2016年2月5日金曜日

【TORCH Vol.081】ラビンドラナート・タゴール著作「ひとMAN」の高価なる価値とその意義:

高橋 亮

1.   はじめに
 ラビーンドラナート・タゴール1861-1941)は, 1913年アジアで初めてノーベル賞を受けた存在である. インドの詩人, 思想家, 教育者, 芸術家, 脚本家として非常な尊敬を集めている. インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で,  1901年にカルカッタから電車で3時間ほどに位置するシャーンティニケータンに野外学校(現ヴィシュヴァ・バーラティ国立大学)を設立したことでも知られている. 1) 2009年アンドラ大学で開催された国際ジェロントロジー総合会議の終了後,筆者は,カルカッタのタゴールハウスを訪問した. その際に, ふとタゴールとアンドラ大学が関係するのではという閃きを,タゴール終焉の部屋で受けた. その後, 古本屋で購入した書籍のなかの一冊にタゴールが1933128-10日アンドラ大学にて特別講演が行われていたことが記載されていた. 2)
 タゴールは, 日本との繋がりにも深いものがある. そのなかでも岡倉天心や荒井寛方らとの友好をとおして, 1916年を皮切りに哲学, 芸術, 教育交流が5回の来日のなかで講演活動を行い, それを契機にインドと日本の教育文化交流も行われてきた経緯がある. 
 アジア初のノーベル賞を受賞して来日してきたときのタゴールの歓迎はすごいものであった. しかし, タゴールが真摯に, 西洋化する日本の情勢に対して警告をならしたことに,当時の日本人で耳を傾ける者は少なかった. 3)

2.タゴールのアンドラ大学訪問の証人との出会い
 筆者とタゴールとの出会いは,20081013日ヨガの帰りにパーティレンタル店のギリダ・チ氏のお店にふらっと訪問したことに始まった. チ氏が日本の歴史に関心があって,小さい時に日本の貿易船がヴィシャカパトナムに来ていたときに船員に親切にしてもらったお話をしてくれた. そしてタゴールがヴィシャカパトナムにも訪問されて当時の学長のラダクリシュナンと一緒に写真をとっているスクラップもみせていただいたが, アンドラ大学に何を目的にこられたのかは分からなかった. アンドラ大学でのタゴールの講演内容を探したところ, 1937年「MAN」というタイトルで本が出版されていることが判明した.4)  この本75ページの説明には以下のようにある. 「この本はアンドラ大学において1933年に行われた3つの講義が含まれている. 最初の講義「人」は各個人の中にある永遠なる人についてである. 2つ目の講義は「最も親密な気づきの直接の対象」また「完璧の後に人を鼓舞する」「優れた人」についてである. 最後の章「私は彼である」は, 「我々の考えや行動の中にある神聖な人」についてである. タゴール氏を, アンドラ大学に招待したのは, 2代目学長ラダクリシュナン(初代副大統領後に2代目インド大統領)で, インドのみならずケンブリッジでも哲学研究, 教鞭に携わったつながりによるものであった. 5)
 タゴールがノーベル賞を受賞して20年後にあたる1933年にこの講義の準備にかかった時は,既に72歳であった. ラダクリシュナン学長が, タゴールに講演の依頼をするにあたって, 1932923日の手紙の中で, 招待に感謝する一方で, 多忙な毎日の生活と高齢による健康の限界を感じ, 一度ことわりの手紙を出している. しかし,ラダクリシュナン学長は,再度の依頼の手紙で,この依頼は単なる学生へのメッセージではなく後生に残るメッセージをお願いしたい, という内容の手紙を出している. それが実現され,「ひとMan」という著書として存在しているのである.
 タゴールのアンドラ大学での講演について調べると,1933年と1934年に二度アンドラ大学の所在するヴィシャカパトナムに訪問していることが判明した.一度目は,アンドラ大学での講演(1933128,9,10日),2度目はタゴールが運営している大学への支援を依頼するためにジェプール・マハラジャへの面会であった. その詳細を知るために地域の歴史に詳しい長老コルル・ジャカンダハ・ラオ氏を尋ねた.ラオ氏は,タゴールが,アンドラ大学に来たことに関する雑誌記事と写真のコピーをくださった.次に,この写真の出典を探すべく,当時94歳現役のテルグ語雑誌編集長コンデプリ・スバ・ラオ氏を尋ねた.その結果,マーティ氏が,その写真に写っていたお世話係の学生であることが判明した.過去の購読者リストからマーティ氏の住所を探して頂くことができた.そこで、直ちに,連絡をして出かけると,1度目は留守であったが近所の隣人からマーティ氏は,昨年の末に亡くなったことをお聞きした.2度目の訪問では,マーティ氏の息子さんの奥様にお会いでき雑誌と同じ写真が額にいれて飾られているのを確認できた.3度目の訪問で,マーティ氏のご子息であるカリダス氏にお会いすることができ貴重なお話を伺うことができた.タゴール翁がアンドラ大学を訪問された際に,アンドラ大学で最も信頼のおける学生であるマーティ氏に宿泊の見張りを任された. 最終日に,いつもマーティ氏が部屋のドアの前にいるので,タゴール翁が,いつ休んでいるのか尋ねたところ「ご主人様、私は家には帰らずすっとここで役割を果たしております」と応えたところタゴール翁は,「こんなに忠実な学生はみたことがない.あなたの願いを聴いてあげよう.何を望みますか?」と尋ねたところ,マーティ氏は,即座に「学長と写真撮影をして頂けましたら幸いです」と応えられた.
 マーティ氏(1912-2008)は, 教育者として,またアンドラプラディッシュ州初のボーイスカウトマスターとして社会に一生涯貢献された6).  存命中は, いつもタゴールの経験について話されていた. その後, イラ・ラオ・アンドラ女史にお会いして, 当時わずか4歳であった時の思い出話をしてくださった. ラオ博士の父セイルスワン・チャンド教授が, 当時の哲学学部の教授で, タゴールが宿泊していたジェィプールマハラジのお宅に訪問したことや, タゴールの大学のあるサンティニケタンから学生を引率してドラマを披露した時に, アンドラ大学の学生らが, ベンガル語で発表して長くて騒々しくなったことに対して, 憤慨してステージに座っていたタゴールが真っ赤な顔をして即学生の発表を取りやめて退散させた. そしてラダクリシュナン学長が, 大学を代表して謝罪したことなど鮮明に覚えていることを回想して下さった.
 これらの経験をもとに筆者は, タゴールの大学でさらなる「MAN」に関する調査を行うために200963日にコルカタへ赴き, 翌日サンティニケタンへ電車で向かった.  そこでお会いしたのが, モヒト・チャクラバルティ教授とタゴール博物館のニランジャン・バベルジー氏であった. チャクラバルティ教授には, その後タゴールの教育哲学を基においたジェロントロジー教育について筆者がまとめていた雑誌に投稿されている.

