2014年9月11日木曜日

【TORCH Vol.061】 「スポーツ運動学(明和出版2009)」

コーチング系 川口 鉄二

 得体の知れないブログというものに躊躇していたものの、いつしか督促すら来なくなってしまったので、途中でまで書いておいたファイルを引っ張り出すことにしました。
□入門するということ
 運動学の授業のはじめに紹介するいくつかの参考書、実は私自身それらの本を読みこなすのに四苦八苦しています。昔、教科書として学生に紹介していたのは「マイネル スポーツ運動学」Bewegungslehre(1981大修館)で、旧東ドイツ1960年の上梓から約20年経って翻訳されたものです。更に20年経ち、2002年に日本オリジナル版「技の伝承」、そして「身体知の形成(上・下巻)」、「身体知の構造」(いずれも金子明友著 明和出版)が立て続けに出版されます。
これら日本版スポーツ運動学の難解さに途方に暮れていた2009年、待望の「入門書」(「スポーツ運動学」明和出版)が出版されます。しかし、「入門」=「簡単」という期待は見事に打ち砕かれ、辞書にもあるようにそれが「特定の師について全人格的に学ぶ」という意味であることを知ることになります。「このスポーツ運動学の入門書はその発生論的運動学の門をたたく人のために明確な道しるべを立てようとしている」もので「わかりやすく解説されているという意味での入門書ではない」と巻頭にも書かれているのですから、サンダルを履き替えざるを得ませんでした。
□「難解さ」の理由
スポーツ(諸)科学という寄り合い所帯の「研究のための研究」という現状を脱却するには、哲学や現象学的運動認識論が不可欠なのは何となくわかるのですが、それらを熟読すべきと言われれば我々コーチング仲間は途方に暮れるしかありません。でも教員のそんな苦しみとは裏腹に、ゼミの学生はこの入門書を読んで普通にレポートを書いてきたりします。つまり、学生にとってこの本の難しさは他の領域に比べて突出してるわけではなく、もしかしたら我々の頭の方が、「星の王子様」が不思議がるほど凝り固まっていたのかも知れません。
実は、金子明友先生がこの壮大な理論書の上梓後に「唯一」、歴史的な講義をして頂けたのが仙台大学でした(大学院「スポーツ運動学特講」)。専門用語を使いこなしてくる他大学院生に交じり、学部での下積みの無かった本学大学院生(社会人)は、運動経験やコーチ経験だけを頼りに四苦八苦して講義に臨んでいました。「何を教えているんだ」と説教されそうな私の心配とは裏腹に、本大学院生の授業レポートを読んだ先生からは次のような言葉を頂きました。「…(国立大の)院生は私の運動学は難しいと正直に述べています。頭で考えているからでしょう。仙台の院生は体で考えていてよく理解しているようです…どうも頭で伝統的な論理を弄するひとには私の運動学は不向きなようですね。現象学的運動学の超越論的論理学を基礎においている意味が分かっていないのかもしれません。現場で苦労している仙台の院生はさすがです。頑張るようにエールを送ってます」。
選手や指導者として実践現場で培った身体知というものは泥臭くて、様々な要因と複雑に絡み合っていますが、実践現場では決してそれら全体性という問題を避けては通れません。でもそんな経験があるからこそ、運動する主体の感覚を無視した科学的な見方に対して「直感的」に違和感を持つことができます。この種の理論を理解するにはそのような直感力も問われることになるようです。
□動感経験に頼る
 体育大学で培った技能と言っても、それが時とともに衰退していつしか動けなくなった時に、「競技実績」という過去の栄光だけしか残らないというのでは一般大学の体育会と何ら変わりません。大学では専門理論に没頭できる環境が次第に失われているという問題はありますが、実技実習であっても単に「できた」かどうかという「結果」だけでなく、その動感経験自体を分析し、動きの発生指導力の獲得に結び付けていくことが体育大学の原点だと思います。
スポーツ選手は「~しか知らない(例えば『逆立ち』)」と揶揄されることがありますが、どんな科学知を寄集めても逆立ちの経験には替えられないし、「コツ」や「カン」にかかわる研究では最終的には実践という動感世界とのかかわりが評価されます。ですから、この本の言葉の難解さに怯むことなく、自分の得意な運動経験に置き換えて考えることができれば、そこには「わかるような気がする」ことばかりが書かれているということに気づくはずです。もちろん、そんな風変わりな読み方が求められるのですから一人で読めとは言いません。仙台大学にはベテランのコーチ達や金子運動学直系の愚弟もいるのですから、悩めるパトス仲間として一緒に門をくぐってみてはいかがでしょう。

