので皆さんに紹介したいと思います。

本書の著者、ブレイディみかこ氏は福岡県出身で1996年から英国在住、現地の保育士資格を持っている方です。著者は英国南東沿岸部に位置するブライトン市の「平均収入、失業率、疾病率が全国最悪の水準1パーセントに該当する地区」にある無料託児所――「底辺託児所」に2008年から2010年までボランティアとして従事し、その間に国の支援プログラムを利用して保育士の資格を取得しました。「底辺託児所」のある施設は、公的扶助を頼りに暮らす政治的急進主義者やアンダークラス(貧困階級)、移民の家族といった多様性に富む人びと・家族が利用していて、著者はそこで子どもたちと「格闘」しながら、英国社会を眺め、暮らしてきました。その後、著者は民間の保育所に勤務することになるのですが、そこがとある事情から潰れることとなり、2015年にまた「底辺託児所」に戻ってきます。
しかし、2015年以降の保守党政権による緊縮(財政支出を縮小する)政策の影響を大きく受けた「底辺託児所」はすっかり様変わりし、最終的にはフードバンク(現物[食料品]給付のみを実施する施設)となってしまいます。著者を育んでくれた「底辺託児所」は、最終的に潰れてしまうのです。本書は様変わりした託児所――「緊縮託児所」での日々からはじまり、後半はかつての「底辺託児所」での日々、という構成となっています。

紙幅の都合上詳細は割愛せざるを得ませんが、本書の内容には日々の出来事や保育内容・方法に関する内容も多く含まれていて、保育実践記録(というほど固い書き方でもありませんが)として読んでも充分に読み応えがあります。驚くような「問題」行動を起こす子どもたちと著者とのかかわりの中に、著者の保育者としての力量、専門性を見ることができます。しかし、わたしには本書はそれとは別の価値が、さらに言えばそれ以上の価値があるように感じられました。ただの(というと語弊がありますが)困難をかかえる託児所での保育実践記録ではない、という意味です。さらに、ここでいう価値とは保育士や教師といった子どもにかかわる仕事を目指す人だけでなく、すべての人にとっての価値です。
 具体的には、著者が日々の暮らしを通して見た英国社会のありようの記述と、それと切り離されずに語られる政治的主張です。本書における著者の主張を強引に要約すれば「反緊縮とアナキズム」となるでしょうか。極めて政治色が強く、かつ矛盾するかのようなこの二語が保育士の仕事と結びつくとは、すぐには信じられないかもしれません。「わたしの政治への関心は、ぜんぶ託児所からはじまった」という著者は、「政治は議論するものでも、思考するものでもない。それは生きることであり、暮らすことだ」と述べます。著者は緊縮が子どもの生活や保育の現場に与える影響を肌身で感じとり、反緊縮を主張します。著者は社会から「どうしようもない」とされた人間のたまり場だった「底辺託児所」が無くなる経験をもとに、人間の尊厳――アナキズム*を主張します。

 ポリティクス**はわたしたちのごく身近に存在するという事実を、子どもたちとかかわる仕事を通して教えてくれる本書は、「保育士による『政治学入門』」と評しうる1冊だとわたしは思います。

---------
*アナキズム[アナーキズム](anarchism=無政府主義、反権威主義などと訳されますが、アナキズムほどその内実が多様な政治思想・実践は珍しいと思います。『子どもたちの階級闘争』では、著者がアナキズムをどのように捉えているか、そう多くは語られていません。どちらかと言えば2013年に出版された『アナキズム・イン・ザ・UK─壊れた英国とパンク保育士奮闘記─』(Pヴァイン)の中にその記述が多く見られると思います。また、下記の著作リストにある複数の著作とあわせて読むと、一人の人間としての著者の思想を読み取ることができると思います。

**ポリティクス(politics=政治、政治学、政治的かけひきなどと訳されますが、もう少し広い関係性の概念として捉えておいたほうが良いと思います。政治の世界(国会や諸議会)だけで議論されるようなことがらのみを指すのではなく、日常的にも存在する「政治的・権力的関係を含む人と人とのかかわり」と捉えておくほうが良いのではないでしょうか。

【ブレイディみかこ著作リスト】※本文中で取り上げたもの以外
2014)『ザ・レフト──UK左翼セレブ列伝』、Pヴァイン
2016a)『ヨーロッパ・コーリング──地べたからのポリティカル・レポート』、岩波書店
2016b)『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』、太田出版
2017b)『花の命はノー・フューチャー──DELUXE EDITION』、筑摩書房(初版単行本は碧天舎から2005年に出版)
2017c)『いまモリッシーを聴くということ』、Pヴァイン

【ブログ】
The BradyBloghttp://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/ [viewed 2017/08/09]

