江口 千恵
長いこと新幹線通勤であったので、あらためて在来線の通勤で驚く光景がある。ほとんどの乗客が見つめているのはスマホである。電車を読書の時間としているおとなの姿は少ない。そういいながら私も、かばんには文庫本は入っているものの老眼のせいで文庫本の文字がつらい。そしてハードカバーは重い。
読書は、電車の時間やその待ち時間を楽しみに変える道具であった。電車に乗り遅れた残念な時間も本さえあれば怖くなかった。しかし今、本がスマホに変わった。
そのことはしかたがないこととしても、本を読んでほしい理由がもう一つある。大学生に就職試験の指導をしながら感じることは、学生の言葉の持ち合わせが少ないことである。そのことで学生自身がじれったい思いをしている。自分の気持ちを伝える適切な言葉が見つからないとか、自分の今の状況を言葉で表現できないとかいう思いである。しかし、言いたいことがうまく表現できないと感じる経験は何も若者だけではない。私自身も感じることではある。この問題の対策として、私は本を丁寧に読み、書かれている言葉に心を止める経験が大切であると思う。人と話す経験も大切ではあるが、一瞬で消える言葉と立ち止まりかみしめることができる言葉とは違う。社会に出たら、なおさら自分の思いを適切な言葉で表現することが大切になる。ぜひ本とつきあってほしい。どんな本でもいい。図書館や書店の本棚の前に立つときっと手に取りたくなる本に出会うはずである。そして心に残る言葉と出会うはずである。
さて、せっかくの機会なので、わたしが何度も読んで、付箋やラインだらけにしている本を2冊紹介したい。
「こころを大切にする看護」 樫村通子
親友の書いた本である。書いてほしいと言い続けたのは私である。そしてできてから何度も読んで付箋が加えられている。タイトルは看護の本のようであるが、援助職者のバイブルのような本である。生徒や学生の問題が見えないとき、自分自身の方向が見えないとき、職場や家族間の心のすれちがいやトラブルのとき、折に触れてその都度ページをめくっている。ユングやフロイトの理論が身近になる。
援助職である看護師や教師・介護士などが対人関係から生まれるこころの問題にぶつかったときに論理的に、その問題の本質や自分の心を守る方法を説明してくれている。それは、筆者の看護師と臨床心理士のキャリアだけではなく、自分自身の生きてきたすべての経験に裏打ちされたうえでの学問の構築が、その文章の奥行を作っている。
「人を助ける職業は、自分自身を大切にできないと、本当の意味で相手を助けることはできない」と述べている。 タイトルの大切にする「こころ」は相手のこころであり、自分自身のこころでもある。
「子は親を救うために『心の病』になる」 高橋克己
衝撃的なタイトルで思わず買った本である。精神科医である筆者が臨床で出会った親子の様々なケースとともに親と子の在り方について説かれている。
生まれたときから赤ちゃんに備わっている体の機能を「生命システム」とし、社会に適応するために学んでいくであろう心の機能を「心理システム」と筆者は名付けている。
「この心理システムを学び、作り上げていく時、母親が決定的な影響を与える。ひとは誰でも、ひとりの母親、ひとりの父親しか知らない。その親からの影響の大きさは、いくつになっても客観視できないものである。」とも筆者は述べている。自分の家や両親を客観視することで、自分自身の理解が深まる。そして、自分自身の自立にあり方を考えることにもつながる。心に突き刺さる言葉があるかもしれないが、重く抱えていた思いから解放される言葉に出会うかもしれない。自分自身の親との関係を振り返り、さらに自分と息子や娘との関係につながるたくさんの気づきがあった。