【TORCH Vol.060】 中房敏朗著「体罰の歴史的背景」

長見 真

 今年の4月に一通のEメールがやってきた。送り主は中房敏朗氏。氏は、2011年度まで本学でスポーツ史の専任教員としてご活躍され、現在は大阪体育大学で教鞭を執られている方である。「~拙文を書きました。ご笑覧いただき、何かの足しにでもなれば幸いです。」と閉じられたメール文書の添付ファイルを開けると、大変スリリングなタイトルの論文が現れた。それが、「体罰の歴史的背景」である。
 周知のとおり、2012年12月に、大阪市の高校でバスケットボール部の主将であった高校生が顧問教員の度重なる体罰を苦にして自殺した大変痛ましい事件をきっかけに、学校運動部あるいは学校における暴力的行為が大きな社会問題となっている。こういった状況下において書かれたこの論文は、「体罰の歴史的背景について先行研究を手がかりに描出すること」を目的としており、その際「今日の体罰が置かれている歴史的な流れや全体的な構図について、できるだけ射程を大きく広げながら探り出すことをめざそう」としている。それでは、論文の展開をみてみよう。
 まずは、体罰の起源としてこれまで暗黙の裡に支持されてきた軍事的起源説(戦前の軍事的規律が体罰として普及する)に氏は一定の評価を与えつつも、それが根本原因ではないとみる。そして、体罰の起源を文明史的なレベルまで射程を広げ、非対称的な権力関係が形成された中で、権威的立場にある上位の者がその従属的立場にある下位の者をしつけ、正し、罰するために「身体的懲罰」(=体罰)を課す、という構図を導き出し、体罰は非対称的な権力関係が現れた古代文明の発生とともに出現した古い人間文化であり、権威的立場にある上位の者が課す体罰は、理性的方法であれば罪に問われず、容認されてきたことを明らかにする。
 このような体罰発生の構図は近代以前の教師-生徒という非対称的な権力関係においても同様に当てはまり、教師による体罰は行使され、容認されてきた。近代に入ると、現在の学校の姿である近代学校教育制度が確立され、同一年齢の者(生徒)に知識や技術を効率よく、より多くの生徒に身に付けさせることが求められた。そこでの教室空間は、「ランカスター・システム」といわれる、現在の教室の原型である秩序と教授のシステムがつくられた。そして、教室という密閉空間の秩序を維持するために、教師は体罰を含む懲戒の権限を持ち続け、決して比喩ではない「教鞭」という鞭や杖が使用された(執られた)のであった。
 さて、このように体罰の起源を文明史に求め、近代学校教育制度の教室空間にその使用を容認し続けている歴史的背景を踏まえた上で、氏は、日本のスポーツ界は過剰に「学校化」しており、このことより体罰への衝動が惹起すると述べている。それは以下の通りである。日本の体育・スポーツ界は明治以降、学校(近代学校教育制度)の管理下において発展してきたものであり、教師-生徒関係と同様の監督―選手という非対称的な権力関係が存在し、加えて「長幼の序」を美徳として重んじる伝統的な価値観も後押しして、監督を頂点とする密閉空間(教室)が形成されている。そしてこの密閉空間への選手(生徒)の参入は、自発的なものではあるものの、監督(教師)への服従が求められることを前提としており、その中で勝利や栄光を追い求める。そしてその成果や実績(=「勝利」および勝利から得られる「進学・就職」)によって、勝利に至るまでの困難な過程が肯定され、正当化され、美化される。また、「教室」の外側にいる「保護者(視聴者やファン)」は、勝利や成果を期待すると同時に、勝利や成果が積み上げられることによって、「教室」の中の事柄に対して口出しがしづらくなる。このことにより、勝利や成果といった「結果」が重視され求められることとは対照的に、「過程」が不透明なものになり、「教室」内の権力関係は、より強いものとなり、「厳しい指導」がかえって選手(生徒)の感謝の念を呼び覚ます。こういった構図の中で、戦前の軍事的規律から派生した「びんた」という身体技法を継承しながら体罰への衝動が惹起するのである。
 さて私は今年度、本学1年生約60名を対象に、体罰経験について簡単なアンケートをおこなったが、自分自身が体罰を受けたあるいは行使した経験のある学生は約22%、自分自身は体罰を受けたり行使した経験はないが、体罰を行使する場面を見たことがある学生は約36%、自分自身体罰を受けたり行使したことはないしその場面を見たこともない学生は約42%であった。この結果は日本の体育系大学の学生についても同じような割合であると考えられる。体罰の行使によって勝利や「進学」という実績を得た者は、指導者(教師)に対して感謝の念を抱くことにより、自身がスポーツ指導者の立場に立った時に選手(生徒)に対して同じことを繰り返してしまう。こういった負の循環を断ち切るために、体育系大学の果たす役割は非常に大きい。しかし、スポーツ指導者を目指す者に体罰のない指導の必要性を教育することで体罰問題が解決される、といった単純なものではないことを、この論文は教えてくれる。体罰を根絶するためには、過剰に「学校化」されたスポーツ界、近代学校教育制度に支えられた現代の「学校」、そして学校空間に存在する教師-生徒といった非対称的な権力関係のあり方およびそこでのふるまい方を問い直すことが必要なのである。成熟社会を迎えたわが国において、スポーツ界、学校教育界の大きな転換(脱構築)が求められるのである。
 このような論評を書かせていただいた最後に、急いで氏に対してお詫びとお礼を言わなければならない。冒頭に述べた氏が「教鞭を執られている」という文は、比喩表現とはいえ、言葉を変えなければならないと思っており、お詫びしなければならない。また、「何かの足しにでもなれば幸いです」については、こういった論評を書かせていただいたことが私にとって大変有意義なものであったので、氏に感謝申し上げたい。

中房敏朗(2014)体罰の歴史的背景.大阪体育大学紀要,45:199-207.