体育学科 講師 荒牧 亜衣
本書は、15年にわたる取材執筆の後、2011年に出版されたものである。その視点は、「大会を裏で支えた人たち」に置かれている。それは、オリンピック競技大会でメダルを獲得した選手たちでもなく、現在、1964年東京大会の遺産として評されているようなインフラ整備に取り組んだ人々でもない。
まえがきにおいて、野地は以下のように述べている。
そこで活躍した人々は、従来の仕事のやり方にとらわれることなく、自己変革を繰り返しながら目的を達成した。他人まかせにして、いつかは問題が解決する、いつかは景気がよくなると念じていた人間ではない。腹を据え、バカになって突っ込んでいって、活路を開いた人々だ。
1964年東京大会の公式ポスターを手がけたグラフィックデザイナーの亀倉雄策、競技結果速報のためのシステムを導入した日本IBMの竹下亨、オリンピック村料理長を務めた帝国ホテルの村上信夫、大会の警備を請け負ったセコム創業者の飯田亮、記録映画の総監督を務めた市川昆。彼らがどのような姿勢でこの一大プロジェクトに取り組んだのか。本書で描かれるのは、困難と思われることにも果敢に挑戦し、それぞれの分野において新たな道を切り開いた人たちの姿である。ここで語られる1964年東京大会は、当時は存在しなかった職業、業界、システム等々を構築した現場であり、そこからまた何かが始まるスタートラインでもあった。
例えば、亀倉は1964年東京大会の閉会式のことを覚えていないという。オリンピック競技大会のポスターによって彼の名前が広く知られるようになり、次々と新たな仕事が舞い込んだからである。「大会を裏で支えた人たち」のその後の功績は、現在を生きるわたしたちの意外と身近なところに存在している。1964年東京大会で標準化されたといわれるピクトグラム、銀行のオンラインシステム、民間の警備会社。どれも今のわたしたちにとっては<あたりまえ>のものである。1964年東京大会が開催されなくてもいずれは登場していたであろうが、これらの<あたりまえ>が誕生するきっかけや機会を提供し、あるいはそれを加速度的に成長させた要因がオリンピック競技大会であったことは興味深い。
2020年東京大会開催決定も相まって、近年、「大会を裏で支えた人たち」は本書だけでなく、テレビメディアでも様々な形で取り上げられるようになった。時には、彼らの仕事によってのこされたものをオリンピック競技大会のレガシーと指摘したり、遺産として一括りに整理したりすることもある。一方で、今一度私が「大会を裏で支えた人たち」に問うてみたいことは、彼らにとってのオリンピックとは何だったのかということである。
49、32、43、33、49。これは、上述した本書の登場人物たちの1964年東京大会当時の年齢である。2020年東京大会を当時の彼らと同世代で迎える私は、一体何ができるのだろうか。