2017年8月1日火曜日

[TORCH Vol.098] 「睡眠導入剤としての本も…」


佐々木 鉄男


今から44年前、大学受験のため通っていた東京の予備校で、英文解釈を担当していた慶応大学のある教授が、「夜寝付かれないとき、適当なところを開いて読んでみたまえ。睡眠導入剤になるから…」と薦めてくれたのが、エルネスト・ディムネの『考える技術』(弥生選書・大西尹明訳)でした。昭和45年初版で、私が購入したのは48年の第3版。転居を繰り返しながら、紛失せずにまだ手元に残っていますが、外観はかなり黄ばんでいます。
確かに「じじつ、プラトンからハーバート・スペンサーにいたるまでのあらゆる哲学者は、その哲学のうちに教育論と思考の技術との二つを包含しており、したがってその二つのつじつまは合っているということになる(p.78)」等の文章をしばらく読みすすむと、心地よい眠りに誘われていきました。ところが、眠くなりかけてきたところで、急に視界が開くように活字の先に広がる世界が見えてくることがあります。そうすると、目が冴えてくる。困った本でした。(エルネスト・ディムネは1866年フランスに生まれ、第一次世界大戦後にアメリカに移住し、1930年代にベストセラー作家になったという。1954年死去。) 

 イスラム教徒の国でありながら、政教分離を進めて西側との関係を深め、EUへの加盟を目指してきたトルコの人たちの心情や日常を垣間見ることのできる小説があります。1996年にノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクの『雪』(上下巻・早川epi文庫)です。主人公は、ドイツから13年ぶりにイスタンブールに戻ったKaという詩人。彼が少女の連続自殺の取材で訪れたトルコの北東の辺境の町カルスで、昔の学生運動の仲間だった美貌のイペキと再会。彼女との関係を中心に展開するストーリーで、世俗主義の現体制を守ろうとする勢力と、イスラム主義者、イスラム過激派のテロリストとの微妙な関係の上で日常が営まれる中、突如大雪の3日間にクーデターが発生する。トルコの人たちの置かれている複雑な状況を肌で感じることができる作品でした。
 エルドアン大統領が、首都アンカラの郊外に、まるでオスマン帝国時代のスルタンの宮殿を思わせるような大統領公邸を作り話題となった2014年の秋に妻とトルコを訪れました。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王を公邸に迎え会談したタイミングでした。まだトルコ国内でのテロの発生はほとんどなく、イスタンブールやエーゲ海沿いのトロイ、エフェスはもちろん、中央アナトリアの方まで足を伸ばして、トルコを満喫しました。
 しかしその後、2016年に軍の一部がクーデターを起こして失敗、するとエルドアン大統領はクーデターに加わった軍人だけでなく警察や公務員、記者などに至るまで大規模な粛清を行います。さらに大統領の権限を大幅に拡大する憲法改正の国民投票を実施し、独裁体制を確立します。小説をも上回るスケールで展開するトルコの行く末に唖然とするしかありませんでした。 

スポーツに関連する本をひとつ。『たかが江川されど江川』(新潮社・江川卓+玉置肇・西村欣也・長瀬郷太郎著)
私が仙台放送に入社した昭和53年の11月に行われたプロ野球ドラフト会議、江川卓は前年のドラフトで指名されたクラウン(福岡)を断って野球留学していたアメリカから戻り、巨人と電撃契約する「空白の一日事件」の渦中、阪神が江川との交渉権を獲得。最終的に江川は一旦阪神に入団した後、小林繁との交換トレードで巨人に移籍します。
この一件によって江川はマスコミから総攻撃を受けることになります。しかし、そんな江川を冷静に見つめ、取材を続けてきた記者がいました。その一人が日刊スポーツの玉置肇氏です。彼は私の大学時代のサークルの後輩でもあり、若いころ仙台支局にも籍を置いていました。
『たかが江川されど江川』を読むと、心から野球を愛しながらも、ある「仮面」をかぶり続けて現役時代を送らざるを得なかった江川と、適度な距離を保ちながら、時代の証言者として江川を取材し続けてきた玉置記者との関係が見えてきます。
残念ながらこの本は絶版になっていて、amazonで中古か、kindle版でしか入手できないようです。

最後にお勧めの本をもう一冊
 
野球を愛したルーズベルト米大統領は「一番おもしろい試合は、8対7だ」と語ったそうで、それ以来、8対7で奇跡の逆転劇を果たした試合をルーズベルト・ゲームと呼んでいます。池井戸潤の『ルーズベルト・ゲーム』(講談社)は、廃部寸前となっていた社会人野球部が、リストラの嵐の中で存続できるのか、奇跡の逆転劇を見せるのか、夏休みに楽しみながら読める本です。テレビドラマで見てしまった人にはお勧めしませんが…。でも学生の皆さんは新聞をとらないばかりか、テレビもあまり見ていないようなので大丈夫かもしれませんね。