3.おわりに
 筆者にとって,タゴールの「MANひと」7)との出会いは, ジェロントロジー哲学の基礎を築き,人間教育の原点を教えてくれる永遠の宝となっている.これからも,ひとの価値観を見いだせる教育に携わるために自らの研鑽に励みたいと願っている.

<参考・引用文献>
1) 我妻和男 (2006) タゴールー詩・思想・生涯. 麗澤大学出版会.
2) The Calcutta Municipal Corporation (1941) The Calcutta Municipal Gazette Tagore Memorial Supplement.
3) 蠟山芳郎(1961) タゴールと日本への警告. タゴール生誕百年祭記念論文集, タゴール記念会, 271-282.
4) Tagore,R.(1937) Man, Lectured delivered at the Andhra University Under the terms of the Sir Alladi Krishnaswamy Endowment, Huxley Press.
5) Sarvepalli, G. (1989) Radhakrishnan A Biography. Oxford University Press, 120-144.
6) Marty, D.V.S.N. (2006) Brief History of Scout Activities and Special Meritorious Activities of Senior Most Scout master in Andrha Pradesh, 2nd Southern Region Mini Jamboree 5th-9th, December, 2006.
7) 高橋亮監訳 (2011) ラビンドラナート タゴール MAN ひと, 本の泉社.

