2024年2月19日月曜日

【TORCH Vol.147】「22215」


                 スポーツ情報マスメディア学科 助教 山口恭正 

 

学生時代から文章を読むことのみならず書くことも好きだった私は現在、研究者の端くれとして論文やら記事やらを執筆している。研究分野の都合上、何かと数字で論じることが多くなってしまい、数字に頼らず何かしらを主張するために文章を紡いでいた時代の感覚は、院生生活と共に失われてしまったのかもしれない。

 

 とは言いつつも、数字というものは「自分の主張に都合の良い論理的命題を設定する」(この言い方が適切かどうかはさておき)のに非常に便利であるため、学術論文のみならず書物や報道では重用されている。学術論文では統計学というハードルによってその妥当性や信頼性は担保されている(と見なせる)。一方、報道や一般図書、雑誌においては自浄作用の乏しい業界なのか、不可解な数字の扱いが多いため、私は懐疑的な見方をせざるを得ない。

 

 

 さて、タイトルの数字に関して皆様は何を、どう思うだろうか?

 

 

 これは忘れもしない2011311日の東日本大震災の犠牲者(2023310日時点での死者・行方不明者・震災関連死含む)の数である。日本人、特に東北地方の人間であればその記憶は強く残り、記録を目にすることも多かろう。ちなみに、私たちの多くが海外の災害について関心を持たないのと同様に、国際学会で海外の人に「仙台ってどの辺?」と聞かれて「東北地方だよ、ほら、東日本大震災があった地域の近くだよ」と言ってもあまりピンと来ない人は多い。

 

 私が強く印象に残っている災害と言えば2004年のスマトラ島沖地震が挙げられる。年末、親戚の家のテレビに映し出される被災した国々の映像に非常に驚いた記憶がある。とりわけ、東南アジア諸国で生じた津波の映像は、2011年まで「津波」の代表的な概念を脳内に形成していた。そんなスマトラ沖地震の人的被害は正確には算出されていないが、死者行方不明者合わせて20万人から30万人という報告がよく見られる。

 

 2024年は11日の「令和6年能登半島地震」に始まり、依然として復興の目途どころか被害の全貌すらも明らかになっていない。2月の初めの時点で死者は240人とされ、13人が安否不明となっている。

 

 さて、ここまで2004年のスマトラ島沖地震、2011年の東日本大震災、2024年の能登半島地震を挙げてきた。それぞれ人的被害からその規模や深刻さがしばしば議論される。現に報道では、犠牲者が100人を越えたのは熊本地震以来だという説明がされていた。

 

 ここで私が引っ掛かりを感じるのが、災害の規模を犠牲者の数という数値に置き換えて議論する事に関する是非である。前半に述べた通りに、数字というものはある種の論理的な命題、大小に関わる論理構造を明示してくれる非常に便利な存在であるが、その利用の是非には一定の議論の余地があるだろう。

 

 個人的な話になり恐縮ではあるが、私が中学三年生の卒業式の前日に東日本大震災が発生し、高校では少し遅れて入学式があった。思えば仙台市地下鉄南北線が一部動いておらず登校に苦労した覚えがある。そんな高校時代にクラスで初めて話をした前の席の奴は、県内沿岸部出身で家を丸ごと失っていた。当時の彼の苦労を推し量ることは叶わないが、そんな彼の前でたとえばスマトラ島沖地震を引き合いに出して、東日本大震災の被害規模の「小ささ」を議論する事は到底出来ないだろう。

 

 世の中には「数字じゃ議論できないこともある」と声高に叫ぶ方もいらっしゃるが、エビデンスの無い議論は「感想」として淘汰される現代社会において、精神論的議論はナンセンスである。

 

 私が強調したいのは、浅はかな精神論的文脈から離れた、数字という強力な論理ツールの扱い方を今一度見直してみるべきではないかという事である。インターネットが普及し、欲しい情報が容易に手に入り発信・拡散できてしまう時代だからこそ、データを正しく読み取り、そしてそのデータを賢く真摯に善良な市民として使い、発信することがこれからの社会人には必要不可欠であろう。

 

 研究者コミュニティにおいても、研究インフラの一つである統計学の正しい扱い方が求められている。2018年のアメリカ統計協会(American Statistical Association)の声明を皮切りに(無論ACM等ではもっと前から議論がされていたが)統計解析に関する考え方の見直しが提唱されている。

 

 優秀な分析ソフトの登場により私のような統計学のエンドユーザーは容易に統計解析を行えるようになったが、はたしてその何パーセントが統計解析の結果を正しく解釈しているだろうか?

 

 実験デザインや入力したデータの妥当性や信頼性に関わらず、何らかの結果を出力してくれる統計ソフトに表示される値と閾値との関係だけを見て何かを論じてはいないだろうか?その結果はどういった文脈で評価されるべきだろうか?どんな条件の下で妥当と言えるのだろうか?

 

 研究者がこうした問題と向き合うのと同様に、報道機関や書籍出版社においても数理的なリテラシーの改善がよりよい社会構築には求められている。一部自浄作用の乏しい報道機関が時折、数字を用いて作為的な偏向報道を行うケースも見られる今日において、発信側のモラル向上と受信側のリテラシー向上、双方への啓発活動が高等教育機関では必要だろう。

 

 数字を使って何かを議論するということには、一定の責任と素養が必要なのは明白であり、それを支えてくれるのが「知」と呼ばれるものなのだろう。それを養うには、受動的に情報を享受するだけでなく、能動的に情報を得て解釈するという知的活動が不可欠であり、書籍や新聞、インターネットを駆使して多角的に情報を収集する営みがその下地となる。

 

 ところで、ここまでの文章で私はWeb用に最大200字を目安に段落を分けて執筆している。様々なデバイスで読まれる事を念頭に置いただけでなく、こういう書き方でないと若い世代は文章を読んでくれないらしい。かつてWebで記事を書いていた際に編集の方から教わった手法であるが、可読性はいかがなものだろうか。

 

 スマートフォンの普及も相まって、こうした「読みやすい形式」の記事がインターネット上に氾濫することで、ぎっしりと文字が詰まった本を読むという行為は若い世代を中心にかなりの負担になっているらしい。

 

 かく言う私も最近は本を読むという行為が苦痛となってきた(老眼ではない)。

 

 本記事は図書館ブログの記事として、こうしたスタイルで文章を執筆してしまったのは、書を司る図書館のポリシーに反するのかもしれない。ただ、本を読むという事そのものがスキルとなる時代が既に来ているのではないだろうか。「本が読める」というだけで重用される未来だって十分に考えられる。

 

 

 そんな時代のために、学生の皆様には是非、本を読むというスキルを身に付け、知的な営みを愉しむ下地を育んでいただきたいものだ。仙台大学の学生にとって、この記事がその呼び水となるとともに、数値データへの考え方、そして一人の東北人として東日本大震災に関して考えるきっかけとなれば幸いである。