【TORCH Vol.080】杯(カップ) -緑の海へ- 沢木耕太郎著  2003年


郡 山 孝 幸

この文章を書いている今,U23サッカー日本代表チームはリオ五輪アジア最終予選を戦っている。決勝トーナメントへの進出が決まり,あと2勝すれば本大会出場という段階である。

自分の学生時代のスポーツ活動と言えば,水泳やスキー,登山など,ボールを使わない種目が主で,サッカーの競技経験はないのだが,教員になった時分から,サッカーへの興味が膨らみ,スポーツ少年団等の指導に携わりながら,『子どもたちにサッカーのスキルを身につけさせ全国大会に連れて行きたい』,願わくは『日本代表クラスの優秀な選手を育てたい』と無謀にも真面目にそう思っていた。

また「見る」ことにおいては,Jリーグが発足する前から,毎年冬に開催されるトヨタカップを心待ちにし,ワールド杯では1982年のスペイン大会の頃から,放送されるゲームを夜通し心躍らせながら観戦していた。当時のブラジルチームはジーコ,ソクラテス,ファルカン,セレーゾの4人が,黄金のカルテットの異名をとり,優勝候補の筆頭にあげられていたが,イタリアに敗れ2次リーグで敗退。外国のチームながら,技術・センス共に素晴らしいチームが早いうちに姿を消してしまったことをとても悔しく残念思ったこと,そしてサッカーというスポーツの難しさと奥深さを感じたことを今でも鮮明に覚えている。

その後1993年,日本にもいよいよJリーグが発足,以降ワールド杯には1998年のフランス大会から昨年のブラジル大会まで5度連続出場できるまでに日本のサッカーは進歩・発展してきた。

5度の大会の中で印象深かったのは,やはり,2002年の日韓大会ではないだろうか。決勝トーナメントに初めて駒を進めたということもあり,大きな一歩を果たした大会と言えよう。

その大会の様子をありありと伝えてくれるのが,沢木耕太郎著「(カップ)-緑の海へ-」である沢木氏はサッカーの専門家ではない1つ1つの試合を冷静かつ緻密に観察・記載し選手のプレーはっきりと脳裏に浮かび上がらせてくれ

~「ワールドカップには自国の代表チームを応援する楽しみと最高のものに触れる楽しみがある。しかし実はそこにもうひとつ,思いもかけないものに遭遇する楽しみというのを加えなくてはならなかった。ほとんどマークされていなかった『弱小チーム』が勝ち上がっていくのを見るのも楽しみのひとつとなる」「弱小チームはひとつ勝つために最初からトップコンディションにもっていかざるをえない。かつてはそうしても強豪チームには勝てなかった。ところがこの大会ではいくら強豪と目されていても調整の遅れたチームはトップコンディションにある格下のチームに食われるという事実であった。」~

そういえば自分もワールド杯では予選リーグの方がむしろ楽しみで,どこが決勝トーナメントに残るかというわくわく感をもって見ている。

特にサッカーは~「ひとつのプレー,ひとつの選手交替によってどちらかに傾いていたハカリが反対に傾く。それはほとんど一瞬で変化する。チャンスを確実に生かせなかった直後とか,イージー・ミスをしてしまった直後とかに,これまで自分たちの側にあった流れが音立てて相手の側にいってしまう」~

これはどの勝負にも言えることだと思うが,筆者は野球との比較において,サッカーはイニングの表と裏のように攻守が決められていないため,一つのプレーが一瞬にしてゲームの行方を左右してしまう。運・不運が大きく影響すると語っている。

観戦の記録においては,日本代表チームが,予選リーグの3試合を2勝1分けで切り抜け,決勝トーナメントでトルコに敗れる試合まで,選手一人一人のプレーに視点をあてながら当時の様子を再現している。私も読んでいて,もうすでに14年前になろうとしている過去の映像を鮮明に呼び起すことができた。

~「あらためて日本が負けたことが残念だったのだ。ベスト8に残れなかったからか。勝てる試合だったからか。こんなチャンスは二度と来そうもないからか。それもある。しかし私にはそれ以上に日本代表の選手たちが立ち上がれなくなるほど戦い抜いたという満足感を抱けなかったことが残念だったのだ。もし,韓国が敗れていたら日本の選手のように淡々と場内を一周などできなかったろう。ピッチにうずくまり立ち上がれなかったろう。背負っているものの重さの違いがそこにもある。」

リオ五輪まであと半年あまりとなった。我々に夢と希望をもたらす日本選手団の自信に満ちたはつらつとした姿を楽しみに待っていることにしよう。

 

サッカーに興味がある方には是非一読をお勧めします。また本書はサッカー観戦記であると同時に旅行記でもあります。サッカーに特段興味がなくても,この著書は韓国を観光した気分にしてくれるし,日本人と韓国人の国民性もよく分かります。日韓の歴史始まって以来の「共同作業」を観察することもできます。
その意味でも一度手にとってみたらいかがでしょうか。